中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

切通し(旧中山道を歩く 250)

2011年06月25日 10時10分59秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(市民公園)


(境川の桜名所、1200本の桜があるという)


(境川に架かる那加橋)

(鵜沼宿5)
本日(2011/4/7)宿泊先の岐阜駅より名鉄で新加納駅下車。
晴天、本日も気温19℃の予想。


広い市民公園には暖かな日和に沢山の人が散歩や雑談に浮かれている。
公園の先は境川で、那加橋を渡る。
川の両側に植えられた桜の木は何本あるのだろうか。
とても美しい眺めで桜を愛でる人が歩く。
この先の信号(新加納町)で道路はY字路となる。

ここでは道を右にとり進むと突き当たりの形になって、
「新加納の一里塚」碑がある。
道路は直進と右への道に分かれるが、
ここでは直進の道をとる。
この辺りが「間(あい)の宿 新加納」である。
加納宿と鵜沼宿の間は17kmあり、
その中間に当る所に「間(あい)の宿」を置いたのである。

間の宿には本陣はなく御小休所つまり休憩所があった。
これを立場という。
一里塚の標柱右手にその休憩所はあったという。


(新加納町の信号、奥のほうでY字路を右へ)


(中山道の案内で安心)


(旧街道らしい雰囲気のある道)


(新加納の一里塚を左手のほうへ行く)

一里塚碑横を、直進した道はすぐ突き当たり、
正面は「今尾医院」があるが、
昔「御典医 今尾家」で、今は殿様のお抱え医師でなく、
庶民のための医院を営んでいる。
周りには古い由緒ありげな住宅があり、
表札を見ると皆「今尾」さんで、
このあたりは今尾さん一族が沢山いらっしゃるようだ。

医院の前で道標に従うと、「右折京道」である。
これは宿場の枡形で、100mも行かないうちにもう一度左折する。
正面に案内の矢印がある。


(正面突き当たりに昔「御典医 今尾家」今も医院)


(「御典医 今尾家」前の道標「右 京道」とある)


(「中山道左」の案内が上のほうにあり見落とし易い)

左折してすぐに善休寺入り口を示す石塔があり、
その先の奥にもう一箇所寺院があるが、
入り口がわからないので通り越す。
案内書によると小林寺のようだ。

周りは広々とした田園風景で、
先に高速道路の高架が見える。
東海北陸自動車道をくぐって道路は緩やかに右へカーブする。


(善休寺の石柱)


(東海北陸道の高架)


(街道らしい古い街並み右カーブ)

しばらく街道らしいふるい街並みを歩くと、
枡形をしたような場所に出て、さらにT字路に出る。
「切通」という。
中山道はここで右折する。

左側に道路をまたいで鳥居がある。 
手力尾神社の一の鳥居である。鳥居をくぐって左折すると、
50mほどで、やはり道路をまたぐ赤い鳥居、二の鳥居がある。
その奥に手力尾(てじからお)神社があり、桜の時期には祭礼があるところ、
今年(2011)は東日本大地震と大津波で、
東北地方に大勢の被災者があり、
日本国中、悲しみの中にある。
だから、この地方だけ祭りに浮かれていることは出来ないと、
祭礼は中止となった。
普段であれば、神輿も出て、
花火も大々的に打ち上げられるはずであった、
と米寿のお年寄りは仕方がないことと諦めていた。


(T字路、この左に鳥居が)


(鳥居と中山道の案内)


(鳥居の足元にある石標、京から見て左東京、善光寺)


(手力尾神社の赤い二の鳥居)

一の鳥居まで戻って中山道を進む。
鳥居の足元に石標があり、(左東京 善光寺)とある。
中山道は左手に境川と平行して進む。
さらに進むと右側に切通し陣屋跡があり、
切通の由来の説明がある。
(切通は境川北岸に位置し地名の由来は、
岩戸南方一帯の滞留水を境川に落としていたことによるという。
      ――中略――
切通は古来東西交通の要路にあたり、
江戸初期中山道が開通されるや、
手力尾神社前から淨慶寺付近までは、
立場(休憩所)として茶屋・菓子屋・履物や等が設けられ、
旅人の通行で賑いを見せ、
各地の文物が伝来し文化の向上に大きく貢献した。)とある。
この説明板の横に(中山道)の石碑がある。
その先に「市場山 淨慶寺」がある。


「市場山 淨慶寺」


(切通の由来案内)

少し行くと右手に伊豆神社があり、
手前に馬頭観世音菩薩の祠があり旅の安全を願っている。


(伊豆神社)


(馬頭観世音の祠)





六軒の一里塚跡(旧中山道を歩く 249)

2011年06月20日 11時12分11秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(鵜沼宿の石碑)

(鵜沼宿4)
復元された脇本陣で、
古きよき昔の時代を楽しんで、中山道を西に向う。
歩いている道路には「鵜沼宿街道」となっているので、
中山道を外れることはない。
途中左手に鵜沼宿の石碑があり、その先右手に
光雲山空安寺の石碑がある立派なお寺の前にに出る。

空安寺手前には、円形の古墳がある。
「衣裳塚古墳」といい、各務原市教育委員会の説明では、
(各務原台地の北東辺部に位置する県下最大の古墳である。
墳丘の大きさは直径52m、高さ7mあり、
周囲は開墾のためやや削平を受けていますが、
北側はよく原形をとどめています。
また墳丘表面には葺き石や埴輪は認められません。
「衣裳塚古墳」は、円墳としては県下一のものですが、
ここより南西約300mの所に、
県下第二の規模を持つ前方後円墳の
「坊の塚」が所在することや、
本古墳の墳丘西側がやや突出する形態を示していることから、
本古墳も本来前方後円墳のものが、
後世に前方部が削平されて、
後円部が円墳状に残された可能性もあります。
「衣裳塚古墳」の築造年代については、
本古墳の埋葬施設や年代が推定できる出土遺物が知られていないため、
正確な判定は出来ませんが
およそ古墳時代の前期から中期にかけて
(4世紀末~5世紀前半)の時期に坊の塚古墳に先行して
築造されたと考えらます。)とある。(各務原市教育委員会)
やや増長であるが、説明をそのまま書いた。


(空安寺)


(衣裳塚古墳)

鵜沼宿を出て左の木曽川の対岸には犬山城があり、
渓斎栄泉画く浮世絵「木曾海道69次之内(鵜沼ノ駅従犬山遠望)」には、
犬山城から木曽川が見事に描かれている。

鵜沼宿より加納宿まで凡そ17kmあるが、
中山道は、各務原を抜けていく水田地帯であったようだ。
今は右手には誘致された工場群に囲まれ、
左には何キロにも渡って航空自衛隊基地があり、
猛烈な爆音と共に発進するジェット戦闘機に驚かされた。

岐阜県は別名美濃というが、今歩いている各務原の各務野、
揖斐川上流の大野、そして大垣の青野と共に、
三つの野が「三野(みの)」となり、
これが「美濃」の語源となったと言う。

加納宿までの長い距離の間に特筆するものはなく、
距離を示す一里塚があり、街道に代わって走る鉄道がある。

中山道を進むと右手に津島神社がある。
この神社の拝殿は、村芝居を演じた
「皆楽座」の舞台になっているとの事。


(渓斎栄泉画 浮世絵 木曾海道「鵜沼の駅より犬山遠望」)


(津島神社)

先で国道21号線に合流する。
まもなくJR高山線を陸橋で越える。
今度は神明神社を右に見て交差点を渡ると、
長楽寺の太子像が赤いヅキンを被って、
旅の無事を祈っているようである。
さらに進むと右手は川崎重工の工場で、
その先にある名鉄を陸橋で越える。
この先Y字路を右に行く必要があることから、
ここでは道路の右手の階段を登り下る。


(高山線の陸橋、ここは自動車道で歩行者は脇の歩道橋で越える)


(右手の神明神社)


(信号渡った右側の長命寺の太子像)


(川崎重工先の陸橋)

先に進むとやがて案内標識で(直進は21号線大垣・岐阜、
右は各務原市街)とある信号を斜め右へ行く。
右に入った所の右側に「旧中山道六軒一里塚跡」の標柱があり、
江戸より103番目の一里塚跡である。
その先左手には「佛国山 竹林寺」の石柱がある。


(右 各務原市の案内看板)


(六軒の一里塚跡の標柱)


(左手の竹林寺の石柱)

市街地に入って周りをキョロキョロ見ながら歩くと、
右手に各務原市役所があり、
左手のバス停に「信長町」というのがあり、
しばらくすると市民公園にでる。

桜並木が美しい。

{本日(2011/4/6)名鉄高田橋駅からPM18:25発岐阜行に乗って帰る。
歩行数58273歩=約34kmであった。}


(二つ目の神明神社)


(「信長町」のバス停)


(美しい市民公園)






復元された脇本陣(旧中山道を歩く 248)

2011年06月10日 10時27分03秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(鵜沼宿脇本陣)

(鵜沼宿3)
街道の右手にある「鵜沼宿脇本陣」は、
各務原市が間取図を基に復元工事を行い、
脇本陣坂井家を復元したものである。
間取図が基本のため畳の高さまでの部分は、
忠実に再現されたと思われるが、
それ以上は想像の産物であるような気がする。

例えば屋根の部分、屋根には高々と「うだつ」が上がっているが、
「うだつ」は防火壁であるにもかかわらず、
地上まで防火壁が繋がっていない。
これではまるで飾りの「うだつ」である。

もっとも宿場に入る手前に、
「是より西尾州領」の石碑があったが、
尾張伝統の「はったり」、あるいは「みえっぱり」であって、
各務原市が、本気で「かざり」の「うだつ」をつけたのかもしれない。


(鵜沼宿脇本陣坂井家の「うだつ」)


(脇本陣の座敷)

何はともあれ、脇本陣坂井家には、
江戸の宗匠 芭蕉がよく宿泊したことで知られる。
それで門前に芭蕉句碑が三基見受けられる。

・汲溜の水泡たつや蝉の声
・ふく汁るも喰えば喰わせよきく之酒
 ・おくられつ送りつ果ては木曾の秋

の三句である。

夢も希望もない話であるが、
「芭蕉俳句集」(岩波文庫中村俊定 校注、芭蕉の俳句すべてを収録)を見ると、
第一句は、芭蕉の句であるかどうか疑わしく、
存疑の部に配置してあり、
二番目の句に至っては、間違って伝えられた誤伝の部にもなく、
どうも芭蕉の句では無さそう。
三番目の句、これは芭蕉の句に収録されており、
芭蕉の句に間違いない。


(芭蕉句碑)


(芭蕉が刻んだと言う木の化石、「ふく汁・・・」句が刻んである。)

中山道木曾谷の馬籠宿の一里塚近くに、

・おくられつ送りつ果ては木曾の穐   芭蕉翁

の句碑がある。
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2010/09/post_ee74.html参照)
芭蕉が木曾で詠んだ句に違いない。

話は戻って、脇本陣の建物はとても綺麗でよく復元されているので、
上段の間やお手洗いなどゆっくりご覧になることをお勧めする。

脇本陣を出ると、
その西隣には、尾張二ノ宮神社がある。


(尾張 二ノ宮神社)





古きよき街―鵜沼宿(旧中山道を歩く 247)

2011年06月02日 10時28分19秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(左側が地蔵堂を右折して出てきたところ)


(ここは中山道鵜沼宿、これよりうとう峠の石碑)

(鵜沼宿2)
赤坂の地蔵堂を右折すると、
左手に鵜沼東ふれあいセンターがある。
ここに昔は高札場があって、鵜沼宿の入り口に当る。

ふれあいセンターの向こう隣には、村社 赤坂神社がある。
地蔵堂が赤坂の地蔵堂と呼ばれる由縁である。

なお進むと広い通りと交差するが、ここは直進する。
出たところ左角を振り返ると、
(ここは中山道鵜沼宿 これより「うとう峠」)
の石標が建っている。
京都方面よりの道案内である。

信号を渡って直進すると、
大きな交叉点(鵜沼中山道)の信号に差し掛かる。
信号を渡った向こう側に「陣屋」と言う珈琲ショップがあり、
歩道脇に「是より西尾州領」の石碑がある。
鵜沼宿は、尾張藩の領地になっていた。
御三家の一つである尾張徳川家の領地は、
随分広大であったことがわかる。


(鵜沼中山道の交差点)


(陣屋と書いたコーヒーショップ)


(「是より西尾州領」の石碑)

さらに直進すると大安寺川にかかる大安寺橋を渡る。
橋の両袖に木製の常夜灯が置かれ、
風流にも柳の枝がそよいでいる。
その先左側に大垣城の古い鉄門がある。
人呼んで「安積門(あずみもん)」と言う。

各務原市教育委員会の説明によれば、
(当門は大垣城本丸の表口に建てられていた鉄門(くろがねもん)で、
明治九年に払い下げられた後、
安積家(各務原市蘇原野口町)の自邸の門として、
維持されてきたことから、「安積門」と呼ばれています。
各務原市へ寄付され、平成21年より当地に移築されました。
 
規模は、間口約5.7m、高さ約4.5mあり、
構造形式から高麗門と称されます。
高麗門とは、
左右二本の本柱上部に小振りな切妻造りの屋根を架け、
さらにその後方に控柱を立て、
本柱から控柱に渡して小屋根を架けた門のことで、
主に城門として用いられました。

当門のもう一つの特徴は、正面の木部を全て鉄板で覆い、
軒下を白漆喰で塗り籠めている点で、
これらは火矢による攻撃から門を守るためと考えられています。
          ――後略)

(大安寺橋北側)


(南側の端、柳が風情を出している)


(大垣城の鉄門=安積門)

その先右手に「中山道鵜沼宿町屋館」と称して、
中山道の旅籠屋を修復工事を経て、
登録有形文化財に登録され、景観重要建造物に指定されている。
親切なボランティアガイドが説明してくれるので、是非見学したい。

その斜め前に古いながらも良く手の行き届いた建物があるが、
菊川酒造本蔵で文化庁登録の有形文化財に指定されている。
造り酒屋の大きな樽でも中に置いてあるような建物である。

その右前に「中山道鵜沼宿脇本陣」が復元され建っている。
いずれも是非見学したい。


(復元された「中山道鵜沼宿町屋館」)


(その内部)


(菊川酒造の蔵)


(「中山道鵜沼宿脇本陣」)