中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

裕福な五個荘町(ごかしょうまち)の家並み(旧中山道を歩く 306)

2012年02月25日 10時31分19秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(ワンマンの近江鉄道の電車)

(愛知川宿 2)
2011.12.1.晴れ。気温12℃の予想。A.M8:30彦根より、
近江鉄道:五個荘駅へスタート。

電車で途中、武佐駅を通る。
今日ここに歩いてくると思いながら周りを眺める。
田舎の田園の中を通る道路脇に、
民家がへばりついているという雰囲気の道である。
その先には紅葉真っ盛りの山の嶺が続いている。
歩いている時は、なかなか回りの山の景色など目に入らない。
電車はずいぶん先の方まで進んでいく。
やっと五個荘の駅に着く。

五個荘町――立派な名前だ。
平安時代以前に誰か有力な公卿さんでも住んでいたのだろうか、
広い荘園が五つもあるような、
想像も出来ないような広い荘園だったのだろうか。

無人駅を降りたのはボク一人だけ。
寂しいと言うか侘びしいと言おうか、
それでも駅舎だけは素敵な形であった。
300メートルも歩いて(福祉センター785m)の標識を左折する。
これが中山道である。


(近江鉄道 五個荘駅の駅舎)


(右側の道路が旧中山道)

歩いていると、五個荘の町は大きな家が多くあるように感じられる。
近江商人の町で豊かな人たちが多いのであろう。
「近江泥棒 伊勢乞食」と言う言葉を、ボクは子供の頃よく聞かされた。
近江の商人は商売上手で、泥棒するように儲けている。
泥棒は原価が0円だけれども逮捕される危険がある。

伊勢乞食はもっとひどい、伊勢の商人は元手なしで儲けるほど、
商売が上手い。
いずれも商売上手で儲け上手をひがんで言ったものだ。


(大きな家が多い)


(大きな家2)


(大きな家3)


(大きな家4)


(大きな家5)

左手の石垣に囲まれて「小幡神社御旅所」の石塔が立っている。
石塔の後ろには左に小さな鳥居と神殿があり、
右横には神輿の格納庫がある。
小幡神社の祭礼の時、お神輿が休憩する場所なのであろう。

(*)筆者注:御旅所とは、神社の祭礼の際、祭神が巡幸するとき、
神輿(みこし)を仮に鎮座しておく場所を言う。
つまり休憩場所のことだ。


(御旅所)

その先で道路は二股に分かれ、真ん中に道標があり、
「右 京みち  左いせ ひの 八日市 みち」とある。
これが御代参街道の追分。
御代参街道は、八日市、日野を経て東海道に続く道で、
伊勢や多賀大社への参詣、近江商人の商用に利用された道である。


(二又の道)


(道標:左いせ・ひの・八日市みち)


(道標:右京への道を行く)

中山道は当然右の京への道をとる。
やがて道路は「常夜灯」に突き当たり、常夜灯前で右方向へ行くのであるが、
さらに右へ折れる道があり、角に「正眼禅寺」の石碑が立っている。
また「常夜灯」は、旧中山道ポケットパークの一角に建っており、
竿の部分正面に「大神宮」とあり、側面に「村中安全」と刻まれている。


(常夜灯)


(ポケットパーク内の常夜灯、大神宮と刻まれている)


(常夜灯の右にある「正眼禅寺」の石碑)

「正眼禅寺」は、30mほど奥まった所に山門があり、
山門をくぐると正面に本堂があり、左手に「行者堂」がある。
とても静かな佇まいで、落ち着いた雰囲気をかもし出している。
お寺を出て、中山道を行き小幡川の橋を渡ると、
右からの道に合流し左折する。
少し歩くと、田舎にしては豪華な五個荘町役場が右手にある。
これも近江商人の力の一つであろうか。


(正眼禅寺の山門)


(正眼禅寺の本堂)


(行者堂)


(小幡川の橋、その向こうの家も大きい)


(左折して小幡川沿いの中山道)


(中山道沿いの五個荘の町役場)

道路は川沿いに進む。右にある地蔵堂の前を通り進むと、
左手に五個荘を描いた「中山道分間延絵図(なかせんどうぶんけんのべえず)」が掲示されている。
後ろは小幡川が流れていて、川の向こうには、
畑が奥まで続き、山の麓まで広がっているように見える。

中山道を進むと街道には不似合いな洋風の建物もあるが、
全体として大きな立派な家が並んでいるのは、
近江商人の力で稼いだ結果なのだろうか。


(旧街道らしい風景、右手の家も大きい)


(地蔵堂の前を行く、脇の家も大きい)


(五個荘の中山道分間延絵図)


(後ろの小幡川の先に広がる水田は山の麓まである。)


(街道にふさわしからねが立派な洋館)


(この家も大きい)


(この立派な家並み)


(紹介しきれない立派な家々)

大きな家々が途切れ、向こうの山すそまで続く田圃の手前に、
大きな常夜灯がポツンと建っている。
常夜灯の向こうは広がる田圃の後ろに近江鉄道の電車が走っている。
常夜灯は「左 いせ」「右 京道」の道標になっている。
昔は、海のような田圃の中に道標として建てた常夜灯であろう。


(道標の常夜灯、後ろは水田地帯)


(右京道とある)

次の信号は直進すると、
左手に「明治天皇北町屋御小休所」の石碑が建つ小公園がある。
近江商人の豪壮なの屋敷址と思われる。
左手には「北町屋の郷」が残され、
京町屋風商家として、市田庄兵衛家が残されている。
五個荘町の説明では、
(江戸時代から呉服繊維商として、
京都大阪で活躍した、市田庄兵衛家の本宅です。
奥に細長い京町屋風の建築様式で北町屋町が購入管理している。)とある。


(「明治天皇北町屋御小休所」の石碑)


(保存されている京町屋風商家)


(北町屋の里)


その先に「大郡神社」があり、「大郡神社」の石碑には、
帝政ロシアのバルチック艦隊を打ち破った軍神、
(伯爵 東郷平八郎の書)と刻まれている。


(「大郡神社」の石碑)


(東郷平八郎の書)

その先信号の右向こう側には、「元ういろうや」と
「金毘羅大権現」と刻まれた常夜灯がある。
先に進む。
右手に近づく国道8号線と旧中山道との三角地帯に、
「てんびんの里」のモニュメントがある。
旧中山道は国道8号線に合流していくが、
少し先の信号で右折し国道8号線から離れていく。


(信号の先右角に常夜灯と「ういろうや」)


(国道8号線との合流地点)


(てんびんの里モニュメント)


(てんびんの里モニュメント、右側が歩いてきた旧中山道)

信号を右折したらすぐ今度は左折する。
左折したすぐ右角は五個荘清水鼻町自治会館がある。
細い旧中山道を先に進むと「旧中山道 清水鼻の名水」が右側にある。
その場所は小公園になっており、奥のほうは崖になっていて、
清水はその崖を通り抜けて出てくるのであろう。。
旅人の喉を潤すにはもってこいの名水で、
今もキレイで冷たい清水が流れ出ている。
脇にビールのジョッキが置かれていて、
「飲み水のため直接手を入れないで下さい」
と書かれた注意書きも、見ていて楽しい。


(国道8号線と合流して最初のん信号、これを右折する)


(国道を右折後すぐ左折、向こう側が自治会館、後ろに山が迫っている)


(清水鼻の名水がある公園)


(旅人の喉を潤す名水)


(名水の脇にグラスが置いてある)

この右側が山の崖になっている細い通りを進むと、
崖の中腹に本堂が見える「浄敬寺」がある。
なお進むと、「五個荘町清水鼻」と「安土町石寺」
の住居表示が両方並んでいるところに出る。
「近江八幡市」と「東近江市」の境界である。
なにやらこの前見た「寝物語の里」が思い出されるが、
お隣同士お話がされるかどうかは、わからない。
隣の家が違う自治体と言うのはどういう分け方であろうか。
山を挟むとか、川を挟むとか、
せめて道路を挟んで自治体が違うのならわかるが・・・


(浄敬寺)


(山に挟まれた細い道を行く)


(五個荘町と安土町の住居表示)

やがて左側に(ショップ タケヤス)の前にでる。
その先三叉路で左の細道に入ろ。
角に小さな中山道の木製の案内がある。
左折して右手の常夜灯を見て道なりに進むと、
国道8号線に合流する。
車の流れが激しい国道8号線の脇を1キロほど歩く。
東海道新幹線のガードをくぐり進むと、左手に中山道の標識があり、
「中山道 東老蘇(ひがしおいそ)」の石碑と、
(鎌宮奥石(おいそ)神社)の立て看板、
これを目印に8号線を左折する。


(ショップ タケヤスの三叉路を左折)


(三叉路の中央に小さな「中山道」が左を指している)


(常夜灯を右に見て進む)


(国道8号線に合流し1kmほど進む)


(「中山道」の標識が見えたら、国道8号線を左折奥石神社へ向う)

もう一方の旧中山道は(ショップ タケヤス)前の三叉路を直進する道と、
近江歴史回廊推進協議会発行の地図に掲載している。
直進する道を行くと、人家がまばらな両側田圃の道を1kmほど行く。
途中、Y字路を左へ、(石寺東出)のバス停を通り過ぎ、
「教林坊」右への案内のある十字路の次の十字路を左折すると、
観音正寺参道になる。
左折した所に(石寺楽市)と名づけたショップがあり、
面する道路=観音正寺参道で、松並木にしようと考えているのか、
道路脇に松の木が植えてある。
案内看板に(奥石(おいそ)神社直進)(安土駅右)(教林坊左)がある。
中山道は直進で、進むと新幹線のガードをくぐり、
国道8号線をトンネルでくぐると、
「中山道 東奥蘇(ひがしおいそ)」の石碑がある所へ出る。

右手に奥石神社(おいそじんじゃ)の森が見えてくる。


(ショップカクヤス)


(カクヤス前の三叉路を直進する)


(ひなびた田舎の道)


(途中Y字路を左へ)


(石寺東出バス停、左教林坊駐車場)


(十字路を左折)


(左手にある石寺楽市のショップ前を進む)


(奥石神社直進の案内に沿って進む)


(新幹線をガードでくぐり)


(国道8号線を地下道で横断)


(中山道 東奥蘇の石碑と鎌宮奥石神社の看板前を右へ)






「木曽海道六拾九次の内 恵知川」(旧中山道を歩く 305)

2012年02月22日 09時55分47秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(木曽海道六拾九次之内 恵知川」)

(愛知川宿)
「うそ川」にかかる「歌詰橋」と言う変わった名前の橋を渡ると、
愛知川宿である。
「うそ川」と言い、「歌詰橋」と言い、
妙に何か因縁がありそうな名前である。
橋を渡り終えると、その由来が書かれた案内があるので紹介したい。

「宇曾川と歌詰橋」について、
(宇曽川について、
宇曽川は、秦川山及び埋立山に水源があり、
ここ石橋を経て琵琶湖にそそいでいる。
この川は、古い時代から水量が豊富であったため、
舟運が盛んで人や物資のみでなく、
重い石も舟運を利用して運んでいた。
また、木材は丸太のまま上流から流したと言う。
このことから「運槽川」と呼ばれていたが、
中世になって、うそ川となまったようである。

歌詰橋について
宇曽川に架けられていたこの橋は、
かっては十数本の長い丸太棒を土台にして、
その上に土を塗りこめた土橋であった。
天応三年(940)平将門は、
藤原秀郷によって東国で殺され首級をあげられた。
秀郷が京に上るために、中山道のこの橋まで来た時、
目を開いた将門の首が追いかけてきたため、
まさかどの首に対して歌を一首といい。
言われた将門の首はその歌につまり、
橋の上に落ちた。
そこがこの土橋であったとの伝説がある。
依頼この橋を村人たちは「歌詰橋」と呼ぶようになったのである。)


「歌詰橋の碑と説明板)


(この先愛知川宿の案内)

宇曽川についてはその名の由来が理解できる。
しかし「歌詰橋」となると、作り話が出来すぎている。
そもそも平将門は、無教養で歌の一首も読めなかったのであろうか?
もっとも、昔の武将は(全部とは言わないが)
無教養どころかまともに字も書けないし、読めなかった。
秀吉のひらがなの手紙を美術館で観たことがあるが、
今で言う幼稚園の子供よりひどいものであった。
将門の話にはいくつかあって、それぞれ面白い。

歌詰橋から田舎の町の中を1kmほど直進する。
途中「正光寺」があり、「石部神社」があり、
信号で二つほど過ぎると、二又道になり、
「中山道愛知川宿→」看板があるので、
これは右の方へ行く。


(正光寺)


(石部神社)


(二又道)


(愛知川宿→の案内)

やがて右手に愛知川小学校を見て進むと、中宿に入る。
そして「中山道 愛知川宿」入り口のアーチをくぐる。
愛知川宿には見るものもなく、
左手に「近江商人亭」料理屋さんの立派な建物、
続いて信号の手前に滋賀銀行を過ぎると、
石柱で「中山道 愛知川宿」があり、
その横に広重の「木曽海道六拾九次乃内 恵知川」の浮世絵と、
郵便ポストに替わる往時の「書状集箱」が置いてある。
ここが愛知川宿の中心に当たる。


(愛知川小学校)


(中宿)


(愛知川宿のアーチ)


(街道脇の地蔵堂)


(近江商人亭)


(滋賀銀行)


(書状集箱)


(中山道 愛知川宿の碑と後ろにある浮世絵)

浮世絵の愛知川についての説明では、
(天宝二年(1831)に完成した橋が出来る前は、
徒歩で渡らざるを得なかった。
橋の袂(たもと)には、
「むちんばし、はし銭いらず」としるされている。
愛知川宿の町人五人が架けたこの橋は、
慈善のため通行料を無賃とした。
橋を渡る旅人の姿は、やはりさまざまな階層、職種の人々だ。
画面中央には、華やかな赤い着物を身につけた女性の牛飼いが描かれている。
関東では、使役には一般に馬を使ったのに対し、
関西では牛が一般的であった。
馬でなく牛が荷を運んでいる所に、
都が近いことが伺える。)とある。

なるほど馬でなく牛で荷を運ぶ構図が、
京都に近いことを広重は狙ったのだと感心する。


(広重描く浮世絵「木曽海道六拾九次之内 恵知川」)

中山道は、左手に親鸞聖人御旧跡が残る「負別山 宝満寺」が、
その先に本陣跡があり、八幡神社がある。
神社前の常夜灯脇に高札場跡の石碑がある。
そのすぐ先に脇本陣跡の石碑があるが、
この脇本陣の主人が高札場の管理を行ったと思われる。


(宝満寺)


(本陣跡)


(八幡神社の鳥居と常夜灯)


(高札場跡の石碑)


(問屋場跡の石碑)


(竹平楼)


(「明治天皇御聖跡」の石碑)

左に昔は旅籠であった料亭 竹平楼があり、
「明治天皇御聖跡」の石碑が、
竹平楼の門の横に囲まれて建っている。

竹平楼を過ぎると愛知川宿の終りを示す、
「中山道 愛知川宿」のアーチがある。
アーチをでると旧中山道は国道8号線と合流し、
合流した向こう側の空き地の隅に「一里塚跡」の石碑が建っている。
江戸から数えて122番目の一里塚跡である。


(愛知川宿のアーチ)


(空き地の左隅にある一里塚の碑)


(一里塚の碑)

国道8号線を約1km車に脅えながら歩くと、
一級河川「愛知川」に到着。
橋の手前に常夜灯があり、祇園神社が脇にある。
橋の歩道を歩き渡り終えると、東近江市に入る。
橋のたもとにある(簗瀬北やなせきた)の信号があるので左折。
橋を渡ったとたん、まわりは賑やかで、右手にガソリンスタンドがある。
ファミリーレストランはある、携帯電話サービスの会社はある、
近代的な建物がずらりと並んでいる。
東近江市は大変にぎやかな発展した町に見受けられる。


(一級河川 愛知川)


(常夜灯)


(祇園神社)


(橋の歩道を渡る)


(東近江市に入る)


(簗瀬北の信号を左折)

左折して、すぐ先に常夜灯があり、
江戸時代、橋がなかった時代の渡しは、
常夜灯と常夜灯の間にあったと思われる。
常夜灯の先を左折し、直進する。
五個荘の町である。


(左折して100mも行かないうちにある常夜灯を右折)

町の住宅の中を行くと、右手に「東嶺禅師誕生地」の石碑がある。
東嶺禅師は近世臨済禅中興の祖と言われる
白隠慧鶴(1686~1769)の高弟である。
享保六年(1721)滋賀県東近江市五個荘小幡町の薬種店の子として生まれた。

東嶺禅師の名言に、
「魚は水中に居て水を知らず、人は妙法の中にいて妙法を知らず」
がある。

人は空気が必要なのに、空気があることを忘れている。
ことほど左様に幸せの中にいても、幸せを知らないでいる。


(「東嶺禅師誕生地」の石碑)

その先左手に五個荘駅左300メートルとあるので、
近江鉄道で宿泊予定の彦根へ帰る。
冬の陽は落ちるのが早い。

ずいぶん歩いた、本日の総歩行数54177歩=約32kmであった。

(五箇荘駅300mの案内)





近江商人と豊郷小学校(旧中山道を歩く 304)

2012年02月19日 10時18分53秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(豊郷小学校)

(高宮宿 4)
「中山道 出町」の石碑を左に見て、出町の家並の中を行く。
右手に「日枝神社」があり、ケヤキと松の並木の間を抜けて行くと、
また、「中山道 出町」の石碑が今度は右手にあり、
出町はここで終わるようだ。


(「中山道 出町」入り口の石標)


(日枝神社の鳥居)


(「中山道 出町」の出口の石標、並木にケヤキが入る。)

次の集落の中に石の鳥居がある。「懸社 阿自岐神社」の石塔に
常夜灯が鳥居の両横にある。
参道が長くおよそ800m先に本殿はあるようである。
中山道をなお進むと豊郷の町に入る。

最初の信号が(四十九院)である。
僧行基がこの地区に四十九の寺院を建てたことによる地名である。
左手に「先人を偲ぶ館」の看板を左に入ると、
四十九院の一つである唯念寺があり、その隣に恵林寺がある。


(阿自岐神社の鳥居)


(先人を偲ぶ館の看板)


(四十九院の信号)


(唯念寺)


(恵林寺)

そこから数百メートルで豊郷町石畑(いしばたけ)である。
左手に大きな駐車場がありその奥に、
時計付の鉄筋コンクリート三階建ての豊郷小学校がある。
立派な建物で、どう見ても大学か高等学校の感じがする。
これは丸紅の重役が寄付したもので、
滋賀県か最古の鉄筋コンクリート建てであるという。


(豊郷小学校)


(豊郷小の門柱)

石畑は間の宿であり、その歴史は古い。
説明では、
(石畑の歴史は古く平安時代後期にまでさかのぼる。
文治五年(1185)源平の争乱の中、屋島の合戦で、
『弓矢の名手』として誉れの高い那須与一宗高の次男
石畠民武大輔宗信が、このあたりの豪族佐々木氏の旗頭として、
那須城を造りこの地を納めていました。
延応元年(1239)男山八幡宮(京都 石清水八幡宮)から
勧請した八幡神社と正嘉二年(1258)に創建した称名寺があります。
また、江戸時代後期には、街道の往来で賑合う中山道・高宮宿と愛知川宿の
間の宿(あいのしゅく)として発展し立場茶屋が設けられ、
旅人や馬の休憩の場として栄えました。――後略)(豊郷村村史)とある。

石畑には八幡宮があり、一里塚が復元されてある。
一里塚の碑はこの先豊会館前に移動して置いてある。


(石畑いしばたけと読む)


(間の宿石畑)


(八幡神社の本殿、左に一里塚がある)


(石畑の一里塚)


(豊会館前の一里塚碑)

その先左に豊郷町役場が左にあり、その前に信号がある。
信号の先左手に「くれない園」があり、
奥に伊藤忠兵衛翁碑があり、碑面中央に翁の肖像が刻まれている、
伊藤忠兵衛は高宮麻布の行商から身を起こし、
現在の伊藤忠商事へと成長した。
近江商人の多くが近江麻布の販売で成功している。


(豊郷町役場前の信号)


(くれない園)


(伊藤忠兵衛の像)

「近江泥棒に伊勢乞食」という言葉がある。
江戸の人がやっかみ半分にこのように蔑んだ。
近江の商人は商売が上手く泥棒のようにお金を召し上げて行く。
一方で伊勢乞食は、伊勢の商人は倹約家で、
お金の勘定は乞食より厳しいとされた。
商売人であっては当然と言えば当然、当たり前の事である。

その先の左手に伊藤忠兵衛の生家がある。
記念館として公開しているので是非見学してみよう。
入り口を入ると、すぐ右手に庭に通じる道があるので、
まず手入れの行き届いた庭を見学。
その後建物のん家へ入ると、右手は座敷、左手は女中部屋というのも
面白い取り合わせである。


(伊藤忠兵衛の生家)


(伊藤忠兵衛の家の庭1)


(手入れの行き届いた伊藤忠兵衛の家の庭2)


(入り口すぐ右側にある座敷)


(入り口すぐ左にある女中部屋)

中山道は先に進むと右手に「金田池」の石で囲った井戸があり、
この名水が中山道の旅人の喉を潤した。
その先に、豊会館「又十屋敷」がある。
明治百年記念資料館と民芸館が併設されている。
「又十」は近江商人の藤野喜兵衛が文政の頃、
北海道で漁業や廻船業を営んだ時の称号で、
その旧宅が基になって整備されたものである。
また、道路に面して、「中山道一里塚跡」の碑があり、
前述の八幡神社にあった石畑一里塚のあった石碑が移設されたものである。
建物の前には、「逢坂山の車石」が置かれているが、
(これは逢坂(大津)より京三条までの三里に渡って車輪巾二列に
花崗岩の厚板石が施設された。
総工費一万両を費やしたが、
近江商人多数の寄付を募り完成した。――後略)と説明板があり、
その下に車輪の溝が刻まれた花崗岩が展示してある。
荷物を載せて大八車を引くとずいぶん軽く挽けたと思われる。
これも近江商人のお金の力か?


(金田池)


(又十屋敷=豊会館)


(石畑の一里塚にあった石柱を移設してある。)


(逢坂山の車石)

その先に広場があり、奥に山門と寺院が見えるが、
「日吉山 千樹禅寺」という。
ここは「江州音頭発祥の地」として名高い。

その先に歌詰橋があり、この先が愛知川宿になる。


(千樹寺の石柱)


(千樹寺)


(江州音頭発祥の起源の碑)


(歌詰橋を渡ると愛知川にはいる。)









無賃橋と葛籠町(つづらまち)(旧中山道を歩く 303)

2012年02月15日 10時13分23秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(無賃橋の地蔵堂と石碑)

(高宮宿 3)
犬上川にかかる高宮橋の手前右側に
「むちんばし」と書いた大きな石碑があり、
その横に立派な地蔵堂がある。
その昔、犬上川の水量は不定で、増水時には仮橋が流されることが多かった。
そこで住民たちから義捐金を集め、橋を架けた。
お上が造った橋でないから、通行料ゼロで「むちんばし」といった。
その昔は船渡しであったであろうから、当然渡し賃が必要であった。

「無賃橋」に対して「賃取橋」というのがある。
中山道の第一の宿場町、板橋宿から蕨宿へ抜ける間に、
荒川がある。
板橋区から埼玉県戸田市へ荒川を渡るとき、
昔は船渡しで、「戸田の渡し」と言った。


(戸田の渡し)


(現在の戸田橋)

渡し賃は、
・平水の時、一人3文・馬8文、
・中水の時、一人6文・馬12文
・出水の時、一人12文、馬18文、
・武家・出家・社人・山伏などは無料であった。

明治8年(1875)になって木製の橋が架けられると、
明治31年(1898)まで通行料として橋銭を徴収しましたので、
賃取橋といわれました。

このときの橋銭は、
・一人5厘、
・馬車2頭立て12銭5厘、1頭立て6銭2厘5毛、
・人力車は車夫を入れて1銭5厘、空車1銭、
・自転車1銭。
と細かく分かれていました。


(広重描く浮世絵「木曽海道六拾九次の内 高宮」)

「木曽海道六拾九次の内 高宮」の説明に、
(――前略――犬上川は、水量が少なく、
普段から、可動式の橋桁を水のある部分に移動させ、
仮の橋板を渡して渡ったという。
本図では殆んど水が無いせいか、
橋桁のみおかれているようだ。
画面左右に大きな松の樹木を置いて、
落ち着いた構図となっている。
画面中央に描かれている二人の女性の背負う背丈よりも高い荷は、
名産の高宮布であろうか。
あるいは麻の外皮を剥いだ後に残る、
オガラと呼ばれる茎であろうか。
当地では、麻の栽培から布にするまでを、
すべて農家の女性の手作業によって行っていた。)とある。
後に出てくるモニュメントの上にある像が担いでいるのは、
この麻布か、麻を剥いた後のオガラであろうか。

話がかなり脱線してしまったが、
中山道に戻ってその無賃橋を渡り終えると、
道路は二股に分かれ二又の間に、
「法士一里塚跡」の石碑が建っている。
建立年が平成23年(2011)になっているから、
まだ真新しい石碑である。この道を右へ進むのが中山道である。


(二又の道路)


(法士(ほうぜ)の一里塚)

{ほうしのいちりづか}と読むと思っていたが、
次の信号に「法士町」の信号があり、
ローマ字で「HOZE-CHO」とあるから、
「ほうぜのいちりづか」と読むのが正しいようである。
土地の名前を読むのは難しい。


(HOZE-CHOのローマ字がある)

無賃橋からおよそ1キロで葛籠町(つづらまち)に入り、
松並木がつづく。松並木の中にケヤキが混じる。
右手に葛籠町自治会が建てた「つづらマップ」がある。
地図によると、中山道沿い右手に「月通寺」がある。


(葛籠町の松並木)


(つづらマップ)


(月通寺の山門)

葛籠町自治会の説明によれば、
(地福寺地蔵堂 月通寺は真言宗豊山派の寺院で、
別名「柏原地蔵」とも呼ばれる。
本堂中央には行基菩薩の彫造と伝えられる地蔵菩薩が安置されている。
山門前に「不許酒肉五辛入門内」と刻まれた石標があるが、
禅宗であった頃の名残を今に伝える。
山門は薬師門と呼ばれる門の一種である。――後略)とある。

(*)筆者注:不許酒肉五辛入門内=酒・肉・五辛など臭いの強いものを、
門内に持ち込むことは許されません、ということ。
ここで言う五辛(ごじん)とは、にんにく・にら・ラッキョウ・ねぎ・ひる(野蒜の異名)を指す。


(産の宮)

中山道は少し先の右手に足利氏降誕の霊地、
若宮八幡神宮「産の宮」がある。

由緒を要約すると、
(南北朝騒乱の文和四年(1355)足利尊氏の子義詮が京都へ帰る時、
同行の妻妾が途中で産気づきここで男子出産。
家臣がこの地に九人残り保護したが、
君子は幼くしてなくなった。
生母は悲しみのあまり、
髪を下ろして醒悟と称して尼となり、
この地に一庵を建て、幼君の後生を弔った。
ここに土着した家臣九人は竹と藤蔓で作った葛籠を生産するようになり、
松寺の北方に一社を祀ってこの宮が出来た。
古来「産の宮」として安産のお参りする人が多い。)とある。


(足利氏降誕の霊地)

先に進むと右手に「了法寺」があり、さらに左に「環相寺」がある。
また、この地には、大きな家がここかしこに点在しているが、
果たして住んでいる人は何人家族なのであろうか?


(了法寺)


(環相寺)


(大きな屋敷)

その先は松並木があり、さらに先には、
「またおいで」とモニュメントが松並木の中にある。
モニュメントの上には、先箱を担いだ着物の裾を端折った商人風の人、
旅姿の女性、麻布であろうか円筒形の長い荷物を担いだ人の像が載っている。


(松並木)


(モニュメント)


(モニュメント2、三人目が担いでいるのは麻布かオガラか)

その先に「中山道 葛籠町」の石碑が建っているが、
ここで葛籠町は終り、
今度は出町に入るのであろう
「中山道 出町」の石碑がある。


(「中山道 葛籠町」の石柱)


(「中山道 出町」の石柱)







円照寺の「止鑾松(しらんのまつ)」「(旧中山道を歩く 302)

2012年02月11日 11時04分39秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(芭蕉の紙子塚の碑)

(高宮宿2)
多賀大社の一の鳥居を過ぎて、
右手に「俳聖芭蕉翁旧跡 紙小塚」の碑が柵の中に建っている。

高宮町の説明では、

・たのむぞよ
      寝酒なき夜の 古紙子

貞享元年(1684)の冬、
縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は、
自分が横になっている姿の絵を書いて、
この句を読んだ。
紙子とは、紙で作った衣服のことで、
小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に送り、
その後、庭に塚を作り古い紙子を収めて
「紙子塚」と名づけた。)とある。


(紙子塚のある小林家)


(紙子塚)

(*)筆者注:せっかく塚まで造ったのに、
                         実も蓋もない話しで申し訳ありませんが、

・たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子 )の句は、

芭蕉の作かどうか疑わしいとされる。(芭蕉俳句集 岩波書店)

その先右手に脇本陣跡がある。
高宮町の説明では、
(江戸時代高宮宿には、二軒の脇本陣があり、
その一つがこの地におかれた。
門構え、玄関付き、間口約十四m、建坪244㎡であったという。
門前には領主の禁令などを掲示する高札場になっていた。
ここの脇本陣役は道中奉行の支配下にあり、
慶長十三年(1608)からは、人馬の継ぎ立て、休泊、飛脚、
街道の維持管理を行う問屋を兼ねており、
問屋場とも言った。)
つまり問屋場と脇本陣を兼ねていたということである。
また、高札場は通常宿場の入り口に置かれ、
宿場にはいてくる旅人や、
宿内の人々に読まれやすい場所にあった。
従って、高宮の場合は、高宮神社脇にあるべきであった。
あるいは在ったかもしれない。
その脇本陣跡の斜め向かいに、本陣跡がある。
昔の本陣の表門のみが残っている。


(脇本陣跡)


(残った本陣の門)

この手前を左に入ると高宮寺(こうぐうじ)があり、
高宮町の説明によると、
(縁起によると、もとは天平四年(732)に,
行基が開いた十一面観音を本尊とする称讃院という天台宗の寺であった。
その後、高宮城主宗忠が時宗道場に改め、
称讃院高宮寺としたとある。
ところが、織田・浅井の戦いで殆んど大伽藍が焼失してしまった。
その百余年後、住民の願いが村々を勧化し、
元禄五年(1692)現在の本堂が完成した。)とある。
門を入ると本堂があり、左手に「千命堂」がある。
「千命堂」について、次のように説明があり、要約すると、
(堂内の本尊は石造延命地蔵菩薩は井伊家四代藩主
尚興公の仏教信仰の思いが、民衆の幸福と平和を祈る心となって、
地蔵尊を作らせたものと思われます。
ご先祖の供養と人々の過去・現在・未来にわたって、
かけがえのない安らぎの場となる「千命堂」となるでしょう。)とある。


(高宮寺)


(遊行派高宮寺とある石柱)


(千命堂)


(千命堂の地蔵尊)


(高宮寺の本堂)

高宮寺を過ぎると左に高宮小学校がある。
案内書によると、この学校が高宮城址で校舎の横に、
空掘り跡が見られるとあるが、
ボクの目にはそれらしきものは見当たらなかった。
広い校庭で子供たちが元気に遊んでいた。


(高宮小学校ー高宮城跡)

中山道へ戻って、本陣跡を京都に向って進むと、
その先右手に円照寺がある。
山門前に「明治天皇行在所聖蹟」の石碑が建つ。
境内には、明治天皇ゆかりの「止鑾松(しらんのまつ)」と呼ばれる松ノ木、
大阪夏の陣の帰り家康が休憩した折に腰掛けた家康腰掛石があるという。

腰掛石は石垣に囲まれて案内もあり場所が分かったが、
この脇に樹齢350年の腐りかかった老紅梅らしい木株が残っている。
老紅梅があるというので、この老紅梅を懸命になって探したが、
花が咲く2月頃なら花開いていてわかるだろうが、
枯れた木株だけではわからず、
門前の梅ノ木と間違えたほどである。


(円照寺の山門と明治天皇行在所聖蹟の碑)


(円照寺の石柱と本堂)


(止鑾松、後ろに止鑾松の石碑がある)


(家康腰懸石と老紅梅がある石垣)


(家康腰懸石)


(老紅梅)


(間違えた門前の梅ノ木)

さて、ここで問題は明治天皇ゆかりの「止鑾松(しらんのまつ)」。
何のことか意味がわからない。
調べると「鑾(らん)」とは、
天皇の乗り物の事を指すことが分かった。。
(明治天皇の乗り物をお寺につけるのに、
境内の松の大木が邪魔になり、切ることになった。
しかし、住職は松の木の命を惜しみ、天皇に伺いをたてたところ、
天皇は「歩くことなどいとわない」と、
松の木の前に乗り物を止め、御座所まで歩かれた。
その後、住職はこの松が天皇の乗り物の「鑾」(らん)を止めたと言って、
「止鑾松(しらんのまつ)」と名付けた。
今は2代目が育っている。)(高宮町)

高宮町つくり委員会もずいぶん難しい言葉を使う。
こうした言葉を使う時は、注をつけることを心がけたいものである。
文章はわかり易ければ分かり易いほど良いと思う。

高宮の街並みは、この先の高宮橋で終わるが、
愛知川宿までは、およそ8km先である。


(円照寺の本堂)


(高宮橋)







近江上布と多賀大社大鳥居(旧中山道を歩く 301)

2012年02月07日 10時08分20秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(高宮宿の碑と踏切が見える)


(常夜灯)

(高宮宿)
鳥籠山(ちょうろうざん) 唯称寺(ゆいしょうじ)の先で
中山道は近江鉄道の踏切を渡るが、
その手前の右側に石材店があり、
「中山道 高宮宿」の大きな案内と常夜灯がある。

ここから高宮宿に入って行く。
踏切を越えて、最初の信号(高宮町大北)があり、
右向こう側に地蔵堂がある。
「木之本分身地蔵尊」通称(大北の地蔵さん)と呼ばれる地蔵尊がある。
(高宮町)の説明によると、
(普通、地蔵様は石造りが一般的であるが、
この地蔵は珍しく木彫りに彩色されたものである。
側には明治三十三年四月の記で、
「木之本分身地蔵菩薩」と書かれた石柱があり、
木之本浄信寺にある眼病のご利益で名高い、
木之本地蔵の分身といわれている。
しかしその由来等についての古文書は
残念ながら不明である。)とある。
つまり言い伝えで、
「木之本分身地蔵尊」ということになっていると言うことだ。
唯一証拠になっているのは石柱だという。


(高宮町大北)信号の右角にある地蔵堂)


(地蔵堂)


(木之本分身地蔵の碑)

高宮宿の家並みは、軒うだつが上がっている家が目に付く。
それなりに功成り、名を挙げた人たちが多かったということになる。
その先右手に「高宮神社」の鳥居が見える。
左手には(旧庄屋 布惣跡)の建物がある。
(宿駅 座・楽庵)の看板が架かっており、
(高宮布 布惣跡)としての説明がある。


(軒卯建のある家々)


(高宮神社の鳥居)


(旧庄屋 布惣跡の建物、左に一つ残る蔵)

(高宮布は、高宮の周辺で産出された麻布のことで、
室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重されていました。
高宮細美とも、近江上布とも呼ばれ、
江戸時代になってからも、高宮は麻布の集散地として栄えました。
「布惣」では、七つの蔵にいっぱい集荷された高宮布が全部出荷され、
それが年に十二回繰り返されなければ平年でない、といわれたと言います。
その七つの蔵の内、現在五つの蔵が残っており、
当時の高宮嶋の看板も現存しています。)とある。
つまり七つの蔵に上布がいっぱい集荷されて出荷される、
この繰り返しが年に十二回繰り返されれば普通で、それ以上繰り返された。
残っている五つの蔵は建物の左横に一つ、あとは建物の裏側に残っている。


(四つ全部は見えないが残っている蔵)


(布屋 惣平の描かれた建物、蔵が五つ見える)

この地方の麻の布は全国的に有名で、
伊藤忠、丸紅の創業者もこの高宮宿の出身である。
(これについては後述する。)

高宮神社に入っていくと、神門の手前右手の小公園内に、
芭蕉句碑がある。


(高宮神社の神門)


(神門右横の笠砂苑、この中にある芭焦句碑)


(芭蕉句碑)

・をりをりに 伊吹を見てや 冬篭り  はせお(芭蕉)

この句碑は、神門左手にあったものを右に移したという。

神社を出て、街道を行く。
宿場らしい風情が残っている建物が目につく。
しばらくして左手に高宮郵便局があり、
その先に石の大鳥居とこれまた異様に背の高い常夜灯がある。
多賀大社の(一の鳥居)である。


(宿場らしい風情のまち)


(高宮郵便局)


(鳥居と常夜灯)

高宮町の説明では、
(寛永十二年(1635)の建立されたもの。
柱間は約8メートル、高さ11メートルあり、
県の文化財に指定されている。
――後略。)とある。
また、常夜灯については、
(大鳥居の脇に高さ6メートル、
底辺の一辺3・3メートルの正方形をなす大きな石造りの常夜灯である。
灯明をともす小窓までは、石造りで十三段の階段が付いている。
古くは一対で建立されていた。――後略)
こんな大きな常夜灯を見るのもはじめてである。


(大きな常夜灯、後ろに見える階段は十三段あるそうな)





「矢除けの地蔵尊」「鳥籠山(とこのやま)」と「扇塚」(旧中山道を歩く 300)

2012年02月04日 10時19分19秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3



(「五百らかん」の石碑)

(鳥居本宿 5)
原八幡神社をあとに中山道を進む。
高速道路の彦根インターチェンジ入り口と出口の
高架下をくぐる様になっているが、
その手前に彦根方面へ右折する道路がある。
その右向こう角に「中山道 原町」の石碑があり、
植え込みの中に「五百らかん」の石碑がある。
五百羅漢については、
井伊直弼の父が造らせた木像の五百羅漢像が、
天寧寺にある。
(「中山道番外記」を参照願います。
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2011/12/post_b206.html参照)

彦根インターチェンジの出口入り口の
高架道路をくぐり過ぎると、
左手に大きな常夜灯があり、その先は(正法寺町)の信号になっている。
道路工事のため寄せ集められたのであろう、
いくつかの道標がある。
(北八丁 多賀大社)の碑、
(安産観世音 是より四丁 慶光院)の碑、
(金毘羅大権現 是より〇〇)の碑、
(是より多賀みち)の碑、がある。
多賀大社へ東参道のしるしである。


(正法寺町の信号)


(常夜灯)


(北八丁多賀大社)


(これより多賀みち)

信号を渡ると右側に神社の森があり、
森が切れたところが入り口で、「春日神社」の石の鳥居がある。
さらに進むと右手に「勝満寺」があり、
門前に「矢除けの地蔵堂」がある。


(神社の森)


(春日神社)


(勝満寺)


(矢除け地蔵堂)

説明によると、
(地蔵町勝満寺の門前に地蔵堂がある。
この地蔵堂には地蔵菩薩と聖徳太子が祀られてあり、
通称矢除け地蔵尊と呼ばれ親しまれている。
元は旧中山道の松の畷手にあったものを現在地に移されたもので、
以後松の畷手を地蔵畷手と呼ぶようになり、
以来現在の集落を地蔵村と呼ぶようになった。
この地蔵さんは、西暦570年三十代敏達天皇のころ、
仏教が伝来した。
当時疫病が流行し、仏教の信仰によるものと、
これに反対する物部守屋と争われた聖徳太子が、
守屋からの難を避けてこの地方に隠れておられた。
――中略――
守屋の軍勢が聖徳太子を発見し、
矢を射かけたところ、突如金色の地蔵菩薩が立たれた。
あとになって松の根方に、
小さな地蔵さんが右肩に矢を射込まれて血が流れた後があった。
世人はこれを尊び一宇の堂を建て、
往来の安全を願った。――後略)とある。
それで地蔵堂の前の松ノ木の下に沢山の地蔵尊がある。
なるほどバス停の名は「地蔵」である。


(地蔵のバス停)


(左手のこんもりした山)


(大堀橋)

中山道を進むと左手にこんもりした山があり、
山が切れるところに芹川に大堀橋が架かっている。
橋から川を覗いていると、
左手の山すそに石碑が二つ建っている。
橋から降り、近寄ってみると、一つには

「鳥籠山(とこのやま)(大堀山) 不知哉川(いさやがわ)(芹川)」

と刻んである。

(とこの山 いさや川の石碑)

もう一つには二首の万葉歌碑が、

・淡海路の(おうみじの) 
鳥籠の山(とこのやま)なる 
        不知哉川(いさやがわ)      
   日(け)のこのころは 
                     恋いつつもあらむ


・犬上の 
   鳥籠の山なる 
       不知哉川
     不知(いさ)とを聞こせ
           我か名告らすな

とある。


(歌二首の万葉歌碑)

この先にいさや川、今では芹川があり、
大堀橋を渡ると右手にこんもりと山がある。
そして建っている石碑に、
「中山道旧跡 床の山」とあり、
(鳥籠山については異説がありますが、
ここを床の山として碑を建てた)と刻んである。
床の山については、橋の右か左かはっきり分からないということだ。


(大堀橋と右側の山)


(床の山碑)

この碑の後ろが広場になっており、
その横に沢山の地蔵尊が肩を並べている。
広場の先が「石清水神社」である。
神社は階段を登った上にあるが、階段の途中に「扇塚」がある。


(沢山の地蔵尊、この後ろが石清水神社)


(石清水神社)


(石清水神社本殿)


(扇塚)

「扇塚」について、
(能楽喜多流は、江戸時代井伊藩の手厚い保護を受け、
この地で発展した。九代目家元、健志斎古能は隠居したのち、
数年間彦根にいて多くの門人を育成と能楽の発展に力を尽した。
いよいよ彦根を去り江戸に帰るとき門人たちの所望に応じて、
記念に「面と扇」を与えた。
その面影を残すために、門人たちはこの地に塚を立てたのである。
もともと一対だったと思われるが、「面塚」の行方はわからない。

右側面 享和元年(1801)酉夏 喜多古能
左側面 豊かなる 時にあふぎの しるしとて
      ここにもきたの 名を残しおく)
(大堀町史跡顕彰委員会)とある。

中山道のこの先に、
鳥籠山(ちょうろうざん)唯称寺(ゆいしょうじ)がある。
ここには「絹本着色浄土変相図」ならびに
「刺繍阿弥陀来迎図」の二幅の掛け軸があり、
彦根市の指定文化財になっている。
(残念ながら拝観は叶わなかった。)

この先、しばらくして中山道は高宮宿に入って行く。


(鳥籠山(ちょうろうざん)唯称寺)