中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

鬼婆と黒塚(芭蕉の道を歩く 41)

2014年06月30日 11時09分21秒 | 芭蕉の道を歩く
(天台宗 真弓山 観世寺)


(奥の細道【十一】黒塚)
安積山公園を後にして、福島県二本松市庁舎に向かう。
鬼婆のいたという「黒塚」を訪ねるためだ。
黒塚は真弓山観世寺にあるという。
市庁舎で地図をいただき、
「駐車場は黒塚前の(ふるさと村)に置くと良い」と教わる。
(安達が原黒塚のあるお寺)

(真弓山観世寺本堂、右手に見える白い建物が宝物館)


謡曲史跡保存会によれば、
(謡曲で名高い「安達ケ原」の鬼女縁起説は、
平安時代の平兼盛の歌、
陸奥(みちのく)の安達ケ原の黒塚に
       鬼こもれりと聞くはまことか

の詠歌を基として、その名は世に著(あら)われた。)と言う。
(平兼盛の歌碑)

(白真弓如意輪観音堂)


鬼婆の由縁について、そのあらすじを載せておく。
(ここの「鬼婆」はその名を「岩手」といい、
京都のある公卿屋敷の乳母であった。
永年手塩にかけて育てた姫の病気を治したい一心から、
「妊婦の生き胆を飲ませれば治る」という易者の言葉を信じ、
遠くみちのくに旅立ち、たどり着いた場所が、
この安達ケ原での岩屋であった。

木枯らし吹く晩秋の夕暮れ時、
伊駒之助(いこまのすけ)・恋衣(こいぎぬ)と名乗る若夫婦が一夜の宿をこうたが、
その夜、身ごもっていた恋衣がにわかに産気づき、
伊駒之助は薬を求めに出ていった。
老婆「岩手」は、待ちに待った人間の「生肝」を取るのはこの時とばかり、
出刃包丁をふるって、
くるしむ恋衣の腹を裂き「生肝」を取ったが、
苦しい息の下から
「私たちは小さい時、京都で別れた母を捜し歩いているのです。」
と語った恋衣の言葉を思い出し、恋衣が持っていたお守り袋を見てびっくり。
これこそ昔別れた自分のいとしい娘であることが分かり、
気が狂い鬼と化してしまった。
以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、肉を喰らい、
いつとはなしに「安達ケ原の鬼婆」と言われるようになり、
全国にその名が知れ渡った。
(宝物館にある鬼婆の什器)


数年後、奥州安達ケ原で行き暮れた那智の山伏 東光坊祐慶の一行が
一つ家の燈火をしるべに宿を求めると、
女あるじは一旦は断るが、たってのの願いに山伏たちを家に入れ、
糸繰り車を回しながら定めなき身の上をかこち、
渡世の苦しさを嘆くが、
夜寒のもてなしに裏山に薪を拾いに出かける。
その時、自分の寝間をのぞくなと念を押す。
その言葉に疑いを持った能力は、
祐慶の目をぬすんでのぞき見をし、
おびただしい死骸に驚く。
能力の報告に驚いた山伏たちが逃げ出すと、
女は鬼女の本体を現わして襲い掛かる。
祐慶は背にする笈の如意輪観世音菩薩を念じ、
数珠をもんで一心に祈ると、
尊像は虚空はるかに舞い上がって、
一大光明を放ち白真弓で鬼婆を射殺してしまったという。

その後、東光坊の威光は後世に伝わり、
このあらたかな白真弓如意輪観音の功徳甚深なる利生霊験は、
奥州仏法霊場の随一と称する天台宗の古刹となり、
1260年に及ぶ今日までその名を遺したのであります。)とある。
(黒塚と言われる岩屋)

(黒塚と言われる岩屋2)

(岩屋の大きさ、高さが観音堂の屋根まである)


恐ろしい伝説の所で、しかも秋の夜の話であるから、
芭蕉は「おくのほそ道」に
「日は山の端にかかりぬ。二本松より右にきれて、
黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。」と簡単に書いている。
曽良の旅日記では、長々と道のりから阿武隈川の舟渡しの状況から、
黒塚の場所、鬼をウズメシ所、観音堂まで、
書き込んでいる。
伝説とは言え、各所にいろんな話が残っているものである。

お寺の入口で拝観料をお支払いし、右手に宝物館に、
鬼婆のゆかりの品物が陳列されている。
1260年前の鬼婆が使用した遺品が保存されている。
左手に白真弓如意輪観音堂があり、
手前に鬼婆の岩屋がある。
ただ岩屋と書いたが、岩の大きさ、
屋根となる笠岩の半端でない大きさ、
阿武隈川岸にどのような自然現象で、
このような岩屋が出来たのであろうか。
伝説より、この岩屋がここにあること自体不思議でならない。
誰かが持ち運んだにしては、岩が大きすぎる。
伝説が生まれてもおかしくない岩屋である。
(岩屋の大きさ、高さが観音堂の屋根まである2)





安積山(あさかやま)公園(芭蕉の道を歩く 40)

2014年06月22日 15時28分37秒 | 芭蕉の道を歩く
(花かつみ)


(奥の細道【十】安積山)
郡山市によれば、
(浅積山を松尾芭蕉と曽良は、
元禄二年五月一日(新暦1689年六月十七日)、
「奥の細道」紀行でここを訪れ、
「安積山」は「万葉集」に詠われている
「花かつみ」を尋ね歩いている。
「奥の細道」には次のように記されている。
「等躬が宅を出て五里斗(ばかり)、桧皮(ひわだ)の宿(しゅく)を離れてあさか山有(あり)、
路より近し。此のあたり沼多し。
かつみ刈る比(ころ)もやや近こうなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、
人々に尋(たづね)侍(はべ)れども更(さらに)知人(しるひと)なし。
沼を尋ね、人に問い、「かつみかつみ」と尋ねありきて・・・」)とある。

東北本線日和田駅を出て、旧道に出る。北に向かって十分ほどで、
左側に農協の広い駐車場に出る。
右側に小山があるが、それが安積山で、
「安積山公園」の大きな石碑が建っているので分かり易い。
(安積山公園入口)


駐車場は公園を通り過ぎて、
最初の信号を右に少し行った所に大きなものが二か所ある。
そこに駐車して、公園に入ろうとしたところ、
どこも縄張りがしてあって、公園」に入れない。
よくよく見ると、にわか作りの看板があって、
「地上50センチのところで放射線が確認されたので、
除染が終わるまで立ち入り禁止です。」とある。

考えてみれば駐車場に車が一台もないのに、
「オヤッと思った」どんなに辺鄙なところでも、
公園となれば、普段であれ、休祭日ならなおのこと、
車が十数台は停まっているはずが一台もない。
よくよく見渡すと、この山裾の全体に縄張りがしてある。

しかし、福島原発が地震で倒壊して、もう三年経つ。
しかも原発の場所から少なめに見ても50キロメートルはある場所だ。
そこにまだ除染が必要な場所があるとは予想もしなかった。
福島の復興は、まだまだ先であることがよーく分かった。
中に入れないなら仕方がない。
外から安積山公園の大きな石の案内をみて帰ろうとすると、
石碑の手前に、芭蕉が探したという「花かつみ」草が花開いている。

「芭蕉が花かつみ、花かつみと云って探し求めた草は何だとお思いですか?」
後の芭蕉の研究者によると、花かつみは学名「ヒメシャガ」のことのようです。
(花かつみのヒメシャガ)





乙字が滝(芭蕉の道を歩く 39)

2014年06月18日 10時04分25秒 | 芭蕉の道を歩く
(乙字が滝の案内)


(奥の細道【九】須賀川 2)
十念寺を出て、国道118号線にでる。
国道118号線を「乙字が滝」に向かって進むが、かなり遠い。
途中、牡丹の時期には混雑が予想される牡丹園を通り抜け、
まだ先かもうすぐか、距離としては10kmほどあろうか。
信号で(乙字が滝は左)の案内看板に沿って進むとすぐ赤い橋が見える。
橋を渡らず、手前左に駐車スペースを見つけ止まる。
すぐ横にバス停(乙字が滝)がある。
橋に向かって歩くと、橋より下流に滝があるようで、
川に入って釣りを楽しんでいる人がみえる。
赤い欄干の橋を渡ると、
「新奥の細道」として環境庁・福島県の案内看板がある。

左手に立派な駐車場とお手洗いが見える。
通路は奥に延びていて、進むと階段下にお堂が見え、
流れる河音が響いて聞こえる。
滝不動に違いない。
(乙字が滝の入り口)


芭蕉に同行した曽良の旅日記(俳諧書留)によると、
(須賀川より東二里ばかりのところに、石河の滝あると言う。
この乙字が滝を見物に出かけようとしたが、
雨で水かさが増し、川を越すことが出来ないからと、止めている。
・さみだれは滝降りうづむみかさ哉  翁
と一句書いて、滝へ案内すると言っていた等雲という人のもとへ、
お送りになった。)(現代語に筆者訳)と書いている。

ボクが10kmほどあると思ったが、曽良も二里はあると書いているから、
およそそんな距離であろう。
通路の奥の階段を下ると不動堂が見え、
これを滝見不動堂という。

玉川村教育委員会の説明板によると、
(不動明王を本尊とする、和讃には大同三年(808)弘法大使の開基と伝える。
江戸時代初期には、代々の白河藩主が参詣探勝し、
堂宇修繕費として竹木資材を寄進した。)とある。
(滝見不動堂)


この滝見不動の右手に「乙字が滝」が見える。
阿武隈川の底の岩盤に段差があって、
その段差の上を水が流れ、滝に見える。
その段差が10メートルから12メートルほどあり、
「乙」の字のように川底にできている。

玉川村教育委員会によれば、日本の滝百選入選と題して、
次のように書かれている。
(古くは竜崎滝・石河滝とも称した。川幅100メートル・
巨厳横に連なり乙字の形を成す。
川の中央を玉川村と須賀川市の境界とする。
江戸時代白河藩領の頃、遠く海より遡上した鮭、鱒、鮎が、
滝を飛び跳ねるうちに簗に落下する魚が多かった。
多い日には一日千尾を越えるほどで、
これの売買代金は漁猟者の収入になった。
また、ここでとれた初漁は白河藩主に献上することとされ、
藩役人がこの辺に番所を置き看視した。
この役人の食事、宿泊など賄は地元竜崎村が負担した。
その代りに藩に納入する雑税人夫役など免除された。)とある。
乙字が滝、滝見不動堂の案内がある。
(乙字が滝)

(乙の字に繋がる岩盤)


滝見不動堂の左手、杉木立の中に芭蕉句碑がある。

・五月雨の 瀧降うづむ みかさ哉   はせお

(芭蕉句碑)

(俳句が読めるでしょうか)

(奥の細道 石河の滝の石碑)


乙字が滝を出て、郡山に向かう。
今日予約したホテルへ17時に到着すると伝えたあったので、
予定が狂い1時間遅れて到着できるだろうと伝える。

本日の歩行距離18000歩=約11km。





長松院と十念寺(芭蕉の道を歩く 38)

2014年06月15日 15時02分20秒 | 芭蕉の道を歩く
(長松院の門)


(奥の細道【九】須賀川 1)
可伸庵跡を出て本来なら、案内のある十念寺へ向かうのが良さそうであるが、
地図では長松院が近くにあるので、そちらへ先を急ぐ。

車を置いた市庁舎跡に戻り、
そこから長松院まで北へ歩いて数分で到着する。
入口には、大きな石柱があり、右手に万年山、
左側の石柱には長松院と刻まれており、
内側はかなり広くとられていて、車の駐車場になっている。
寺院らしく、鐘楼が見えるその脇に自分の車を駐車させてもらう。
資料では、ここに相良等躬のお墓があることで知られる。
(長松院門前で鐘楼が見える)

(長松院の門柱)

(長松院の山門)

(本堂)


芭蕉は、奥の細道で、
すか川(がわ)の駅(えき)に等躬(とうきゅう)といふものを尋(たづね)て、
四・五日とどめらる。先(まづ)「白河の関いかにこえつるや」と問う。
「長途(ちょうど)のくるしみ、
身心(しんじん)つかれ、且は風景に魂うば々れ、
懐旧に腸を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。

・風流の 初やおくの 田植うた

無下(むげ)にこえんもさすがに」と語れば、
脇(わき)・第三(だいさん)とつづけて三巻(みまき)となしぬ。)

と書いている。

須賀川の相良等躬を訪ねて、芭蕉は一週間も泊まっている。
よほど居心地が良かったに違いない。
等躬に「白河の関越えには、どんな句をお詠みになったのですか」と尋ねられている。
長い道のりを旅してきて、身も心も疲れ、また風景に見とれ、
白河での詩人たちの感慨が身に沁み、腸もちぎれる思いがして、
俳句を詠むまで思いがめぐりませんでした。とは言えと、
・風流の初めや奥の田植うた
の句を挨拶代わりに詠んだ。
長松院の門をくぐり、本堂に近づくと左手に等躬の句碑と墓所の案内がある。
句碑には
・あの辺ハ つくばね山哉 炭けふり  等躬
(等躬の墓所の案内と句碑)

(等躬の墓所の案内)


案内に沿って右へ行き、本堂裏手に向かう。
裏手には真新しい無縁仏の墓を積み上げたような巨大なピラミッドがあり、
最上部にはお釈迦様であろうか、銅像が建っている。
その裏手に相良等躬のお墓がある。
立派なお墓で、相楽家の代々のお墓が並ぶ一画に、等躬のお墓はあった。
上部に「心」の文字があり、その下に、「公雄萬帰居士」
隣に妻の「安室喜心大姉」の」法名が並んでいる。
(無縁仏か真新しいピラミッド)

(相楽家の墓)

(等躬の墓)

(十念寺の案内)


可伸庵跡に戻って、十念寺へ向かう。
古い宿場町であったはずの町には、新しい建物が多く、
案内地図にある家は、建物が新しく建て替えられているものや、
無くなって更地になっているものもある。
これも三年前の地震による影響であろう。

十念寺の手前には割烹旅館でもあったのであろうか、
古い案内地図には、××楼があるはずが、更地になっていて、
その道向こうに十念寺はあるはずが、
お寺らしきものは見えるが、石柱には文字もなく、
石柱に上にも笠がない。

しかし、十念寺はここしか考えられないので、無名の石柱の門を入る。
参道右手の植え込みの中に「十念寺」の控え目の小さな石柱がある。
その横に芭蕉の句碑はあった。
・風流の はじめや奥の 田うゑ唄   はせを
とある。

左手に市原多代女の辞世の句碑
・終に行く 道はいづくぞ 花の宴   多代女
とある。
(市原多代女は須賀川出身の江戸末期女流俳人知られているという。
芭蕉の句碑はこの多代女によって建立された。)(須賀川市)とある。
(十念寺の石柱)

(十念寺の文字も傘もない門柱と本堂)

(芭蕉句碑)

(市原多代女の辞世の句碑)


十念寺を出て、芭蕉が尋ねた「石河の滝」別名「乙字が滝」へ向かう。



軒の栗(芭蕉の道を歩く 37)

2014年06月14日 10時56分01秒 | 芭蕉の道を歩く
(おくのほそ道本町)


(奥の細道【九】須賀川1)
白河から翌々日には須賀川に至り、
相楽等躬(さがらとうきゅう)を訪ね、
芭蕉は一週間も滞在している。

曽良の旅日記には、
「・二十二日 須賀川、乍単斎宿、俳有。
 ・二十三日 同所滞留。晩方へ可伸二遊、帰に寺々八幡を拝。」
とある。
これは、
(二十二日は須賀川の相良等躬(乍単斎)宅に泊まる。
そこで「風流の初めやおくの田植えうた」を発句とする、
芭蕉、等躬、曽良の三人で歌仙を吟じた。)
(二十三日は同じく等躬宅に滞留する。夕方には栗の木陰に世を厭う僧 
可伸の庵を訪ね、その後、お寺を二、三か所回り、八幡神社のもお参りした。) 
と言うことのようです。

そこでボクは須賀川市役所を目指して、国道四号線を進む。
須賀川市役所には、庁舎のほかに芭蕉記念館があるはずだからだ。
しかし、芭蕉記念館は看板があるだけで、記念館は影も形もない。
その奥にあるはずの体育館は、屋根が見るからに崩れそうで、
養生シートが覆われて残っているだけだ。
市庁舎は跡形もなく、その跡に土埃が立つ駐車場があり、
その隣に公民館が残っているだけだ。
3・11の大地震でなくなってしまったのであろうか?
あるいはどこかに移転したのであろう。
無くては市民生活が成り立たない。

地図を頼りに、軒の栗がありそうな場所を探して歩く。
公民館から南に延びる道路を進むと、(本町軒の栗通り)の看板が目につく。
よくよく注意してみると、商店の軒先に置いてある常夜灯に
(江戸や 本町 軒の栗通り)の文字が入っている。
(本町軒の栗通りの看板)

(江戸や本町 軒の栗通りの常夜灯)


その道を進むとすぐ十字路に出る。
出た右手に小公園があって、(軒の栗庭園)の看板があり、
可伸庵跡の地図も描いてある。
その横の木の下に、相良等躬の坐像が置かれている。
本町々内会が作った説明板では、この辺りは等躬の住まい跡であったらしい。
そこでここに軒の栗庭園を残したという。
(軒の栗庭園)


本町々内会の説明によると、
(-前略―
等躬は本名相楽伊左衛門といい問屋の仕事をしながら、
その商業活動のために江戸へ度々出かけていました。
その間に江戸での俳諧活動も持たれ、芭蕉との関係が生まれました。
等躬は奥州俳壇の宗匠としてその地位にあり、
芭蕉に多くの情報を提供し、「みちのく歌枕の地」探訪の旅を助けました。
・風流の初めや奥の田植哥(うた)     芭蕉
・覆盆子(いちご)を折て我もうけ草    等躬
・水せきて昼寝の石やなをすらん      曽良
ここ「軒の栗庭園」は等躬の住む本町に芭蕉が逗留し、
・世の人が見つけぬ花や軒の栗  芭蕉
と詠まれたことから名づけられました。)とある。
(等躬の石の坐像)

軒の栗庭園にあるベンチにはKeep outの黄色のテープがしてあり、
座って休憩することが出来ないのは何故だろう。
後ろの植え込みにある芭蕉と曽良らしき石像が、
恨めしそうに立っているのが印象的であった。
何ミリシーベルトなのか知らないが、
基準を超える放射線量が残っているに違いない。
この小公園を見渡すと、周りにある家というか、
真新しい土蔵つくりの建物が何軒も建っている。
不審に思って家に近づくと、表札があって、
どうやら住まいのようだ。
イタリヤのアルベロベッロにある三角帽子の家を思い出すが、
こちらの土蔵造りの家は、地震に備えた作りであるに違いない。
(Keep Outのテープが張られたベンチ)

(土蔵の家)


軒の栗庭園の看板にある、可伸庵跡やNTTの地図をたよりに、
可伸庵跡を訪ねる。
今来た道を戻ると、軒の栗・可伸庵跡左と長松院右の案内看板があるので、
案内に沿って左折する。
少し狭い道を行くと左側に可伸庵跡はあった。
(軒の栗・可伸庵跡の案内看板)

(可伸庵跡の碑)

(小さな可伸庵)

(軒の栗の木)

(栗のイガ)


可伸庵は思ったより小さな所であった。
と言うのも、

「おくのほそ道」で芭蕉は、
(おおきなる栗の木陰をたのみて、世をいとう僧有。
橡ひろふ太山もかくやと静に覚えられて・・・)

とあるからだ。

その可伸庵は、一寸した休憩所と栗の木と芭蕉の句碑があり、

・世の人が見つけぬ花や軒の栗

が刻まれている。
(可伸庵にある芭蕉の句碑)




庄司(しょうじ)戻しと宗祇(そうぎ)戻し(芭蕉の道を歩く 36)

2014年06月06日 11時40分57秒 | 芭蕉の道を歩く
(奥の細道【八】白河の関3)


(白河関3)
白河関を後に白河市街に向かうと、道路左に桜の木に囲まれた碑がある。
(庄司戻しの桜)といわれ、
通称「霊(れい)桜(おう)碑(ひ)」と呼ばれる碑が中央にある。

白河市教育委員会によれば、
(治承四年(1180)、源頼朝の挙兵を知り、
奥州平泉から鎌倉に馳せる源義経に対し、
信夫の庄司佐藤基治は自子継信・忠信を従わせ、
決別するにあたり「汝ら忠義の士たらば、
この桜の杖が生きづくであろう。」と諭して、
携えていた一本の桜の杖をこの地に突き立てた。
この後、戦いに臨み兄弟ともに勇敢に戦い、
義経の身代わりになって討ち死にした。
桜はその忠節に感じて活着し繁茂したという。
後の天保年間(1830~44)野火によって焼失した後も、
新しい芽が次々と出て、美しい花を咲かせるという。)とある。

忠節を敬う話ではあるが、現代の誰のためにできる話であろうか?
楠正成の「桜井の別れ」を思い出させる話であった。
(霊桜碑)


白河の市街地は白河の宿場町で、
町に入る手前に道路が鉤の手になっており、
宿場らしい建物もたくさん見受けられたが、
市街地に入る一画に宗祇戻しの碑がある。
(宗祇戻しの碑)


一番左側に道標、次にお地蔵様、白河城羅郭岐路碑、宗祇戻しの碑、
一番右側の道路側に「名物だんご」旗の横に芭蕉句碑がある。

白河城羅郭岐路碑の岐路は道標にある、
石川・棚倉街道の分岐点を指しており、

道標には、右 たなくら 
     左 いしかハ道
とある。
(石川・棚倉道の道標)


宗祇戻しの碑にある説明板によると、
(文明十三年(1481)白河城主結城政朝が鹿島神社の神前で、
一日一万句の連歌興行を催した。
これを伝え聞いた都で名高い連歌の宗匠 宗祇法師が、
はるばる奥州に下り、三十三間堂の前を通り、
ある女性から鹿島興行の終了を告げられた。
その時宗祇は女が背負っていた綿を見て、
「売るか」と問うたところ、女はすぐに、
「阿武隈の川瀬に住める鮎にこそ
      うるかといへるわたはありけり」と和歌で答えた。
これを聞いて宗祇は東奥の風流に感じ、ここから都へ引き返した、
と言い伝えられています。)とある。

(筆者注)鮎のはらわたを「うるか」という。

しかし、曽良の旅日記には、
この後、尋ねる須賀川の相良等躬(さがらとうきゅう)に聞いた話として、
説明板とは違うことが書かれているが、
勉強不足で意味がとれない。
どなたかお分かりの方、教えていただけると有難いのですが。

芭蕉の句碑には、

・早苗にも 我色くろき 日数かな はせお翁

とあり、
これは芭蕉が白河の関を越えた折の句で、
須賀川から白河の俳人何云(かうん)に当てた手紙の中にある。
この句碑は、天保十四年(1843)芭蕉の150回忌に建立されたとある。
(芭蕉句碑)


・晴天の 暑さにたえて 石地蔵   hide-san






白河の関(芭蕉の道を歩く 35)

2014年06月04日 19時32分12秒 | 芭蕉の道を歩く
(奥の細道【八】白河の関2)


(白河関2)
「境の明神」を過ぎて少し行くと右折の道があり、
新緑のまばゆい山中を進む。
道なりにかなりの距離を進むと突き当たる。
目の前が、白河の関跡である。

奥の細道には、
(やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白川の関こえんと、・・・)とあり、
曽良旅日記には、
(これより白坂へ十町ほどあり。
古関を訪ねて白坂の町の入口より右に切れて旗宿へ行く。)とある。
白河の関は、この記述と変わりない。
(白河神社鳥居)


目の前に「史跡 白河関跡」の石柱があり、
中央に鳥居と階段が見える。
鳥居の下の階段を登ると白河神社がある。
鳥居右横に「古関蹟の碑」と書かれた石碑が、
石垣に囲まれて建っている。

説明によると、
(白河藩主松平定信が寛政十二年(1800)八月、
ここが白河関跡であることを断定し、建立した碑である。)とある。
碑の裏面には、漢文で次のようにあるらしい。
(筆者の勝手な訳、漢文は「奥の細道の旅」ハンドブックより)
(白河の関は境明神のあるあたりとか言っているが、
あまり古い話で、どこにあるか定かではない。
旗宿にある小山とその麓に白川が流れて、
頂上に小さな祠があるここが、
白河の関跡だと、村の古老も言っているし、
昔の和歌にも詠われている様子から、
ここが白河の関跡だと確信したので、
ここに石柱を建て「白河の関跡」とする。
寛政十二年八月一日
白河城主 従四位下 左近衛権少将 兼
越中守 源朝臣 定信これを記す。)とある。

源朝臣 定信とは、ボクは歴史に疎いからよくわからないが、
三大改革「寛政の改革」を成し遂げた松平定信のことである。
(白河関跡碑)

(松平定信が建てた古関蹟の碑)


話を進めて、鳥居をくぐり階段を上る。
足に自信のない方は、古関碑を右に回るのが良い。
階段途中には、「矢立の松」の関碑がる。

説明によると、
(治承四年(1180)源の義経が平家追討のため平泉を発し、
この社前に戦闘を祈願、この松に矢を射たてたと伝えられる。)
が、その松は見当たらない。枯れて切り株だけが残っていると、
案内板にある。
(鳥居の中を階段で登る)

(矢立の松の石碑)

(白河神社本殿)


頂上には白河神社の本殿があり、左側に三首の歌碑が建っている。
古歌碑にある三首は、
・たよりあらバいかで都へつげやらむ
       けふしら河のせきはこえぬと    平兼盛
・みやこをバ霞とともにたちしかど
        あきかぜぞふくしら河の関   能因法師
・秋風に草木のつゆをはらハせて
きミがこゆれば関守もなし   梶原景季
である。

説明板によれば、
(一首目は、
「便りあらば いかで都へ告げやらむ
       今日白河の関は越えぬと  平兼盛(拾遺和歌集)」であり、
「三十六歌仙の一人、平兼盛が奥州に下り歌枕の白河の関を越えた感激を
都の知人にどうやって知らせようかと詠んでいる」
二首目は
「都をば 霞とともに立ちしかど
         秋風ぞふく白河の関  能因法師(御拾遺和歌集)」であり、
「風狂数奇の歌人、能因法師が羽州に旅した際、白河の関で詠んだ歌、
都と白河の関の距離・時間を詠みこんだ著名な歌である。」
三首目は、
「秋風に 草木の露をはらわせて
      君が越えゆれば関守もなし  梶原景季(吾妻鏡)」であり、
「源頼朝が、文治五年(1189)七月二十九日、奥州平泉の藤原氏を攻める途上、
側近の梶原景季が、白河の関の社殿で詠んだもの。」)と解説がついている。

神殿を右へ行くと、関所跡と思われる空堀跡があり、土塁も見受けられる。
(白河神社左の古歌碑)

(関所跡を思わせる空堀)

(関所跡を思わせる空堀2)

(関所跡を思わせる土塁)

(奥の細道文学碑)


さらに進むと、(奥の細道白河の関)の文学碑があり、
ここには奥の細道「白河の関」の項を、

・卯の花をかざしに関の晴れ着かな  曽良

の曽良の一句までが記されている。

少し下がると、右手に大きな杉の木があり、
{従二位の杉}と題して、
(鎌倉前期の歌人、従二位藤原宮内卿家隆が手植し、
奉納したと伝えられる老木で、推定樹齢約八百年、周囲5m)という。
(従二位の杉)


ここまで歩いてきた小山には(カタクリの自生地)の看板があり、
時期には可憐な赤い花が首を垂れるのを見ることができるようだ。

白河の関の先に、白河関の森公園があり、
ビジュアルハウスや食事ができるところもあるが、
五月のゴールデンウイークの後であり、
木曜日であるのにお疲れ休みか、お店は閉まっていた。
それでも曽良と芭蕉の旅姿はボクたち訪問者を出迎えてくれた。
芭蕉と曽良の銅像の台石には、二人の俳句が刻まれている。
・風流の初めやおくの田植えうた 芭蕉
・卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良


(白河関の森公園)

(松尾芭蕉と曽良の旅姿銅像)

(台石の俳句)


・汗ぬぐい 白河の関 歌枕  hide-san






境の明神(芭蕉の道を歩く 34)

2014年06月02日 16時17分26秒 | 芭蕉の道を歩く
(奥の細道【八】白河の関1)
遊行柳を見て、次は有名な「白河の関」を芭蕉一行は訪ねている。
ボクもその後を追って訪ねていくのだが、芭蕉のように歩くわけではない。
カミサンと同行二人だから車でその足跡を追う。

曾良の旅日記によると、
(関東の方に一社、奥州の方に一社、間二十間ばかりあり。
両方の門前に茶屋あり。小坂也。)
とあるので、
ボクは奥州街道に面して、両社向かい合って在るものと想像していた。

国道294号線(旧奥州街道)を進むと、
左側の栃木県側に「境の明神」玉津島神社があり、
道路向かい側にもう一つの「境の明神」が見当たらない。
道路はやや上り坂になっている。
曾良の言う「小坂なり」である。

(栃木県側の「境の明神」)


那須町教育委員会の説明板によると、
栃木県側の「境の明神」は、
(玉津島神社とよばれ、奥州側の住吉神社と並立している。
創立は古く、天喜元年(1053)四月十四日に、
紀州和歌の浦の玉津島神社の分霊勧請と伝える。-後略―)とある。

何のことはない、福島県側の「境の明神」とは並立していることが分かった。
道路の坂の上を覗くと、(福島県)の案内看板がめる。
坂の上が県境なのだ。坂を登って上を見ると、もう一つの鳥居が見える。
福島県側の「境の明神」なのだ。

(福島県側の「境の明神」)


福島県側の「境の明神」については、白河市教育委員会が、
(旧奥州街道に面して、
陸奥(福島県側)と下野(栃木県側)の国境を挟んで境の明神が、
二社並立している。
陸奥側の「境の明神」は、玉津島神社を祀り、
下野側の「境の明神」は住吉神社を祀っている。

-中略―

境内には越後新発田藩溝口家や南部藩士などが寄進した灯籠が並び、
松尾芭蕉の「風流のはじめや奥の田植え唄」などの句碑や
歌碑も多く建立されている。)とある。

つまり福島県側も栃木県側も、自分の所は玉津島神社であり、
県境を挟んで相手側を住吉神社だといっている。
話がややこしいのはここにある。

答は、白河市教育委員会の解説板にあった。

玉津島神社と住吉神社と題して、次のように記載されている。
(玉津島明神(女神、衣通姫(そとおりひめ)と
住吉明神(男神、中筒男(なかつうおのみこと)は、
国境の神・和歌の神として知られ、女神は内(国を守る)、
男神は外(外敵を防ぐ)という信仰に基づき祀られている。
このため、陸奥・下野ともに自らの側を「玉津島を祀る」とし、
反対側の明神を「住吉明神を祀る」としている。)としている。

道路を挟んで二社が向かい合っていると勝手に思い込んでいた自分が悪い。
福島県側の「境の明神」と栃木県側のそれとは旧奥州街道に面して、
二社並立していることが分かった。

また、双方とも玉津島神社であり、
反対側は住吉神社と呼んでいることも解かった。

そこでボクは栃木県側から来たので、栃木県側を玉津島神社、
福島県側を住吉神社と呼ぶことにした。

(福島県側の「境の明神」の門)

(福島県側の「境の明神」本殿と奉納された灯籠)

(芭蕉の「風流のはじめや奥の田植え唄」の句碑)


他に、大江丸の「能因にくさめさせたる関はここ」の句碑、
思案の「卯の花や清水のすえの里つづき」の句碑もあったので、
掲載しておきますが、写真を見て読めるでしょうか?
(大江丸の句碑)

(思案の句碑)


陸奥(福島県側)の境の明神の前の道路を挟んで向かい側に
「白河二所ノ関址」の看板がある。
白河の関はここにあったとする跡である。
陸奥と下野の二か所の明神があったところに白河の関はあったとされ、
それで「白河二所ノ関」と呼ばれたという。
(白河二所ノ関址の看板)



・若葉には 二所の境は 見当たらず   hide-san