中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

「是より北 木曽路」の碑と翁塚(旧中山道を歩く 209)

2010年09月01日 10時42分48秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(新茶屋の一里塚、江戸から来て左側の塚)

(馬籠宿 5)
小公園を過ぎて、田や畑の道を少し進むと、新茶屋の一里塚に出る。
その先は落合の石畳が連なり、十曲峠が始まる場所である。

「夜明け前」の中では、芭蕉句碑を据え付ける場面で、
その会話が楽しく聞こえてくる。

芭蕉の句は
「送られつ 送りつ果ては 木曽の穐 芭蕉翁」と
石碑に刻まれていることから、翁塚と呼ぶが、
この最後の「穐(あき)」の文字が「蠅」に読めると言う会話である。


(芭蕉翁の句碑)


(「蝿」と読める翁塚)

「夜明け前」のその部分を抜粋しよう。
(「親父(おやじ)も俳諧は好きでした。
自分の生きているうちに翁塚の一つも建てて置きたいと、
口癖のようにそう言っていました。
まあ、あの親父の供養(くよう)にと思って、
わたしもこんなことを思い立ちましたよ。」
 そう言って見せる金兵衛の案内で、
吉左衛門も工作された石のそばに寄って見た。
碑の表面には左の文字が読まれた。

  送られつ送りつ果(はて)は木曾の龝(あき)  はせお

「これは達者(たっしゃ)に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。
禾(のぎ)へんがくずして書いてあって、それにつくりが龜(かめ)でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅(はえ)としか読めない。」
 こんな話の出たのも、一昔前(ひとむかしまえ)だ。)(夜明け前)より。

のどかな場面であるが、物語はその後、
難しい時代を生き抜いた人たちの苦悩を鮮明に描いていく。

最近になって、古文書を読む講習会に参加した。
確かに「禾」へんは古文書を見ると「虫」のように見える。
藤村は面白いところに気づいて書いたのか、
あるいは事実をかいたのか・・・

(また、芭蕉俳句集に寄れば、

・送られつ 送りつ果ては 木曽の秋

とあるから「穐」は「秋」を指し、決して「蝿」では無い。)などと
ボクみたいに、むきになって反論してくる輩もいることを狙って、
内心面白がって藤村は書いたのかもしれない。

この芭蕉句碑と並ぶようにして、
「是より北 木曽路」の石碑が設置されているが、
藤村自身が揮毫したものと言う。


(「是より北 木曽路」の碑)


(贄川宿桜沢にある「是より南 木曽路」の碑)

木曽十一宿の南はここから始まり、北は贄川宿の桜沢までで、
桜沢には対照的に「是より南 木曽路」の石碑が建っている。

句碑と木曽路の碑が立っている先に、一里塚がある。
山の中のこともあり、中山道の左右に一里塚は残っていて、

新茶屋の一里塚という。

江戸より83番目の一里塚である。
左右一対の一里塚としては七番目である。

この先に落合の石畳があり、十曲峠に入る。


(江戸方面から右手に見える「新茶屋の一里塚」)


(一里塚脇の「信濃・美濃」国境の碑)


(一里塚先から始まる「落合の石畳」)








馬籠城と子規の歌碑(旧中山道を歩く 208)

2010年08月27日 09時45分30秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(馬籠宿)

(馬籠宿本陣、藤村の実家)

(馬籠宿 4)
馬籠宿の枡形を過ぎて坂を下ると、
右手にJAのスーパーがあるバス通りに出る。
バス停(馬籠)のあるところで、
道路向こう側にはお土産物屋が並び、
中山道馬籠宿の京都側の石標が立っている。


(馬籠宿終りを示す枡形)


(土産物屋)


(京都側の中山道馬籠宿の石碑)

バス通りを過ぎて中山道を進むと今まで囲まれていた山々はなくなり、
開けた空と水田が一面に見える明るい地域に変わる。
間もなく丸山の坂という石碑があり、その先が馬籠城址になっている。
城跡とは言いながら、こんもりとした土塁が、
竹薮で覆われているだけの本当に何もない城址である。

説明によれば、
(この辺りの地名を「丸山」とも「城山」とも言い、
ここには今から五百年ほど前の室町時代から
「馬籠城(砦)」あったことが記されている。
戦国動乱の時代、馬籠は武田信玄の領地となるが、
武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て、木曽義昌の治める所となる。
天正十二年(1584)三月、豊臣秀吉・徳川家康の両軍は小牧山に対峙した。
秀吉は徳川軍の攻め上がることを防ぐため、
木曽義昌に木曽路防衛を命じた。
義昌は兵三百を送って山村良勝に妻籠城を固めさせた。
馬籠城は島崎重道(島崎藤村の祖)が警備した。
天正十二年九月徳川家康は、
飯田の菅沼定利・高遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。
三軍は妻籠城を責め、その一部は馬籠に攻め入り馬籠の北に陣地を構えた。
馬籠を守っていた島崎茂通は、あまりの大軍襲来に恐れをなし、
夜陰に紛れて木曽川沿いに妻籠城へ逃れた。
このため馬籠の集落は戦火から免れることが出来た。
今、三軍の陣地を敷いた馬籠集落の北の辺りを「陣場」という。
慶長五年(1600)、関が原の戦いで天下を制した家康は、
木曽を直轄地としていたが、元和元年(1615)尾州徳川義直の領地となり、
以来戦火のない馬篭城は姿を消した。)とある。


(丸山の坂の碑)


(庚申塔などがある左の階段を上がった所が馬籠城跡か)


(今は竹薮の城址)

「丸山の坂」の石碑にあるように、坂を登ると左に大きな森があり、
鳥居がある神社に出る。諏訪神社である。

鳥居脇には、島崎正樹翁記念碑が建っている。
島崎正樹は、藤村の父で「夜明け前」の青山半蔵のモデルになった人である。
この人を記念するもので、次男の広助(藤村の兄)の奔走により
明治45年に立てられたものである。なお、島崎藤村の本名は島崎春樹と言う。


(諏訪神社の鳥居)


(鳥居脇の島崎正樹翁記念碑)


(宿外れの民家)


(轍が馬籠宿を連想させる)]


(馬込のいわれ、「生活物資を運んだ馬、病人を運んだ籠」=馬籠とある)

先に進み、
馬籠のいわれや、旅の駕籠を展示した所、
微笑ましい双体道祖神があったり、
清水が流れる水舟が置いてあったり、
田舎の情景に出会い楽しい。


(双体道祖神)


(水舟)

楽しみながら歩いて、諏訪神社から「夜明け前」の中にも出てくる地名
(荒町)(なかのかや)と言ったバス停を三箇所も過ぎる頃、
中津川盆地が一望できる所に出る。
その眺望の良い所には、正岡子規の句碑があり小公園になっている。
句碑には、

・桑の実の 木曽路出れば 穂麦かな   (子規)

碑文には、
(明治二十四年、帝国大学文科大学生の正岡子規は
中山道を経て松山に帰省、馬篭を出て、
桑の実を食みつつこの辺りを過ぎる時、四囲一時に開け、
麦の緑と美濃の村落を見下ろす善美を愛でて、この俳句を作った。
後、木曽路の見聞を「かけはしの記」の紀行文、
岐蘇雑詩の漢詩として残した。――下略――)(松井利彦)とあり、
昭和54年に出来たものである。
石碑は中津川の市街地を見下ろすように建てられている。


(視界が広がる場所)


(小公園)


(正岡子規の歌碑)


(田園風景が続く)










文豪島崎藤村の故郷 馬籠宿(旧中山道を歩く 207)

2010年08月21日 10時21分09秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(英泉画「木曽海道69次之内馬籠宿」)


(水車塚先の国道方面から来る高校生たち)

(馬籠宿 3)
中山道を馬籠峠に登る生徒たちがまだまだ沢山やってくる。
水車塚の先で、国道7号線を横断し、
石畳の道、砂利道、杉林や竹林の中を抜けると、
左側にやや広い田んぼがある開けた場所に出る。
今までの木々で空を塞がれた道と比べ、開放感を感じて道路を少し登ると、
また国道7号線に出る。


(林の道)


(砂利道)


(田んぼがあって開けた場所)


(石畳の道、右に上り国道へ合流)

今度は横断せず、左へ国道の脇を歩く。
道路は大きく左へカーブして、カーブが終りを告げる頃、
道路右側に狭い階段状の道路が見えるので、
この階段を右へ登る。


(右へ階段を登る、手前に「中山道」の石碑がある)

しばらくして「a detour」の案内看板があり、
新しく出来た手すりと、新しく出来た石畳の階段に出る。
この「a detour」の看板の意味が分らず、新しい石畳の道を行くと、
見晴台のような整備された場所に出る。
案内書に寄れば、ここで民家の庭先を通り抜けるようになっている。

しかし新しい道が上手に出来ていて誘導するので、
何の疑いもなく、見晴台に着く。
見晴台の前方は、見事な恵那山が姿を見せ、
旧道のことなど忘れさせてくれる。


(恵那山が綺麗に見える新しい道に誘導される)


(誘導されていく新しい石畳道、前方中央が見晴台、この右上に民家がある。旧道はその前を通った)


(見晴台から見た恵那山)

恵那山に満足して、見晴台を後ろに振り返ると、中央に階段がある。
昇ってみると、一段高い所に左右に石畳の道がある。
これが旧中山道本来の道で右奥を見ると、
旧道は確かに民家の庭先を抜けるようになっている。
しかし、近年中山道を歩く方が増えたので、
プライバシーの問題もあり、
馬籠が岐阜県中津川市に編入されたこともあり、
役所の計らいで、迂回路を作ったのであろう。


(見晴台の中央後ろにある階段)


(階段を登って右を見ると民家があり、庭先を旧道が抜けている)


(階段の上から左折すると旧道は下り坂で石畳がある)

ここでやっと「a detour」が迂回路の表示だと言うことが分った。
昨日は外国人に沢山すれ違ったが、
外国人の案内書は、ボクが持っている案内書と同じで、
きっと民家の庭先を通るようになっているのであろう。
ボクは日本国内にいるため、
英語の「a detour」の意味が判らなかっただけのこと、
外国人には「a detour」が「迂回路」と分ったに違いない。

見晴台を出て、左に折れようとすると道祖神があり、(左馬籠宿100m)
(右妻籠宿7.6km)の案内があり、京都方向に向う上りの旧道がみえる。
これを行くと、途中で「a detour」の看板があり、
右折して見晴台に下りてくることになる。
「a detour」の看板の先に民家の庭先が見えるはずだ。


(見晴台出口の道祖神、馬籠宿右100mとある)

案内どおり左100mも下ると、馬籠宿北の入口の高札場があり、
その向こうに恵那山が見える。先ほど見た見晴台の恵那山は、
つい最近作られた見晴台の恵那山であるが、
ここ馬籠宿の高札場から見る恵那山は、島崎藤村も「夜明け前」の
主人公青山半蔵(藤村の父)も同じ恵那山を見たに違いない。

高札場を下りて県道を横切る手前に、中山道馬籠宿の石碑があり、
沢山の中国系の外国人観光客が、背景に高札場を入れて写真を撮っていた。


(高札場、奥に馬籠宿が見え、観光客が沢山見える)


(江戸側の中山道馬籠宿の石碑と高札場と中国人観光客)


(藤村も「夜明け前」の主人公青山半蔵も見た高札場からの恵那山)

馬籠宿入口の高札場は、旅行案内パンフレットにも良く載っており、
街道の石畳と馬籠宿入口を表わし、写真撮影の絶好ポイントである。
馬籠宿は、この先下り坂で両脇に古い家屋が点在しており、
途中右側に、脇本陣蜂谷家が馬籠宿脇本陣資料館になっており、
上段の間や珍しい玄武石垣が残されている。


(馬籠宿脇本陣資料館)


(脇本陣の玄武石垣)

その先に藤村の初恋の人 おゆうさんが育った大黒屋、
その隣に藤村の実家、馬籠本陣跡が藤村記念館となって残っている。

「夜明け前」の中で、主人公の青山半蔵の父吉左衛門(きちざえもん)の
隠居所として、本陣建物の裏手にあったと書かれている土蔵が出てくるが、
その土蔵が火災に遭わず現在に残されている。
実はボクは、この土蔵が見たくて馬籠宿には来たようなもの。
ついでに隣に見える大黒屋(藤村の初恋の人の家)も見てみたかった。
藤村記念館で聞くと、大黒屋は今では飲食店を営んでいるので、
いつでもご覧になれますという。
丁度お昼時でもあったので、おそばを食べに大黒屋に入った。


(馬籠本陣跡の門、藤村記念館になっている)


(本陣裏手の土蔵の隠居所)


(今は飲食店の「大黒屋」)


(本陣島崎家から見た隣の大黒屋)

おゆうさんを想い書いた詩「初恋」は、

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれなゐ)の秋の実に
人こひ初めしはじめなり  --後略。


(食事をした黒光りする大黒屋内部)

その先に清水屋資料館があり、
藤村の手紙など資料が残っているし、
本陣家島崎家の菩提寺である永昌寺が近くにある。
島崎家のお墓群などが見られるので足を伸ばし訪ねたい。

馬籠宿に戻り、坂を下ると京都側の枡形があり、
大きな水車が廻っている。
ここで馬籠宿の中心部分は終わりになる。

馬籠宿はこの先、落合の石畳が始まる

新茶屋の一里塚まで続く。


(清水屋資料館)


(馬籠宿の途中から近道を行く永昌寺)


(永昌寺山門へ上がる参道)


(永昌寺山門)


(永昌寺山門と鐘楼)


(島崎家の墓)


(馬籠宿の枡形、右下に水車が見える)


(枡形にある水車)












水車塚(旧中山道を歩く 206)

2010年08月17日 09時42分47秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(恵那山)

(馬籠宿2)
昨日は沢山の外国人とすれ違ったが、
今日(5/14)は、高校生のハイキングが多く、
尾張一宮の商業高校生 男女約260名、
群馬県水上町の高校生 男女約240名とすれ違った。

「こんにちは!」の挨拶を80回ほどしたが、
全員から元気良く挨拶が返ってきた。
馬籠宿から妻籠宿まで歩くのだそうで、
若い彼らは元気そのもので羨ましかった。


(峠でであった高校生、空の青さが美しかった)


(沢山すれ違った高校生)

やがて右手に休憩所とWCがあり、休憩所の前面の木の根方に、
十辺舎一九の狂歌の碑が建っているのが見える。

・渋皮の むけし女は 見えねども 
                 栗のこわめし 爰(ここ)の名物   (十辺舎一九)

説明によると、
(古くから峠の名物は(栗のこわめし)であった。
江戸期の戯作者 十辺舎一九(じゅっぺんしゃいっく)は
文政二年(1819)に木曽路を旅して、
「岐蘇街道膝栗毛(きそかいどうひざくりげ)」の馬籠宿のくだりで、
このような狂歌を詠んでいる。)とある。

(狂歌の意味は、渋皮の剥けたような、チョイト良い女は、
この片田舎には居ないが、
栗おこわ(栗の入ったおこわのこと)はとても良いという意。)



(十返舎一九の歌碑)


(国道と交差する)


(左脇に清水バス停がある)

次いで清水のバス停で国道7号線を横断し、
ドライブインなのか、(お食事喫茶の家)の前をヘヤピンカーブで右折し、
石畳の急な下り坂を歩く。
沢山の高校生に挨拶を送りながら、暑い日差しの中を進む。
下り終えた右手に橋があり、その先に藤村の水車塚がある。

水車塚について、
(「山家にありて、水にうもれたる 蜂谷の家族 四人の記念に
                     藤村しるす」
明治37年(1904)七月、
水害のためここにあった家屋は一瞬にして押し流され、
一家四人が惨死した。
難を逃れた家族の一人、蜂谷義一は、
たまたま藤村と親交があったことから、
後年に供養のため藤村に碑文を依頼して建てたものが、
この「水車塚」である。

碑の文字を見る限り、島崎藤村は端正で、几帳面な性格に写る。

水車塚の脇に水車小屋があり水車が廻っていた。


(右側が食堂兼喫茶の家、ここでヘヤーピンカーブする)


(高校生がどんどん登って来る)


(水車塚横にある水車小屋)


(水車塚、文字は藤村の筆、几帳面な字)




牛方の頌徳碑(旧中山道を歩く 205)

2010年08月08日 09時01分18秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(英泉画浮世絵 木曽海道69次之内「馬籠駅」峠ヨリ遠望の図)


(馬籠峠)

(馬籠宿)
今は馬篭峠は岐阜県であるが、
ボクは旧中山道を歩いているから、
木曽十一宿の最後の宿場、
馬籠宿へこれから入って行く。
つまり、信濃を歩いて行く、
馬籠宿を過ぎた先の新茶屋の一里塚までが信濃である。

峠のすぐ先の坂を下りたところに、
右に入る道路があるので、右折する。
右折する右かどのガードレールに案内がるので心配ない。
杉林の中を歩くと、すぐ左手に神社がある。
熊野神社である。


(峠を下ってすぐ右に入る道)


(入口右側にある案内)


(峠を下る杉林)


(林の中の熊野神社)


(熊野神社)

この先は馬籠峠らしい古い集落が続き、道は下る。
(この集落は江戸時代中期以降の姿を今にとどめている)
と説明があるほど、往時を偲べる家が繋がっている。
集落が終りを告げる頃、
道路はやや右に曲がるが、その曲がりかかる左に、
盛り上がった塚がある。

生垣が周囲を囲んでいるが、階段を上がり中へ入ると、
「峠乃御頭頌徳碑(とうげのおかしらしょうとくひ」」なる石碑が建っている。
安政三年(1856)峠集落の牛方(牛を使って荷物を運ぶ人)が
中津川の問屋(荷物の取次ぎをする所)との間で運賃の配分で争いがあり、
牛方が勝った。その時の牛方の代表今井を讃えた碑で、
藤村の「夜明け前」にも登場する話である。


(静かなたたずまいの集落)


(集落のはずれ、左手に大きな木の生えている塚が見える)

かいつまんで話すと、問屋が牛方に仕事を出すに当って、
料金についての不正があった。
この頃の問屋と牛方の関係は、地主と小作人の関係に似ており、
牛方が問屋の旦那に反抗することなど、
この当時では考えることが出来ない関係であった。

話が変わるが、
太平洋戦争終結まで、こうした身分の差は歴然としており、
例えば百姓と小作人の関係は、極端な例であるが、
疎開先のボクが小学3年で同級生が小作人の子であるとする、
一緒に遊びたいから、その子の家に行って誘うと、
親が出てきて遊べないと断る。
家に帰って、この話をすると、
その子の家に行ってはならないし、
遊んでもいけません、と固く叱られる。
そんな体験がある。

つい最近まで(65年前まで)こんな封建的な関係が続いていたのに、
さらにさかのぼった明治に入る12年前の
安政三年(1856)の話であるから、
牛方の反抗は相当な覚悟、一つ間違えば死に相当する覚悟が、
必要な時代であった。

話を戻す、
問屋の不正に対し、
牛方が荷物の輸送を拒否する事件がおきた。
こんなことは前代未聞の出来事であるが、
もめにもめたこの事件は牛方が勝利した。
このことに対する頌徳碑(徳を讃える碑)である。

(塚の中にある峠乃御頭頌徳碑)












馬籠峠(旧中山道を歩く 204)

2010年08月02日 09時50分09秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(「一石栃の白木改番所跡」の標柱)

(妻籠宿 6)
馬籠峠に向って進むと、
「一石栃白木改番所跡」の門柱に出会う。
その手前右手が牧場の柵のようなものが見えて、
柵の内側が広場になっている。
脇に屋根と柱だけが残る残骸の家が一軒あった。
これが番所跡なのであろう。

歴史的には、木曽の材木が重要視されていた頃、
木曾から持ち出されるヒノキなどの材木や
細工物を厳しく監視した場所である。
「一石栃」とはこの辺りの地名である。


(一石栃の白木改番所跡)

「一石栃白木改番所跡」の標柱の先に、立場茶屋があり、
現在は無料休憩所になっている。
休憩所ではボランティアのオジサンが、
何人か交代でこの休憩所を管理しているという。
温かいお茶を無料で入れてくださった。(感謝!感謝!)
新しいお手洗いが出来ているので、利用したい。

なお、立場茶屋についての案内が次のようにある。
(立てば茶屋は宿場と宿場の中間にあって、
旅人に休息と利便を与えた。
一石栃は妻籠宿と馬籠宿の中間に位置し、
往時は七軒ほどの家があって栄えていたが、
今ではこの牧野家一軒だけになっている。
牧野家住宅は江戸時代後期の建物で、
当初は間口十間半もある大きなものであったが、
現在は南側が切り取られて八間に縮小されている。)(南木曽町)


(立場茶屋)


(立場茶屋の休憩所)


(石畳の道を進む)

休憩が終わったら馬籠峠に向って、さらに石畳の道を進む。
長い急坂を登り終えると馬籠峠の広い道路に出る。
峠には休業中の峠の茶屋があり、その横に正岡子規の句が
馬籠峠と大書された石碑の下部に刻まれている。

・白雲や 青葉若葉の 三十里   (子規)

句碑に沿って道路脇に国道7号線の標識があり、
そこには南木曽町馬籠峠とあり、道路反対側には、
馬籠峠の案内看板とバス停が見える。
道路の西側を見上げると、
岐阜県中津川市の県境の案内看板がある。

2005年の町村合併により長野県の馬籠峠から西は岐阜県中津川市に編入された。
あと三十歩も歩けば岐阜県には入る。


(馬籠峠頂上)


(峠の茶屋)


(馬籠峠の子規の歌碑)


(子規の歌碑、・白雲や 青葉若葉の 三十里が読めますでしょうか)


(馬籠峠のバス停)


(岐阜県中津川市の県境の看板)










「男滝・女滝」(旧中山道を歩く 203)

2010年07月28日 09時42分56秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(大妻籠の民宿「つたむらや」は右側一番奥)

(妻籠宿 5)
翌朝(5/14)も快晴であったが、久しぶりに雨戸の部屋で寝たせいか、
7時までぐっすり寝てしまった。
暗い部屋の中で時計を見て、驚いて飛び起きた。
久しぶりに雨戸を二枚開けて、戸袋に格納。

顔を洗ったら、「朝食の用意が出来ています」という。
田舎のご飯とお味噌汁の美味しさは格別。
最後に飲んだ美味しいお茶も自家製との事であった。
早々に食事を済ませ、おなかに入れるだけでなく、
出すものを出して、
丁寧にお世話になったお礼をして出発する。

目の前の中山道を西に進む。
すぐ左に「県宝 藤原家住宅」の案内があり、十七世紀の建造物で、
長野県の宝に指定されている。

宿の女将さんにお見送りいただき、
「この藤原家から内のお祖母ちゃんはお嫁に来ました。」
だから親戚だと言う。
そんな繋がりがこの集落一体を占めているに違いない。
坂を上がり、藤原家に向うと、
右下にコンクリートに仕切られた生簀がいくつかある。
大きな魚から、小さな魚まで区切られた中に泳いでいた。
ボク達が立ち止まると、餌でももらえるとでも思ったのか、
小魚が群れを成して、ウワーッと寄ってくる。
相当な量である。
女将さんの説明では、大きいのがサーモン、あとは岩魚、ヤマメ、鱒という。

そこで女将さんと別れ、坂を登る。
いきなりの坂道でうんざりの所ではあるが、
県の宝の建物を見学するので期待しながら進む。
しかし、期待ほどでなく、ごく有触れた田舎家であった。


(県の宝「藤原家住宅」の案内)


(藤原家住宅)

少し寄り道をしたが、
西を向いて中山道を進むとすぐに庚申塚がありその前に民宿「庚申塚」がある。
道路はすぐ国道7号線にぶつかるが、
国道の右前方道路の左側に旧中山道の入口が見える。


(庚申塚の一里塚)


(民宿「庚申塚」)


(どうがめ沢入口の石標)


(どうがめ沢入口)

「どうがめ沢」と言い、石碑があり脇に石畳の道が見えるので、
国道を横断左折する。
石畳道路は林に中をつづら折れで上るが、
すぐ右側に段々の田んぼがある所へ出る。
なおも進むと小さな木の橋があり、右から来た道と合流し左へ向う。
この辺りが(下り谷)でわずかな民家があり、
その先左手の土手の上に小さな祠が祀ってあるのが見える。
これが「倉科祖霊社」である。

説明によれば、
(倉科祖霊社には、松本城主小笠原貞慶の重臣、
倉科七郎左衛門朝執の霊が祀られている。
伝説では、七郎左衛門は、この地で盗賊のために殺されたとされているが、
史実は次のようである。
七郎左衛門は、主人貞慶の命をうけて大阪の豊臣秀吉のもとに使いに行き、
その帰りに馬籠峠でこの地の土豪たちの襲撃にあい、
奮戦したがついに下り谷で、従者三十余名とともに討ち死にしてしまった。
当時、木曽氏と小笠原氏は、何度も兵戈を交えており、
そうした因縁からその争いも起きたと見られる。)(南木曽町)とある。

どうも説明が中途半端である。
倉科七郎左衛門の戦死を憐れんだ主人貞慶が
倉科七郎左衛門のためにここに社を置きその霊を祀った。
と言うところまで記載されていれば納得できるが、
それも書いていない。
誰がどうして祀ったかは定かではないのである。


(つづら折れの林の道)


(木の橋)


(左手にある古い建物)


(倉科祖霊社の石柱)


(石段を上がった所にある倉科祖霊社の祠)


(男滝・女滝の案内)


(滝を見るには右側の道を行く)

少し先に(「男滝・女滝」はこちら)の案内があり、
滝方向には道は右側の道を進む。
中山道は左側を行くが、左右の道はいずれも先で合流するから、
滝見物のため右側の道をとる。
この「男滝・女滝」は、滝としても歩いている者には一服の清涼感がある。

しかし、何といっても吉川英治の傑作小説「宮本武蔵」の中で、
武蔵の男心を表現した場所であるから、
その場所を一度は見て置きたいものである。
この場所で武蔵は、男の恋心を表現するために、
恋人「おつうさん」を押し倒して、図らずも「おつう」に断られ、
武蔵は男としての気持ちを抑えるために滝に打たれる。
そんなシーンが描かれている場所である。

「男滝・女滝」方向に進む。
水の音が大きくなると左手にまず「男滝」が見えてくる。
「男滝」の滝つぼを回るようにして進むと「女滝」がある。
なるほど「男滝」は滝の幅が広く男性的で、
「女滝」は滝の幅が細く、女性らしく見える。


(男滝)


(女滝)

「女滝」脇の新しく出来た長い急な階段の道を手すりにすがりながら登ると、
県道の広い道路に出る。
右端に廃業したと思われる寂れた「滝見茶屋」があり、
茶屋の前は駐車場であったらしい広場がある。


(滝見茶屋)


(バス停「男捶滝(おだるたき)」)

広場の隅に「男滝・女滝」について、
南木曽町教育委員会の案内があるので紹介しておく。

(町指定名勝 旧中山道「男滝・女滝」
滝に向って左側が男滝、右側が女滝である。
木曽に街道が開かれて以来、旅人に名所として親しまれ、
憩いの場でもあった。
この滝には、滝壷に金の鶏が舞い込んだ、
と言う倉科伝説が伝わっている。
また、吉川英治氏によって、
その著「宮本武蔵」の舞台としても取り上げられている。
滝付近の中山道は当初男�券川(おだるがわ)の左岸を通っていたが、
江戸末期頃から現在の道筋になった。)とある。
この説明も理解し難い。
あれもこれも盛り沢山に説明しようとしてかえって訳が分らない。

その広場の左端にバス停「男�券滝」がある。
そのバス停前を左に行くと、
右手に架かる橋の上に「馬籠宿右」の案内があるので
右折して橋を渡る。


(右手に掛かる橋に右馬籠宿の案内)

その先は石畳の荒れた道が続き、
躓き転ばぬよう十分注意して歩かなければならない。
荒れた登り道を行くと木の橋があり、
これを渡りしばらくすると県道に出る。
道路向こう側に(峠入口)のバス停が見え、
脇に旧道の石畳の道が続いているのが見えるので馬籠峠に向って上る。
この辺りは静かな林の中を行くが、
足元の石畳がでこぼこなので気を付けたい。
躓いて転ぶと大怪我をする。


(凸凹の石畳道に注意)


(バス停「峠入口」右の石畳の道)


(林の中の石畳道)

やがて左手に大きなサワラの木がある。
説明には、
(このサワラ大樹は、樹齢300年、胴回り5.5m、樹高41m、材積34?。

サワラ材は耐水性が強く、風呂桶や壁板、建具等に多く使われます。
この木一本で約300個の風呂桶を作ることが出来ます。

さらに、このサワラの下枝が立ち上がって、
特異な枝振りとなっていますが、
このような形の枝を持った針葉樹を神居木(かもいぎ)と言います。
昔から山の神(または天狗)が腰をかけて休む場所あると信じられてきました。
傷つけたり切ったりしますと、たちまち祟ると言い伝えられ、
杣人(そまびと=きこり)はこの木の下を通ることを嫌がりました。
この木のように両方に枝の出た木を
両神居(りょうかもい)と言います。)とある。(木曽森林管理所 南木曽支署)

さらに山道を進むと、

一石栃白木改番所跡に出る。


(サワラの巨木1)


(サワラの巨木2)


(サワラの巨木3、枝が幹に沿って立ち上がっている。天狗の腰掛枝、神居木(かもいぎ)


(一石栃白木改番所跡)









民宿「つたむらや」(旧中山道を歩く 202)

2010年07月26日 09時32分25秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(民宿「つたむらや」)


(妻籠宿 4)
お宿「つたむらや」について、最初にお話をしておきたい。
このお宿の「おもてなしの心」は、ボクの経験で過去に泊まった
国内外の全てのお宿の中で一番優れたものであった事を
お伝えしておきたい。
民宿をプロの旅館と比較することも憚られるが、
そんな旅館と比較しても、
負けることのない「おもてなし」であった。

「おもてなし」って何?

辞書によると、
①とりなし、待遇
②振る舞い、態度
③取り計らい、処置④御馳走、接待,

とある。

良いおもてなしとは、この全てを兼ね備えるということであろう。
民宿「つたむらや」では、待遇も態度もご馳走も取り計らいも適当(*)で、
大変満足して帰ってきた。
但し、これはボクにとっては100点ということで、
誰か別の方が感じる「おもてなしの心」は
「0点」であるかも知れない。
「おもてなし」とはそういうものか?

(*)適当=いい加減という意味でなく、ふさわしい、目的・要求にあっているの意味)

土日祝日以外の普段の日の宿泊客は、一組か二組であるとの事。
宿泊可能人数は最大26名。
後で知ったことであるが、頂いた名刺を見ると、
昭和63年に秋篠宮文仁親王と川島紀子様が
お泊りになった宿と書いてあった。
秋篠宮様がご結婚される前の学生時代に、
大勢の学友と一緒に宿泊された宿である。
滞在中、こんなことは一言も触れられなかった。


(つたむらや)


(三軒の民宿が並んでいる、一番手前が「つたむらや」)

宿の女将さん(その宿の主婦兼女将)に聞いた話であるが、
ここに並ぶ三軒の民宿は全部親戚で、
「つたむらや」の建物はおよそ120坪あり、別途、養魚場を経営している。
信州サーモン・ヤマメ・岩魚・紅鱒を養殖し、
妻籠・大妻籠の宿から、これら魚を注文に応じて出荷しているそうな。
一泊二食7500円。

くぐり戸の、「民宿つたむらや」と墨書した障子戸を開けて中に入る。
「ごめんください」と、やや大声で案内を請うもしばらく返事がない。
しかし、耳を澄ますと、奥の部屋でなにやら人の動く気配がする。

そこでもう一度、大音声で
「ごめんください!!」と呼ぶと言うより、怒鳴ると言う感じで案内を請うと、
やっと奥の障子が開いて、
田舎の「かあちゃん」と言う、いでたちのの女将さんが出てきた。
「いらっしゃいませ!そこへかけください!」
「昨日予約しましたhide-sanです。」
「まあまあ、良くいらっしゃいました。そこにお休みください」と言う。

言われたとおりに腰を下ろすと、
民宿の名刺と妻籠宿の案内地図、
それに宿帳を出し、暇な時に書いて置いてください、と言う。
お出でになったお客様には全て同じようにするのであろう、
妻籠宿の宣伝を込めて、宿場の案内を細かく説明した地図を貰った。
今日見学してきた後であり、もう必要ないものであるが、
家に帰って確認のためと地図も名刺もバッグの中に押し込んだ。

女将さんが「そこへ休んでください」と言った割には、
すぐお部屋に案内しますと急かす。
こちらは今日、22kmも歩いてきたので、
一度座ったらすぐに立ち上がれない。
疲れた足から、やっとの思いで靴を脱ぎ板の間へ上がったら、
囲炉裏のある部屋の反対側、
つまり囲炉裏の部屋が右側とすると、左側に客室があるらしい。


(軒卯建の白壁の手前の部屋に泊った。軒下にぶら下がっているのは消防用の手押しポンプ「龍吐水」)

「お部屋を案内します」と言うので、
ついていこうとしたら、
上がった廊下のすぐ左の障子を開けて、
「ここです。」という。
見渡すと6畳間に座卓が一つ、両側に座布団、
部屋の隅に時代物の衣桁(子供の頃見た衣文掛けのことで、
結婚式場などで見る内掛けなど着物を掛けておくものの事)
反対側に床の間と押入れ、床の間にはコインTVが置いてある。

部屋の隅に、二組の布団(敷布団と掛け布団、枕にシーツ)と
石油ストーブが置いてある。
窓はなく明かり障子で、開けてみると部屋は中山道に面している。
寝る時はどうするのかと思ったが、右手に戸袋があったので覗くと
雨戸が二枚格納されていた。

「寒い時はストーブを付けてください。
ついでですからお手洗いとお風呂を案内します。」と言う。
案内にしたがって後ろについていくと、高さ150cmの低い鴨居があって、
頭に注意と注意書きがぶら下がっている。
「ここは卯建(うだつ)の出入り口です。
頭に注意してください。
最もぶつけても頭に怪我がないように
緩衝材で巻いてありますから心配ありませんが」と言う。
軒卯建(のきうだつ)を外から見たことはあるが、
内側がどのようになっているのか、見たのはこれが初めのことであった。

「うだつ」とは、防火壁でのことで、隣家との境に造ったが、
相当な費用が掛かるので、懐が裕福でないと造ることが出来なかった。
そのため商売が繁盛しているか、出世してお金持ちにならないと、
卯建を揚げることが出来なかった。

愚鈍なことをしていると、
「そんなことでは、卯建が揚がらんぞ!」と、
子供の頃良く叱られたものである。
防火壁の厚さは20cmもあろうか、
これなら隣家に燃え移らないだろうと思った。

防火壁の向こう側は、家主の生活棟であるとのこと。
その先はまだ新しい木の香が漂うような部屋があり、
その先に洗面所とトイレ、お風呂があった。


(軒卯建の手前が宿の方の生活棟)

「お風呂は沸いておりますから何時でもどうぞ!
夜中でも、朝でも良いですよ」とのこと。
「トイレは洋式ですか?」とボク。
実はネットで洋式であることは調査済みであったが、念のため訊いた。
「今風です」と答えが返ってきた。
「夕食は 18時から。朝食は7時からですが、よろしいですか?」
言うことなしである。
「ハイ!結構です」と大きな声で答えた。

本日泊る部屋まで戻って、
「今夜はこの囲炉裏の横で食事にしましょうね。
本当はこの部屋の向こう側に食事をする部屋があるのですが、
今夜はあなた方だけですから」と。
結構なことこの上ない。
二つ返事で了解した。
ボク達は部屋に入り、女将さんは食事の用意か奥に入ってしまった。

夕食は囲炉裏の部屋でとは言ったが、部屋にもストーブがあり、
夜は相当冷えるのかもしれない。
5月13日で今日一日、汗をビッショリかいて歩いてきたのに・・・

さて、夕食の時間が来て、囲炉裏の部屋を覗くと、
いつ済ましたのか夕食の用意は出来ていた。
囲炉裏には薪がくべられており、ぱちぱち音を立てて燃えていた。
陽が落ちてから少し寒くなっていたので、
この火がとても懐かしく、
暖かく、疎開していた子供の頃を思い出した。


(囲炉裏の横碁盤の前にボクが大福帳の前にカミサンが座って夕食を食べた。)

お膳を見渡すと、山家のことで、ありきたりの山菜に香の物、
酢味噌にウド、山菜のてんぷら、川魚の塩焼きに、
何か刺身が一品付いている。
山の中でマグロの刺身が出てくると、
冷凍のコチコチで味も悪く、
興醒めであるが、ここの魚の刺身はどう見ても川魚。
川魚は鯉しか思い浮かばないが、
鯉にしては小さい。
また刺身の量が3切れほどで少ない。
その他に、茶碗大の入れ物に茶碗蒸しのような、
中身が卵を蒸したようなものが入っている器が一つある。
(茶碗蒸しかなあ)と思って眺めている所へ、
女将さんがやって来た。

最初に、その茶碗蒸しのような器の説明で、
これはご主人の趣味で造っているお酒であるという。
つまり「どぶろく」で、まだ原料のお米が入っている状態の日本酒である。
日本酒は米が原料であるが、米を発酵させてお酒にする。
米の澱粉が分解され糖分になり、
その糖分がアルコールへと変化する。
その分解された米汁を絞って、
不純物を沈殿させたものの上澄みが清酒である。

ためしに飲んでみると、口当たりはすごくよろしい。
甘酒から甘味を抜いて、アルコールを加えたような感じで、
すこぶる口当たりが良い辛口の酒である。
私たち夫婦は、大の酒好きで、酒の味はよく解る。

しかし、病気持ちのボクは、
今は沢山飲めないのが残念である。
せいぜい一合程度が限度。
しかし底の浅い茶碗の一杯は、どう見ても100~120CC。
お酒が飲めない人もあるから、量は少なくしてあるのであろう。
最初の一杯はサービス、つまり無料。
しかし好きな人には、後を引く一杯であった。

次の一杯を依頼すると、次の一杯は400円也であった。
今度の一杯は、気のせいか茶碗が大きい。
前の一杯と合せて400円なら安いお酒である。
さらに追加の一杯が欲しい所であるが、
その先を我慢できるのがボクの長所。
自分で勝手に意志が強いと思っている。


(入口の大戸に張ってあった「どぶろく」マップ)

ところで、アルコールには酒税法があって、
他人に提供する酒造は罰せられる。
酒造者が自ら楽しむ程度なら
罰せられることがないことをボクは知っている。

しかし、こうしてお客様に提供するとなると、
きちんと届出しなくてはならない。
訊くと、きちんと届出はしてあり、酒の名は「男滝」と言うらしい。

この先中山道を進むと見ることができる滝の名前である。
小説の「宮本武蔵」が「おつうさん」を押し倒し、
思いを遂げようとすると、おつうさんの抵抗を受け、
欲望を沈めるため滝に打たれるシーンがあるが、
その滝の名が「男滝」である。その先には「女滝」もある。

今年、ご主人は杜氏としての国家試験を受けて、
本格的な酒造業に手を染めるとの事であった。

お酒はこれくらいにして、その他の料理であるが、全て自家製。
つまり、その家で栽培あるいは養殖された品物ばかりであった。
デザートにキューイフルーツが出てきたが、
これも自宅で栽培し収穫したものを、
冷凍保存し今日、解凍して提供したとのことに驚いたが、
さすが冷凍キューイはお世辞にも美味しいとは言えなかった。

その夜は疲れもあり、おかわりした「どぶろく」の所為もあり、
お風呂に入ってすぐに眠ってしまった。
夜中に肩が寒く目が覚めたが、
ストーブに火を入れて部屋を暖めなおし、
深い眠りに付いた。


(最高26名宿泊しても大丈夫な食堂、十、八、六畳とつながっている)

(写真奥の「つたむらや」の屋根)





大妻籠(旧中山道を歩く 201)

2010年07月17日 06時18分15秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(板の上に石を載せた木曽谷の家)

(妻籠宿 3)
妻籠宿の寺下地区のはずれに藁馬実演販売所があって藁の馬がある。
実物大の馬の大きさの藁人形ならぬ藁馬が置いてある。
この先馬籠峠から馬籠宿へ向うことが頭にあって、つい見とれてしまった。
妻籠宿のはずれの左側にWCがあり、右手に尾又橋がある。
その先は人家もなくなり、右手は蘭川、左手には山の道を進む。

(藁の馬)


間もなく右から左へ行く県道256号線と交差する。
県道をまたいだ先が京都側の妻籠宿入り口で、
大きな駐車場とお手洗いがある。
県道の右手は蘭川で田島橋がある。
その先の中山道は草道で、林と右側の墓地を見ながら進む。


(京都側にある妻籠宿の看板と田島橋)


(道路を横断した所にある石標「右旧道 まごめ」とある)


(林と墓地を過ぎる草道)

草道はすぐ国道7号線にぶつかり、これを右折する。
すぐ大妻橋に出るが、手前左側の奥のほう民家の前に、
南木曽町の指定史跡になっている、大きな石柱道標が立っている。


(右折すると大妻橋がある)


(橋の手前奥の民家の前にある石柱道標)

南木曽町の説明によれば、
(明治25年に賤母(しずも)新道が開通するまで、
馬籠~妻籠~三留野を通る中山道は、
古くから幹線道路として重要な役割を果たしていた。
ことに妻籠の橋場は「追分」とも呼ばれ、
中山道と飯田街道の分岐点として栄えた所である。
この道標は、飯田の皆川半四郎という人が発起人になって、
当所の松井與六・今井市兵衛・藤原彦作の世話人と共に、
飯田・江州・地元の商人によって、
明治十四年六月に建てられたものである。
当時の繁栄がうかがえる石柱である。)とある。

ボクにはどうでもよい、余分なことが書かれているが、
つまり飯田街道との分岐点になる石の道標を、
土地の有力者と商人が私財を投じて造ったと言うことである。
だから街道沿いには無く、はるか奥のほうにあって、
今では何の役にもたっていない。

大妻橋を渡り右側の民家の先に石畳の道が見える。
旧中山道は、ここを右のほうへ行く。
杉林の中、上り坂を行くが、中山道らしい静かな道を行くと、
やがて坂の上に「大妻籠」の案内看板がある。
道は左手に国道7号線が見えるが、
中山道はその看板を右のほうへカーブする。
すぐ石の道標があり(右 旧道)とあり、小さな橋を渡ると、
突き当たる格好で大きな民家が見える。
道路は左へ曲がり川に沿っていくことになるが、
前方に道の左右に民家が見えてくる。
一軒一軒が大きな家である。
近づくと右手に三軒の民宿が並んでいる。


(中山道の石標,「右旧道」と刻んである)


(石畳の道)


(林の中の静かな登り道)


(木曽路らしい山の中の道が続く)


(山里の民家が数軒)


(手入れが良く行き届いている民家-豊かなのであろう)


(大妻籠の案内、左側は国道)


(案内看板を右折し橋を渡ると大妻籠の集落)


(大妻籠の集落大きな家が多い)


(右側に卯建のある家、三軒の民宿が並んでいる)

一番奥にある民宿が今日の宿「つたむらや」である。
出来るだけ馬籠宿に近いところに宿を取ろうと、
妻籠からは一番奥の民宿を選んだのである。

明かり障子の入口を開けて、奥に続く土間に立って、案内を乞うも返事がない。
しかし奥のほうで物音がするし、隙間から明かりも漏れて、
人の気配もする。大きな家で、とても奥まで聞こえないらしい。

大音声で「御免ください!」と二回くらい呼ぶようにして案内を乞うと
しばらくして、正面の奥の障子が開いて、
「いらっしゃいませ」の声で、安心する。
「そこへ御かけください」と女将さんらしき人がいうが、
見ると上がりかまちの先に囲炉裏があり、
その先が畳になっており、部屋は十畳ほどあろうか。

荷物を降ろし、板の間に腰を下ろす。
民宿の名刺と宿帳を渡され、暇な時に書いて置いてくださいという。

やれやれこれで何とか今夜はゆっくり休めそう。
時計を見ると、PM16時少し回った所であった。

次回は民宿について

(民宿「つたむらや」石垣が六角形になっている)


(囲炉裏のある部屋)

本日(5/13)歩いた歩数38000歩=約22kmを歩いたことになる。
明日は大妻籠から馬籠峠~馬籠宿~落合宿~中津川宿まで歩き、
東京に帰る予定である。




旧中山道を歩く 200回の節目に当って。

2010年07月12日 11時51分59秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(広重画、「木曽海道69次之内、妻籠」)

(200回の節目に)
前回 「旧中山道を歩く」200回目を迎えた。
良くここまで来たものだと、われながら驚いている。

思えば六年前の2004年3月27日、
旧中山道を歩くことを思い立って、
ただ歩くのでは能がないと、
各地の史跡を訪ね写真を撮り、
できれば旧中山道の道筋を解りやすく書き記して置く。

それをブログに載せて、これから旧中山道を歩く人たちに、
何かお役に立てればよいと書き綴ったのが、
積り積って200回になった。

(妻籠宿)

中山道の東京を歩き終えるのに4日、
埼玉県を歩いて7日、
群馬県は6日、
長野県は、信濃が8日、木曽が7日掛かっている。

32日掛かって、まだ中山道の妻籠宿にいる。
妻籠宿は中山道69次から言えば、
江戸から42番目の宿場であり、
6年掛かって、まだ中山道の60%しか歩き終えていない。
距離から考えても、妻籠宿まで江戸から319kmであるから、
中山道が534kmとすると、やはり60%は歩いた勘定になる。

(大妻籠の案内)

319km良くも歩いたものだと、我ながら感心している。
このあと、距離にして215km、宿場の数にして27宿残して、
岐阜県、滋賀県を抜けて京都に入る。
日程的には、あと13日もあれば京都三条大橋に到達できそうであるが、
あっちでキョロキョロ、こっちでキョロキョロ、
はたまた、天気が良くない、暑い寒いは当たり前で、
こんな日を避けると、あと何日掛かるか分らない。

おろおろしている間に年を越してしまいそうであるが、
どうにかこうにか、京都までは完全踏破したいと願っております。

どうぞ今後とも、懲りずにお訪ねいただきますよう、お願いいたします。

(妻籠宿郷土環境保全地域の図)