中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

歴史街道 (旧中山道を歩く 2)

2004年12月30日 12時24分23秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26

(日本橋2)

(埼玉県大宮の旧中山道の標柱)


およそ400年前に、徳川幕府が日本橋を起点に、
五街道を設置した。以下の通りである。
・東海道
・中山道
・日光道中
・奥州道中
・甲州道中

東海道と中山道はスタートが同じなら、
終着点も同じ京都三条大橋、
だが国道1号線の終わりは五条大橋である。

2004年1月に京都の浄瑠璃寺を訪ねた帰り、
知恩院から清水寺、焼き物通りをたどって、
五条大橋に着いた。

弁慶と牛若丸の故事は、事実かどうか知らないが、
今の五条大橋の巾は、物語にあるように、
牛若丸が弁慶の攻撃を避けて、欄干から欄干へ
体をかわす事が出来るほど狭くなかった。
国道一号線(東海道)、十七号線(中山道)の
終着点は、片道二車線の大通りであった。

そんな五条大橋を見て、徒歩で江戸から京へ上った
昔を思い出し、一度は歩いてみたいと思った。

しかし、旧街道の終着点は、五条大橋でなく
三条大橋であった。

中山道は東海道より長く、道中、山が険しいのに、
女性は中山道を往来したと聞いている。

徳川将軍家茂(いえもち)のご息女 
皇女和宮(かずのみや)の降嫁は有名な話である。
それ以前にも、十代将軍家治(いえはる)に降嫁した
五十宮(いそのみや)、12代将軍(しょうぐん)
家慶(いえよし)に降嫁した楽宮(ささのみや)があるが、
いずれの場合も東海道を下らずに、中山道を下った。

なぜだろう?

それは、どうやら東海道には「越すに越されぬ大井川」
があったからだとされる。
大井川には昔は橋が無く、水があふれると
川を渡ることが出来ず、溢れなくても河止めがあり、
旅の予定が定まらなかったことが原因の一つになって居る。
やむを得ず、旅程は長くなるが中山道を
選んだのであろう。

(本当の原因は、どうも警護の問題であったようです。
東海道は旅人も多く、警備するのに手間が掛かる、
加えて外国人が、出没する。
参勤交代の行列の前を横切った外国人がいて、
これを殺処分して、涼しい顔で通り過ぎていった。
そんな事件があった。
やはり警備の問題が一大事であった。
そこで、中山道を選んだ。)

(ボクの勝手な想像です。)

まえがき (日本橋) (旧中山道を歩く 1)

2004年12月05日 22時04分03秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26

(埼玉県上尾の「旧中山道」の標柱)


思い立って旧中山道を歩くことにした。

ボクは中山道の江戸から数えて第一の宿場 
板橋宿から3km、志村一里塚の近くに住んでいる。

長い間、国の指定史跡になって居る、この一里塚を眺め、
一里塚のたもとにある「あらものや」の古い建物をみてきた。

(一里塚)

(街道の両側に完全な形で残る一里塚)

(一里塚の右の二階建ての家が 「あらものや」)

売れるとはとても思えない竹細工の箒や籠などを、
今でも商っているのを見て、
中山道を歩いてみようと思った。

街道に沿って、今も残る歴史を訪ねながら歩きたい、
その思いが高じて、スタートすることにした。

夏の暑い日を避け冬の寒さは危険と勝手に決めて、
気候の良い日を選んで歩く、
そんなわがまま放浪記を、
綴りたいと思います。

こんなわがまま旅行です。
何時京都の三条大橋に着くか全く分りませんし、
この旅行記も途中で中断することが
度々あるでしょうが、ご容赦いただき、
気長にご覧頂きますようお願い申し上げます。

目標としては、十年。

これ以上早く到着できれば、
拍手喝采、お手を拝借と
行きたいと思っています。