![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/ed/ea0e2ce4287cd50e39cd0065c94e0020.jpg)
(しだれ桜の木)
(落合宿 4)
左手に「中山道」の案内を見て、さらに坂を下り進むと左手に、
見事な(しだれ桜)に覆われた一里塚と見まちがえる塚が見える。
小野の地蔵堂石仏群のある場所である。
中津川市教育委員会に寄れば、
(昔、この辺りに地蔵堂があったといわれていますが、
所在は明らかになっていません。
中山道を通る旅人の心を和ませたといわれる枝垂れ桜が境内にあり、
街道まで枝が延びて趣があります。
ここは無縁の石仏を集めた所とも伝えられ、
元禄七年(1694)の庚申塔や地蔵、観音像など数多く祀られています。
また、文政五年(1822)の「南無阿弥陀仏」と独特な文字で書かれた
高さ約2mの徳本行者の名合石があり、
生き仏といわれた彼が、
文化年間(十九世紀はじめの頃)にこの地に逗留して、
「称名念仏」を布教したことを偲ばせます。)とある。
石仏群を後に進むと変則十字路に出るが、
突き当たりに「中山道」の案内があり、
道路にある黄土色と白の石が入ったアスファルトが
進む道を案内してくれる。
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(しだれ桜の下にある石仏群)
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(変則十字路、道路の黄土色と白色の石が入った中山道)
国道19号線にぶつかるが、右手に地下横断歩道があるのが見え、
入口に中山道と書かれているので、地下道で国道を渡る。
地下道の中には、地元の中学生が調べて作成したと思われる案内があった。
「歴史の道中山道」と題して次のように書かれている。
大切なことであるので、確認の意味で書き記しておきたい。
(中山道は江戸時代の主要な交通路で、
東海道、日光道中、奥州道中、甲州道中と並ぶ五街道の一つであった。
宿駅は武州(埼玉県・東京都)に十ヶ宿、上州(群馬県)に七宿、
信州(長野県)に十五ヶ宿、木曽(木曽谷)に十一ヶ宿、
美濃(岐阜県)に十六ヶ宿、近江(滋賀県)に八ヶ宿の67ヶ宿が
中山道の宿駅である。
京都までは東海道の草津と大津の二宿を加えて江戸から京都まで69宿となる。
その距離は江戸日本橋から京都三条大橋まで532kmと、
135里24町8間あった。
古文書(御触書廿二)に
「東山道、山陰道、山陽道いずれも「山」の字を「セン」とよみ申し候。
東山道の内の中筋の道に候故に古来より中山道(ナカセンドウ)と申事に候。」
享保元年(1716)と説明している。)とある。
その他、このトンネルを出て、尾州白木改番所まで○○mなど、
史跡までの道程がたどたどしい文字で書かれていてほほ笑ましく感じた。
地下道を出ると、西の出口に地下道を造った時、
記念にでも作ったのか真新しい双体道祖神が置かれており、
少し興ざめである。
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(国道19号の地下道)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/ce/06b369537cea168d8479562e7e30ba63.jpg)
(真新しい道祖神)
さらに道路を西に進むと、左手に道祖神など石仏群を見て、
右手に「尾州白木改番所跡」があり、尾張徳川家の管理下にあったことが解る。
木曽11宿は尾張徳川家の管理下にあり、
徳川幕府は木曾の材木を幕府の手中に納めていたことがよく解る。
それだけでなく最も信頼が置ける者に管理させて、
裏切りは絶対無いと安心するために親族に管理させていたのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/63/515c9a3b216bd465cae7e05ed908ec96.jpg)
(道祖神、常夜灯の石仏群)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/3e/5d7c3687674b6c09641f77d444370b77.jpg)
(「尾州白木改番所跡」の碑)
左手に旭が丘公園を見て坂を下る途中左手に、
二基の庚申塔と共に芭蕉の句碑があるのが見える。
・山路来て なにやらゆかし すみれ草 はせを
説明では、
(松尾芭蕉の句は、貞享2年(1685)の3月27日頃の吟で、
前書きに「京都より大津に出る道、山路をこえて」と
「甲子吟行 別名 野ざらし紀行」にある句で、
碑は大津出身の菅井家先祖が、ここから見た宿場のたたずまいが
(京都から大津に出る山道)近似していることから、
常に、その情景を孫子(まごこ)に語り伝えてきました。
三代 菅井嘉兵衛孝伯のとき郷愁にふさわしい この秀句を選び、
安永2年(1772)芭蕉八十回忌に父祖の慰霊を兼ね、
中山道に面して建てられましたが、
30年前に保護するため、道筋から外し、
昭和53年(1978)3月、
昔の面影を残すため、この場所に移した。)とある。
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(庚申塔)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/b3/b1b8a151d10dfc6e66d417db6c1f0341.jpg)
(芭蕉句碑)
落合宿は中津川と比べると、60mほど高台にあり、
街道はすでに下ってきているが、この先もジグザグに石畳を下って行く。
途中で周りを見渡すと、
確かに中津川市街を見渡すことが出来る高さにあることが解る。
この坂を茶屋坂といい、途中市道を歩道橋で渡ります。
歩道橋を下りた階段手すりに中山道こちらの案内があり、
なお、下ると左手にまた階段があり「茶屋坂周辺中山道」の案内がある。
案内に沿って階段を下りると右手に、二十三夜塔、庚申塔、常夜灯があり、
左手に高札場が復元されている。
中津川市によれば、
(高札場は、元の位置は復元されている高札場より、
10mほど坂を登った北側の街道に面して建てられていた。)と言うから、
今降りてきた階段の上の道路上にあったものと思われる。
復元された高札場を見て、背にしている道路が旧中山道で、
道路はすぐ右に大きく曲がっている。
ここから中津川宿に入って行く。
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(茶屋坂を下る石畳)
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(市道をまたぐ歩道橋が中央に見える)
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(歩道橋からは中津川市が見渡せる)
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(歩道橋を降りたところにある案内図)
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(坂の途中にある階段と中山道の案内図)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/2b/ab91d8333b6327a460a019a062bf0df6.jpg)
(階段下の二十三夜塔や庚申塔)
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