中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

膳所神社(ぜぜじんじゃ)から義仲寺まで(旧中山道を歩く 328)

2012年05月30日 09時29分12秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(膳所神社の鳥居)

(大津宿 4)

左の奥まった所に膳所神社の鳥居が見える。
表門は国宝になっており、その説明には、
(この表門は、旧膳所城の二の丸より本丸への入口にあった城門で、
明治三年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築されました。
門は、棟筋と扉筋とが同一の垂直面にない薬医門で、
城門として多く用いられています。
屋根瓦には急膳所城主本多氏の立ち葵紋が見られ、
桃山時代の建築として貴重なものです。
脇にはくぐり戸を付け、頑丈な造りで、
城門としての貫禄を持っています。)
(大津市教育委員会)とある。


(国宝の表門)


(扉筋が表門と同一垂直面に無い)

信号左が膳所神社なら、右には何かあるかと見ると、
正面に城門らしきものが見え、
手前右手上のほうに天守閣らしきものが見える。
確かめようと右折すると、
この天守閣は膳所公民館の建物であった。
また城門に見えたのは、膳所公園入り口であった。
信号まで戻り、旧東海道を進む。


(右に天守閣が見える)


(立派な大津市公民館)

左手に「旧膳所城主 御菩提所」「梅香山 縁心寺」の石碑が、
山門の左右に建っている。
膳所城主本多氏の菩提寺である。


(膳所城主の菩提寺の「縁心寺」)

その先に和田神社がある。本殿は明治三十五年国の指定文化財になっている。
本殿の右手に大津市指定天然記念物の大銀杏の木が建っている。
高さ24mあり樹齢約600年といわれる。
枝から気根(枝から空中にでた根)が垂れ下がっている
立派な公孫樹であるが、
その昔、関が原合戦後、捕えられた石田三成が、
休憩の際のつながれた木であるとされます。


(和田神社)


(重要文化財の和田神社神殿)


(石田三成が繋がれた大銀杏)


(根が空中に垂れ下がっている)

和田神社を出て進むと、Y字路となるが、これは左に行く。
左手の階段下に案内看板がある。
次に前方が開け琵琶湖が望めるが、その手前を左折する。
左折した後は突き当りまで進む。
突き当たりにお寺「春台山 饗忍寺」があり、
これは右折する。
門前に案内看板があり解りやすい。

少し行くと、前方に国道があり、
自動車の往来が見える場所に来たら左折する。
直進すると橋を渡って(フレンドマート)に突き当たり、
道路はスーパーマーケット・フレンドマートを避けるように、
左へ流れるように進む。
道路は突き当たって袋小路かと思われるような場所に出るが、
道は右折しており、
右折すると左手に「石坐(いわい)神社」がある。


(突き当たりY字路は左へ)


(左階段下の案内)


(その先は琵琶湖が望めるが、一つ手前を左折)


(次は突き当りまで進む)


(突き当たり饗忍寺を右折)


(国道の自動車往来が見えてきたら左折)


(フレンドマートの前を左へ)


(突き当たりの感じを右折していく)


(石坐(いわい)神社)


(石坐神社の鳥居)


(石坐神社の本殿)

滋賀県の指定文化財である石坐神社は、
文永三年(1266)建立で鎌倉時代の建物として貴重である。
旧東海道は街道らしい民家がそこここに見受けられる。
道路は段違いになっており、じかに敵が攻め込めないようになっている。
右折して、今度は左折すると、右側に膳所城北惣門跡の碑がある。
その前を通り抜け直進すると、点滅信号にでる。
ここは直進すると左手に立派なお寺が見えてくる。
これが義仲寺だろうと思ったら間違いで、福正寺であった。
この間、道路は右に左に曲がり、間違いやすい、
案内看板に注意して歩きたい。

さらに進むと、今度は間違いなく、義仲寺が見える。


(旧街道らしい建物)


(段違いの道路)


(膳所城北惣門跡の碑)


(点滅信号は直進)


(見えてきた立派なお寺は福正寺)


(義仲寺)









今井兼平の墓(旧中山道を歩く 327)

2012年05月26日 09時54分15秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(松原四丁目を左折)


(石山駅が見える)

(大津宿 3)

(松原四丁目)の信号を左折すると、右側に「石山駅」が見える。
道路を渡って駅に近づくが、この先の道路が分からない。
幸い駅前のバス停脇に交番があるので、聞くことにした。
「地図を示して今井兼平の墓に行きたいのですが、
道を教えてください。」
そうお願いすると、若いお巡りさんが出てきて地図を見る。
「東海道はこれを真直ぐなのに、
どうしてこの地図は左折しているのですか?」
と若いお巡りさん。
今井兼平のお墓へ行きたいためにこのようになっています。
ボクの持っている地図では、分かり難いらしく、
交番備え付けの住宅地図を持ち出してきた。
それで兼平のお墓を見ると、教えてくれた。

「先ずこの駅に上がってください。改札口を真っ直ぐ北口に出て、
階段を降りたら左へ行く。工場の間を抜けて道なりに行くと、
今井兼平のお墓の看板がありますから、判ります。」
「ご丁寧に、有難うございます。」とお礼を言って交番を出る。


(石山駅の階段が見える)

目の前の「石山駅」の階段を登って、北口階段の方へ出る。
目の前は工場の裏門が見える。
左を見ると工場と工場の間に道路が見える。これを進むと、
道路は道なりに右折し、次に左折し左側の小川と並んで歩く。
曲がりくねった小川の向こうに兼平お墓の薄れた看板が目に入る。
川に沿って道なりに進むと、
(右 兼平庵 左 今井兼平之墓)の立派な案内の石碑が置いてある。


(石山駅北口へ)


(駅北口から見た工場の門)


(駅から左へ)


(右折する工場の間)


(次を左折)


(川沿いを左へ)


(右兼平庵の石碑)


(兼平庵)

今井兼平のお墓がある一角は、公園のような感じさえする。
どなたが手向けられるのか、墓前には新しい花が備えてあった。
周りにある碑を見ると、
建立者が今井何某と今井兼平の遠縁に当たる人のように見受けられる。
中に勝海舟が詠んだ歌が載せられている、
顕彰碑が興味を注いだので、紹介したい。
「粟津原合戦史跡顕彰碑」として、
(元治丙寅のくれの秋粟津の里、
昔兼平が討死せし處を尋ねし時

勝海舟
・染出し粟津の
くろのむら紅葉
ちりての後ぞ
いろいでにけり)とある。


(勝海舟の兼平顕彰碑)


(花がある今井兼平の墓)


(墓の彫刻に今井四郎兼平とある)

大津市指定文化財 史跡 今井兼平の墓としての説明によると、
(今井兼平は、源平争乱で有名をはせた源義仲の乳母子(めのとご)で、
「平家物語」によると、寿永三年(1184)一月二十四日、
粟津合戦で義仲が討ち死にすると、あとを追って自害しました。
兼平の墓は、元は山手の「墨黒谷(すぐろだに)」にあった粗末な塚でした。
関文元年(1661)、時の膳所藩主本田俊次が改めて墓石を建立し、
漢文七年(1667)に次の藩主本田康将(やすまさ)によって、
東海道に近いこの地に移されました。
敷地の奥に一段高く石柵に囲まれた墓石があり、
中央に大きく「今井四郎兼平」その両側には銘文が刻まれています。
現在、周辺には住宅と工場が並び、移築当時の面影はありませんが、
敷地内には墓石の外に、
兼平の末裔によって建立された灯籠や記念碑が数多く残されています。)
(大津市教育委員会)とある。

上野国勢多郡北橘村 今井喜治郎兼保や、
長野県諏訪郡岡谷市 今井喜七などの石碑建立者は、
今井兼平の末裔の方だろうか。


(建立寄進者が今井で末裔の方か)


(寄進者は今井さんだ)

「石山駅」に戻り、今度は兼平の墓方向と反対の右のほうへ出る。
すぐ工場の角を左折し、川沿いの道の次の交差点を左折する。
川の橋の上に旧東海道の案内地図がある。
ここが東海道である。工場脇の道路を歩くと、
所々に街道を思わせる松並木の名残で、
松ノ木が所々に残っている。
左の工場に沿って進む。
工場が途切れ信号があるがここは直進する。


(駅を右へ行き、工場角を左へ)


(川沿いの次の交差点をまた左へ行くと東海道)


(川の橋上の旧東海道の案内)


(東海道も工場脇では人通りも無い)


(東海道松並木の名残り)


(東海道松並木の名残り2)


(東海道松並木の名残り3)


(工場が切れ民家となる信号は直進)

すると道路は民家の間を抜けるようになり、
すぐ突き当たって右、また突き当たって左へと、
道路は鉤型になっている。
やがて踏み切りに出る。


(鉤型の道路)


(踏切が見える)

踏切を渡ってすぐ右に「若宮八幡神社」の鳥居と表門がある。
門内を覘くと、拝殿があり、その奥に本殿が塀で囲まれている。
門前にある説明板を見ると、
表門は大津市の指定文化財になっている。


(若宮神社)

(この表門は、膳所城の犬走り門で、
明治三年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築されました。
大棟の背面に初妻造りの両袖の屋根を突き出した高麗門で、
正面向って右側に脇門を設けています。
門の規模は普通ですが、各部材の木割りも大きく堂々とした建物です。
屋根は本瓦葺で、大棟の両側にシャチと鬼瓦をあげ、
軒丸瓦には旧膳所城主 本田氏の立ち葵紋が見られます。――後略)とある。
(大津市教育委員会)
以上は表門についてであるが、
若宮八幡神社についての由緒を要約すると、


(向って右側の脇門)

(壬生の乱の三年後白鳳四年(675)に天武天皇が、
宇佐八幡のご神託「近江の湖水のほとり「粟津」に、
我が子仁徳を祀り崇敬すべし」により造営された。
以来、湖水の浜辺800mの間では禁猟となり、
漁夫は恐れて別浦(特別の浦)と呼び、
後に「別保」と呼び現在の地名として残る。
社殿の完成は白鳳八年(679)で、
九州宇佐市の宇佐八幡宮についで古い神社で、
粟津の森八幡宮、次に若宮八幡宮、明治になって若宮八幡神社となる。
神社の社殿は延喜十七年(917)に雷で全焼、その後、寿永三年(1181)
源頼朝と義仲の粟津の合戦で焼失、頼朝再建するも、
応仁の乱(1467)でまた焼失。
その後復興され膳所城主 本多公が境内建物修繕等を行った。)
(若宮神社由緒)


(拝殿と本殿)


(立ち葵紋の瓦)


(脇門と常夜灯)

若宮八幡神社を出て、
少し先の左手にある「旧東海道」の案内地図の看板を見て右折する。
その先は長い直線の道路を歩く。
途中、瓦ヶ浜駅の踏切を渡り、
左に「篠津神社」を見て、道路は突き当たり。
歯科医院宅にぶつかる。
医院宅の塀沿いに「晴好雨奇亭址」の石碑がある。


(旧東海道の案内を右折)


(長い直線道路)


(瓦ヶ浜駅)


(県社 篠津神社を左に見て)


(突き当たりの歯科医院)


(歯科医院脇の「晴好雨奇亭址」の石碑)

「晴好雨奇亭」とは頼山陽が命名したもので、説明によれば、
(ここには奥村菅次寿景(1788~1840)
膳所の名金工師は琵琶湖を一望する景勝地のここに居を構え、
金銀銅鉄類をはじめ櫓時計、鉄砲などを製作。
頼山陽、貫名海屋なども度々来遊した。
頼山陽はここを晴好雨奇亭と名づけ額を揮毫している。)とある。

(*)筆者注:貫名海屋(ぬきなかいや)江戸時代後期の儒学者、
         書家、文人画家。頼山陽などと親交があった学者。

歯科医院を左折すると踏切があり、駅名は京阪電車中ノ庄駅であるが、
ここは渡らない。
手前左に(日本キリスト教会 膳所教会)があるので、これを右折する。
右折向こう側に和菓子や「音羽軒」がある。
右折手前右にも案内地図がある。


(先に見える踏切は渡らない)


(中ノ庄駅に来たら来過ぎ)


(和菓子屋 音羽軒手前を右折)

右折後は長い直線道路で、500mほど行くと広い交叉点に出る。


(飽き飽きするほどの長い直線道路)





瀬田の唐橋(旧中山道を歩く 326)

2012年05月22日 10時16分38秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(ペンキ塗りたて工事中の瀬田の唐橋)


(工事中の唐橋の欄干)

(大津宿 2)

瀬田の唐橋はペンキ塗り替えか、工事中であった。
瀬田の唐橋を見るのは長年の夢であった。
高校生の頃、吉川英治の「宮本武蔵」を読んで、
武蔵とお通が待ち合わせをした場所でもある。


(こうじ中の唐橋)

また古くから、都を制するものは瀬田橋を制するといわれ、
幾多の事件が発生している。

大津東ロータリークラブ寄贈の説明によると、
(瀬田の唐橋を制するものは 天下を制する。

古代の瀬田橋

 672年  壬申の乱
        近江朝廷軍(大友皇子)、大海人皇子軍に
        瀬田橋の戦いに敗れる。
 764年  藤原仲麻呂の乱 
        仲麻呂軍が近江国府に入るのを防ぐため、
        孝謙上皇軍が瀬田橋を焼く。
 
1988年 唐橋下流80mの川底から壬申の乱にまで遡る
        と思われる橋脚台二基礎を発見。

 940年頃 俵藤太伝説 
        「雲住寺伝承の「俵藤太略縁起」より藤原秀郷による
        百足退治

中世の瀬田橋

1184年  源範頼・義経軍、瀬田・宇治にて木曾義仲軍と戦う。
         木曾義仲、今井兼平戦死。 

1221年  承久の乱
         後鳥羽上皇が鎌倉幕府と戦う。
1582年  本能寺の変
         瀬田城主山岡景隆瀬田橋を焼き、明智光秀の
         安土城進撃を一時阻止する。   

         瀬田の唐橋唐金擬宝珠(からがねぎぼし)
                 水に映るは膳所の城)とある。


(瀬田の唐橋)

平家物語によると、木曾義仲もここで義経軍に敗れたが、
今井兼平は、これまでと覚悟を決めて、
太刀先を口にくわえ馬から落ちて自殺している。

本能寺の変では、橋を建設した瀬田城主山岡景隆が、
明智光秀が安土城を攻めようとしたため、
瀬田橋を渡らせないよう焼いて一時阻止したが、
光秀によって直ちに修復された。
しかし、ご存知の通り光秀は三日天下に終わった。

瀬田の唐橋を渡る手前左側に、常夜灯と句碑が建っている。
句碑には、
「松風の 帆にはとどかず 夕霞  茶酔」とある。
その横に地蔵堂があり、ここに二本石碑がある。
一つは、「龍光山 雲住寺」とあり、
もう一つには、「跋難陀竜王宮 是より」とあり、
その片面に、「俵藤太秀郷社 川そい半丁」とある。
(跋難陀竜王宮の俵藤太秀郷社へは是より川沿い半丁あります。)
そんな案内である。


(「松風や」の句碑)


(「龍光山 雲住寺」の碑)


(「跋難陀竜王宮・・」の碑)

案内にそって川沿いを半丁(約50mも行くと、鳥居が見える。
(俵藤太秀郷社)である。
俵藤太は藤原秀郷の別名。
(940年頃の伝説で、俵藤太は、龍神の頼みを受けて、
大百足(おおむかで)を退治した。)
俵藤太秀郷社 龍王宮の隣には 雲住寺がある。


(見える鳥居)


(俵藤太秀郷社 龍王宮の鳥居)


(「龍光山 雲住寺」の門)


(ムカデ供養塔)

瀬田の唐橋を渡って、近江鉄道の踏切を渡り、
(鳥居川)の信号を右折する。信号の先左手に「長徳寺」がある。
信号右手には「旧中山道」の案内板がある。
信号を右折するとすぐ左手に、
冠木門と「明治天皇鳥居川御小休所」の石碑がある。
明治天皇のご巡幸の折休憩された場所で、以前は旅籠だった所である。

この先しばらく街中を歩くが、京阪線の踏切を渡って直進し、
JR東海道線のガードをくぐるのが旧東海道であるが、
ここは今井兼平のお墓に行きたいので、京阪石山駅に行く。


(近江鉄道の踏み切り)


(唐橋ー東海道の案内)


(鳥居川の信号右折)


(「長徳寺」)


(旧東海道の案内)


(明治天皇の碑)


(京阪の踏み切り)


(本来、東海道はは直進であるが、今井兼平の墓を見るために、この信号を左折)


















瀬田の唐橋までのたどり難い旧東海道(旧中山道を歩く 324)

2012年05月18日 06時37分51秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(一里塚跡の碑)

(大津宿)
2012年3月29日 快晴。気温18℃の予想。
日本橋を出てから48日目である。

JR瀬田駅近くのコンビニでおにぎりをいつものように二個調達して、
昨日の「一里塚跡」の石碑がある信号まで行き、右折する。
この「一里塚跡」について大津市教育委員会の説明、

ボクにとって最初の大津市の説明板がある。

「一里塚跡」、
(一里塚は、徳川幕府が旅人の目じるしに、
江戸の日本橋を基点として、
東海・東山・北陸の三道に一里ごとに設けた塚です。
ここにあった一里塚は、東海道の大津と草津の間に位置するもので、
大きな松の木が植えられた塚でしたが、
惜しくも明治末期に取り除かれました。
その場所は旧道と広い市道の交差しているこの地点に当たります。
現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています。)
(大津市教育委員会)とある。

昨日「いちりやまばし」を渡ったときに、
「一里山」というから「一里塚」に近いと思ったボクの想像は、
当っていたことが解る。
しかし、案内板の後では、誰も信用してもらえそうにも無い。
旧中山道を歩いてきて、やっと地域の感覚が分かるようになってきた、
と思わざるをえない。大津は中山道69次とした場合、
最後の宿場になり、この歩きが終わりそうになった今では、
(よくできました)と言えるものではない。

旧東海道はこれから京都まで、道路は非常に複雑になっている、
案内書を見る限り、複雑である。
間違えないよう、慎重に歩く必要がある。

一里塚の碑を右折した所に、新しい「道標」がある。
その「道標」には、「祈安全火車往来」とあり、
図の下には「江戸日本橋迄で百二十里余り」、
上に矢印で「三条大橋迄で五里余り」と、
書いてある。 まだ、20km余りあるという事だ。


(一里塚の碑を右折した所にある真新しい「道標」)

道路を旧東海道に沿って歩くと、道路は下り坂になっており、
特に目立った建物も無いが、しばらくして(大江四丁目)の信号に出る。
なお、道は下り坂になっている。
道なりに進むと今度は上りになり、
また下りになっていく。


(下り坂の街道)


(大江四丁目の信号、この先は下り坂)


(次は上り道)


(下り坂)

その内に段違いの交叉点に出るが、
ここには(旧東海道左折)の案内看板があるので、左折する。
次に出た交差点は直進する。少し行くと左に地蔵堂があり、
右に(南無〇〇〇〇〇)の髭文字の石塔があり、お堂が建っている。
その間を抜けて直進する。
次にT字路が横向きになった交叉点に出る。
ここも直進する。


(段違いの交差点、旧東街道左折の案内がある)


(次の交差点は直進)


(写真中央の川の右、道路左の地蔵堂)


(髭文字の題目塔のある阿弥陀堂を右に見て)


(T字路の信号も直進)

つぎはY字路に出るが、ここは右からご夫婦が出てきたのでお尋ねする。
この辺りからは、(瀬田の唐橋に行くのですが)とお尋ねすれば、
意味が通じる。
(旧東海道は右方向です)と回答がある。
右方向へ折れるとき、左側に案内板があるのに気づく。
「旧東海道」と案内はそうなっている。
この案内板がこの後ずいぶん役に立った。
その後も民家が続く旧東海道を進んでいく。
大きなケヤキの木があったり、桧山のバス停があったりして、
街中へ入ったのか大きな交叉点に出て突き当たる。


(先のY字路は右折、左角に旧東海道の案内看板がある。)


(旧東海道の案内)


(左のケヤキ)


(「桧山」のバス停)


(突き当たりの大きな交差点)

通りに出ると、道路向こうに(左旧東海道)の案内がある。
ここにある案内は(左旧東海道)(右旧東海道)の二つの案内があって、
左右どちらへ行けばよいのか迷う。
案内書の地図では、左が正しいが、矢倉立場のように(急がば回れ)で、
右に行った方が正解なのかここでわからなくなる。

通りがかりの叔母さんにお聞きすると、
左折が正解で案内看板にある右折を取ると、
かなり大回りになるとの回答であった。
土地の人にはどの道をとっても、
瀬田の唐橋に抜けることができるのだろうが、
旧東海道を行くには、
行かなければならない道順というものがある。


(左右どちらでも取れる東海道の矢印の案内、ここは左折する)

聞き終わって、左折しようとすると、
左側に案内看板が地図入りで建っている。
地図で確認すると図は、左折するようになっている。
左折するとすぐ信号があり、左向こう側にこんもりとした森が見え、
手前に川が流れ、土手はお城のような石垣が組んである。
森は「建部大社末社 檜山神社」とある。


(案内地図も左折している)


(左折してすぐの信号)


(信号向こうの城壁があるような森)


(直進すると「桧山神社である事がわかる。)

この道を直進する。右に正法寺があり、道路真ん中に石材店があり、
石造りの猫が戯れている石像があり、その手前の門に「左旧東海道」、
「右瀬田の唐橋」と刻まれている。
左の道路を取るとすぐ突き当たり、
左を見ると左手に「近江国一ノ宮 建部大社」があり、
右は瀬田の唐橋へ行く道路である。

よく見ると旧東海道の案内地図もある。
瀬田の唐橋まで、後30メートルとある。
右折して、直進すると瀬田の唐橋にでる。


(正法寺)


(道路の中の感じの石材店)


(「左旧東街道」「右瀬田の唐橋」の両案内の間は見ない事)


(突き当たりの左に「建部大社」が見える。)


(建部大社)


(案内地図)


(右折して直進する)

唐橋は丁度修理中で、欄干の外側に養生シートが掛けられている。
橋を渡る人には擬宝珠は勿論、橋の全容を見ることが出来る。
橋の左たもとに常夜灯がある。


(瀬田の唐橋の東のたもと)


(瀬田の唐橋のたもとに常夜灯がある。)




急がば回れの矢倉立場(旧中山道を歩く 323)

2012年05月14日 06時46分13秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(やぐらばしの親柱)


(やぐらばし)

(草津宿 3)
立木神社を出ると「矢倉橋」を渡る。
橋を渡ってしばらくすると、
右手の民家の軒先に寛政10年(1798)の道標がある。
草津市指定文化財の道標である。
「右やばせ道これより廿五丁 大津へ船わたし」と
刻まれている。


(やばせ道の道標)

ここは瀬田の唐橋まで、時間は掛かるが陸路で行くか、
琵琶湖を船で楽して渡り唐橋まで早く行くか、
思案する場所――休憩所になっていて矢倉立場と言った。

矢倉立場について、
なかなか興味ある説明なので、全文を載せたい。

(東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿の南に続く矢倉村。
立場とは、宿場と宿場の間に茶店などが設けられ、
旅人が杖を立てて休んだことから付いた名で、
矢倉村には草津名物の「うばがもち」を売る店があった。
この地にそのうばがもちがあり、
歌川広重の浮世絵や「東海道名所図会」「伊勢参宮名所図会」などに、
旅人が立ち寄って、うばが餅を賞味する光景が描かれている。
また、ここからは対岸の大津へと琵琶湖の湖上を渡る
「矢橋の渡し」の渡し場である矢橋湊へ続く矢橋道が分岐していた。
浮世絵などにも描かれた道標が、今も軒先に建っている。
旅人は、俗謡に
「瀬田へ廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の乳母が餅」と詠まれ、
旅人の多くは、ここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、
矢橋道を経て、矢橋湊から船で大津へ渡るかを思案した。
そして、この地と矢橋の渡し、瀬田橋は、
よく使われる俚言(世間でよく使われる言葉)で
「急がば回れ」の語源になった所でもある。

・武士のやばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋(「醒睡笑」)

と詠まれ、
近道であっても、湖上が荒れて舟が出なかったり、
風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより、
回り道でも瀬田橋まわりのほうが着実であることから、
成果を急ぐなら、遠回りでも、
着実な方法を取るほうが良いことを指南したのである。)
(草津市教育委員会)

ながながと書いたが、「広重の東海道五十三次之内草津」には、
「うばがもちや」が描かれている。


(「東海道五十三次之内 草津」に描かれた「うばがもちや」)

東海道を行くと、右手に草津市立矢倉小学校を見て通る。
すぐ先に大きな信号があるが、これを道に沿って直進すると、
突き当たりになる形で道路は左折する。
突き当りが「上北池公園」と名づけられた小公園で、
その中に「野路の一里塚跡」の碑がある。
往時には、ここに一里塚があったのであろう。


(草津市立矢倉小学校)


(信号を斜め左へ入る.,中央に見えるビルの左へ行く)  


(上北池公園、分かり難い場所で大きく一里塚と立看板がある)


(野路の一里塚の碑)

公園の向こう側に出ると、広い道路があり、
東海道はこれを横切って直進であるが、
道路は交通量が多く、混雑して危険であるので、
右手の信号まで行って信号を渡り、
道路の向こう側へ行く。
東海道左手には(ののみち保育園)の建物があり、
{東海道}の案内もあるので見落とさないように進む。


(「ののみち保育園」が左に見て東海道は直進)

旧東海道らしい狭い道を進む。
およそ1kmで国道を横断するが、
この道は交通量が多く横断地下道が作られているのでこれを利用する。
向こう側に出て少しいくと小公園があり、
「野路 萩の玉川」の石碑が建っている。


(国道を地下道で渡る)


(野路 萩の玉川の碑)

石碑の前にはひょうたん型の池があり、水が湧き出ている。
「野路 萩の玉川」としての説明文に、次のようにある。
(「野路」は平安朝から鎌倉時代にかけて、
東海道の宿駅として栄えた所である。
源平争乱の時代、ここ野路は数多くの武将の宿陣となり、
時には戦火に包まれ若い命が消え去った地とも伝えられる。
ここ萩の玉川は多くの歴史を秘めて日本六玉川の一つとして有名となり、
都から公卿、貴族、詩人等、
しばしばこの地を訪ね景勝を愛でて多くの詩歌を読んだ。
中でも千載集(1188)所載の源俊頼(みなもとのとしより)の作
「あすもこん 野路の玉川 萩こえて 
            色なる浪に 月やどりけり」

は名歌として世に広く知られている。また、十六夜日記(阿仏尼作)には、
  「のきしぐれ ふるさと思う そでぬれて
           行きさき遠き 野路のしのはら」

と詠んだ。十禅寺川の伏流水が清らかな泉となって湧きいでて、
あたり一面咲き匂う萩とあいまって、
その優美な風情は旅人のしばし憩の場となり、
江戸時代の名所図会にもよく描かれ、いつの頃か歌碑も建てられた。
その後野路宿が草津宿に移り、
次第に玉川もまた寂れる運命となった。――後略。)
(草津市野路町)

今も湧き出ている水と僅かな池がその風情を思わせる、
萩の玉川である。


(萩の玉川)

東海道は右から迂回する形で、右手に大きな池が見え、
池の中に橋が架けられた島がある。
橋の手前に「旧東海道 弁天池」とある。
萩の玉川を含め、このあたり一帯は沼沢地であったに違いない。
この先坂を登ると信号になり、直進か右折か迷っていると、
信号の向こうに木製の常夜灯が見えるので、直進することにする。


(弁天池)


(旧東海道 弁天池)


(どちらへ行こうか迷う交差点)


(信号向こう左に見える常夜灯)

信号を渡って木製の常夜灯を見ると、(東海道 狼川)とあり、
その手前の金網に板の上に手書きで、
(東海道 右 瀬田の唐橋4.9km、左 草津宿本陣3.7km)とある。
これで東海道に間違いの無いことを知る。
この後1kmほどは田舎道を、時計を気にしながら淡々と歩くと、
右手に(ここから大津)と書かれた、木製の常夜灯を発見する。
ここから大津市に入る。


(瀬田の唐橋まで4.9kmの案内)


(「ここから大津」の常夜灯)

今日の宿は、JR瀬田駅近くのホテルを予約してある。
そこまで17:00~18時までにチェックインしなければならない。
ここからまださらに1km強ありそうだ。
気持ちを新たに急ぎ気味で歩く。

まもなく左手に(名勝 月輪寺大池 南約一キロ)の石柱がある。
地図によれば月輪寺まで500mほどに見える。
しかし現地の案内ほど確かなものは無い。
まだ1kmあるとすると、宿泊地まで1.5kmはあることになる。
しばらく歩くと左手に「曹洞宗 普門山 月輪寺 行者堂」の石柱が、
「明治天皇御駐輦之所」、「東海道」の石碑と並んで建っている。
道路を見ると交差点の先左側に大きな池が見える。
池は危険なためか鉄柵で囲まれている。
柵の脇に「東海道立場跡」の碑がある。


(名勝 月輪寺大池南1kmの石碑)


(月輪寺行者堂の碑)


(明治天皇御駐輦之所の碑)


(大きな池)


(東海道立場跡)

天皇が車を停めた場所があるからには、
このあたりは旅人の休憩場所であったに違いない。
先を急ぐ身には、東海道の道案内がここそこにあって頼りになる。
一里塚跡の碑があったら、右折してJR瀬田駅方向へ行く必要がある。
JR瀬田駅に行く唯一の目印である。
田舎道を急ぐと、「いちりやまばし」と書いた橋に出る。
「一里山」というからには、
このあたりに一里塚跡があるに違いないと、
大きな信号のある交叉点に出た。
右折するとJRの駅がありそうな道路である。
しかし、交差点のどこを見ても、
一里塚跡の碑は見えない。


(道路にある「東海道→」の案内)


(一里山橋)


(旧東海道直進の案内がある信号)

諦めて直進すると、右折方向の坂を下った辺りが、
どう見てもJRの駅に近く見える。
道路を渡って、交差点を振り返ると、あった。
「一里塚跡」の碑が今来た道路の左手の塀を背中に建っている。
「JR瀬田駅」への案内もある。
京都側から来ればすぐ見つかるが、江戸側から来たら、
信号を左に折れない限り見えない、そんな場所にあった。


(一里塚跡の碑)

信号を右折して、JR瀬田駅に向かいホテルに入る。
時間17:30分、そろそろ薄暗くなる時間である。

本日の歩行54156歩=約33km。
これは珍しい。
初日は足慣らしで普通25kmほどで、二日目が35kmとなるのに。




琵琶湖畔の古城たち(旧中山道番外記 26)

2012年05月11日 11時11分02秒 | 中山道番外記

0027
(安土城天守閣(文献により復元)

0029
(天守閣内部、上段の床)

(安土、長浜、小谷、彦根、佐和山の古城たち)

戦国時代、天下取りを夢見た名将たちが居城を築いて、
戦った逸話が数々残る滋賀県。
とりわけ琵琶湖の東岸では、
名だたる武将の城跡をたどることができます。

「第六天魔王」などの異名で恐れられ、
武力で天下統一を推し進めた織田信長。
その信長が、天下取りの拠点として築いたのが「安土(あづち)城」でした。
琵琶湖東岸のほぼ中央(現在の滋賀県蒲生郡安土町)にある、
湖を見下ろす安土山の山上に築かれていた安土城。
五層七重の巨大な天守閣は、最上部の6階が正方形、
その下の5階が正八角形という特異な形状だったそうです。
0028
(正方形の天守閣とその下が八角形であることが判る)

1579年に完成した安土城ですが、3年後の1582年、
本能寺の変で信長が討たれて間もなく、謎の失火によって、
天守閣や本丸などが焼失してしまいます。
以後、安土城は再建されることなく廃城となり、
安土山には石垣と城跡を残すだけです。

築城時の図面はおろか、
城を描いた絵なども見つかっていないため、
安土城は「幻の名城」とも呼ばれ、
真の姿は謎に包まれています。
ただ、文献などをもとに、
安土城の5・6階を原寸で再現したという「安土城天主 信長の館」が、
安土町に開設されています。
安土城の発掘調査は今も続いているそうですから、
いつの日か、その全容が明らかになる日がやってくるかもしれません。
0032
(信長の館、この中に安土城は復元されている。)

浅井長政が、悲運の最期を遂げた「小谷(おだに)城」は琵琶湖の北東岸、
滋賀県東浅井郡湖北町にあった山城です。
標高約495mの小谷山の最高峰から南へ延びる尾根伝いに、
本丸など小谷城の主要な城郭が築かれていました。
浅井長政は信長の妹お市の方を妻に迎え、信長と同盟を結びます。
ところが、信長は、浅井と縁の深い朝倉氏を滅ぼそうと出兵します。
信長との同盟維持か、朝倉とのきずなを守るかで悩んだ浅井長政は、
信長に対抗する道を選びました。
1573年、織田軍に攻め込まれた浅井長政は、
降伏を勧める羽柴(のちの豊臣)秀吉にお市の方と3人の娘たちを託して、
自刃して果てます。享年29歳でした。
浅井家が滅んで、小谷城は廃城となりました。
今は石垣など城の遺構のいくつかが、
小谷山の山中に残っているようです。

落城寸前の小谷城から、お市の方とともに脱出した浅井長政の3人の娘。
そのうちの1人が、
のちに豊臣秀吉の側室となる茶々(淀殿:よどどの)でした。
秀吉と淀殿との間には、後継者となる秀頼(ひでより)が誕生します。
ところが、秀吉の死後、幼い秀頼を総大将に豊臣家を支持する勢力と、
徳川家康とが対立し、
豊臣方(西軍)と徳川方(東軍)が天下を二分して対決する
「関ヶ原の戦い」がぼっ発することになります。

関ヶ原の戦いで、西軍の参謀として家康に挑んだのが、石田三成でした。
その石田三成の居城「佐和山(さわやま)城」もまた、
琵琶湖の東岸にありました。
佐和山は、JR琵琶湖線で安土町から湖北町へと向かうちょうど中間あたり、
滋賀県彦根市にある標高約232mの山です。
佐和山城はその山上に建っていました。
築城は鎌倉時代とも伝えられていますが、
石田三成が城主になって大規模な改修を行い、
五層(他説では三層とも)の天守閣を備えた
壮大な山城に生まれ変わったのだそうです。
0042
(彦根城の天守から見た佐和山)

石田三成が、関ヶ原の戦いに敗れ、一族が滅亡したあと、
佐和山城には家康の側近、井伊直政が入城します。しかし、
井伊直政は新たに「彦根(ひこね)城」を築いて居城としたため、
佐和山城は廃城となりました。
彦根城は、国宝に指定されている天守閣をはじめ、
重要文化財となっている天秤櫓(てんびんやぐら)など、
現在でも往時の姿を目にすることができますが、
佐和山城は、今では石垣の一部が山間に埋もれて残るだけだそうです。
0037
(彦根城入り口)

0043
(彦根城)

0055
(彦根城を借景にした玄宮園)

琵琶湖の東岸にはこのほか、
豊臣秀吉が築いた「長浜(ながはま)城」(現在は天守閣を模擬復元して長浜城歴史博物館に)や、
秀吉のおいで、のちに養子となるものの、
最後は切腹させられてしまう豊臣秀次(ひでつぐ)が築いた
「八幡山(はちまんやま)城跡」などが残っています。
0059
(復元された長浜城)

戦乱の世に天下統一の野望を抱きながら、
夢かなわずに散っていった武将たち。
道半ばで倒れた城主と運命をともにするかのように、
城もまた、あるものは焼け落ち、
あるものは朽ち果てて歴史のかなたに埋もれて消えてなくなりました。
滋賀県の琵琶湖畔に、戦国時代を駆け抜けた英傑たちの足跡をたどる旅。
今はもうない城で繰り広げられた物語を歴史書片手にひもときながら、
皆さんも歩いてみませんか?
0061
(美しい琵琶湖)

0063
(竹生島)

0066
(宝巌寺へ登る信者群)

0067
(この中へ行くと、鶯廊下があり、観音堂があり、信者の皆さんが般若心経を詠まれる。)

0071
(竹生島神社)

0068
(竹生島の西国三十番札所、観音堂)






草津宿本陣と立木神社(旧中山道を歩く 322)

2012年05月09日 10時01分26秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(草津宿高札場の案内)

(草津宿 2)
トンネルを抜けると草津宿であった。トンネルの上は草津川で、
トンネルの天井は、草津川の川底に当たる。
トンネルの出口左手に追分道標があり、右手に高札場が置かれている。
草津宿の入り口に当る。

左手の追分道標には
「左 中仙道みのみち、右 東海道いせみち」
(京都側から見る道標)とある。
ここで中山道と東海道は合流する。
この後は東海道を歩くことになる。


(復元した高札場)


(左手の追分常夜灯)

道標の先の草津市民センター「公民館」がある。
お手洗いに御用の方はここで済ませよう。
東海道を進むとすぐ右に本陣らしき古いが立派な家がある。
「史跡 草津宿本陣」である。
寛永12年から明治3年の本陣廃止にいたるまで、大名、幕府役人、
勅使などが、小休止や宿泊を担った。
江戸期の姿をほぼ残し、公開されているので、
是非見学されたい。
入館料は草津宿街道交流館と合わせて320円である。


(草津宿本陣)


(本陣の入り口、細川越中守宿の関札が目に付く)

本陣げんかんへ向うと、入り口に関札(細川越中守宿)が目に付く。
玄関まで玉砂利を踏んで進むと、
途中元気よく「いらっしゃいませ」の声がかかる。
入館料を払うと、案内をしてくださる。
うるさいほど詳しくも無く、そうかといっていい加減でもない。
玄関の広い式台を上がると、関札が沢山並べてある。
宿泊者が持参する自分の名乗りである。
「松平出羽守宿」「細川越中守母休」「毛利安房守宿」
「出雲少将宿」「近衛殿御休」などなど。
赤い絨毯(レッド・カーペット=国賓級の最高のおもてなしを表現)
が敷かれた中央の畳廊下を進むと、
途中で一段、段を上がる所に御簾が巻き上げてあり、
ここから奥になる。
御簾が下げてあると、本陣の主人といえども奥に進めない。
一番奥の左手に「上段の間」があり、
その奥の左手に上段用雪隠(おてあらい)が、
右手に御湯殿がある。
本陣の裏手には、敵に襲われたときのことを考え、
脱出できる裏門が用意されている。

(島崎藤村「夜明け前」に、
書かれた本陣としての要件の一つ、裏からの脱出口。)


(草津宿本陣、江戸時代に思いを馳せて・・)


(沢山ある関札。本来は一枚だけを掲げる。この本陣には沢山あるといいたいのだ)


(畳廊下にレッド・カーペット(最高のもてなしを意味する)


(一番奥にある上段の間、一段高くなっている)

東海道を進むと左に草津観光物産館の「脇本陣」があり、
その先草津宿街道交流館がある。
料金が払ってあるので入館する。
草津宿がわかる歴史館になっている。
その先左手に問屋場跡がある。
草津宿は東海道と中山道の追分宿になっているので、
荷物の量も多く、仕分けも大変だったと思われる。
人足や馬に積む荷物の重量も決められていたので、
重量オーバーにならないか、重量検査を行う貫目改め所があった。
他に中山道では板橋宿と洗馬宿に、
東海道では品川宿と府中宿に設置されていた。


(脇本陣跡、草津観光物産館になっている)


(草津宿街道交流館)


(問屋場、貫目改め所跡)

東海道を進むと程なく(立ち木神社前)の信号があり、
道路を渡った右向こうに赤い鳥居が見える。
近づくと、赤い鳥居の前に川があり、橋が架かっているが、
その橋に赤い旗が風になびいている。
旗には、「初宮まいり」「安産祈願」「交通安全」「厄除け開運」祈願と、
書かれている。およそ人の願いを全て網羅した祈願、
全部叶えて下さるのなら、賽銭も安いものだ。


(立木神社前の信号)


(欲張りな四つのお願いの旗がはためく)


(狛犬に替わって鹿、「御神鹿」とある)


(御神鹿2)

立木神社に入る。狛犬の代わりに鹿がいる。始めてみる鹿の狛犬である。
浦和宿には、調(つき)神社に、ウサギが狛犬の代わりをしていた。
とても珍しい、始めてみた。御神鹿と書いてある。

滋賀県の指定自然記念物に指定された立木神社のウラジロガシがある。
神社も立派なもので、
これならいろんな願い事を全て聴いてもらえそうである。
狛犬に替わる鹿が神殿前や門前に建っている。


(天然記念物のウラジロガシ)


(本殿とその前の御神鹿)

境内に石の道標がある。草津市の指定文化財になっている。
石の道標は、風化して文字がよく読めないが、
説明によると、(以前草津の追分にあった石造り道標らしい。
「ひだりは中せんどう をた加みち 京みぶ村 万宝院 あしだの行者」と
書いてあるようだ。
道標の建立年代は、「延宝八庚申年」と刻銘にあり、
滋賀県下で最も古いものです。 ――後略)(草津市教育委員会)

立木神社を出て東海道を行くと、「矢倉橋(やぐらばし)」にでる。


((滋賀県下最古の道標)


(立木神社西門)


(矢倉橋)









苦労して読んだ伊砂砂神社の説明(旧中山道を歩く 321)

2012年05月05日 10時42分33秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


0001
(左の高架は東海道線)

(草津宿)
左手に東海道線の高架が近づき、
葉山川を渡ると左手にトンネルが見える。
案内書では、狭いトンネルをくぐると説明がある。
このトンネルは、車が一台通れる程度の広さで、
人が歩いていると車は止らなければならないほどである。
0002
(葉山川の隣のトンネル)

しかしこのトンネルをくぐってはならない。
ボクはこのトンネルを潜り抜けて、進んだが、
中山道としては道が違うように感じて、
角のガソリンスタンドの方に地図を見せながら訊くと、
この人はボクのもっている地図の見方がよく解らないようで、
つまり何所にいようとも、彼にはどこへでも行ける道路なので、
始めて訪ねるボクには上手く説明が出来ないようだ。

道が間違ったと感じて、小さなトンネルをくぐって元に戻り、
広い道(中山道)を進むと、50mも進まないうちに、
草津宿左の案内図があるので、左を見るとなるほど小さな、
ボクでさえ背をかがめないと通れないようなトンネルがある。
案内書のトンネルはこのトンネルのこと指していた。
0003
(草津宿の案内図)

0004
(地図の拡大)

0005
(小さな中山道の案内)

お恥ずかしいが、後で案内地図を見たら、間違いやすい場所であるらしく、
わざわざトンネルの写真が付いていた、
しかも、守山宿側から見たトンネルの写真と、
草津宿側から見たトンネルの写真である。
うっかり見落としていた。うっかりでは済まない、
これでおよそ1kmは歩き損である。
0007
(守山宿側のトンネル)

0009
(草津宿側のトンネル)

今度は正しい、左に小川の流れがあるトンネルをくぐり出ると、
中山道右の矢印があり、人しか通れない小路を行く。
右に折れると小路は線路と平行しているので、
くぐってきたトンネルの天上のうえは東海道線であることが解る。
20mも進むと、道路へ出るので直進する。
0008
(「中山道 右」 の案内)

0010
(人しか通れない小路)

0011
(この道を20mも行くと広くなる)

0013
(広くなった中山道)

0014
(左からの道と合流し直進)

橋を渡ってからは、旧中山道の上に、東海道線が敷かれたようだ。
しばらく東海道線と平行して歩くと、左から来た道と合流する。
なお直進するとインターチェンジへ進入する高架自動車道のガードをくぐる。
さらに進むと、左手にこんもりした神社らしき森が見える。
近づくと「伊砂砂(いささ)神社」である。

0016
(高架のガードをくぐる)

0017
(古い家の先に神社の森らしきものが見える。)

0019
(伊砂砂神社)

0023
(伊砂砂神社2)

0027_2
(伊砂砂神社の本殿)

国の指定重要文化財になっている「伊砂砂神社本殿」は、
(当社は天大将軍社と称され、雨乞いの神として崇められてきたが、
明治初年社号を改める。
本殿は一間社流造り、桧皮葺で棟札によって、
応仁二年(1468)の建立であること立証される建築物である。
身舎柱(もやばしら)は円柱で漆喰塗りの亀腹上に立ち、
三方に高欄を廻らし脇障子で仕切られた珍しい社殿である。
正面の浜床は狭く、向拝柱は角柱で、
柱上斗拱などの仕組みはすっきりとしており、
蟇股には宝相華唐模様の透かし彫りが施されている。
社殿内外共に素木造りで、彩色は無く全体に細身作りではあるが、
量感にあふれた建物で、室町時代の作風を、
今日に伝える重要な文化財である。)(草津市教育委員会)とある。

こんな説明板で説明が出来たと草津市教育委員会の方は考えているのだろうか?
宮大工が使う建築専門用語が、一般の人たちに理解できると思っているのだろうか?
文章とは出来る限り平易に書かれたものが、優れた文章であるとボクは思っている。
結局、この案内板を理解するのに、かなりの時間がかかった。
不明文字を帰宅後調べて、やっと理解できるのでは、案内説明板とは言えない。
読み方さえも分からないのだ。

太字にした部分は意味がわからず、下記の通り調べて注釈をつけました。
(*1)身舎(もや)=母屋。寝殿造りで、庇に対し、家屋の主体をなす部分。
     http://www.architectjiten.net/(参照)
(*2)亀腹(かめはら)=建築物の基礎部分、 鳥居の柱脚部などを、
白漆喰などで固めてまんじゅう形に造ったもの。
(*3)浜床(はまゆか)=寝殿造りの母屋に置かれた方形の台。
畳を敷き、四隅に柱を建て帳(とばり)を垂らして寝所などとする。
(*4)向拝(ごはい)=神社や寺院の正面に設置されている屋根を前に張り出した部分。
(*5)斗拱(ときょう)=斗(ます)と肘木(ひじき)でできている組み物で,必ず柱の上にあります。
     http://www4.airnet.ne.jp/sakura/gosinji07.html(参照)
説明の説明になってしまった。
0028_2
(この先中山道はカラー舗装がしてある。)

中山道に戻すと、この神社から先、中山道はカラー舗装がしてあり、解りやすい。
少し行くと左手に「佛乗寺」があり、
中山道はカラー舗装の上を行く。
次いで光明寺の門前を通り、少し行くと「やすらぎ」と題した婦人像がある。
像の前には子供たちの絵が数点置かれて、
渋川東地区街つくり推進協議会の案内がある。
(この道路は旧中山道であり、渋川のまちづくりの一環として平成八年に、
地域の特色を生かした景観形成道つくり事業を実施したものです。
通行に支障となる迷惑駐車はやめましょう。)と書いてある。
0029_2
(佛乗寺)

0031
(カラー舗装)

0032_2
(光明寺)

0033
(やすらぎ婦人像)

この先に交差点があり、直進は「きたなか」商店街のアーケードとなる。
その手前の交差点の中に「中山道 一里塚跡」の木杭がが置かれている。
この辺りに中山道最後の、129番目の一里塚があったとは、案内所に出ていたが、
地元の方が木杭を打ち付けて分かりやすくして下さったのであろう。
0035
(「きたなか」アーケード街)

0036
(アーケード街入り口左の一里塚跡)

商店街のアーケードを通り抜けた所に、トンネルがあり、
壁面に浮世絵の茶店の風景が描かれたところあたりでトンネルの出口になる。
いよいよ草津宿である。
0038
(長いアーケード商店街)

0039
(アーケード街終点にあるトンネル)

0041
(トンネル内に書かれた浮世絵を真似た絵)

0040
(いよいよ草津宿)








処刑された住蓮坊と大宝神社(旧中山道を歩く 320)

2012年05月01日 09時46分03秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(閻魔堂の信号)

(守山宿 6)
今宿の一里塚を過ぎると、(閻魔堂町)の信号にでる。
ここは直進すると左手に真新しい石柱で
「住蓮房母公墓」の石碑が建っている。


(「住蓮房 母公墓」の碑)

法然上人説く浄土仏教は、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、
阿弥陀様は、誰でも極楽浄土へいざなってくれる、
という非常にわかりやすい仏教だったので、
天皇から貧しい庶民にいたるまで、
多くの人が信者になったといわれる。

(法然の弟子に安楽坊と住蓮坊という二人の美男の坊さんがいた。
この二人は「六時礼賛」という念仏会を行っていた。
後鳥羽上皇の二人の侍女が、
上皇留守の間にこの「六時礼賛」に参加し、
安楽坊と住蓮坊はこの二人を剃髪、出家得度させた。
これを知った上皇は、安楽坊を六条の河原で、
住蓮坊を近江の馬渕村で処刑、法然は土佐に流罪となった。

息子住蓮が捕えられ、処刑されることを知った母公は、
息子住蓮に会いたい一心で馬渕村へ急いだが、
ときすでに遅く、住蓮は処刑された後であった。
母公は、最早これまでと閻魔堂の池に入水自殺した。
その母公の墓が市村家 
屋敷内にあり、今も供養されている。)という。
(守山宿歴史文化保存会)


(閻魔堂)

その先右手に、閻魔堂がある。
門前右側に「閻魔法王小野篁御作」の石柱、
左側に「五道山十王寺」の石柱が建っている。
小野篁作 地獄の法王閻魔大王像が、
お堂の中に納められているというが見ることが出来なかった。
閻魔堂の左には諏訪神社がある。

この先1kmほどは長い田舎道で特筆するものは何も無い。

(淡々とした田舎道)


(諏訪神社の鳥居)

左手に神社の森らしきものが見えてくる。
道路左は川の流れがあり、流れの左手には鳥居があり、
その奥は公園になっている。
鳥居をくぐると公園の横が参道になっており、
進むと右側にさらに鳥居がある。
鳥居脇に「この奥に芭蕉句碑あり」と刻んだ石柱が建っている。
奥に目をやると、句碑らしきものがある。


(神社の鳥居と狛犬)


(句碑の案内)


(芭蕉句碑とその由来の碑)

句碑の由来とともに、句碑があり、

・へそむらの まだ麦青し 春の暮れ  はせを(芭蕉)

と刻まれている。
句碑の由来には、
(この句碑は栗太郡内唯一の芭蕉の句碑であう。-中略。
滋賀県内に、93本の句碑があるが、この句は芭蕉の句の
存疑の部に入れられていて、今後の研究課題の一つとされています。)
(綣行政区(うそぎょうせいく)とある。

しかし芭蕉俳句集(岩波文庫、中村俊定校訂2008年発行)によると、
存疑の部にも入っていない。
どの研究書によって存疑の部へ入れたのであろうか。

話を戻す。
鳥居のある神社は、大宝神社で、参道が奥へ続いている。
入り口の立派な四脚門は、宮中からの寄進であることを現す、
築地塀に五本の白い線が入っている、という。
また、社宝の二対の木造狛犬の内、
一対は平安時代のもので国指定の重要文化財となっているそうである。
木造狛犬は見ることができなかった。
広い森には年代ものの大木が生えていて、
都会とは違う森の深さを感じる。


(大宝神社の鳥居)


(四客門の五腺入りの築地壁)


(本殿)

中山道は綣(へそ)町を過ぎ、右手の佛眼寺の地蔵堂を見て進み、
(栗東駅西口)の信号を過ぎ、左に八幡宮の鳥居を見て、
旧街道らしい街並みを歩くと、

草津市に入って行く。


(佛眼寺の地蔵堂)


(栗東駅西口)の信号)


(八幡宮の鳥居)


(街道らしい道)


(草津市の案内)