中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

鷹狩の御殿(旧中山道を歩く 44)

2005年06月29日 08時15分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65

(鴻巣宿2)
中山道を進み、本町五丁目付近の中山道沿いに本陣、
脇本陣があったようだが

今は何も見当たらない。
ただ左手にある高野薬局の手前を左折すると、右手に
「中町会館記建設念碑」があり、
(記念碑)

それによると、
この辺りは宿の仲市場の跡で、宿内に番屋があり、
その隣に本陣が隣接していたと言う。
宿場が作られる以前、鴻巣には徳川家康が鷹狩に来た時に
使う御殿があったという。
(鴻巣市教育委員会)

当初北本市にあった宿場が鴻巣に移されたのも、家康の
御殿がこの地にあったためと考えられるが、
それにしてもたかが鷹狩に、わざわざ江戸(東京)から
50km以上もある所に鷹狩に来たのだろうか?

今でこそ車で50kmは約一時間の道のりであるが、
往時は何日も掛かったことであろうし、もっと身近に
鷹狩をするくらいの場所は、沢山あったように思われる。

吉川英治の物語に拠れば、芝の愛宕神社辺りでも、
狐が出た話が出てくるし、池波正太郎の
鬼平犯科帳でも、目黒不動の辺りは一日がかりの
遠足気分で出かけたことを考えれば、
家康が鷹狩をするには、芝公園辺りで
十分間に合ったと思われるが・・・

あるいは鷹狩に事寄せて、別の用事があったのかもしれない。
鴻巣の歩道にはコウノトリが風呂敷を咥えて羽根を広げた
図案化された敷石があり可愛い。
(コウノトリのタイルが埋め込まれた歩道)

8日目鴻巣駅PM16:27の電車でかえる。



栴檀林「勝願寺」(旧中山道を歩く 43)

2005年06月24日 08時11分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65



(鴻巣宿)
左手に東間浅間神社がある。

由来に
(この神社の祭神は、木花開耶姫命(このはなさくやのひめのみこと)
で皇室の始祖大御母と仰ぎ奉る大神なり
今日の日本の基礎を
築き給いし功徳は日本女性の範と敬仰し奉る。)
とある。立派な神社であった。
(東間 浅間社)

人形の町鴻巣らしい街並みになる。
人形町の先が鴻巣宿になり、鴻巣公園信号手前を
左に入る。右側に武蔵野銀行があり、左を覗くと
奥に栴檀林「勝願寺」の山門が見える。
(栴檀林「勝願寺」)
(勝願寺の山門)
(三つ葉葵の紋)

格式が判る古式蒼然としたお寺の山門に三つ葉葵の紋所がある。
水戸黄門様にしては、場所が違う。
よく見ると屋根瓦にも「三つ葉葵」の紋が入っている。

本堂左脇にお墓が四つ並び、それぞれに立て札がおかれている。
なるほど、徳川家ゆかりの寺も寺、家康の養女となった小松姫の
墓所がある。その立て札の

その一。
真田小松姫の墓
小松姫は本田忠勝の娘で家康の養女となり、真田信之
(幸村の兄で信州松代藩の祖)に嫁し元和6年(1620)
に没す。生前当山中興二世の貫主円誉上人に深く帰依した。
その縁で当山に分骨造塔した。本廟は長野県上田市の
芳泉寺にある。
(家康の養女小松姫の墓)

その二。
真田信重の墓
信重の室の墓
信重は真田信之(松代藩の祖)の三男。母小松姫の
縁で当山に葬る。またその室は鳥居左京亮野第六女。
夫妻の御霊屋は長野県松代町の西楽寺にある。
(右側 真田信重、左側 信重の室の墓)

その三。
仙石秀久の墓
秀久は信州小諸の城主。初め 羽柴筑前守秀吉の家臣で、
淡路の国須本城主であったが、天正18年(1590)
小田原征伐の武功により小諸を賜る。後に家康に仕え
慶長19年(1614)出府して帰途病に倒れ、当地で没す。
小諸の歓喜院に葬るも、遺命により当山に分骨建墓。
本廟は、長野県上田市の芳泉寺にある。
(仙石秀久の墓)

本堂と鐘楼の間に「権八地蔵」がある。
また人形の街らしく本堂の前に「人形塚」もある。
(権八地蔵)
(人形塚)








北本宿(旧中山道を歩く 42)

2005年06月20日 22時14分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(バルト三国の内、エストニアの世界遺産に指定された旧市街2005.May.14撮影)




(北本宿)
中山道を進むと、左手に北本宿の碑が建っている。
その碑によれば
(今日の北本の元となる街並みが作られたのは、
江戸時代の初期に元宿村が中山道の宿駅として
整えられたのが始まりで、現在の本宿付近は、
その頃、本鴻巣村と呼ばれていたが、
その宿駅も中山道が整備された頃には、
現在の鴻巣に移されました。
宿場のあった頃は本宿村と呼ばれ、これが北本市の
地名の起こりとなっています。街道沿いに旅館や
店はなかったが、本宿村の下茶屋と東間村の三軒茶屋の
二箇所には立場が置かれていた。人や馬はそこで
喉を潤し旅の疲れを癒し、次の宿場へ向かった。)
と言う。(北本市教育委員会)

(北本宿の碑)

桶川宿の次は鴻巣宿であるが、この辺り昔は、
本鴻巣村といい、鴻巣宿はここ北本市本宿に
あったが、中山道が整備されて、今の鴻巣に
鴻巣宿として移っていった。
その後、元の宿というので、元宿とよばれ、
桶川と鴻巣の「間の宿」として賑わった。

次の信号右に真言宗のお寺「多聞寺」がある。
ここの山門の後ろに埼玉県指定の天然記念物の
ムクロジの木がある。樹齢200年という。
地続きに天神社がある。

(多聞寺と門の後ろにある天然記念物のムクロジ)

(天神社)

高崎線の向こう側に古い一里塚があるので、
寄り道をしていくことにする。

JR北本駅前の信号を過ぎて、二つ目の信号を左折し、
JRの踏切を渡ると線路沿いに右の折れる道がある。
線路に沿って約20メートル歩くと、左側に畑がある。
その畑を2,3メートル過ぎて振り向くと、
生垣に埋もれるような形で、「一里塚」の木の
道標が見えるので、畑の中へ入っていこう。
突き当り左手が「一里塚」で、これが「原馬室一里塚」である。

(見落としそうな一里塚の木の案内)

(今にもなくなりそうな一里塚跡)

鴻巣市教育委員会の案内板が設置されている。
(――前略―― 街道一里ごと、道路の両側に五間
(約10m)四方の塚が築かれ、頂上に榎が植えられた。
中山道の一里塚は慶長17年(1612)に構築された。
明治維新後は交通事情の変化に伴い、一里塚の大部分は
取り除かれて現存するのは少ない。この一里塚は
当時の中山道をはさみ両側に築いたものの内の西側のもの。
東側は高崎線施設の際取り壊されてしまった。)
一里塚の様子がわかるが、板橋区志村の一里塚程
保存状態は良くない。

中山道の桶川から鴻巣に入る途中の北本市を歩いていく。
地名は「東間」。

地名ほど読みにくいものはない。

この「東間」という地名が延々と続いていた。
1丁目から2,3,4,5・・・確か7丁目まで
続いていたように思う。
一丁は約110mだから、
「東間」の町は770mあったということか?

特に見るべき史跡もなかったことも手伝い、
電柱に書かれている町名「東間」繰り返し見ることになった。
つい読み方について、あれこれ考えてみる。

「とうま」「ひがしま」「あずまま」「あずまあいだ」
「ひがしあいだ」など。
ボクは馬鹿だから、「とんま」も考えた。

どうも今一つ、しっくりしない。
歩いて電柱が近づくたびに、ドレだろうと思い悩む。

ちょうど〒ポストがあり、郵便局の方が郵便物を
集めているのに出会ったので聞くことにした。

この辺りの「東間」と書いて何と読むのですか?とボク。
郵便局の方答えていわく「(あずま)といいます」と。

一字でアズマならボクにも読める。わざわざ「間」をつけて、
念を押すように「ま」と読ませるとは…
「間」が入るのに間抜けといおうか?
「とんま」といおうか?

そんなことを考えて歩く間に、人形の街らしい
看板が街道を飾って鴻巣に入ってきたようだ。

(町の名も「人形」)

(人形屋さんの店先に作られた長寿橋)






女郎買い地蔵(旧中山道を歩く 41)

2005年06月15日 22時13分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65

(女郎買い地蔵)
中山道を進むと、左手に龍谷山大雲寺がある。
ここは桶川の府川本陣の代々のお墓など
歴史的なものが多いらしいが、お墓の中に
それらしいものを見つけることが出来なかった。
(大雲寺)

本堂左手に、三体の地蔵さんがあるが、
向かって右側の地蔵さんは、台座に正徳3年
(1713)の銘がある。
「女郎買い地蔵」と呼ばれるもので、夜な夜な
女郎買いに出かけるので、住職が背中に
「かすがい」を打ち込み、鎖で縛ったと言う。
その「かすがい」の跡は今も残っている。
(三体の地蔵さん、右側の地蔵が女郎買い地蔵)
(背中に打ち込まれた「かすがい」)

その地蔵の先にお墓が見えるので覗いてみたが、
府川本陣家のお墓らしきものは見当たらなかった。
お墓の先を右折して元の中山道へ出ると、
歩道橋があり、その下に一里塚の標柱がある。

(一里塚の標柱)

道を進み、大きな交差点の手前の右側、
木戸を想わせる古い建物の前に、
「旧跡木戸址」の石碑が見える。
上(南)の木戸跡で、桶川宿の終わりである。

(日本橋から歩いたので、桶川宿の終わりと書いたが、
往時は京都から下ったので、桶川宿の入り口になった
木戸跡である)

また、その先の信号の右手には「中山道 桶川宿」の
石碑もある。
(木戸跡の石碑)
(桶川宿の石碑)

この信号を左折し、立体交差の途中左に学校があり、
校庭に松山道 道しるべがある。
「松山 いなり道 本小田原町」と書かれており
魚の字が図案化されている。
(校庭内にある道しるべ「道」の字の下に図案化された魚があるが写真の撮り方が悪く見えない)

本小田原町とは、日本橋北のたもとに魚市場があった
所を指し、市場の人たちがいなり講を組織して、
神社参拝の道しるべとしたものである。
(桶川市教育委員会)








紅花商人と力石(旧中山道を歩く 40)

2005年06月11日 22時10分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65

(紅花商人と力石)
島村家の三階建ての土蔵より中山道を少し戻り、
JR桶川入り口交差点の手前左側に、
浄念寺山門が見えるので寄ってみよう。
中山道から見えるこの門の鐘は、
桶川宿の「時の鐘」であったと伝えられます。
(浄念寺の山門)

浄念寺のご詠歌に

浄念寺 鐘の響きや法の音 子安の誓い深き桶川

と詠まれているように、その美しい音色は、
人々に時を知らせるために桶川宿の隅々にまで、
鳴り響いたといわれます。
残念ながらこの梵鐘は第二次世界大戦のおり、
求めに応じて供出され現存しておりません。
現在、仁王門にかかっている梵鐘は、
昭和40年(1965)に鋳造されたものです。
(桶川教育委員会)

中山道に戻り、しばらくすると、
右手に江戸時代に面影を残す蔵作りの商家、矢部家がある。
道を挟んでこれも古い家作りの旧旅館の小林家がある。
(蔵造りの矢部家)
(旧旅館の小林家)

そして右手に、木の門が見えてくる。中に入ると
さらに門があり手前に「明治天皇桶川行在所」の石塔がある。
門の中が、桶川の府川本陣跡である。

個人のお宅で現在も生活されているので中は拝見できない。
埼玉県内に残る唯一の本陣遺構として
埼玉県指定文化財となっている。
(朽ちかけた高札場跡と本陣跡を思わせる木の門)
(左側の木の葉の間に明治天皇安在所の石碑が見える)

本陣内部の現在残る上段の間・湯殿・便所などは、
皇女和宮の宿泊所とされたため修築されているという。

すこし進み、左手に中山道桶川宿場館「武州桶川宿」の名で、
桶川市が資料館を開いているので寄ってみよう。
係りの女性が親切に説明してくださったことを感謝します。
(桶川宿観光案内)

左手に中山道桶川宿の石碑がある小公園を見て、次の信号を
右折すると稲荷通りとなり、さらに右に進むと稲荷神社に出る。
(道路沿いの中山道桶川宿の石碑のある小公園)
(稲荷神社)

この神社は、本殿前に紅花商人が奉納した一対の石灯篭で知られる。
紅花の栽培は、今では山形県の特産物として知られているが、
以前は、ここ桶川地区の特産物でもあった。
気候の関係で山形より早く収穫されることから重宝され、
桶川・上尾で産業として大きく成長した。

その紅花の商人24人が納めた石灯篭には、名前が刻み込まれている。
木嶋屋、穀屋、騎西屋、伊勢屋、亀屋、舛屋、栗屋、宮田屋、
清水屋、綿屋、上田屋、紙屋、鷲屋、野川屋、藤屋、千代間屋、
大阪屋などなど。
石に刻んだ文字が薄く、とても24人まで書き込めなかった。
(紅花商人が奉納した石灯篭)

同じ境内右側に、力石と呼ばれる大きな石がある。
石を持ち上げる行事は、早くから娯楽化されていた。
この石には、大磐石と記入され、

次のように記されている。
昔、祭りや縁日に若者が力比べに使った石。
重量160貫、約610キログラム。
嘉永五年三宮卯之助 之を持つ
石主大阪屋清右衛門
(桶川地域文化研究会)
(稲荷神社の力石)

ボクの故郷、尾張の加藤清正の生誕地では、お祭の行事の一環として、
地面に置いた米俵を肩まで担ぎ上げるコンテストが行われていた。
近在の力持ちが果敢に挑戦して、やっと持ち上げる人が出ると
「やんやの喝采」を浴びて褒賞を貰っていた。
半世紀も前の、遠い昔のことで今も行われているかは不明である。





鐘軌さまと桶川宿の本陣家(旧中山道を歩く 39)

2005年06月08日 22時07分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(注)(本文訂正中に誤って文章を消去してしまったため、
    写真をもとに思い出しながら、記入しましたので、
    つじつまが合わない所がると思います。ご容赦を!)


(鐘軌さまと桶川宿の本陣家)

日本橋からスタートして8日目


桶川宿に入ると、すぐ左側に「武村旅館」が見える。
現在も営業して居て、江戸後期の旅館の形を残しており、
大変貴重な遺構で、国の登録有形文化財とされた。

(武村旅館)


その先右手に、桶川宿本陣跡の案内がある。

(案内看板)


島村家土蔵のさらに右手に、大きな銀木犀が生えている。

(島村家土蔵)


(年代物の銀木犀の木)



(「木」のしるしが掘り込んである屋根瓦)







遊女お玉と鐘軌さま(旧中山道を歩く 38)

2005年06月01日 20時55分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(遊女お玉と鐘軌さま)

氷川鍬神社から信号を渡って中山道を進むと、
すぐの歩道上に金属製の上尾宿の浮世絵が掲げられている。

そこには
現在は仲町一丁目付近の、ここが本陣、脇本陣、問屋場が
整備され賑わいをみせた。(上尾百年史より)
と書かれている。

(栄泉の浮世絵と共に上尾宿の本陣跡に掲げられた記念碑)

JR上尾駅を左に見てさらに進むと信号があり、
信号の道路の両脇に

「中山道 上尾宿」

の案内看板がある。
よく見ると右「→上尾図書館」とある。
その方向に右折すると真言宗の立派なお寺「遍照院」がある。

(中山道 上尾宿の看板)

(遍照院)

「遍照院」に入り、すぐ左の墓地の中に
「孝女お玉の墓」と白地に墨痕鮮やかな看板がある。

上尾宿の遊女お玉は、美しく気立ての良い女であった。
参勤交代でやって来た加賀前田藩の小姓に見初められ、
共に江戸に下った。二年後悪病に罹って戻り、
25歳で亡くなった。主人がお玉をここに葬ったという。
           (上尾市教育委員会)
雇い主が遊女の墓を作るのは、板橋宿の「文殊院」にも、
また東海道にも遊女を葬った墓があったが、

雇い主が「憐れんで建てたのか?」
あるいは後に残った遊女たちに、
「行く末を示唆して安心させたものか?」
「よく稼いでくれたお礼なのか?」
「もてる者の自己満足なのか?」
今からでは図り知ることが出来ない。

墓には「廊室妙顔信女」の戒名がある墓があったが、
墓の形が妙に現代的で新しく、戒名もとってつけたようで、
信憑性にかける。観光名所を一つ増やしたと言う感がする。
(孝女お玉の墓)

中山道に戻って進むとタバコ屋の前の郵便ポストの前に
大きな庚申塚がある。延享二年(1745)三月建之とある。

(庚申塚)

さらにすこし進むと 
「彩の国平成の道標」
と書いた高札場を模した案内看板がある。
その屋根に鐘軌さまのミニチュア像が乗っている。
屋根の上の鐘軌さまにどんな意味があったのであろうか?

案内看板の記述によれば、
(鬼かわらの家に対して鐘軌さまを以って対峙する意味で置いた。
これは中山道の他の宿場町では見られない上尾特有のものでした。
鐘軌さまは疫病を追い払う神といわれております。)とある。

(高札場を模した案内看板)

(案内看板の屋根の上の鐘軌さま)

現在残っている鐘軌さまを上尾宿で見る事が出来ないが、
次の桶川宿に入るとすぐ、屋根の上に実際に乗っている鐘軌さまを
見ることができる。

しばらくすると、「旧跡木戸跡」の石碑がある。
桶川宿の南の木戸跡である。

桶川宿に続く。

(「旧跡木戸跡」の石碑)