中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

紅坂の一里塚と佐倉宗五郎大明神(十三峠中央)(旧中山道を歩く 226)

2011年01月26日 10時49分51秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(のどかな田園風景)

(大井宿 6)

乱れ橋を渡って、のどかな田園風景を見ながら、
ポツリポツリとある民家を見ながら歩く。
左手に公民館かと思われる立派な家がある。
庭も広い。
「中山道四ツ谷休憩所」である。
村で管理しているらしく、手入れが行き届いているが、
無人のようである。綺麗なお手洗いがあるので用を済まして置きたい。


(四ツ谷休憩所)

休憩所を出ると、今朝大井宿に向かって、
細久手宿から歩いてきた人に出会った。
聞くところによると、
今日はボクを含めて三組目の中山道を歩いている人に出会ったと言う。
前の二組は、細久手宿の大黒屋さんに宿泊されると聞いた。
ボクのこの足で、さらに十三峠が続くのでは、
細久手宿の手前、大湫宿止まりが良い所ですが、
交通の便が良くありませんのでどうしようかと思っていますと、言うと、
「大湫宿からタクシーでJR釜戸へ行くのがベストですな。」と言う。
その方は恵那市泊まりと言うことだ。
「十三峠はまだこれから大変ですよ。西行塚に着いたら終わりですが」
とボクが答えた。
「お互い気を付けていきましょう」と言って別れた。


(枯葉の山道)

のどかな田園風景はほんの僅かな目の保養で、すぐまた山の中である。
色づいた枯葉を踏む山道は、のんびりハイキングでもするのならば、
心地よいが、この先の山道が思いやられるようでは、
感慨にふけっていられない。
その点、山の中で和歌や俳句をひねっていられる、
先人の神経が羨ましく感じられた。


(木の根元に夫婦岩はあるが見えますでしょうか?)


(右手の紅坂の一里塚)


(左手の一里塚)


(街道を挟んで一対になっている一里塚)

やがて右手の夫婦岩なる看板を見つけたが、
写真の腕前が悪く岩の前の笹ばかり写って、
夫婦岩が見えないのはまことに残念。
その先に、一里塚が見えてきた。紅坂の一里塚である。
江戸から89番目の一里塚である。
山の草道は上りで、やがて数軒の民家が見えてくると、
今度は下りになる。


(山の中の民家)


(中山道 黒すくも坂の碑)


(素敵な眺望で向こうの山が権現山)

「黒すくも坂」というらしいが、辺りが開けて見晴らしが良い。
権現山を眺望することが出来る。
先に歩くと、やがて右手に「三社灯籠」があり、
左手に佐倉宗五郎大明神の碑がある場所に出る。
そもそも佐倉宗五郎は、千葉県佐倉市の出身で義民伝で有名なのに、
どうしてこんな所に「佐倉宗五郎」の碑があるのか不思議であった。

案内によれば、
「元禄年中(1700頃)岩村藩で農民騒動が起きそうになった。
竹折村庄屋田中さんは、将軍に直訴して村を救ったが、
その罪で首をはねられた。」
このことが佐倉宗五郎事件に似ているので、
まさか罪を犯した田中さんの碑を造ることもならず、
「佐倉宗五郎大明神」の碑を作ったという。
なかなか洒落たことをする農民たちだ。

佐倉宗五郎は手まり歌の一つ、
数え歌の中に出てくるくらいであるから、
当時の子供たちには、
よほどのことが無ければ知らない人がいないくらいだ。
ボクは男の癖に、この数え歌を良く知っている。

♪一番初めは一の宮、
 二は日光東照宮、
 三は佐倉の宗五郎、
 四は信濃の善光寺、・・・・♪
の三番名に出てくる。


(三社灯篭)


(佐倉宗五郎大明神の碑)


(深萱神社鳥居)


(ずらりと前後に並んだ句・歌碑。一番手前が芭蕉句碑)

この佐倉宗五郎大明神の碑から、
右手奥に入った所に深萱神明神社があるので寄ってみる。
神社の石の鳥居の向こうに、沢山の歌碑が並んでいる。
ボクが知っているのは、芭蕉の句しかない。

・山路きて なにやらゆかし すみれ草  (はせ越=芭蕉)

神社を出て中山道を進むと、
広い道路に出る前に橋を渡れとある。
向こう側に藤村高札場が見える。

案内書を見たとき、藤村高札場とは島崎藤村が高札に
揮毫でもしたものと思い込んでいた。
ところが現場へ来て、違っていることが判った。
この高札のある場所は、藤村(ふじむら)と言って、
藤(ふじ)という村の名前であった。
自分の無知を棚に上げて、(紛らわしいこと甚だしい)と、
腹を立てるなど、ボクもまだ気は若い。


(ガードレールに沿って右へ橋を渡り、すぐ左に折れると右手に高札場、写真中央に高札場が見える)


(藤村(ふじむら)高札場)


(深萱立場本陣跡(加納家)


(「深萱上」バス停)


(新設された新しい休憩所(昔流に言えば立場)とWC)

高札場の左隣に深萱立場本陣跡(加納家)の案内がある。
本陣跡の南側に(深萱上)のバス停があり、新しい休憩所とW.C.がある。
この休憩所でひとまず休み、お昼弁当にして、お手洗いを借りて出発。
大久後へ向う。
田んぼに囲まれた道はすぐ山の中に入っていく。

静かな物音一つしない林の中を進む。
途中通行止めと思われるような
道路に杭の打ってあるところに出るが、
構わず枯葉を敷き詰めた草道を進む。
(大久後)方面を目指す。


(草道を大久後へ向う)


(草道路の中央に杭が打ってあるので通行止め?と思ってしまう)







紅葉と石畳と乱れ橋(十三峠前半)(旧中山道を歩く 225)

2011年01月20日 10時28分40秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(十三峠入口の石碑)


(西行塚100mの案内)

(大井宿 5)
今回まで西行法師と縁が切れない。
十三峠の石碑を過ぎると、道路は石畳に変わる。
旧街道の臭いがしてくる。
そして西行塚までと西行の森までの
里程が記された中部北陸自然歩道の木の案内が旧街道らしさと、
「これから山登りだぞ」と覚悟させる表情を見せる。

(西行塚0.1km)の案内に、何処、何処と見渡す。
馬頭観音が藪の奥にひっそり立っている。
石畳を少し進むと「伝西行塚」右ですの案内と、
「五輪塔」「見晴台」右矢印の案内が急な階段と共に目に入る。


(石畳の道)


(馬頭観音)


(西行塚への急な階段)

見上げると急な階段は上のほうで左折しており、
行き先が見えない。階段は一定の歩幅に造られているので、
ボクのように短足だと歩幅が合わずに登り難いものだ。
どんな急な坂でも、どちらかと言うと階段でないほうが登りやすい。
歩幅を自分の足に合わせて進めることが出来るからだ。

三回くらい休憩して、やっと西行塚が見えるところまで来た。
西行の五輪の塔があるところまでは、さらに数段登らねばならない。

岐阜県の指定(史跡)になっている西行塚について、
(恵那市の市街地を一望できる小高い丘の上に築かれたこの塚は、
歌聖 西行法師の供養のために造られたと言われています。
小さな塚の上には、高さ約1.4mの五輪塔が立っており、
形式的には、室町時代末期のものと推定されます。
西行がこの地で入寂したと言う伝説は古くからあり、
慶長十九年(1614)に書写された当市大井町の長国寺に伝わる
「長国寺縁起」に終焉の様子が細かく記されています。
西行塚は、大田蜀山人の旅行記「壬戊紀行」(1802)や
秋里離島の「木曽路名所図会」(1805)など、
江戸時代の出版物に登場し、古くから中山道の名所として有名で、
今も大切に祀られています。)(恵那市教育委員会)


(伝西行塚)


(見晴台から見た恵那市)

西行の五輪塔の横には、恵那市が造った見晴台があり、
確かに恵那市が一望できる。
ここで晴れ渡った空の下で少し休む。
恵那市が訪れた人に署名と感想を記入するノートが置いてある。
開いてみると、4日前に訪れた横浜の方の名前が記入されていた。

考えてみると昨日追い越していった、
お揃いの赤いリュックを背負ったご夫婦が
ボクの前を歩いているはずである。
その方はただ中山道を歩いていらっしゃったので、
この西行塚には寄られなかったのであろうか・・・

その昔、ボクを追い越していった人は、
中山道を14日で踏破すると話しておられた。
ボクのようにキョロキョロ見ながら歩く人は少ないのであろうか?

話を戻して、西行塚を跡に今度は塚の反対側に降りていくと、
山の中にしては、立派なお手洗いがあり、
中山道の石畳に出る。
十三峠は、この先長いので用は済ませておきたい。
十三峠とは、峠が十三あるところから名が付いていると言う。
中山道で今まで一番辛かったのが碓氷峠であるが、
この度の十三峠は、かなりしんどかった。
ボクにとって、中山道一の難所に感じられた。


(石畳の中山道)


(途中の中山道の案内)


(槙ヶ根の一里塚)


(一対のもう一つの一里塚。松が植えてある)

その先は石畳の上り坂である。
登りきって開けた明るい場所に出ると、
そこが「槙ヶ根の一里塚」で両側に一対になって残り、
いずれも松の木が植えてある。
山の中で地形上、場所が上手く取れなかったのか、
左右で約10m位置がずれている。

この先が西行の森になっており、
西行が好んだ桜の木を100種類、
合計130本が植えられていると言う。
ボクが歩いた時期には、桜ならぬ紅葉が陽に映えて美しかった。


(西行の森、桜百選の園)


(紅葉が美しい)


(中山道の案内と枯葉)


(広い舗装路)

道路は山の中の枯葉の砂利道を,
シャンソンの「Autumn Leaves(枯葉)」を思い出し、
熊よけに丁度良いと、口ずさみながら音痴丸出しで進む。

(この音痴には、さぞや熊もびっくりしたに違いない。)

所々「中山道」や「東海北陸自然歩道」の案内に助けられ、
道路に誤りが無いことを確認しながら進む。

やがて広い舗装道路に出る。
道路の左右に、水戸屋茶屋跡、槙ヶ根茶屋跡、etc.などを通り、
右手にコンクリート生コンの工場を見たら、
右の脇道に入る。
「熊出没注意!」の看板がある。

(音痴に驚いて、熊は遠くに逃げているはず。)


(茶屋跡)


(茶屋水戸屋跡)


(コンクリート工場跡)


(熊出没注意)

しばらくして、やや広い場所に出ると、左手に石碑があり
「右 西京 大阪、 左 伊勢 名古屋、」道と書かれている。
京 大阪への道の中山道は上街道、伊勢 名古屋への道は下街道といい、
下街道への追分になっている。
下街道を行けば、名古屋へ出ることになる。


(立場茶屋の説明板)


(立場があったと思われる場所)


(かまど跡)


(柵のあるところが 井戸跡)


(下街道伊勢・名古屋への追分の道標)


(下街道への分かれ道、柱の前の道)


(下街道の枯葉道)

また槙ヶ根の立て場茶屋跡には、九軒の茶屋があったと言う。
そのかまど跡や古井戸跡が見受けられる。
なおも石畳道を登る。
やがて馬頭観音像のある地点の、
高い所に「姫御殿跡」の石碑が見える。
ここは祝い峠といい、
文久元年(1861)皇女和宮が通行された時、
仮小屋を立てて御小休みされた場所である。


(なお登る石畳道)


(路傍の馬頭観音)


(姫御殿跡)

その先左側に「首なし地蔵」が屋根付きで祀ってある。
宝暦六年(1756)地元の人たちが旅人の道中安全を願って建てたもの。
お地蔵様の首を刀で切り落としたと言う伝説が残っているそうだ。
途中、「下座切り座」の標柱があるが、村役人が裃(かみしも)を着て、
土下座して向えた場所であると言う。
その後道路は急な下り坂になり、
行列も乱れるほどの急坂であったことから、
「乱れ坂」といい、坂を下り終えた場所が右に曲がり橋を渡る。

大変小さな橋であるが、川は深く「乱れ川」と
昔は言ったほどの急流であったため、
この橋を渡るときは有料であったと言う。
今は静かな川である。


(首なし地蔵跡)


(首なしのお地蔵様)


(下座切座の碑)


(乱れ坂の急な下りの石畳、先を右に廻った所に橋がある。)


(乱れ坂の終りにある乱れ橋。3mほどの小さな橋だが川は深い)


(橋からのぞいた川面)











西行硯水公園(旧中山道を歩く 224)

2011年01月14日 10時23分33秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(JR恵那駅)


(中山道の文字が見える商店街)


(旧街道の佇まい)

(大井宿 4)
JR恵那駅から中央の通りを歩いて中山道に入る。
商店街には「中山道」の看板が見られる。

しばらくして屋号を本酒屋と言った、
中野村の庄屋の豪壮な家が左手にあり、
その先で永田川を渡るが、道路の巾が広くなる。
庄屋屋敷に沿って左折した所に、
中野村高札場跡の標柱、
脇に秋葉灯籠(寛政八年建立)、
横に中野村観音堂、この三つが並んでいる。


(中野村の豪壮な庄屋の家)


(高札場跡、秋葉灯籠、観音堂の三つが並んである。)


(観音堂)

(観音堂は入母屋作り、回り縁のある建物ですが、
何時建てられたものか判っていません。
しかし江戸時代よりこの場所にあったことは古地図、
古文書により判っている。
観音堂のご本尊は、阿弥陀如来立像、弘法大師像、
三十三観音像が祀られています。
現在も地元の人たちの信仰を集め、
人々の手により守り続けられている。)とある。(恵那市教育委員会)


(観音堂を出た先の交差点を左)


(大井宿のマンホールも広重の浮世絵だ)


(交差点を多治見方向へ歩く)

広い通りの先でさらに広い道路に出るので、左折する。
しばらく進むと変則五叉路の信号に出る。
右から二番目の多治見方向に行く。
横断歩道橋があるのでこれを渡ると多治見方向に行き易い。
歩道橋を降りたところに「西行硯水」右300mの案内がある。

進むと左手に「上町観音堂」があるが先を急ぐ。
やがて「西行硯水公園」が左に、道路の向こうに「中山道」の常夜灯が見える。
公園は小さなもので、20歩も歩けば外に出てしまうが、
由緒ある公園であろう、中山道を歩く人は必ず立ち寄る。


(西行硯水右300mの案内)


(上町観音堂)


(西行硯水公園の道路向こうにある「中山道」の常夜灯)


(西行硯水公園入口)

西行と言えば、たった一つボクが知っている歌がある。

・ねがわくば 花のもとにて春しなむ そのきさらぎの もちづきのころ 

ボクの勝手な解釈、

(できることなら桜の花の咲く2月の満月の日に
           死にたいものだよ お釈迦様のように)である。

この中で、「如月のもちづきの頃」が問題で、この頃月日は陰暦であるから、
陽暦に直す必要がある。
お釈迦様は、生まれた日が4月8日の花祭りの日だと言うことは、
良く知られたことであるが、死んだ日は確かではない。
インドの仏教学者も涅槃に入った日はいつか、はっきりしないと答えている。
しかし、西行法師がこのように歌にまで詠んでいるからには、
日本では、2月15日が正しいことになっている。
この日を「仏滅」と言う。

その西行が、ここ硯水公園で読んだ歌は

・道の辺に 清水ながるる柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ

であるが、

西行がこの地を訪れ、
こんこんとわき出でる泉の水を汲んで、
墨をすったと伝えられると、
恵那市教育委員会が造った案内看板は、
皆さんが良く触ったのか、
文字が擦り切れていた。


(擦り切れてよく読めない西行の歌)


(神明神社の鳥居)

公園を出て、その先左がわに、神明神社の鳥居がある。
神社を左に見て、歩いてきた通りの先を見ると、
道路は直進と、大きく左へカーブする道路に分かれる。
直進は向こうからの一方通行出口で、
カーブする道は一方通行入口になって居るが、
中山道はその手前で右へ入っていく。

右折する向こう側に西行塚の大きな石碑があり、
その裏側は小さな西行公園になっている。
西行塚の石碑前を右折すると、
右側に恵那市教育委員会が作成した
「歴史の道 中山道 大井宿」と題した案内が見える。
一方には中山道の地図が他方は五街道の中の中山道。
そして大井宿についての説明版になっている。


(道路は左折の一方通行、直進は出口)


(西行塚の石碑を右折)


(西行公園)


(恵那市教育委員会作成の「歴史の道 中山道 大井宿」の案内)


(踏み切りの先の道路)

この案内板のすぐ先が踏み切りで、
道路は直進と左折に分かれるが、
案内どおり左折する。

回りはのどかな田園風景で、
先には中央自動車道の高架と見事な紅葉が見えるのみで、
この先十三峠が待ち受けているようには見えない。

中央自動車道を歩いてくぐると、
道路は急なのぼり道に変わり、
登り坂の途中に「是より西 十三峠」の石碑がある。

「十三峠」の始まりである。


(のどかな田園風景)


(紅葉)


(「是より西 十三峠」入口の石碑)








二つあった大井宿庄屋(旧中山道を歩く 223)

2011年01月08日 11時12分54秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(大井宿 庄屋 古山家。ひしや資料館)

(大井宿 3)
大井宿本陣を右折した所に、大井宿の庄屋 古山家が
「中山道ひし屋資料館」として残っているので入る。

ひし屋は、江戸時代に代々大井宿の庄屋を勤めた旧家で、
酒造業を兼ねた商家でもあった。
入った先が土間になっており、囲炉裏が目に付く。
この囲炉裏は家屋改修後に移動されたもので、
以前は台所の部屋にあった様だ。
座敷など各部屋に工夫がこらされており、
客間の店座敷、中座敷、奥座敷と段階を踏み、
顧客層により案内される場所が違ったようである。
座敷ごとに欄間の飾り、ふすまの形や模様が異なり、
客層に合わせ差をつけてある。

店座敷は商談、寄り合いに使われ、中座敷は二間幅の床の間付きで、
奥座敷は書院、床の間、床脇が付いており、手入れされた庭に面している。
奥の店蔵は現在は展示室になっている。

各部屋に渡って、一つ一つ丁寧にガイドし下さったご夫人に感謝する。
「ひし屋資料館」を出て道路を進むと大井橋に出てしまった。
大井宿は枡形が六個あって、大井橋が最後の枡形になると、
案内書にあったので、道を間違ったことに気が付いた。


(ボクが間違った古い家並みの街道)

大井橋のところで雨が降ってきた。
橋のたもとにあるお店の前で雨宿りしていると、
土地の見知らぬおじさんが、
「中山道を歩いているのですか?
大井宿は中山道でも珍しく枡形が六つあります。
まっすぐ行くと家数は少なくて町は発展しないが、
この街道を六ヶ所に折れば、
人家は六倍に増え、街が賑やかになる。そんな意図で作られたのですよ。
一番が延寿院、二番が本陣、三番が角屋(旅籠)、四番が市神神社、
五番が白木改め番所、六番目がここ大井橋」と間違いもあったが、
随分詳しく教えてくださった。

間違いは枡形の意味で、
本来枡形は、本当は上方から敵に攻められた時、
一挙に攻め上れないよう曲がり角をつけて防御するためのものであった。

また、大井橋は川の中央に切り石の島を置き、
大橋と子橋で渡していたと言う。
これも外敵防御のためであろう。

間違いに気づいたので、
説明してくださったおじさんにお礼を言って、
枡形を逆に歩いた。
「ひし屋資料館」を出た先の曲がり角には、
「中山道 枡形」の案内があるのをボクが見落としたためであると判った。
その曲がり角は、曲がった先にも中山道の案内があり、
先を覘くと「神社の鳥居」が奥に見える。


(奥に見える鳥居)

第三の枡形を曲がって奥の鳥居を見ながら進むと、
中ほどの左手に「大井村庄屋 古屋家」の案内がある。
先ほどの「ひし屋資料館」も庄屋で古山家であるが、
どんな関係なのか疑問が残った。
帰京してから恵那市教育委員会に問い合わせをすると、
次のように回答があった。
(同じ時期に、庄屋が二軒あったようです。
古屋家と古山家とどんな関係があったか解りません。)
と言うことであった。
同じ宿場内に二人の庄屋がいたら、
仕事はどのように配分していたのだろうか?
隔月ごとに仕事を交代していたのか、
あるいは仕事の分担を決めて、持分が分かれていたのか?
気になる所である。


(大井橋には木曽海道69次之浮世絵が張り出してある)


(恵那駅からの通り「中央通り」の交差点)

大井橋を渡って、しばらく歩くとJR恵那駅からの通り、
「中央通り」と交差する。
左へ行くと「中山道広重美術館」で、
ここには中山道69次の浮世絵があることで有名である。
恵那市の繁華街を抜けて、なおも直進する。
中野村に入り庄屋の家のあるところで、
雨が本格的になって、
あたりが暗くなってきたので、

本日は終わりにすることにし、宿泊ホテルに向う。
本日の歩行数42226歩。距離にして約25km。


(恵那市の中山道道路上の案内)






大井宿高札場と枡形(旧中山道を歩く 222)

2011年01月03日 10時48分17秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(広重の浮世絵)


(甚平坂ポケットパークにある浮世絵のレリーフ)

(大井宿 2)
広重の浮世絵、木曽海道69次之内「大井」について、
「中津川から二里あまりで大井宿にいたる。
図は、暮色迫る中、雪深い峠道を行く人馬が画かれる。
恐らくは中津川から大井へと至る甚平坂辺りを画いたものとされる。
山々はもちろん、人や馬の上にも雪は降り積もる。
背景の山は、右手の松の後ろに画かれているのが恵那山、
左手に見えるのが木曽の山々で、
一番奥に白い顔を出しているのが御嶽山であると言う。
――後略――)とある。
(中山道広重美術館編集、木曽海道69次之内より)

その甚平坂のポケットパークから見た恵那市の風景が、
広重が画いた場所であろうと考えられている。
その甚平公園を跡に道路を行くとすぐ左側の階段の上に、
根津神社があり、根津甚平のお墓がある。


(ポケットパークから見た恵那市風景)


(根津神社本殿)


(根津甚平のお墓)


(恵那市外を見渡せる道路を左折)

根津神社を過ぎると、大井宿を広く見渡せる場所に出る。
旧中山道はここを左折すると、国道19号線を陸橋で渡る。
西行葬送の寺 長国寺へは道なりに直進するが、
旧中山道は、道路反対側に見える(菅原神社の鳥居)まで進み、
その左手にあり階段を降りる。
階段の上には案内があるので間違うことは無さそう。


(菅原神社鳥居)


(大井宿へはこの階段を降りる。)


(階段を降りたところにある馬頭観音)


(寺坂の石造物群)


(淡きり地蔵)

階段を降りたところが寺坂で、馬頭観音増が鎮座する。
その少し先に沢山の石仏が並んでいるが、
これを上宿の石仏群とよぶ。
左から二体目が痰きり地蔵と言う。

ボクは寝る前に咳が出て、なかなか痰が切れないので、
賽銭を払って帽子を取り、両手を合わせてお祈りをする。
そのせいかどうか判らないが。旅行中咳き込むことも無く、
それなりのご利益があったと思っている。

しかしカミサンに言わせると、
「田舎で排気ガスも少なく、
また山の中の林の中を歩いたので、
空気が綺麗だったお陰ですよ」とは、
神も仏も無いお言葉であった。

さて、道路は明知鉄道のガードをくぐると、
下り坂になり、右側に大井宿高札場がある。
高札は八枚掛かっている。


(鉄道のガード)


(坂ある高札場)


(高札場2)

高札は制札ともいい徳川幕府が、
農民や商人を取り締まる基本的な決まりを
公示したものである。
(高札場は村のうち人通りの多い目に付きやすい場所に建て、
幕府の権威を誇るよう石垣や土盛を築き、
時には矢来で囲むこともあった。
そして管理を藩に命じ、村人に決まりを厳しく守らせ、
付近の掃除や手入れもさせた。
高札の書き換えは、決まりの改正や老中の交代、
年号の変わるたびに行われたが、
8代将軍吉宗以後は書き換えず、
正徳元年(1711)5月付けの高札が
幕末まで維持された。
慶応四年(1868)明治新政府は新しい高札に架け替えたが、
明治三年高札制度を廃止した。)(恵那市教育委員会)

高札場を過ぎて突き当たると、道路は左折している。
右側に「延寿院横薬師」がある。
これが第一の枡形になる。


(第一の枡形)


(延寿院)

大井宿には六個の枡形があり、今まで歩いた中山道で一番多い。
少し歩くと左手に大井宿本陣跡(岐阜県史跡)があり、その先を右折する。
これが第二の枡形になる。


(第二の枡形、本陣前)

左手には大井宿庄屋の古山家があり、
今では「中山道ひしや資料館」として
一般に開放されている。(入場料大人200円)
その先左手に第三の枡形があるが見落としやすく、
ボクも見落としてしまった。
ここには民家の窓下に「中山道 枡形」の看板があるので
注意が必要だ。また右側には大井宿の常夜灯、その反対側の民家には
「中山道」の矢印があるので見落とさないよう気をつける。


(大井宿庄屋、ますや資料館)


(第三の枡形、見落としやすい)


(曲がった所にある常夜灯、道路の左にも中山道の案内がある)

右折して奥をのぞくと通りの奥に鳥居が見える。
途中の左手は旧家のようで、近づくと大井村庄屋古屋家である。
奥の鳥居は、市神神社がある。


(奥を見ると鳥居がある)


(第四の枡形、市神神社)


(途中に二軒目の大井宿庄屋、古屋家がある)

ここが第四の枡形で左折する。
商店街は突き当たるのが見えるが、ここが第五の枡形で左折する。
少し行くと広い道路に出るが、ここが第六の枡形になり、
右手に大井橋が見える。


(商店街突き当たり。)


(郵便ポストの所。これが第五の枡形)


(大井橋、これが第六の枡形)

大井橋は欄干に中山道69次の浮世絵が掲げられており、
写真を取っていたら小学生に、
「おじさん何しているの?」と訊かれた。
「昔の人のように、中山道をてくてく歩いています。
昔の人がどんな思いで歩いたのかを感じているのです。
ボクは歩いているけど、
君たちは将来宇宙を旅行することが出来るよ」と話すと、

「ほんとに出来るようになるかなー」と言って、
行き過ぎていった。

早くそんな時代が来ることを願っている。

(欄干に木曽海道60次の浮世絵が掲げられている)