中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

須原宿と岩出観音(旧中山道を歩く 190)

2009年11月28日 09時42分16秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(広重描く浮世絵 木曽海道69次之内「須原」)

中山道広重美術館によれば、
(須原宿のはずれ当たりの辻堂を描いたものか、
あるいはこの宿の北のはずれの鹿島の祠か、
あるいは津島神社の御堂とされる。
一転にわかにかき曇り、突如降り出した夕立に、
あわてる旅人の姿が描かれている。
背景にはこもをかぶって雨を凌ぐ騎乗の旅人たちが描かれている。)
とある。

(須原宿 2)
旧中山道を歩きはじめて32日目。

昨日は曇り空であったが、
本日(2009年10月21日)は快晴で雲ひとつない。
朝起きてからのデイリールーチンで思ったより時間が掛かり、
予定していた電車(7:38発)に乗り遅れると、
次の電車は二時間後の10:10分まで電車がないことを知った。

いくら田舎でも一時間に一本の電車はあると思って、
昨日須原駅までの切符を買うときに、
大体一時間に一本ぐらいの割合で電車はありますか?と
駅員さんに確認しておいたのに、この時間帯は特急電車しかなく、
ボクが乗りたい普通列車は二時間待ちとなった。

二時間を駅前でボーっとしているのも悔しくて、中津川宿を歩くことにした。
中津川宿は長さ1kmほどの間に歴史的建造物があるというので、
二時間を利用して散策を済ます。中津川宿については、
いずれ宿場まで歩いてきたときにお話したいと思います。

さて、二時間遅れのスタートとなって、11時20分須原駅をスタートする。
駅前に、桜の花漬を商う「大和屋」、
その左側に(須原の一里塚跡)の石碑がある。
水舟の里にふさわしく須原宿の道路の両脇のところどころに水舟がおいてある。
さらにその先には、高札場跡があり街中に入っていくが、
江戸時代にタイムスリップしたような雰囲気の建物が静かに並んでいる。


(JR須原駅)


(街の所々にある水舟)


(高札場跡)


(古い家並み)

中山道「上町」の常夜灯を模した灯籠があり、左側に須原宿の本陣跡、
右側に清水医院跡、脇本陣の西尾酒造がある。
宿場の中心地に入ってきている。

清水医院は文豪 島崎藤村の小説「ある女の生涯」の舞台となった医院跡である。
医院建物は、愛知県犬山市の明治村に保存されていると(大桑村観光協会)が案内を出している。

その先の脇本陣西尾家について、
大桑村による沿革が記されているので紹介したい。
(旧脇本陣 西尾家の祖は、代々菅原の氏を名乗る族柄にして
大永・天文年間(1522~1554)の頃
この地、信濃の須原に住し地域の開拓に力を尽す。
西尾家は木曽屈指の旧家にして、
木曽家の家臣として重きを成す。
ことに西尾丹波守は馬術又武芸に優れ、
木曽義昌公の信任極めて厚く、
鳥居峠や妻籠城の合戦等に参画転戦して、
その武功著しきものありと伝えられる。
天正18年木曽義昌公は豊臣秀吉の命により、
突然、下総の網戸に移封せらるるも、
西尾家は依然この地に留まり、
その後は木曽代官山村家に仕え、
尾張藩の山林取締り等の重責を担う。

慶長五年(1600)中山道宿場のできるに当たり、
須原宿の脇本陣、問屋、庄屋を兼ね宿役人として重きを成し、
地域の発展に貢献せり。
その後寛延・慶応の二度にわたる火災遭遇し記録の一部を焼失するも、
今尚、当時の隆昌を物語るに足る古文書、書画、什器等多数蔵することは
文化財として貴重な存在である。)(大桑村)とある。

一方で別の見方をすると、下総に移封された主君に服従せず、
地元で造酒屋をしていたほうが良いと
そのまま木曽に残り山村代官に従い、
後には尾張徳川家の重責を担ったとは言え、
その態度は、主君に忠義ではなかったといわれても仕方あるまい。
最もこの時期、こうした忠義の心は武士の間に廃れつつあったのかもしれない。


(上町の常夜灯)


(本陣跡)


(藤村の小説に出てくる「清水医院」)


(脇本陣家 西尾酒造)


(正岡子規の歌碑)


(かしわや)


(枡形手前の鍵や)

話は元に戻す。
道路をさらに進むとやはり左手に正岡子規の歌碑がある。

・寝ぬ夜半を いかにあかさん 山里は
           月出つほどの 空たにもなし  子規

須原宿は島崎藤村、幸田露伴、正岡子規などの文人が訪ねた静かな山里である。
正岡子規の歌碑の前には豊富に流れる水舟が置かれている。

須原宿は街の中心地から西に向かい、宿場はずれの旅籠 柏屋(かしわや)、
その右手に「鍵屋」があり枡形になって、
敵から防御するための鉤の手の街づくりになっている。
「かしわや」と「鍵屋」の先にガードレールの橋(見落としやすい橋)がある。
直進すれば浄戒山定勝寺があるが、橋を渡ってすぐ川沿いに右折する。
これが旧中山道である。
道は下りになり左にカーブしていく、カーブした右手は竹薮で、
中部北陸自然道の案内看板があるので、道が正しいことが解る。


(古い町にふさわしい郵便局、この先にあるガードレールの橋)


(この白いガードレールが橋でこの先を右折)


(ガードレールから覗くと川があり道がある。これが中山道)


(道なりに左へカーブした所に竹薮と案内看板がある)

道なりに進むと定勝寺前を直進した道路と合流する。
少し進むと左手に直進「国道19号」の案内がある。
さらに少し先にある「国道19号、中山道、岩出観音」直進の案内を見て,
道を登ると中央本線西線の踏み切り「第9号仲仙道踏み切り」を渡る。
山裾のどんぐりが落ちている上り道を左へ曲がって行くと、
今度は下り道となり緩やかに右に曲がる。
人家が多くなり街中の感じがする。
橋を渡り左手に郵便ポストを見たら、その先を左折する。
案内書では左折後かなり歩かないと岩出観音に到達しないかのようにあるが、
実際には左折後50歩ほど先の左上方に観音堂はある。

岩出観音堂はその名の通り、岩に出ている観音堂で、
京都の清水寺のように懸崖作りとなっている。
説明より、「百文(本当は「百聞」が正しい)は一見にしかず」で、写真をご覧ください。
観音堂を写真に上手く収めるには、
右手のマンションの駐車場に入れさせてもらい、
駐車場の右隅で撮ると良いアングルのショットになる。
旅人の守護神である馬頭観世音が祀られている。
岩の上に足場を組んだような形で堂があるので
「木曽の清水寺」とも呼ばれ、
中山道を上り下る旅人たちが詣でる場所であった。

もちろん、私もお参りをした事は言うまでもない。


(19号こちらの案内)


(中山道と国道19号の案内)


(第9仲仙道踏み切り)


(下り坂の奥の橋を渡る)


(左側のポストの先を左折)


(岩出観音堂(マンションの駐車場からアングル)


(「木曽の清水寺」も普通に撮ればこんな感じ)


(トンネルが見えたら引き返して欲しい)


(金網の駐車場を右折すぐ橋に出る)


(伊奈川橋)


(橋を渡って振り返った景色ー浮世絵とは雲泥の差)

案内書では、その先を右にカーブする道を行くと伊奈川橋に出るとあるが、
観音堂が見えたら、すぐ直角に右折するのが正しい。
先に進んで、トンネルに出たら道路は誤りですので、引き返して欲しい。
観音堂の前の金網の中が遊園広場になっていて、
金網沿いに案内標柱を見つけることができる。
案内は「国道19号 0.7km、天長院2.1km」右方向の標柱が立っている。

道なりに進むと伊奈川橋はあり、
自動車道と歩道橋とに分かれている。
橋を渡り終えると、道路は右に登り坂になる。
少し行ったところで伊奈川橋を振り向いた所が、
広重・英泉合作の浮世絵の「木曽海道69次乃内」にある
渓斎英泉が描く「木曽路駅野尻 伊奈川橋遠景」である。

中山道広重美術館によれば、
(伊奈川橋は、
川の両側に石垣を設けその上に順次せり出していった反り橋で、
中山道の名橋の一つとして知られていた。
大胆に線描を駆使して色分けされた水流の表現、
高所にやっと架けられた橋の形態、
あるいは岩肌の描写など、随所に北斎の強い影響が見て取れる。)とある。

デフォルメされているとは言え、とても美しい浮世絵であるが、
実際の風景写真をそこまで美しく撮ることが出来ない腕の悪さは、
プロとアマの違い以上である。

この橋を境に野尻宿に入って行く。


(英泉描く浮世絵 木曽海道69次之内「伊奈川橋遠景」)


(伊奈川橋の先で撮ったこの写真のほうが出来は良い?)







文豪 幸田露伴と須原宿の名誉「桜の花漬」(旧中山道を歩く 189)

2009年11月21日 08時38分15秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(水舟の里「須原宿」の案内)


(須原宿)
「水舟の里」と「須原宿」の看板を見てホッとするが、
実は旧中山道はまだ国道に沿って先に進まなければならない。
宿場より後にできたJR須原駅への道は旧中山道ではないからである。
「水舟の里」の水舟とは丸太を舟のようにくりぬき、
中に水を入れたもので、飲み水、用水桶代わりにしたものである。
湧き水が絶え間なく流れている。

看板を横目に見て先に進むと、左に脇道が見えるのでこの道を登る。
これが旧中山道である。
登り道は左へ折れ曲がっているが、そのまま坂道を登ると、
古めかしいいかにも時代物の塀があり、
その先に武家屋敷の門のような門が見える。
門は倒れそうで角材で支え棒がしてある。
その門の先に階段があり、須原宿らしい古(いにしえ)の街道に出る。
左後方を見ると道路の先が広がり駅前広場という感じである。

JR須原駅である。

(左の脇道へ行く、白く引いた矢印はウオーキング大会の跡)


(武家屋敷風の建物の塀)


(武家屋敷風の家の門)


(階段を上がると街道に出る)


(須原駅前の広場)


(幸田露伴の文学碑と水舟)

駅前には、幸田露伴の文学碑と水舟が置かれていて、
豊かで清らかな水が絶え間なく流れている。
須原宿では、幸田露伴を避けて通ることはできない。
幸田露伴の出世作「風流仏」の舞台になった所であるからだ。

幸田露伴の「風流仏」は、流れるような美しい文章で、
樋口一葉の文体に似通っているように思われる。
しかし樋口一葉もそうであるが、一度読むと病み付きになってしまう。
幸田露伴の女性の美しさを見事に表現しているその一節が、
須原駅前の文学碑に「幸田露伴と須原宿」と題して次のように刻まれている。

「文豪幸田露伴は明治22年冬の頃木曽路を旅して須原に泊る。
彼はこの地を訪ねた縁を基にその出世作小説「風流仏」を著す。
時に22歳。
ここに文中の一部を抜粋し記念碑として文豪露伴を偲ぶ。」とあり、
次の一節が刻まれている。

(仮名を振りましたので読みにくい所もありますが、名文ですので、是非ご一読を!)

「名物(めいぶつ)に甘(うま)き物ありて、
空腹(すきはら)に須原のとろゝ汁殊(こと)の外妙(みょう)なるに
飯 幾杯(いくはい)か滑り込ませ(すべりこませ)たる身体(からだ)を
此尽(このまま)寝さするも毒とは思えど為(す)る事なく、
道中日記注(つ)け終(しま)いて、
のつそつしながら煤(すす)びたる行燈(あんどん)の横手の楽落(らくがき)を読めば
山梨県士族(しぞく)山本勘介(やまもとかんすけ)
大江山退治(たいじ)の際一泊と禿筆(ちびふで)の跡、
さては英雄殿もひとり旅の退屈に閉口しての御わざくれ、
おかしき計(ばか)りかあわれに覚えて
初対面から膝(ひざ)をくずして語る炬燵(こたつ)に
相宿(あいやど)の友もなき珠運(しゅうん)、
微(かすか)なる埋火(うずみび)に脚をり、
つくねんとして櫓(やぐら)の上に首投(なげ)かけ、
うつらうつらとなる所へ此方(こなた)をさして来る足音、
しとやかなるは踵(かかと)に亀裂(ひび)きらせしさき程の下女にあらず。
御免なされと襖(ふすま)越しのやさしき声に胸(むね)ときめき、
為(し)かけた欠伸(あくび)を半分噛(か)みて何とも知れぬ返辞(へんじ)をすれば、
唐紙(からかみ)するすると開き丁寧(ていねい)に辞義(じぎ)して、
冬の日の木曾路嘸(さぞ)や御疲(おつかれ)に御座りましょうが
御覧下(ごらんくだ)され是(これ)は当所(とうしょ)の名誉(めいよ)花漬(はなづけ)
今年の夏のあつさをも越して 今降る雪の真最中(まっさいちゅう)、
色もあせずに居りまする梅(うめ)桃(もも)桜(ざくら)のあだくらべ、
御意(ぎょい)に入(はい)りましたら蔭膳(かげぜん)を信濃(しなの)へ向けて
人知らぬ寒さを知られし都の御方(おかた)へ御土産にと
心憎き(こころにくき)愛嬌(あいきょう)言葉(ことば)商買の艶(つや)とてなまめかしく
売物に香(か)を添(そ)ゆる口(くち)のきゝぶりに利発あらわれ、
世馴(よな)れて渋らず(しぶらず)、さりとて軽佻(かるはずみ)にもなきとりなし、
持ち来(きた)りし包(つつみ)静かにひらきて
二箱(にはこ)三箱(さんはこ)差し出(いだ)す手つきしおらしさに、
花は余所(よそ)になりてうつゝなく覗(のぞ)き込む此方(こなた)の眼を避けて背向(そむ)くる顔、
折から透間(すきま)洩(も)る風に燈火(ともしび)動き
明らかには見えざるにさえ隠れ難き美しさ。
我(が)折れ深山に是(これ)は何物。・・・」(大桑村観光協会)

と、小説「風流仏」の最初の部分が刻まれている。

物語は、上の碑文でも判るように、珠運(しゅうん)と言う名の旅の仏師が、
桜の花漬をお土産のどうかと、
売りに来た娘の美しさに打たれ、恋をする。
娘は爵位のある方のお嬢様で、とても仏師が恋をする相手ではない。
身分が違いすぎる。
想い焦がれながら仏像を彫ると、仏像は娘のかたちとなる。
仏師の思いがその像に魂を入れたのか、
娘自身がその場に姿を現したのか、
あるいは思いつめた仏師の妄想なのか、
像が動いたのやら女が来たのやら、解らぬままに抱きしめあい、
互いに手を取り合って天に昇っていく・・・そんな幻想的な恋物語である。

などと感傷に耽っている場合ではない。
時間はすでに15時をまわっている。
今日の宿泊場所に行くには15:39分の電車に乗らねばならない。
そして明日はこの須原から直線距離で18kmほどを歩く予定だから、
少しでも須原宿を見学しておかねばならない。


(須原宿の古い家並み)

予定としては宿場はずれの定勝寺(じょうしょうじ)まで行って、
見学済ますべく足を早める。
左右の町並みを眺めながら、本陣はここ、脇本陣はここ、
旅館の「かしわや」は此処と目星を付けておく。
「かしわや」の先で京都方面から歩いてきたと思われる三人組とすれ違い挨拶を交わす。
少し夕方の気配を感じる。
秋の陽はつるべ落としという。
定勝寺の門前ではもう薄暗くなりかかっていたが、
門内に入り本堂、蓬莱庭、見事なつくりの庫裏などを見学して、
電車の時間に間に合うよう駅にとって返す。


(定勝寺の古刹らしい山門のたたずまい)


(本堂入り口)



(蓬莱庭)

(白壁と木組みの美しい庫裏)

駅前広場の一角に散歩の途中か老婆が腰を下ろし休憩していた。
地方に行くと習慣になっている「人に会ったら挨拶をする」原則に基づいて
「こんにちは」と挨拶すると、
「どこからお出でになった?」質問。
「東京です」と応えると、
「私は須原で生まれ、小中学校を須原で、その後東京の目黒に出て裁縫の勉強をし、
卒業後東京で10年暮らした。東京で知り合った男性がやはり須原の人で、
結婚して須原に帰った。長男がいてこれも東京で生活していたが、妻に先立たれ、
今須原に帰ってきている。
私は主人に先立たれ一人暮らしだったので、
妻をなくした息子を呼んで、今は二人で暮らしている。」とのこと。
お年をお訪ねすると大正6年生まれの92歳という。
息子さんはたまたま幼稚園バスの運転手をして欲しいと、
知り合いに誘われて今その仕事をしています、という。

息子は72歳と言う。それではボクと同じ年ですねと、
本当はボクのほうが二歳年上なのだが、話を合わせる。
聞きもしないのに身の上話をしたのは、きっと普段話し相手もいないからに違いない。

「幸田露伴の小説に出てくる(当所の名誉花漬)を扱っている
大和屋は駅前にあるというが、どこにありますか?」と聞くと、
何のことはない、目の前にあった。
大和屋に行くとお客さんはほとんどないらしく、
店に居た子供が大声で
「お客さんだよ!!」と遠くに向かって呼ぶ。
「はーい」と妙齢の女性の返事が返ってきた。
露伴の思い描いた娘が出てくるかと、
期待に胸膨らませると、
確かにボクの年齢にふさわしい、妙齢の女性が出てきた。
「須原名物桜の花漬はありますか?」と訊ねると
「ハイハイ」と二つ返事でガラス棚から取り出し
「800円です」という。
品物を見ると50gと書いてあり、
気分は現実に戻って随分高く感ずるが、
名物だからと購入する。

表紙に(素晴らしいぞえ須原の桜、つけて煮え湯ののなかで咲く)とあり、
お召し上がり方(コップまたは湯呑みに桜の花房を一、二輪入れて、
煮え湯を注いでくだされば、桜の風味が出ておいしく召し上がれます)とある。

そして予定の電車に乗り、本日の旧中山道歩きは終り、明日また出直すことにする。


(須原名物 桜の花漬)


(桜の花漬の大和屋、花漬は今は此処でしか扱っていない)


(駅舎)

後日譚:
桜の花漬けについて、昔は7~8軒ほど造っている所はあったが、
今は何処にもなく、この大和屋だけになってしまった。
思い起こせば、甥姪や娘や息子の結婚式の時にも「桜の花漬け」は出てこなかった。
ここ20年以上桜の香りがするお茶を頂いた記憶が無い。
家に帰るなり、熱湯をそそぎ、
露伴に言わせれば都の良き方(ボクの場合=老妻)と二人で頂いた桜の花湯は、
若き頃をしのび、とても美味しかったことを報告しておきます。






須原宿までの厄介な旧街道(旧中山道を歩く 188)

2009年11月12日 08時42分33秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(名古屋まで123kmの標識)

(上松宿 7)
上松宿から次の須原宿までの距離は長く、入り組んでいる。
つり橋を過ぎて少し先で、国道19号に合流したら、
国道の反対側にある歩道を歩こう。

すぐ「名古屋まで123km」の案内看板があるが、
これを尻目に歩くとやがて倉本駅に近いことがわかる。
倉本駅を通り過ぎて「倉本」の信号で左に入る道があるので左に入る。
ガードをくぐると、道路はさらに左方向へ、もと来た道に戻るのではないかと心細くなるが、
坂を上がると突き当たりにカーブミラー、正面に「くらもと」の標柱が見える。
手前に林機械商会の建物がある。
ここまで案内書通りである。


(倉本の信号)


(道路は戻るように感じる)


(カーブミラーと「くらもと」の標柱)


(左右に分かれる道は民家のあるほうに進む)


(左石垣の上に「至須原」右の案内あり)

「くらもと」の標柱で右方向に進路をとり進むと、
道路は左に大きくカーブする道と、直進は民家の庭先に入る道に分かれる。
躊躇しながら民家の庭先の道を選ぶ。
これが正解で、二股の間に分かりにくい「右須原」の案内が見える。

少し行くと左手に常夜灯と庚申塔が並んでいる。
この庚申塔は「除三尸乃罪(のぞくさんしのつみ)」と刻まれている。

この庚申塔について上松町教育委員会の説明によれば、
(暦の上で60日に一度巡ってくる庚申(かのえさる)の日に、
その夜眠らずに過ごして、長寿を願う信仰を庚申待ちといいます。
人間の身中には、誰でも三尸九虫(さんしきゅうちゅう)が宿っていて、
この虫は庚申の夜に人が寝た時、
天へ上って天帝に、人間の罪過を告げて、
人の生命をちじめると言います。
この虫の報告が五百条になると、その人は死ぬそうです。
そこで、庚申の日に、三尸(さんし)の虫が、人が寝ている時天に昇らぬように、
夜起きているわけです。
普通庚申塔と刻まれている塔が多いが、
倉本のこの塔は「除三尸乃罪(のぞくさんしのつみ)」と彫られていて、
年号も享保十二年(1727)で上松町では一番古いものです。)
とある。

(常夜灯と庚申塔)


(中央に駐車場を見て右の草道へ)


(柿の実が色づいた草道)


(京都側からは「中山道」の矢印案内がある)

道路はその先でまた二股に分かれる。正面は駐車場になっている。
右手の民家の畑のような草道のほうへ下る。
草道は国道19号に合流するが、京都方面から来る人には、
矢印で「中山道」の看板でこの草道に誘導している。
国道19号に出た向こう側にドライブインがあるのが目印になる。
しばらくは国道を歩くと、右側にパーキングの大きな「P」の看板があるが、
その中に一里塚跡の碑がある。
江戸より七十四番目「倉本の一里塚」であるが一里塚は存在しない。


(ドライブイン)


(パーキングの中に一里塚はある)


(一里塚跡の碑)


「(池の尻」の信号、先に「うどんや」が見える)

一里塚のすぐ先の「池の尻」の信号で右脇道に入るのが旧中山道。
舗装道路がしばらくあって畑の中を歩くが、
舗装の自動車道路は途中で終って草道になり、
先を見ると国道19号に合流するのが見え、
合流する手前に廃屋になった食堂があり、その裏手に出て行く。

国道に出てしばらく歩いて、
(阿寺渓谷12km、フォレスパ木曽12km)の案内看板があったら、
右脇道に入る。
国道沿いの道を進み、また国道に合流する。
合流する手前に廃屋がある。


(しばらく続く国道19号線)


(この看板の先の右側の道を行く)


(すぐ脇の道)


(廃屋)


(横断歩道を車に注意しながら渡ろう、向こう側にしか歩道はない)

a href="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/98/1a1db24c1179924bde36486bfcedb8a0.jpg">
(先に見えるしだれ桜。歩道左の狭い道を行ってはならない)

ここで自動車に注意して道路を反対側に渡ろう。
左側にしか歩道がないからである。
案内書では、「国道土手のしだれ桜を見て左の細い道へ」とある。
道路反対側を見ると、道路端に歩道があり、
その左端に細い道があり,
先に桜の大木が見えるので、
その細い道を行くように書いてあると錯覚するが、

その道を行ってはならない。

桜の木の先は道がないどころか、無理に行こうとすれば、
谷に落ち込むかも知れないのだ。
注意が必要である。 
あくまでも、国道の左側にある歩道を進まれますように注意願います。

旧中山道は国道に合流して脇の歩道を歩きますが、
しばらくして歩道がなくなり、歩道用に脇道が作られており、
(歩道案内)のたて看板があるので指示に従って歩くと登り下りの坂になり、
橋を渡りまた国道に合流する。
合流すると同時に「水舟の里」と「須原宿」の看板があり、左へ道路が分かれて行く。
その先にはJR須原駅がある。

やっかいな旧中山道をたどり、やっと須原宿にたどり着く。


(歩道案内の看板)


(水舟の里、須原宿の看板)






木曽古道とつり橋(旧中山道を歩く 187)

2009年11月06日 08時29分04秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(荻原の一里塚跡の石標)

(上松宿 6)
木曽路の旧中山道は、国道19号線に沿って、合流したり離れたり、
特別ややこしいので注意が必要であるが、
複雑であるためにまた楽しいと言う一面もある。

「荻原の一里塚」跡の碑は、江戸から73番目で、およそ292kmである。
一里塚は無くなっている。この一里塚から国道の左側を歩くが、
すぐにまた国道に合流する。合流した地点に「荻原」の信号があり、
その先しばらく国道19号線に沿って歩く。
右手に「阿寺渓谷16km、柿其渓谷24km」の案内看板あったら、
左へ脇道を入る。坂を登った先に左へガードがあるのでくぐる。


(荻原の信号では国道方向に進む)


(案内看板を見たら左折してガードへ)


(ガード)


(ガードを出て右折した最初の人家)


(その先の民家の土蔵の前を抜ける)

{今日の予定は、柿其橋までであるから直線でまだ24kmもあるのか、
旧街道を行くから、きっと1.5倍はあるに違いないと覚悟を決める。}

想いはともかく現実には、JR中央本線のガードをくぐり、すぐ右へ。
庭木の手入れが行き届いた家の前を通り、山の中の登り坂を行く。
やがて木曽古道の看板が見え、
その先で、道順はこれでよいのか疑われるような道――民家の庭先、
壁の剥がれかかった土蔵の前、を進む。
道は草道になり、両側は畑そして下り坂になっていく。
右手はJR中央本線を上から眺めながら歩き道は下るので、
今度は中央本線が上に見える。その先は突き当りで階段になっている。
階段で登るのなら、下りにしなければ良いのにと思っていると、
案内看板に「階段は登らない」とあるのでホッとする。
どうなるかと言うとここで道は直角に右に折れ、中央本線のガードをくぐる。
ガードをくぐると、急勾配の下りになり、国道19号線と合流する。


(木曽古道の案内)


(下りの草道)


(突き当たりの階段と右手のガード)


(神社の石垣と「ねざめ学園」の看板)


(神社の鳥居)


(案内地図)

目を上げると、左手の高い所に鳥居があり、神社がある。
神明神社である。
まん前に、「木曽ねざめ学園」右矢印の看板がある。

神社の手前道路に「木曽古道」「中部北陸自然歩道」の細かな地図がある。
今通ってきた道だ。

旧中山道を歩いていつも思うのであるが、
歩くには京都方面から来たほうが案内看板は充実しているように思う。

その神社を過ぎてすぐまた左の脇道に入る。
左側は中央本線の石垣で、右手には民家が並ぶ。
少し歩くと正面に歩道橋が見える。
案内書によれば、「立町」の信号に出るようになっているが、
信号は国道を少し戻ることになる。
国道に出たら、反対側に目をやると、旧中山道が斜めに続いているのが分かる。
信号まで戻らず、歩道橋を渡るほうが交通上危険が無さそうである。


(歩道橋)


(国道に出て後ろを見ると「立町」の信号)

国道から離れて旧道の静かなたたずまいを進むと、
右手につり橋が見えてくる。
なかなか趣のある橋で、
秋深まった雰囲気の静かなつり橋は、
中ほどまで進んで揺られてみたい気分になる。

つり橋を過ぎて少し先で、国道19号に合流する。

(見るからにひなびた田舎のつり橋)





旧蹟 「小野の滝」(旧中山道を歩く 186)

2009年11月02日 08時33分20秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(木曽海道69次の内「上ヶ松」)

「中山道広重美術館の「木曽海道六拾九次乃内」の「上ヶ松}には、
上松宿の南にある「小野瀑布」が描かれる。
斜線を主体にした描写と垂直な滝とのコントラストが興味深い。」とある。


(旧中山道上の越前屋)

(上松宿 5)
元の旧中山道の「越前屋」に戻り進むと、前方に大きな木が見える。
これは桂の木で上松宿の天然記念物に指定されている。

説明によれば、
「この桂の木は現存する上松町の桂の木の中で、
一番太く幹の周囲は4.1mあります。
中山道を旅する人々に春の美しい芽吹き、秋の鮮やかな紅葉は、
絶景「寝覚ノ床」と共に目を慰めてくれました。
ずっと昔、この上で発生した山崩れの際に流れてきた桂の苗木が大きくなったと言う、
伝説が残っています。」とある。

旧中山道は、この桂の木を一回りするように進むと、
その先に寝覚簡易郵便局があり、
ここでは道を左に取り坂道を登るように進む。


(桂の木)


(寝覚簡易郵便局)

その先、左側の石垣の上は上松中学校で、
先の石垣が終わる所で自動車道も終わる。
石垣が切れたところで、草道が二つに分かれるが、
右側の下りの草道に進むのが旧中山道である。
草道は古い石畳になっており左折していくが、下り勾配はかなり急である。
草道を下りきった所で舗装道路に合流する。
道路は登り道になり、すぐ先で二股に分かれる。
この道を右へ向かうと橋に出て、橋の手前に「小野の滝1.2km」の案内があり、
進む道路が間違っていないことが確認できる。

橋から眺める渓谷は、丁度紅葉のシーズンでとても美しい。
しばらく登り坂を進むと、左手に立派な老人ホーム建物の前を通過する。
老人ホームの建物の端から先は、道は左折していき中央本線のガードにでる。


(石垣の上は上松中で正面の家の前で自動車道はなくなる。)


(その先の石畳道は直進で下る)


(舗装道路の合流地点は左折)


(先の二股道は右へ)


(橋の手前の案内でホッと胸をなでる)


(橋から見た渓谷の紅葉、写真の撮り方が下手で、美しく見えないのが残念)

案内書には、ガードをくぐり、すぐ左折するのが旧中山道であるが、
「民家の庭先につき迂回せよ」とある。
しかし、ボクが通りかかった所、たまたまその家の方が庭に出ていらっしゃったので、
「通らせて欲しい」旨話すと、気持ちよく承諾されたので、
心の中では「ラッキー」と思いながら、
しかも写真を撮らせてもらいながら、庭先を通過した。
庭の先は畑で、その先はぐんぐん下りになって国道19号線に合流した。
三角形の一辺を通ったことになる。


(ガードすぐ左の民家の庭先へ)


(両脇は畑の草道)


(先で国道に合流する草道)

国道19号線と合流して、間もなく木曽八景の一「小野の滝」が左手に見える。
上松宿方向から見た「小野の滝」は上に中央本線があるのを感じさせない。
線路を全く意識しないで写真を撮った。撮り終えて須原宿側から滝を見ると、
無粋にも中央本線の線路が滝の前を通り過ぎているのが良く見える。
しかし、滝の姿はこちら側からのほうが良い。

上松町の説明では、
(広重・英泉の合作である、木曽海道69次の浮世絵に描かれている
「上ヶ松」は、この小野の滝です。明治42年鉄道の鉄橋が真上にかけられ
残念ながら往年の面影はなくなりました。
かってここを旅した細川幽斎は「老いの木曾越」の文中で
「木曽路の小野の滝は、布引や箕面の滝にもおさおさおとらじ、
これほどの物をこの国の歌枕には、いかにもらしける」
と手放しで誉めています。


(上松側から見た小野の滝)


(反対側から見る滝には真上にある中央本線の鉄橋が見え、その橋脚が写真に入ってしまう)

また、浅井洌(注)は、この地を訪れて

・ふきおろす松の嵐も音たえて
                 あたりすずしき小野のたきつせ


と歌を詠んでおります。今も上松の旧跡にかわりありません。)とある。

小野の滝を過ぎると間もなく、
「荻原の一里塚」にでて、国道19号と別れ左に入る。


(一里塚跡のある分かれ道)


(一里塚跡の石碑)

(注)浅井洌は「信濃の国」の作詞者。

『信濃の国』はかつて、長野県内の多くの小学校・中学校・高校で、
さまざまな行事の際に歌われてきたため、俗に「信州(長野県)で育った者なら、
全員が『信濃の国』を歌える」「会議や宴会の締めでは、
必ず『信濃の国』が合唱される」「『信濃の国』を歌えない者はよそ者」とやや誇張気味に語られるほど、
信州人(長野県民)に深く浸透していた。
信州大学付属小の校歌となっている。
1968年5月20日に、正式な長野県歌に制定された。(ネット百科事典Wikipediaより)

・長野県人でこの歌を歌えない人は「もぐり」であるようだ。