中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

倉賀野神社(旧中山道を歩く 75)

2005年11月30日 14時56分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(倉賀野神社入り口の石碑)


(倉賀野宿4)
中山道を進むと、左側に総鎮守倉賀野神社入口の石碑があるので
左折すると、右側に立派な神社がある。
倉賀野神社である。


(倉賀野神社)

神社は正面に社殿、左側に社務所があるが、今はひっそりとして人の気配は無い。
社務所にはおみくじやお守りなどがガラス越しに陳列してあり、値段を表示してある。
祭礼のときやお正月の初詣のときは、さぞ賑わうのであろうが、
普段は訪ねる人もまばらなのであろう。脇に御用の方はベルを押してくださいと、
紙に墨書してあり呼び鈴のボタンがあった。
神社は、「医薬の神」「縁結びの神」「夫婦和合の神」の御神徳あらたかであると
入り口に神社の由来があった。

欲張りであるが、健康長寿と夫婦和合を狙って、お守りを求めようとベルを押した。
しばらくすると、結婚間もないようなご婦人が現れ、用を聞く。
お守りを一つ求めて、

「ずいぶん立派な神社ですね」というと、いつも聞かれるが、

「どちらからお出でですか?」と質問。

「東京です」と答えると、頼みもしないのに、

「少しお待ちください。今ご案内します」と外に出てきた。

説明をしていただいたが、その場では理解できたが、今はほとんど覚えていない。
記憶に残っているのは、神社が古い建物であること、
周りに残された木彫りの彫刻が立派なこと、
稲荷神社にある玉垣には、当時の遊女が寄進したものがあることなどだ。

神社の由緒記によれば、建長五年(1253)倉賀野氏の始祖
倉賀野三郎高俊が社殿を造営。以後倉賀野の氏神として社殿の
修復がなされてきた。本殿の建築は嘉永六年(1853)四月、
寺社奉行に修復願いを提出、元治二年(1865)三月上棟となったもので、
高崎市指定重要文化財となっている。

(高崎市の重要文化財の本殿)

(社殿を支える飾り床というか、珍しい造り)

倉賀野神社は倉賀野宿と近隣七ヶ郷の総鎮守で旧社名「飯玉大明神」。
明治十年、大国魂大神。明治四十三年 倉賀野神社と改称された。
境内に「冠稲荷」、「北向道祖神」、「飯塚久敏と良寛」の碑など。
算額や飯盛り女の玉垣、もある。
本殿は総ケヤキ造りで木彫が施されており、
日光東照宮の眠り猫に劣らぬその見事さに目を奪われる。
彫物師の一人北村喜代松は
信州鬼無里村に彫刻屋台の名品を残しているという。

(ふくろう)

(羽を広げる鷹)

倉賀野神社の旧社名「飯玉宮」について、飯玉縁起によると、
(光仁天皇(771-780)の御代、群馬郡の地頭群馬大夫満行には八人の子がいた。
末子の八郎満胤は、芸能弓馬の道にすぐれていた。
ところが兄たちは八郎を夜討ちにして、鳥啄池の岩屋に押し込めた。
三年後、八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、
兄たちとその妻子眷属まで食い殺した。
その害は国中の人々まで及ぶようになったので、
帝はこれを憂え、年に一人の生贄を許した。
やがて、小幡権守宗岡が贄番に当たる年、
十六歳の娘海津姫との別れを共々に嘆き悲しんだ。
都からやってきた奥州への勅使、宮内判官宗光はこれを知り、海津姫と共に岩屋へ入った。
頭を振り尾をたたく大蛇に向かい、一心に観世音菩薩を唱名、琴を弾いた。
これによって、大蛇は黄色の涙を流して悔い改め、神明となって衆生を利益せんと空に飛んだ。
烏川の辺へ移り、「吾が名は飯玉」と託宣し消え失せた。
これを見た倉賀野の住人高木左衛門定国に命じて、
勅使宗光が建てさせたのが「飯玉大明神」であるという。 )

今でも拝殿正面の向拝に、宗光が琴を奏でる彫刻が
見られるのは興味深い。また「夫婦和合」「長寿」をあらわす、
「夫婦亀と鶴」の彫刻もあり、
稲荷神社の玉垣に飯盛り女の名前も見える。

(宗光が琴を弾き大蛇を退散させる彫刻。左側に大蛇が見える)

(夫婦鶴)

(夫婦亀)








倉賀野城址(旧中山道を歩く 74)

2005年11月26日 17時53分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(倉賀野城址の石碑)


(倉賀野宿3)
中山道のその先の上町交差点を左折し進むと、突き当りの断崖に
烏川が迂回しているのが見える見晴らしの良いところに出る。
その右手が公園になっており、中ほどに倉賀野城址の石碑があり、
あたり一帯が倉賀野城址である。

石碑によれば
(治承年間武州児玉党の余流秩父三郎高俊この地に
来り居館を構え以来倉賀野を氏となす。
応永年中に至り室町幕府漸く衰え戦雲諸国を掩う。
ために倉賀野三郎光行防御急なるに迫られ、これを改修し
要害となす。かくして高祖三郎高俊より四百年倉賀野氏の旗風
兵どもの雄叫び関八州に轟く。
然るに戦国動乱の世を向かうるや時の城主 金井淡路守景秀
よく攻守の軍略怠りなしといへども、噫噫、武運は空し、
天承十八年相州小田原に討ち死にし、城もまたともに攻防の
歴史を閉じる・・・)と壮大な文章である。

実際は、戦国時代の城であるから、高崎城や前橋城のような
江戸時代のものとは違い規模は小さいものだったようだ。

「上州八家の一つ倉賀野三河守天文五年(1546)夏、
武州川越の夜戦で戦死した。
宮原の庄に金井小源太秀景、須賀佐渡守らが名を連ねる
倉賀野党16騎があり、倉賀野を守っていた。
西上州は、そのころ武田、上杉の合戦場だったが、
永禄二年(1559)武田信玄が板鼻に陣取っていたとき、
一党の総代として金井小源太が信玄の陣に使いし、倉賀野淡路守と
改号された。
初めて倉賀野氏を称したのは、秩父三郎高俊という。
源平時代のことである。」(高崎市観光協会)

(烏川が右から流れ倉賀野城址のがけにぶつかって下の写真へ)

(左へ流れていく)


高札の内容(旧中山道を歩く 73)

2005年11月21日 17時48分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(道路脇スーパー駐車場にある本陣跡の碑)


(倉賀野宿2)
旧中山道に戻り進むと、左側のスーパーの駐車場の道路脇に
「中山道倉賀野宿本陣跡」の石碑がある。
小さくて注意しないと見落としそうである。
かって勅使河原本陣家があったところという。

(格子造りの脇本陣家)

(脇本陣家の石碑)

(駐車場脇の高札)

少し先の右側にいかにも古めかしい格子造りの二階家が見えてくる。
裏庭に良く茂った大木があり、旧家だとすぐわかる。
これが須賀脇本陣家である。家の前にはコンクリート作りの
脇本陣家跡の石碑がある。左隣には須賀医院があり、
広大な敷地から容易に、脇本陣家の末裔と想像できる。
医院の駐車場道路脇に高札があり、元高札場であったことがわかる。
高札が新旧復元されており、昔をしのばせる。

(新旧高札が並んでいるが旧高札は文字の判読が靴かしい)

新高札には

「    定
きりしたん宗門ハ累年のご禁制たり
自然不審の者あらば申出べし
御ほうびとして
ばてれんの訴人 銀五百枚
いるまんの訴人 銀三百枚
立かヘリ者訴人 同断
同宿並、宗門の訴人銀百枚
右之通り下さるべしたとひ同宿宗門
之内たりと云う共申出る品により
銀五百枚下さるべしかくし置き他所より
あらわるるに於いてハ其所の名主五人組迄
一類共ニ罪科おこなハるべき者也

正徳元年五月 日   奉行

右の通り被仰出候畢領内之輩
可相守もの也     越前」
とある。

また、もう一つの高札には

「    定
一、人たる者五倫の道を
正しくすべき事

二、衆寡孤独廃疾之
者を憫むべき事

三、人を殺し家を焼財
を盗等悪行ある
まじき事

太政官」とある。

人倫に悖(もと)るような行いはこれを許さず、
弱いものを助け悪行は断罪に処する内容である。 
    
道路を挟んだ反対側にも同じ「脇本陣跡」の石碑があり、
ここにも脇本陣家があったと思われる。
なお、JR倉賀野駅に入る道路の右側に九品寺があるが、
そこに須賀家のお墓があるが、脇本陣家のものと思われる。

(道路反対側にある脇本陣家の石碑)

(九品寺)

(須賀家の墓)








今は昔の倉賀野河岸(旧中山道を歩く 72)

2005年11月16日 17時40分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(倉賀野宿脇本陣)


(倉賀野宿)
岩鼻代官所を後に、旧中山道をおよそ3キロほど歩くと
倉賀野の追分に出る。
いつも思うのであるが、中山道は「京都発江戸へ下る」発想で
すべての案内標識が出来ている。
旧中山道は右、あるいは左、国道17号線に案内はある。
この倉賀野追分も、京都方向から東京に向かって、
「左 日光道、右 江戸道」の道標、常夜灯、阿弥陀堂が
見事に見えるのである。ここから例弊使街道は始まる。
しかし、東京方面から行くと、阿弥陀堂があり、よくよく見ると
常夜灯があり、その先に道標があり、「追分です」とでも
教えられなければ見過ごしてしまいそうだ。

(日本橋方向からは阿弥陀堂がまず目に付く)

(次に常夜灯が見える)

(常夜灯)

(京都方向から行くと、追分が良く目に付く)

例弊使街道とは、徳川家康の命日 四月十八日に日光東照宮の
祭礼に、朝廷より派遣される勅使が通る道だ。
慶応三年(1867)の最後の例弊使派遣まで、221年間、
一回の中止も無く継続された。また、常夜灯は県内では王者の
風格を持っており、文化十年(1814)に建てられ、
道標の役割を果たしていた。(高崎市)

勅使は京都から中山道を下ってここ倉賀野まで来て、
例弊使街道を通り日光へ行くのである。 間違ってまっすぐ行き、
本庄宿まで行ってしまわないように、ここに道標・常夜灯・
阿弥陀堂を造った。

さて東京から京都へ向かっているボクは、中山道をさらに進む。
中山道の左側を流れる烏川は下流に行くと利根川になるが、
川に架かる共栄橋を渡る道を左折して、橋の手前で河川敷に降りる。
河川敷は広い緑地公園になっており運動場もある。
橋の下に「倉賀野河岸跡」「倉賀野河岸由来」の碑がある。

(倉賀野河岸跡と倉賀野河岸由来の碑)

由来によれば、
当河岸は江戸時代初期より利根川の最上流河岸として上野、信濃、越後の
広大な後背地を控え江戸との中継地として繁栄を極めたり。
三国の諸大名、旗本の蔵米を初め麦、たばこ、織物、木材など
特産物は碓氷三国両峠の嶮を牛馬の背で越え、当河岸より江戸へ、
また帰り舟には、塩、干魚、荒物等の生活必需品や、江戸の文化を
内陸地へ伝えその恩恵に浴さしめぬ・・・とある。
元禄時代の最盛期には、上り下りの船で七万個の荷駄を運び、
舟問屋十軒、舟150艘あまりあった。
しかし、明治に入り高崎線の開通に伴い、その使命に幕を閉じた。
橋の上流がその河岸の名残を留めているように思われるが、
今は石で覆われた岸壁があるだけである。



忠治が嫌った代官所(旧中山道を歩く71)

2005年11月13日 10時50分00秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10
(本陣跡の標柱)

(小林本陣の標柱。背景のお宅に小林の表札あり)



(新町宿6)
旧中山道を進むと、左側に「小林本陣跡」の標柱がある。
向かい側に久保本陣が、その他脇本陣もあったというが、
今は何も残っていない。
さらに進むと道路右側の橋の袂に、3DAYマーチ発祥の地の記念碑がある。
温井川の橋を渡ると、道路は二つに分かれるが、右側が旧中山道で案内板がある。

(3DAYマーチ発祥の碑)

(3DAyマーチの碑がおいてある一区画が整備されている)

(温井川を渡ると道は二股に分かれる、中央の白い建物の右側が旧中山道)

しばらくすると関越高速道路があり、ガードの手前に旧中山道の道標がある。

「左 倉賀野宿 4.4km。 右 新町宿 0.8km」とある。

(左 倉賀野4.4km、右 新町0.8kmの標柱の先ガードをくぐる)

ガードをくぐるとまた道は二手に分かれる。右の烏川の土手に登ると、
土手上はサイクリングロードになり、しばらく先のほうで
いずれ旧中山道と合流する。

ここでは左側の旧中山道をあるくと、道路は関越高速道路をくぐる
南側の道路と合流する。しばらくすると中島バス停があり、
左側に古い火の見櫓があるので、旧中山道は右折
(右側古川酒店の先で)するとサイクリングロードの土手にぶつかる。
その手前に左方に旧中山道の案内標識がある。

(左手の火の見櫓を右折する)


昔はここから舟渡しがあったが、今は無く土手を歩くと、
前方に橋が見える。

これが柳瀬橋で、今はここを渡る。

(柳瀬橋)

(岩鼻町の信号。左折すると旧中山道)

渡り終えた先に岩鼻町の信号があり、旧中山道は左折する。
しかしここでは直進し、すぐ左奥に観音寺が、さらにその裏手の
公園に岩鼻代官所跡があるので寄ってみたい。

ここは高崎市岩鼻町である。

観音寺は本堂が新しくなっていた。ここには初代代官のお墓があるというので訪れた。

(観音寺)

今までの経験では、訪ねた墓地で目当てのお墓を探すのは、
案内看板が無いかぎり、なかなか難しい。

お寺に入ろうとすると、孫の子守をしている女性に会ったので、気軽に声をかけた。

「このお寺に代官のお墓があるそうですが、
墓地のどの辺りにあるかご存知ですか?」聞いてみた。
「ハイ ありますよ。ご案内しましょう」と、
気軽に引き受けお寺の中に入っていく。

お寺の門をくぐると左手が墓地になっており、入ったすぐの中央に、
案内看板を背にした立派なお墓があった。
子守中とはいえ、女性に大変お手数をお掛けした事を
申し訳なく思い、丁重にお礼を述べた。

やはり、人にモノを尋ねるときは、自分で先に探してみて、
どうしても見つからないときに、尋ねるものだと反省しきり。
「覆水盆に還らず」の言葉通りであった。

(初代 岩鼻代官 吉川栄左衛門の墓)

話をもとに戻すが、お墓の案内によれば、

(高崎市史跡 「岩鼻代官 吉川栄左衛門貞寛の墓」
吉川栄左衛門貞寛は、江戸の人で出身地は相州中原村
(神奈川県)であり、祖先は代々御殿番を勤めた家柄である。

寛政三年(1791)幕命により近藤和四郎と共に上野国八郡の
幕府領(天領)の代官となり、岩鼻陣屋初代代官となる。

寛政五年(1793)岩鼻陣屋を落成。その後親しく岩鼻に住居し、
文化七年(1810)十一月十三日、六十九歳で病死するまで
十九年間代官の職にあり善政を行った。遺骸はこの墓に埋葬され、
菩提寺である江戸の今戸村慶養寺には遺物を葬ったと
「追悼碑」にある。

岩鼻代官については、初代吉川栄左衛門貞寛を始め良吏が多く、
伝えられている国定忠治の代官所への切り込みの話は、
全くの作り話である。)(高崎市教育委員会)

なるほど、博徒など日陰者にとっては善政を行った代官役人は、
目の上のたんこぶであったに違いない。国定忠治にとっては
憎たらしい代官であったろう。それが変じて悪代官になったのは
想像に難くない。

昔から「上州はかかあ殿下に空っ風」といわれるが、
山から吹き降ろしてくる風も強いが、女の鼻息も荒いという。
それは、上州では農家の養蚕や換金作物の栽培が盛んで、
女手ひとつで、一家を支えるだけの収入があったからと言われる。

自然男たちには暇が出来、金が出来るから遊ぶことになるが、
お金があって遊ぶとなれば、現代と違って飲む、打つ、買うになる。
当時の男達の代表的な三つの道楽である。

交通不便な田舎では、飲む酒にしてもさしておいしいものは
手に入らず、買うにしても女がそうそういるわけでも無い。
残す楽しみは、ばくちに血道をあげることだ。

博徒どもが横行するのにもってこいの土壌があったに違いない。
国定忠治については、海音寺潮五郎氏の面白い書き物があるので、
いずれ紹介したい。

元に話を戻そう。

お寺を出て裏手に回ると、広大な敷地に
「岩鼻代官所(陣屋)及び岩鼻県庁跡」がある。
善政が行われた代官所も、幕末の動乱の中で崩壊する。
(慶応元年(1865)には木村甲斐守が関東郡代として着任し、
上野の幕府直轄地、旗本領、寺社領、大名の預かり所と武蔵国六国を支配し、
世直し一揆の鎮圧に江戸の北辺の守りの中心となる。
慶応4年(1868)岩鼻陣屋崩壊するや新政府は六月
岩鼻県を設置し、大音竜太郎を軍監兼当分知県事に任じ、
旧代官所跡が岩鼻県庁となり、旧代官所時代とほぼ一致地域を支配した。
また明治二年(1869)には、吉井藩を併合した。
明治4年(1871)十月二十八日岩鼻県は廃止され、
第一次群馬県が成立し、県庁は高崎城内に移された。)
と案内にある。(高崎市教育委員会)

岩鼻町の交差点に戻り、旧中山道を進むと倉賀野宿だ。

(岩鼻代官所跡)

(広大な敷地)

(広大な敷地、別の角度から)