中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

藤古川と鶯の滝(旧中山道を歩く 280)

2011年11月19日 10時09分58秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(藤古川)

(関が原7)
不破の関跡を出て坂を下ると藤古川を渡る橋がある。
川の中央の欄干に、「藤古川」と題し、次のような説明がある。
(この川を古くは関の藤川と称し、壬申(じんしん)の乱には川を挟んで
東が天武天皇軍、西側には弘文天皇軍が対陣した。
地区の民はそれぞれの軍を支援したので、
壬申の乱以後、東の松尾地区は天武天皇を祭って井上神社と号し、
川下の藤下・山中地区では弘文天皇を祭って氏神とし、
現在に及んでいる。)(関が原観光協会)

説明がわかりにくいのは、天皇が二人出てきて、
対峙したというところにある。
歴史と地理、水泳と音楽は極めて苦手であるボクには、
特にわかり難い。

ボクが理解した内容では、
大化の改新以降の時代に起きた壬申の乱(672年)、
天智天皇の弟に大海人皇子がいて、
当時は弟が王位継承するしきたりになっていた。
つまり大海人皇子が王位に付く順番であった。
病弱な天智天皇に代わって、
大海人皇子は民の人心を掌握した政治を心がけていたので、
大海人皇子が次期天皇と目されていた。
ところが天智天皇の息子には大友皇子がいて、
時期王位は大友皇子に継がせるよう太政大臣の位に任じていた。

余命僅かな天智天皇が大海人皇子を枕元に呼んで、
時期王位はそなたに継いで欲しいと頼むが、
これは本心でなく、
もし承諾すれば命さえ危ないことを察知して大海人皇子はこれを辞退し、
頭を丸めて出家し、藤古川の東へ逃げてしまいます。

天智天皇が亡くなり、大友皇子が政治をしますが、
大海人皇子が邪魔です。
兵を集めこれを討とうとしますが、
大海人皇子もこれを察して、軍勢を起て、
不破の関と鈴鹿の関を押さえ、戦に勝った。
この戦を壬申の乱といった。

戦勝の一因は、大海人皇子の部下に尾張、
美濃の強兵が居たことがあげられる。
後に、信長が天下布武を目指した時も尾張・美濃の兵士であったが、
この土地の兵は強かったかもしれない。(体力でなく意気込みが)
なお、大友皇子は明治年代になって弘文天皇の名を贈られている。
後世に贈られた天皇名を使って説明されるので、話が判りにくくなる。
つたない説明でご理解頂けたであろうか。

さらに関が原町の説明では、
(平安時代以降は、この川は歌枕になって有名となり、
多くの文人墨客の歌に詠まれている。

・みのの国せきの藤川たえずして
         君には仕えん万世までに(古今和歌集)
とある。

藤古川こと関の藤川を渡り、
中山道を直進するとまもなく十字路に着く。
正面に地蔵堂が見え、右前方に中山道直進の案内があり、
坂を登ると「矢尻の池(井)」が左手にある。
(この窪みは、壬申の乱の時、
大友皇子の兵士が水を求めて、
矢尻で掘った井戸と伝えられています。
長い年月がたった今では、
その名残を僅かにとどめているに過ぎません。)(関が原町)とある。
今は、井戸は干上がって底が見えている。


(箭先地蔵堂という、大谷吉隆の墓2丁とある)


(十字路右手に「矢尻の井」の案内)


(地蔵堂の後ろにある矢尻の池(井)で干上がっていた)

坂を下りやや広い通りに合流した所の左に、
(「弘文天皇御稜候補地」と「自害嶺の三本杉」150m先)の案内がある。
明治になって弘文天皇呼ばれるようになった大友皇子は、
大津の山前で自刃された。
東軍の将 村国連男依(むらくにのおより)は、
皇子の御首を戴き、不破の関野上に凱旋し、
後の天武天皇こと大海人皇子の御実験に供し、
この丘陵に葬り奉り、
三本杉を植え「自害峰」といったと伝えられている。


(「弘文天皇御稜候補地」と「自害嶺の三本杉」150m先の案内)


(弘文天皇こと大友皇子御稜候補地)

現実に戻り、先に進むと国道21号線をまたぐ歩道橋がある所に出る。
21号線に出る手前右側に山中の高札場があったと言われている。
歩道橋を上り21号線を渡ると、中山道の案内杭がある。
山中である。


(21号線歩道橋)


(中山道の案内杭の後ろにあった高札場跡)

そしてしばらくして右側に「村社 若宮八幡神社」の石塔が見える。
奥を覘くと、鳥居の下に石段があり、はるか上まで繋がっている。
案内書によると、神社の石段は東海道線の踏切を越えさらに400m先に
本殿があると言うので登るのを諦める。


(若宮神社の石塔と石段と鳥居)

さらに進むと、黒血川にでる。
関が原町の案内によると、
(壬申の乱(672)でここ山中の地では両軍初の衝突が起きています。
七月初め大友軍は精兵を放って、
玉倉部邑(たまくらべのむら)(関が原町玉)を経て、
大海人軍の側面を衝く急襲戦法に出ました。
しかし、大海人軍はこれを撃退、
その後この不破道を通って近江へと出撃して行ったのです。
この激戦で、両軍兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから、
黒血川の名がつき、
そのときの凄まじい様子を今に伝えています。)とある。


(血で黒く染まった黒血川)


(橋の反対側の黒血川)

その先右手に三つの地蔵堂が並んでおり、
中央が「黒血川地蔵尊」、左手が「鶯滝地蔵菩薩」、
一番右手が「交通安全地蔵菩薩」になっている。
この地蔵堂の前、つまり中山道進行方向に向って左手に、
「鶯の滝」があり、美しい水がとうとうと流れる様は、
旅人の疲れを癒す格好の冷気を与えてくれる。
前方は道路が二つに分かれ、東海道本線をくぐるガードが二つ並んでいる。


(三つの地蔵堂)


(黒血川地蔵尊とある)


(黒血川地蔵尊、無断でで開帳して写す)


(清滝地蔵菩薩とある)


(清滝地蔵菩薩、ご近所の方が手入れをされて新しい花があった。)


(交通安全地蔵菩薩)


(「鶯の滝」を金網越しに写す)


(前方に見える東海道線の二つのガード)















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