中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

石巻(いしのまき)(芭蕉の道を歩く 60)

2017年06月29日 16時35分36秒 | 芭蕉の道を歩く
(仙石線 石巻駅行きホーム)


おくのほそ道【24】石巻の項で、芭蕉は

(十二日、平和泉(ひらいずみ)と心ざし、
あねはの松・緒だえの橋など聞き伝えて、
人跡稀に雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の往(ゆ)きかふ道そこともわかず、
終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出(いづ)。
――中略――
海上を見わたし、数百の廻船入り江につどい、
人家地をあらそひて、竈の烟立ちつづけたり。)

と綴っている。

次は、ボクの勝手な現代語訳です。
(平泉を目指して、姉歯の松・おだえの橋(共に地名で歌枕)など伝え聞いて、
人跡まれな木こりや猟人しか通らないような道かも知れず、
とうとう道を間違えたらしく、石巻と言う港に出た。
――中略――
海上を見渡すと、数百の廻船が入り江に集まり、
人家は密集して、竈の煙が立ち込めて、活気のある所だ。)


朝早く東京から「はやぶさ3号」に乗って、仙台で仙石線に乗り換え、
石巻駅に着いたのが午前10時半ごろ。
石巻は、漫画家 石ノ森章太郎の出身地で駅にアニメのキャラクターが待ち受ける。

(石巻駅のキャラクター)


石巻で芭蕉は町の様子を一望にしているが、
その場所が日和山だと言うことが解っている。
しかし、日和山まで、駅からどれほどの距離があって、
歩いて行けそうかどうか解らない。
そこで駅前の交番に寄って聞くことにした。

お巡りさん「およそ2km位ですから、歩いて行けなくもないですが・・・・。」
とボクを見ながら口ごもる。
「何か、不都合でも?」と聞くと、かなりな登り道らしい。
お礼を言って、駅前の客待ちのタクシーに乗ることにした。

タクシーの運転手さんの話では、
日和山近くに石巻高等学校があって、
毎日住吉公園までランニングさせられた。
そのコースはかなりな坂道を走るので、
どうやってサボるか考えて実行したらしい。
タクシーは登りのその坂道を走って高校の前を通ったが、
校舎の前に、「東京大学現役合格」の垂れ幕が下がっていた。
優秀な進学校で運転手さんは卒業生だと言う。

下り坂になると確かにジェットコースター並みの坂であった。
日和山公園で待ってもらって、ボクは降りる。
正面に鳥居があって、その先は海で、なるほど芭蕉が見たら、
商売の船が何艘も係留できそうである。

(鳥居と背後の河口と空き地)

(北上川河口と津波で家が無くなった空き地)


神社左横、やや下った所に、芭蕉と曽良の像が置かれている。

(芭蕉と曽良の像1)

(芭蕉と曽良の像2)

(芭蕉と曽良の像3)


3・11の東北大地震の大津波で、海辺の町はまだほとんど更地の状態であった。
もう6年も経つのに、まだまだ復興にはほど遠い。

鳥居の後ろには当然神社がある。
鹿島御児神社と言うが、社殿との間の老樹の下に句碑がある。

(芭蕉句碑)

句碑には、
      雲折々 
芭蕉翁   人を休める
         月見かな


とあるようだが古くてか、潮風で風化してか読み取れない。
石巻教育委員会の説明によれば、
(月見をしていると、見とれてしまい、我を忘れるが、
 時々月が雲に隠れたときに一息つくことが出来る。)と言う意らしい。

(二の鳥居と鹿島御児神社)

(本殿)


神社右横に行くと、神社裏側の景色が一望できる。
石ノ森章太郎の漫画館が川の中州に白いドーム状の建物で目立つ。
その他の建物はほとんどが津波で流されて更地になっている。
ここ日和山は海抜17メートルあるが、押し寄せた津波は7メートル、
漫画館のある橋を優に超えて、船が道路に浮かんでいる状態であった、
とはタクシーの運転手さんの話である。

芭蕉は、「おくのほそ道」の石巻の項で、
冒頭の文章の続きを、次のように表現している。
「思ひかけず斯かる所に来れるかなと、
宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(ようよう)まどしき小家に
一夜をあかして、明(あく)れば又しらぬ道まよい行(ゆく)。
袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱はらなどよそめにみて、
遥かなる堤を行く。――以下省略」


(神社裏手の石巻の景色)

(石ノ森漫画館後ろの橋を右に渡った緑深い山)


白いドーム状の漫画館の裏手の橋を右に眼を移す、
つまり橋の東側に緑豊かな山が連なっているのが見えるが、
ここは「牧山市民の森」で、
芭蕉が「おぶちの牧」と述べている所である。
さらに右奥に(石巻市の東北に)写真では見えないが、
「まのの萱(かや)はら」がある。

また、ここにある「袖のわたり」は北上川の石ノ森漫画館の北側にあり、
そこには大嶋神社(住吉社)があり、現在は住吉公園となって居る。

(大嶋神社)

(大嶋神社の鐘楼)


神社なのに鐘楼があるのは何故(?)と誰も思うが、
江戸時代 この神社の境内に、寿福寺というお寺があり,
鐘はその寿福寺のものであった。
鐘の重みでか、どうか解りませんが、鐘楼は津波で流されることなく、
そのまま残ったようです。

鐘楼の前、川の中に「袖の渡し」があります。
以前は、常緑の松に囲まれ東屋があった渡し場が、
津波で松も東屋も流され、枯れた松が残るばかりです。

北上川を渡るには、昔は渡し舟に頼らざるを得ず、
源頼朝に追われた義経主従が、藤原氏を訪ねて平泉へ向かう途中、
ここの渡しを利用した。
船賃が払えず、やむなく袖をちぎって船代とした話が、
伝説として残って居り、
それで「袖の渡し」と名付けられたようだ。
それが碑になって残されている。

(袖の渡しへの橋)

(名跡 「袖の渡」の碑)

(碑のいわれ)

(道標)


道標には、石巻街道、金花山道、一関街道となっている。
説明板によれば、
(石巻街道は、仙台城下と石巻を結ぶ道で、
この街道から北部への道として、
涌谷・登米道、気仙道が別れていました。
金花山道は、石巻から山鳥に至る道で、
金華山への参詣の道として利用されました。
一関道は、石巻から登米を経て一関(岩手県)に至り、
奥州街道と接続する道でした。)とある。

さて、「袖の渡し」の先端の松の木の下、
川の中に「石の巻き石」が見えます。
石巻市の説明に詳しく記されています。

仙台藩が編纂した封内風土記(ほうないふどき)の内容を要約しますと、

「古来伝えられた説によれば、地元の人が(石巻石)と呼ぶ巨石が、
住吉社の前にあり、形が烏帽子に見える。
その石の周りに水の渦が回って自然の紋ができ、
物を巻いたように見えるところから
「石旋/イシノマキ」と呼ばれるようになり、
そこから地名が生まれた――。」と言う。

(地名の由来となった巻き石)


津波で枯れた松の横、川の中に見える石が、地名の由来となった巻き石です。

みさぶらひみかさ(芭蕉の道を歩く 59)

2017年06月28日 20時35分02秒 | 芭蕉の道を歩く
芭蕉は、仙台に入って榴岡天満宮をお詣りした後、

おくのほそ道で、
「名取川を渡て、仙台に入る。あやめふく日也。
――中略――
日影ももらぬ松の林に入て、茲(ここ)を木の下と云うとぞ。
昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。
薬師堂・天神の御社(みやしろ)など拝みて、その日は暮れぬ。」
とある。

これを例によってボクの勝手な現代語訳では、
(陸奥国分寺跡は、仙台市若葉区木の下と言う所にあって、
陽の光も通らぬほど松の木が茂って、
露が多く垂れて、雨のように濡れるから、
これを昔の人は「みさぶらひみかさ」と詠んだのだ。
薬師堂・天神の社殿などを拝んで、その日は終わった。)となる。

「みさぶらひみかさ」の出典は、古今和歌集の和歌にある、

・みさぶらひ 御笠(みかさ)と申せ 宮城野の
              木の下露は 雨にまされり

から採ったものだ。

「みさぶらひみかさ」とは何だろうと疑問を持った。
解説を見ると、漢字で書くと理解しやすい、
つまり「御侍(みさぶらひ) 御笠(みかさ)」と書く、
「お侍、笠を」と言うことなのだ。

この当時の貴人のお供はお侍であったようで、
ボクの勝手な現代語訳では、
(宮城野の木の下の露は雨よりも多いから、
お供のお侍さんよ、主人にお笠をお召くださいと言ってください。)となる。

さて木の下であるが、仙台市の地名であると同時に、
深い松林であったようで、現在も松林ではないものの、
ケヤキなどの鬱蒼とした木の下を歩いて行くと言う意味にもとれる。

その林の入り口に「史跡 陸奥国分寺跡」の石碑が見えた。

(陸奥国分寺跡の碑)

(木が重なり合って深い林)

(深い林の向こうに見える薬師堂)

(木の下に咲くあやめも)


陸奥国分寺は、
(正式には金光明四天王護国寺といい、天平13年(741)、
聖武天皇の発願により全国に建立された国分寺の一つで、
最北に位置しています。
その後、藤原秀衡によって堂宇僧坊の修復が行われましたが、
文治5年(1189)源頼朝の奥州侵攻の際に兵火で焼失しました。
これを伊達家が薬師堂などを建てて再興しました。
国分寺跡は、発掘調査で礎石のありさまから金堂を中心に福廊式回廊が巡らされ、
中門・南大門・講堂・鐘楼・経蔵・食堂などがあったと判っており、
その規模は奈良の東大寺と同規模であったと推定されています。)とある。

薬師堂は、国分寺金堂跡に慶長11年(1606)、
伊達政宗によって再建された。
厨子内には薬師如来像が安置されているようだ。

また薬師堂鐘楼の周りには、礎石が数多く観られ、
国分寺が大伽藍であったことが窺がえます。

その礎石を辿って行くと、薬師堂仁王門があり、
茅葺で江戸時代の建築様式が見られ、中の仁王様がにらみを利かせていた。

(薬師堂1)

(薬師堂2)

(薬師堂鐘楼)

(礎石が沢山観られる1)

(礎石が沢山観られる2)

(礎石が沢山観られる3)

(仁王門)

(仁王門の扁額)

(仁王門の阿形の仁王様)

(吽形の仁王様)

(仁王門前の国分薬師如来の石柱)

(仁王門から見た薬師堂)


さて、芭蕉の足跡は、この薬師堂の西側にある準胝観音堂の参道にある。
仁王門から左へ目をやると、準胝観音堂は林の中に朱塗りの姿を見せている。


(準胝観音堂は林の中に朱塗りの姿)

(準胝観音堂)

(準胝観音堂の参道脇に見える芭蕉句碑)

(芭蕉句碑)


参道にある芭蕉句碑には、

・あやめ草足に   芭蕉翁
    結ばん艸 鞋の緒


(・あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒 芭蕉翁)

と刻まれている。
おくのほそ道に、「あやめふく日也」と書きこんでいるが、
この俳句のの伏線であったと考えるのは考えすぎであろうか・・・・。

碑陰には句碑建立の由来が書かれているらしいが、
ボクには読むことが出来なかった。

ただ、最後の一行に

・暮れかねて 鴉啼くなり 冬木立

とかろうじて読める程度であった。

(芭蕉句碑の裏面)


準胝観音堂の裏側に回ると、各種石造が立って居り、
中に延命地蔵さんがあった。

(延命地蔵尊など石造物1)

(延命地蔵尊など石造物2)


これら石造物も芭蕉が訪ねた頃より、何百年と風雨の中にある。



榴ヶ岡天満宮(芭蕉の道を歩く 58)

2017年06月17日 21時02分52秒 | 芭蕉の道を歩く
宮城野の項で「おくのほそ道」には、

「名取川を渡って仙台に入る。あやめふく日也。
(中略)
宮城野の萩茂りあひて、秋の気色(けしき)思ひやらるる。
玉田・よこ野、つつじが岡はあせび咲くころ也。」
とある。

稚拙なボクの現代訳では、
(芭蕉は、名取川を越えて仙台に入る。季節は菖蒲(あやめ)咲くころである。
(中略)
 宮城野(仙台)の秋は重なりあって茂る萩が花を付ける。
 その様子が目に浮かぶ。
 玉田・よこ野、つつじが岡はあせびが咲く時期である)
このようになる。間違っていたらご勘弁を。
 

JR仙台駅から仙石線に乗り一(ひと)駅 榴岡(つつじがおか)駅で降りる。
地上出口から右を見ると、「榴岡天満宮」へ左矢印の大きな看板がある。
道路反対側のマンション入り口には黄色のワンちゃんのオブジェがある。

矢印通り左へイチョウ並木を少し進むと右手に「榴岡天満宮」の階段がある。
階段両脇に阿吽の獅子があるからすぐ分かる。

(「榴岡天満宮」の矢印の看板)

(マンションのワンちゃんのオブジェ)

(イチョウ並木)

(「榴岡天満宮」の階段と獅子)


案内によれば、
(榴岡天満宮は、平安時代山城の国(現:京都)に創建、
平将春により陸奥の国宇田郡(現在の福島県)に勧請された。
その後小田原(現:仙台市青葉区)への御遷座を経て、
寛文7年(1667)7月三代藩主伊達綱宗公の意思により、
四代藩主綱村港によりここ榴ヶ岡に遷され、朱塗りの社殿唐門を新たに造営、
菅原道真公の直筆の所が奉納された。――中略――
境内には市指定文化財の芭蕉句碑があり、唐門は市登録文化財になっている。)

(階段上の鳥居)

(天満宮全貌)

(文化財の唐門)


天神様に御参りをして、境内を眺める。
境内の周りに、沢山の句碑や歌碑が並んでいる。
拝殿を背にして、左の方に木の葉に隠れるように芭蕉句碑がある。
句碑には芭蕉翁と蓮二翁の二人の句が並んでいる。

(神社の周りにある句碑など)

(文化財の芭蕉句碑)

(句碑の説明板)


芭蕉の句碑の上部には、
芭蕉翁と蓮二翁と並んで、名前が大きな字で刻んであり、
それぞれの名前の下に、
小さな文字でそれぞれの句が刻まれている。

芭蕉翁:あかあかと
     日はつれなくも
          秋の風 (*)      
蓮二翁:十三夜の
     月見やそらに
         かへり花
と刻まれていた。

(*)この句はおくのほそ道の金沢で詠まれたもので、
  初秋の夕陽は、秋になったのも知らぬように照りつけ、
  残暑は一向に衰えを見せないが
  さすがに秋風には涼しさが感じられる。
  (萩原恭男校注:岩波文庫より)
   
(句が刻まれた碑)


蓮二とは俳号で、各務支孝と言い、
美濃の国山県郡(岐阜市)出身。
芭蕉の高弟、蕉門十哲の一人。

この句碑の反対側に、神社の周りに並ぶ句碑。
その中に、大島寥太、遠藤曰人(わつじん)の句碑もある。

・五月雨や ある夜ひそかに 松の月(寥太)
・道ばかり 歩いてもどる 枯野かな(曰人)

(神社の周りに並ぶ句碑)

(大島寥太の句碑)

(遠藤曰人の句碑)


榴岡天満宮の拝殿で、御参りをした後右手に進むと、
榴岡公園にでる。

(公園)


緑の多いこの公園の奥まった所に仙台市歴史民俗資料館がある。
この資料館は、旧第四連隊兵舎で仙台市の文化財に指定されている。

(榴岡公園と奥に見える資料館)

(歴史民俗資料館1)

(歴史民俗資料館2)

(旧第四連隊兵舎の説明板)

(歴史民俗資料館の裏側)


広い榴岡公園内では、ダンスサークルの一団が練習に励んでおり、
ジョギングを楽しむ人たちに何人にも出会った。

最高気温22℃、快晴でさわやかな一日である。
この後、芭蕉が歩いたように陸奥国分寺跡へ向かう。
(榴岡公園の石造)

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