中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

塩釜神社と松島(芭蕉の道を歩く 52)

2015年02月26日 11時01分23秒 | 芭蕉の道を歩く
(奥の細道【19】塩釜神社)
多賀城の壺の碑を見て、十符の菅を訪ねて「奥のほそ道」を歩き、
塩釜神社を訪ねた芭蕉は、

「早朝、塩がまの明神に詣づ。国主再興せられて、宮柱ふとしく、
彩椽(さいてん)きらびやかに、
石の階(きざはし)九仭(きゅうじん)に重なり、・・・」
とあり、

石の階九仭に重なり」は、
表参道の200段に及ぶ石の階段のことを言っている。

(鳥居後ろの階段、202段あると言う)

(九仭に重なる石の階段)


地元の方は、一日置きに御参りしているからか、
いとも簡単に、この階段を上っている。
カミさんもすいすいとは行かないが、
途中で休むこともなく上まで登って、
ボクが行くのを待っている。

150段ほど登ったところで、一休憩していると、
地元の方が、
「この階段を上り終わったところから、まだ25段あって、
やっと門がくぐれます。」という。
少し休んで残りを一気に登る。
上を見るとまだ階段があって、その先に門がある。
一息入れて、今登って来た階段を振り返ってみると、
なるほど、芭蕉が「九仭の階」と云った意味が解った。

(振り返って見た階段)

(階段の上の階段と楼門)


更に25段の石段を上って、楼門をくぐると唐門があり、
そのおくに拝殿があるが、
拝殿に向かって右側に左宮、左側に右宮と記されている。
これはどうも塩釜神社を背にして、左右が付けられているように思える。
案内書では、左右本殿図が逆に記入してあったので、
間違いではなかろうかと思っていたが、現物を見て正しいことが分かった。

(唐門)

(左右逆転している左右本殿)


次に芭蕉は奥の細道で、
(神前に古き宝塔有。かねの戸びらの面に、「文治三年和泉三郎寄進」と有。
五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そぞろに珍し。
渠(かれ)は勇義忠孝の士なり。
佳名今に至りてしたはずと言う事なし。)
と綴っている。

その灯篭は今は「文治の灯篭」として拝殿前に置かれている。
(文治の灯篭)


和泉三郎について「奥の細道菅菰抄」の解説によれば、
「それ、よく父の遺命を守りて、
義経を捨てざるは孝也。よく義経に仕えるは忠なり。
兄に従わず義経に従うは義也。
終に戦死するは勇なり。佳は善なり。佳名は聞こえの良きことを言う。」と述べている。

参拝を終えて唐門を出て左折すると、天然記念物の塩竃桜がある。
この塩竃桜を見物するのを、
芭蕉は奥の細道を旅する目的に入れていたらしい。

芭蕉の書簡に
弥生にいたり、待わび候塩竃の桜・・・)と書き送っている、という。
ボクが訪ねたのは時期が秋だったため、桜は枯葉を残す状態であるが、
目の前に写真があったのでご覧ください。

(国の指定天然記念物の塩竃桜)

(塩竃桜の花模様の写真)

写真で見るように、八重桜でも普通の八重と少し違って、
花びらに皺があり、雑多に重なっているように見える。

塩竃桜の前を通り、東門を出ると、
左手に志波彦神社がある。志波彦神(しばひこのかみ)をお祀りして、
農業守護・国土開発・殖産の神として崇敬されている。

それ相応に霊験あらたかなのであろう、
おごそかなご神域に、靴を脱ぎ石畳の上で、
額づきお祈りする女性の後ろ姿に、感動を覚えた。

(志波彦神社)

(志波彦神社で額づく女性)


そのまま東参道のだらだら階段を降りて、マリンゲート塩竃に向かう。
地図の上では、マリンゲート塩竃は近くにある様にみえたが、
歩くとかなり先の方にあることが分かった。
途中、まばらに建っている家は真新しいものが多いが、
先年の東日本大震災の津波で家屋敷が流されて、
新しい家と家の間はきれいさっぱり何もない更地のようで、
戦後の焼け野原のようであった。

マリンゲート塩竃から観光遊覧船で松島湾を横断して松島海岸へ向かうことにする。
観光船は毎時00分に出発するのであるが、
最終はPM15時である。
近いと思ったマリンゲート塩竃が思ったより遠くにあったため、
船着き場に着いた時は14:50分で危うく乗り遅れるところであったが、
遊覧船に乗って見るとお客様はボク達二人だけ。

(遊覧船)


それでも出船するまで待っていると乗客数人がどやどや乗り込んできた。
これでどうやら運航費用も出ると言うもんだ。
内心少しはらはらした。

出港するとすぐ左手に「籬島(まがきしま)」が見える。
松島湾の入口に沢山の島が重なりあったのが防波堤の役目をはたして、
大震災の津波を防ぎ、松島海岸は被害を免れたと言う。
それでも津波は島々に押し寄せて、奇岩をこわし、
松に襲い掛かって枯れ木になったものもある。

それでも芭蕉に「松島は扶桑第一の好風にして、凡そ洞庭・西湖を恥じず。」
と言わした美しい風景は、残ったようである。
次にその島々を載せておきたい。

(籬島)

(松島1)


(松島2)

(松島3)

(松島4)

(松島5)

(松島6)

(松島7)

(松島8)



御釜神社と法連寺跡(芭蕉の道を歩く 51)

2015年02月22日 10時57分44秒 | 芭蕉の道を歩く
(奥の細道【19】塩釜神社 2)

元禄二年五月八日(陽暦6月24日)仙台を立った芭蕉は、塩竃に行っている。

御釜神社は、JR本塩釜駅を出て直進し、すぐ広い道路に出るので左折。
たぶん四つ目と思うが歩行者用信号を左折すると、御釜神社へ出る。
ここに曽良が書いた「塩竃のかま」がある。

(御釜神社)


海水を汲んでお釜に入れて火を入れ、煮つめて塩を作った。
その鉄製の御釜が四口祀られている。
塩釜の地名はこの釜に由来していると言われます。
残念ながら社務所は閉まっていて、
肝心のお釜を見ることは出来なかったのはくれぐれも残念であった。
(拝観料百円と観光案内所で聞いていたのに。)

御釜神社を出て、もと来た道に戻ると、道路向こう側に鳥居が見える。
塩釜神社の東参道の鳥居であった。
この奥に、松尾芭蕉が塩竃に来た時に宿を借りた法連寺跡がある。

(東参道の鳥居)


「曽良の旅日記」に、
八日 朝之内小雨ス。巳ノ尅(こく)ヨリ晴ル。
未の尅、塩竃ニ着、
(中略)
出初めニ塩釜の釜を見る。宿、治兵へ。
法連寺門前、加衛門状添。銭湯有ニ入。
」とある。

「五月八日 朝の内は小雨であった。午前10時より晴れる。
午後2時、塩竃に着く。
(中略)
出始めに塩竃の「御釜」を見る。宿は治兵宅に。
法連寺門前なり。加衛門からの紹介状を渡す。
銭湯があったので入る。」こんな意味であろうか。

その法連寺跡が鳥居の奥にあった。
塩竃市教育委員会の説明では、

「法連寺は塩釜神社の別当寺であった。
金光明山法連寺と号し、真言宗のお寺であったが、
明治維新に神仏判然令が布告され廃寺となった。」とある。

(芭蕉止宿の法連寺跡の碑、芭蕉はこの門前に泊まった。)

(法連寺跡)


芭蕉が訪れた塩釜神社の表参道はもっと先である。
案内板には250m先と書いてある。
のぼり坂の道路を進むと、
東日本大震災で押し寄せた津波がここまで来たという石碑が建っている。
避難所になった小学校へは住民が炊き出しをして運んだと記されている。

(表参道への道案内)

(津波が押し寄せた記念の石碑)


やがて塩釜神社の表参道の鳥居が見えてきた。
芭蕉がすごい階段があると記した場所である。
鳥居の後ろに確かにその階段が見え、近所の方か、観光客か、
何人かその階段を上っている姿が見える。
入口の石柱には、「東北鎮護塩釜神社」とあり、
鳥居の扁額には「陸奥国一宮」と書いてある。
宮城県の一之宮である。

(鎮護塩釜神社の石碑)

(表参道の鳥居)

(鳥居の扁額)


次回は塩釜神社の階段を上る。

塩釜での昼食(芭蕉の道を歩く 50)

2015年02月18日 10時54分34秒 | 芭蕉の道を歩く
(奥の細道【19】塩釜神社)
多賀城で思わぬ時間を取ってしまったが、
塩釜に美味しいお寿司屋さんがあるとタクシーの運転手さんに聞いて、
多賀城駅で正午を過ぎてしまったが、
お腹を空かしたまま仙石線の本塩釜駅まで行く。

本塩釜駅では、塩釜神社へ行くのか、大勢の人が電車を降りる。
みなさん、お寿司が美味しいと聞いて、
食べに来たのだろうか。

(本塩釜駅)


しかし、駅に下りた人たちが駅員さんに何か訊ねる事もなく、
寿司屋に行く訳でも無さそう。
ボクたち夫婦は、一番後ろから改札口を出る。
駅員さんに、
「ここに美味しいお寿司屋さんがあると聞いたのですが、
どこが美味しいのか教えていただけますか?」
聞いてみると、駅員さんは困った顔をしている。
「多賀城で聞いたのですが、塩釜の駅で聞けば駅員さんが美味しいお寿司屋さんを、
教えてくれるとか」そう云うと、
「その道を左に行って出た所に緑色の建物があります。
そこへ行かれたらどうですか。」と云う。
道は教えてくれたが、個別に店の名前を言うのは、
憚られるようであった。
駅を出ると目の前に観光物産案内所がある。
御釜神社と塩釜神社までの地図をいただく。
そこに「塩竃 寿司めぐり」なるパンフレットが置いてあった。

(駅前のローターリー)

(その道と言われた寿司屋へ行く道路)


有り難うとお礼を言って、教えられたように行くと、
駅員さんが言う通りに、「すし」の暖簾がかかった建物の前に人が並んでいる。
ここだと思って並ぶと、
「何人、何人、...」と、お店の人が聞いて、
「お二階でよいですか、お二人さんお二階!」と二階へ案内された。
ボク達以外は皆「おひとりさん」であった。
お店の中は寿司ネタの前にカウンターがあって、
満席であったが、それほど広くない。
二階へ行く通路も狭く人ひとり通れる程度。

なのに、
「突き当りのエレベーターでお二階へどうぞ」と言う。
一人しか通れない通路の、突当りにエレベーターの扉らしきものが見える。
進むとエレベーターの手前は、二階への階段になっていて、
従業員が寿司やお茶を運んでいる。
お客様はエレベーターを使うらしい。

エレベーターに乗ると、何と5階までボタンがある。
二階を押して、出ると二階の座敷があり、ここもお客様であふれている。
30人くらいは居る。
「ボクは足をたたんで畳に座れないんですが・・・」と云うと、
「ちょうど掘りごたつの席が空いていますよ」と勧められほっとする。
メニューを貰って中を見ていると、
「特上七人前!」と大きな声で奥の席の人達に寿司を配っている。
「ボクにも同じものを・・」と注文した。

(注文した寿司)


ずいぶん待って、注文した寿司が来た。
「ずいぶん時間がかかりましたね。職人は十人くらいいるのですか?」
「普段は居るのですが、今日から名古屋のデパートへ、出張しているので、
手薄なんです。」という。
「名古屋では、お客さんもうるさいのが多いから大変ですね。」とボク。
名古屋の人は食べ物にうるさい。

食べるのは待つ時間より早い。
さっさと食べて代金を払って出た。
外にはまだ何人も並んでいる。
振り返って見ると確かに五階まであるビルであった。

(お寿司屋さんの箸袋ー寿司を握る手の図案が店名)


量としては、少し物足りなかったが、期待したせいもあって、
味はまずまずであった。

このブログを書いた後、テレビニュースで塩釜の復旧を取り上げていたなかで、
この寿司屋さんが出てきたので、お店の名前も載せておきたい。
箸袋の判じ絵は、寿司を握る手(て)と仮名の(つ)で、(てつ)と読み、
店名は(すし哲)でした。

思いがけなかったのは、その夜のビジネス・ホテルの食堂で食べた「刺身御前」、
お昼のお寿司より安かったのに、この刺身の美味しかった事、
帰ってからも、何度もカミさんと噂したほどであった。

残念ながら写真はありません。

壷碑(つぼのいしぶみ)(芭蕉の道を歩く 49)

2015年02月06日 09時03分15秒 | 芭蕉の道を歩く
(奥の細道【17】多賀城碑)
多賀城駅は、東北本線の国府多賀城駅とJR仙石線の多賀城駅があって、
鉄道マニアの方なら、間違うこともないだろうが、
車好きのボクには、電車ほど厄介な乗り物はない。

第一、時間が決められていて、思い立った時にさっと動けない。
そして行きたい所へは、路線が合わないと行くことが出来ない。
次に切符を買わなければならない。行き先が決まっても、
どの線のどの駅までの切符がそれぞれ違うからだ。
車だと、行き先が決まれば、いつ何時でもガソリンさえ入っていれば、
行くことが出来る。
あらゆる道路は、希望の行き先に繋がっている。
(ここで「あらゆる道路はローマに繋がる」を思い出した方を尊敬します。)

しかし電車は、運転する労力がいらない。
行き先が決まって、何線の何駅までの切符を買って、
どの駅からどの電車に乗るかさえ決まっていれば、
勝手に連れていってくれる。
車窓から見る風景も、手放しで飲み食いしながらでも行けるという
利点はある。

若い頃は、どんなに遠くても車を運転することが楽しみのボクには、
何の苦痛もなくドライブできた。
東北一周の6日間で2千キロ位訳もなく走ることが出来た。
今では、運転することさえ億劫になってきた。

話を戻そう。
東北本線のJR国府多賀城駅へ向かう。
ここには昔、陸奥国の国府が置かれ、
蝦夷征討政策に当たった鎮守府が置かれていることが解っている。
文治五年(1189)、奥州藤原氏を攻め滅ぼした源頼朝も、
多賀国府に立ち寄り戦後の処置を命じたことが「吾妻鏡」に記されている。

俳聖 松尾芭蕉は、奥の細道への旅の途中に多賀城に着き、
古くから歌枕に詠まれた「壷碑(つぼのいしぶみ)」を見つけ、
次のように述べています。

壷碑 市川村多賀城にあり
つぼの石ぶみは、高さ六尺余、横三尺計歟(か)。
苔を穿(うが)ちて文字幽(かすか)也。
四維國界(しゆいこくかい)の数里を記す。
」と。

JR国府多賀城駅で降り、駅の案内に沿って外に出ると、
普通ならタクシーが、2~3台並んでいるが、
駅前広場にはタクシーも、売店も何もない。
左を見れば、遺跡の円い墳墓のような土の小山があるように見える。
人気はなしで至って静かである。

駅の反対側には東北歴史博物館があるのを知っていたので、
反対側に回って見ると、歴史館は見えるものの、
駅のロータリーには、タクシー乗り場や、バス乗り場には、
人気一つなく、バスはいつ来るのか時刻表もなく、
タクシーに至っては、電話番号すらわからない。

(東北歴史博物館)

(博物館横に見える東北を代表する民家)

(三内丸山遺跡の埴輪の模型)

(多賀城碑のレプリカ)

(平泉の金色堂の七宝輝く柱のレプリカ)


東北の田舎?
いや待てよ大震災でそれどころではないのかも知れない。
良いように解釈して、目の前の歴史博物館に向かう。

歴史博物館も受付の人だけかと思ったら、受付嬢や案内嬢、
各部屋の監視員なども配置され、
観覧の人も結構いるではないか。
入場料を払って中に入ると、平泉や多賀城遺跡、三内丸山遺跡の埴輪など、
様々な東北の歴史展示物があり、何よりも撮影禁止でなかったことがうれしい。

「壷碑」のレプリカや光堂の内陣の七宝きらめく柱などのレプリカがあった。
多賀城政庁復元図など見どころ沢山で、
東北を訪ねる人は、是非ご覧いただきたい。

この博物館で見る限り、多賀城碑=壷碑は駅から近くに有りそうなので、
歩いて行くことにした。
「多賀城碑⇒」の看板にそって進む。
後から思えば、ずいぶん遠回りして行ったように思う。
「壷の碑」のある高台から望むと、駅から公園を抜けて非常に近い所にある。

(多賀城公園)

(公園と多賀城碑=壺碑の覆い堂)

(壺の碑の覆い堂2)

(壷の碑=多賀城碑)



壷碑には、
「多賀城 京を去ること二千五百里
     蝦夷の国の界(さかい)を去ること二百二十里
     常陸の国の界を去ること四百十二里
     下野の国の界を去ること二百七十四里
     靺鞨(まっかつ)の国の界を去ること三千里
此の城は、神亀元年、歳は甲子に次ぐる 按察使(あぜち)兼
鎮守将軍従四位上 勲四等大野朝臣東人の置く所なり。(後略)
天平宝字六年十二月一日」と漢文で書かれている。

ここで「靺鞨の国」が解らないので、調べたら、
「中国の隋唐時代に中国の東北地方から朝鮮半島北部に居住した、
ツングース系諸族の総称」(大辞林)と解ったが、
覚えて置くほどのお国ではなさそう。

壺の碑の横に芭蕉の句碑がある。

・あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒 はせを

下段に「おくのほそ道」の一節、
むかしより詠み置ける歌枕、おほく語り伝ふといへども、
山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、
木は老いて若木にかはれば、時移り、代変じて、
其の跡たしかならぬ事のみを、
ここに至りて疑ひなき千載の記念(かたみ)、
今眼前に故人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、
羇旅の労を忘れて、泪も落つるばかり也。
」とあるらしい。

壺の碑を見て、これだけの感慨を持った心境を述べて、
感動して涙を流すほどの物だったのか、
ボクには良く分からない。

この「多賀城碑」より北に行った所に多賀城政庁跡があるらしいが、
お昼時間が迫っており博物館の模型で我慢した。

(多賀城政庁入口の案内看板)

(多賀城政庁の模型、東北歴史博物館より)


JR国府多賀城駅に戻り、観光協会でタクシーに電話して呼び出してもらう。
仙石線の多賀城駅近くの「沖の石」と「末の松山」のある宝国寺までお願いする。
ひなびた田舎の事、2km位はものの五分もあれば行ってしまう。
途中、左手にJR多賀城駅を見て橋を渡って、
すぐ右折し「沖の石」「末の松山」を教えてもらい、
駅に帰るには徒歩15分ほどですよ、と云う。、
また、お昼を食べるなら塩釜まで行ってお寿司が美味しいですよ、
美味しい寿司屋は塩釜の駅で駅員さんに聞けば教えてくれますよ、と云う。
橋を渡る時、この川の向こう側は、大震災で津波が押し寄せて、
川が氾濫して、床上浸水の被害が出て、大変でした。
その水の高さが、電柱に示されています。と教わる。
成程、ボクの腰の高さほどはある電柱のしるしであった。
(橋)

(多賀城駅前の火の見?でなく時計台であった)

(電柱にある津波の高さのしるし)


「沖の石」は民家の間に池があり、その中に石積みがある。
これがどうして歌枕になる程の名所であるのか、ボクのような凡人には理解できない。
その昔は、大きな池の中に累々と石が積まれて奇観だったのだろうか。

多賀城市教育委員会の説明板によると、
・おきのゐ(沖の井)て 身をやくよりも かなしきは
     宮こしまべの わかれなりけり
           古今和歌集 小野 小町 
 ・わが袖は しほひにみえぬ おきの石の
     人こそしらね かわくまぞなき
           千載和歌集  二条院讃岐  

 沖の井(沖の石)は、古来歌に詠まれた歌枕であり、
今もって池の中の奇岩は累累とした姿をとどめており、
古の状況を伝えています。 -以下省略)」とある。
 
また、「末の松山」はこの沖の石から100mほど行った所の、
墓地に隣接して聳えている。
「奥の細道」にある寺とは 末松山宝国寺と云う。

(沖の石)

(末の松山)

(末松山 宝国寺)


これについて芭蕉は「奥の細道」の中で、
「末の松山は、寺を作りて末松山といふ。
松のあいあい皆墓はらにて、
はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終にはかくのごときと、ー以下省略」
とある様に、
はねをかはし枝をつらぬる契の末も」は、
唐詩 白楽天の「長恨歌」の中にある有名な一節、
願わくば 天に在らば比翼の鳥とならん、地在っては連理の枝とならん
の楊貴妃と玄宗皇帝の愛の結びつきの固さを比喩した一節から取っている。
そんな意味のある松で、松の根方にある歌碑は、

・君をおきてあだし心をわがもたば
        すえの松山波もこえなむ

とある。

(あなたを放っておいて、他に心を移すようなことがあるなんてことは、
あの高くて大きな松山を海の波が越えるようなものです。
そんなことはあり得ません)と言う意味に取った。

それはボクの勝手な意味であるが、現実に大震災の時は、
この大きな木をも越えはしなかったが、大きな津波で水害があったのは事実だ。
今ではこのような歌を詠めそうにない。

(末の松山の歌碑)

(多賀城駅)


宝国寺を出て橋を渡り、仙石線 多賀城駅から本塩釜駅に向かう。
時間はもうお昼をまわっていた。
タクシーの運転手さんに教わった塩釜の美味しいお寿司が楽しみで、
お腹を空かしたまま電車に乗る。