中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

遊行柳(芭蕉の道を歩く 33)

2012年12月23日 10時53分24秒 | 芭蕉の道を歩く
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(遊行柳)
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(那須・芦野)
国道294号線は一面の田畑の中を行くが、
芦野に入ってすぐ左側に、空に向って一握りの柳の塊あるのが見える。
「遊行柳」云われるもので、芭蕉は「清水流るるの柳」といっている。
「清水流るるの柳」は、思慕する西行の歌、

・ 道の辺に 清水流るる柳蔭 しばしとてこそ 立ちどまりつれ

から取ったものだ。

(西行法師の歌碑)
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一方で「遊行柳」は謡曲「遊行柳」から出たものといい、
謡曲史跡保存会によると、
(その昔、諸国巡歴の遊行上人が、奥州白河の関のあたりで、
老翁に呼び止められ、「道のべに清水流るる柳かげ」と西行法師が詠じた、
銘木の柳の前に案内され、
そのあまりに古びた様子に、上人が十念(念仏)を授けると老翁は消え去った。
念仏を唱え回向を続ける上人の前に、夜更け頃、
烏帽子狩衣の老翁が現れて、
「遊行上人の十念(念仏)を得て、非情の草木ながら極楽往生が出来ました」と喜び、
幽玄の舞を通して、念仏のご利益を見せる名曲。
-中略―
星移って遊行十九代尊皓上人巡化の折、
老翁姿の柳の精が出現して、
上人を案内したとのいわれから、
やがて「遊行柳」と呼ばれるようになったと言う。
柳は以来何代にも渡って植え継がれてきた。)
とある。

国道294号線を行くと、左手に「遊行庵」があり、
無料休憩所、駐車場も完備されているので、ここに車を止め、
200mほど田んぼの中を歩く。
「那須町指定史跡 遊行柳」の標柱がある。

(遊行庵)
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(遊行柳への道案内)
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(田圃の中の道の標柱)
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「おくのほそ道」の原文には、
(芦野の里にありて、田の畦に残る。このところの郡守戸部某(なにがし)の、
「この柳みせばや」など、折々にの給ひ聞こえ給ふを、・・・)

とあるように、今でも田の中の畦道を行く。
柳は石の鳥居に沿って植えられており、
鳥居は奥に見える大銀杏の木に囲まれた
温泉神社の参道に植えられたものである。

(石の鳥居の向こうにある温泉神社の大銀杏)
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この原文にある「この所の郡守戸部某」は、
この地域を所領にしていた領主、
19代芦野民部資俊(あしのみんぶすけとし)を指しており、
芦野氏の菩提寺である建中寺は遊行柳の近くにあり、
山上の立派なお寺の墓地に、石垣に囲まれ苔むしたお墓が現存している。

(建中寺の本堂)
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(建中寺の鐘楼)
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(芦野民部資俊の墓がある丘の紅葉)
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(芦野民部資俊の墓)
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また、この柳の下に芭蕉句碑、

・田一枚 植えて立ち去る 柳かな  芭蕉

があり、
その反対側に西行法師の「道の辺に清水流れる・・・」の歌碑がある。
そして、この歌碑の背後には与謝蕪村の漢詩仕立ての句碑

・柳散清水涸石処々(やなぎちり しみずかれいし ところどころ)の俳句がある。

(芭蕉の句碑)
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(与謝蕪村の漢詩風の句碑)
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車を停めた遊行庵にもどり、家路に付いた。
PM15:30で帰京したのが18時であった。

(墓地のある芦野の丘の紅葉)
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・招かれし 芦野の丘に 落ち葉かな    hide-san


(*)この後、東北は雪のため、「芭蕉の道を歩く」のは、2013年春の雪解けを待って再開したいと思います。


高久角左衛門と高福寺(芭蕉の道を歩く 32)

2012年12月19日 09時50分23秒 | 芭蕉の道を歩く
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(芭蕉が二泊した高久)
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(那須・高久)
黒羽の城代浄法寺図書邸から家来の角左衛門への紹介状を携え、
芭蕉は那須の「殺生石」を見ようと出かけた。
途中、雨のため、紹介された高久の角左衛門家に二泊している。
角左衛門は高久の地にあって、名主であった。

現在、4号線旧道に沿って「芭蕉二宿の地」の石柱があり、
三軒ばかりの民家が建っている。
南隣に小さな公民館があるので、その空き地に車を駐車させてもらう。
公民館から歩いて「芭蕉二宿の地」を通り越して、北へ数十メートル先に、
(那須町史跡 芭蕉翁塚 「杜鵑の墓」)の白い標柱と説明案内が建っている。
奥をのぞくと、階段の先に芭蕉翁塚の上に覆いがある。
(*)杜鵑はトケンと読み、ホトトギスの中国名。

(芭蕉翁塚の標柱)
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那須町教育委員会の案内を要約すると、
(黒羽の桃翠宅からきた芭蕉は、雨で高久に二泊し、
「殺生石」を見るために那須湯元に向ったのを記念して、
角左衛門の孫青楓が、芭蕉の碑を建て、「杜鵑の墓」と称した。
「落ちくるやたかくの宿の時鳥 芭蕉」の句を、角左衛門に授けた。)とある。

標柱の場所から小高い所の奥に「芭蕉庵桃青君碑」の碑が建っている。
ずいぶん古い碑のようで碑文が漢文で書かれているようであるが、
判読できないと、旅のガイドブックにあるが、
正面の「芭蕉庵桃青君碑」以外は、左右背面には何も文字らしきものは、
見当たらなかった。立て替えられたものかも知れない。

(芭蕉翁塚、奥に碑が見える)
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(芭蕉庵桃青君碑を撮っているボクの影が映っている)
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芭蕉翁塚の場所より、南へおよそ1kmの左に、
高久家の菩提寺 高野山 高福寺があるが、
参道を入った本堂手前の広場に、松の木がある根元に句碑がある。

(高福寺参道中央の松)
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「高く村庄屋が
 家に宿りて
 落来るやたかくの
  宿のほととぎす
 一と間をしのぐ  ミじか夜の雨 曾良
」とある。

(松の木の根元にある句碑)
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曾良の俳諧書留によると、
芭蕉が角左衛門に授けた句文は、

(殺生石見んと急ぎ侍るほどに、
雨降り出ければ、先、此処にとどまり候。
・落ちくるやたかくの宿の時鳥  翁
   木の間をのぞく短夜の雨  曾良


であり、碑文が間違っている事がわかる。

このあと、芭蕉は「清水流るるの柳」(遊行柳)を観るために、
那須町芦野に出かけている。


・二泊せる 高久の里に かかる月    hide-san




雲巌寺 十景 五橋 三井(芭蕉の道を歩く 31)

2012年12月15日 16時37分46秒 | 芭蕉の道を歩く
(雲巌時入り口の朱塗りの橋は瓜�役橋(りてっきょう)

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(那須・黒羽7)
黒羽から雲巌寺までの長い道のりは全て上り坂になっている。
今でも道路に人の姿を見るのは稀で、行きかう車も少ない。
滞在先の浄法寺邸から12kmも先にある、
そんな山の中に位置する「東山 雲巌寺」を、
芭蕉が訪ねたのは何故だろう。

それは雲巌寺の山中に仏頂和尚の庵があったからだ。
芭蕉が深川にいたとき、同じく深川の臨川寺に仏頂和尚がいて、
芭蕉と交流があった。

黒羽 雲巌寺を訪ねた芭蕉は、「おくのはそ道」に次のように書いている。

「当国雲巌寺のおくに、仏頂和尚山居跡あり。
・ 縦横の五尺にたらぬ草の庵
          むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞こえ給ふ。
―中略ー
山はおくあるけしきにて、谷道遙に、松杉黒く苔したりて、
卯月の天今猶寒し。十景の尽る所、橋を渡って山門に入る。」


仏頂和尚の庵は縦横五尺に足りぬ庵は、
今のメートルに直せば150cm四方の広さであった。
雨風さえ防ぐ事が出来れば良かったと思われ、
禅僧にふさわしい住まいであったように思われる。

ここで詠んだ芭蕉の俳句は、

・ 啄木も 庵はやぶらず 夏木立

であるが、この庵を想像すると、芭蕉の俳句が良く理解できる。
きつつきも、高徳の僧侶が住む庵はつつくことなく、
安泰であろう、と詠んだに違いない。
(現在は仏頂和尚の山居の跡は、
通行止めになっていて見ることはできない。)

(山居入り口と思われる所、閉鎖されている山道)
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この文中にある、
「山はおくあるけしきにて、谷道遥かに、松杉黒く苔したたりて・・・」

は、山や谷のある景色、遥かに長い道のり、松や杉が天を覆い、
苔むした岩からは清水がしたたり落ちている。
そんな様子が良く表現されている。

その後に続く

「十景の尽る所、橋を渡って山門に入る。」

の「十景」は曾良の俳諧書留に、
十景、五橋、三水が記されているので、理解できたが、
それがどこにあるのかが解からなかった。

雲巌寺に行き本堂で頭を下げる段になって、
賽銭箱の横に「東山 雲巌寺」の小冊子があり、
金千円なりで求めることが出来るが、
その小冊子の裏表紙に、
地図入りで十景、五橋、三井(さんせん)が掲載されていた。

(雲巌寺十景、五橋、十井が載っている冊子の裏表紙)
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それによると、十景の内、海岩閣、十梅林、飛雪亭、は跡が記されており、
竹林塔は立入禁止で確認できない。
確認できるのは、鉢盂峰(ぼうほう)、玉几峰、竜雲洞、水分石、千丈石、
玲瓏岩である。
五橋はすべて確認でき、三井は、岩虎井、神竜池、はあるが立入禁止で確認できず、
都寺泉(すうずせん)は何処にあるかも不明である。

先ず十景の内、鉢盂峰(ぼうほう)、玉几峰、竜雲洞については、
方丈、仏殿、山門をむすぶ一直線上を南に向った山を鉢盂峰(ぼうほう)、
鉢盂峰(ぼうほう)の左へ延びるなだらかな稜線を玉几峰、
さらに左にある山の頂きが竜雲洞を指している。
水分石、千丈石、玲瓏岩は、五橋のうちの一つ、
独木橋(どくもっきょう)の廻りにある。

(竹林塔はこの観音堂の後あたりに)
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(方丈を背に鉢盂峰、玉几峰、竜雲洞が見える)
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(水の流を分けている水分石)
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(白糸の滝が流れる千丈石)
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(紅葉に染まる玲瓏岩)
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北西の背後を山で囲まれた雲巌寺は、
南東を武茂川で囲まれている。
雲巌時に入るには、囲まれた武茂川を渡らなければならず、
渡るのに必要なのが五橋となる。

五橋の最初は独木橋(どくもっきょう)、
雲巌寺入り口の朱塗りの太鼓橋が瓜�役橋(りてっきょう)、
雲巌寺裏門前の橋が瑞雲橋、
これを過ぎて道なりに進むと右手にある涅槃橋、
最後が梅船橋で、
この五橋が、雲巌寺の前面を取り巻く武茂川を渡る橋である。

(独木橋)
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(五橋の一、瓜�役橋(りてっきょう)雲巌寺入り口の朱塗りの橋)
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(瑞雲橋)
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(涅槃橋)
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(梅船橋)
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(武茂川)
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さて最後に三井であるが、神龍池は方丈の東にあるようであるが、
立入禁止で確認できず、巌虎井は三仏堂前の庭にあるが、
これまた立入禁止で柵の中に入れずおよその場所を、
カメラにおさめたが、確かな場所はわからない。
都寺泉(すうずせん)にいたっては場所もわからない。

(三井の一、巌虎井は木の根元あたり(推測)
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しかし芭蕉は、「十景の尽る所、橋を渡って山門に入る。」とあるから、
十景を観て、橋を渡って雲巌寺に入ったのであろう。

それにしても美しい寺院であった。
さすが日本四大禅寺の一つに数えられるだけのお寺であった。

(十景の一、美しい十梅林跡)
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・山深き 紅葉にひそむ 雲巌寺  hide-san




黒羽 雲巌寺(芭蕉の道を歩く 30)

2012年12月10日 10時31分19秒 | 芭蕉の道を歩く
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(「東山 雲巌寺」の入り口、階段の上に山門が見える)
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(那須・黒羽6)
芭蕉の館を出て、黒羽雲巌寺へ向う、
国道461号線を12kmあると言う。
橋を渡って、(前田T字路)の信号を右折して、
稀にしか対向車がない田舎道をひたすら走る。
山が迫ってきて、雲巌寺左の矢印を左方向に進む。

欄干にある擬宝珠が金色に輝いている橋を渡る。
変だなと首をかしげると、
次の橋の擬宝珠は銅製の錆びてくすんだ色をしている。

まもなく右側に雲巌寺バス停があり、駐車場がある。
バスは終点で、ここでUターンできる広い場所とバスを待つ小屋がある。
道路を挟んで左側が写真でも良く見る、
「雲巌寺」と長い階段と朱塗りの欄干を持つ太鼓橋がある。

(雲巌寺の入り口、手前の太鼓橋を渡る)
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ここで奥の細道を思い出した。
「卯月(うづき)の天いま猶(なお)寒し。
十景尽くる所、橋をわたって山門にはいる。」


とある。

曾良の「おくのほそ道―俳諧書留」に、
十景、五橋、三井(さんせん)について述べている。

雲巌寺十景:
海岩閣、竹林 、十梅林、竜雲洞、玉几峰(ぎょっきほう)、
鉢盂峰(はつうほう)、水分石、千丈岩、飛雪亭、玲瓏岩。

五橋:
独木橋(どくもっきょう)、瑞雲橋、瓜�役橋(りてっきょう)、
涅槃橋、梅船橋。

三井(さんせん):神竜池、都寺泉(すうずせん)、岩虎井。


これらは一体どこを指すのか、解らなかったが、
黒羽 東山雲巌寺の方丈で手を合わせたとき、
その横にあった「雲巌寺の解説兼絵葉書」を、
お布施 金千円也で求めたものに記されていた。

その雲巌寺解説書の表紙には「東山 雲巌寺」とある。

その冊子によれば、
雲巌寺十景の内、
海岩閣旧跡は、
方丈の裏に当るが、豊臣秀吉の北条責めの時、
那須一族が雲巌寺にこもったため焼失したと言う。

鉢盂峰(はつうほう)は、方丈、仏殿、山門を南に一直線に結んだ、
向こうに見える山を指し、
その左になだらかに上る所を玉几峰(ぎょっきほう)、
さらに左の山頂があるところが竜雲洞という。

(方丈を背に、仏殿、山門を南に一直線に結んだ先の山が鉢盂峰(はつうほう)、
その左のなだらかに上る所が玉几峰(ぎょっきほう)、その左の山の頂が竜雲洞)
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五橋のうち、
瓜�役橋(りてっきょう)は雲巌寺入り口の朱塗りの橋で、
瑞雲橋は雲巌寺見学後の退出する裏口に掛かる橋。

その他の十景、五橋、三井についても、
詳しいことは東山雲巌寺の小冊子を参照されたい。

さて、朱塗りの欄干橋―瓜�役橋(りてっきょう)を渡り、
階段を登ると山門、その奥が仏殿、仏殿手前、右側が鐘楼、
左手に佛頂禅師と芭蕉の句歌碑があり、

佛頂禅師
・縦横の 五尺にたらぬ 草の庵(いお)
               むすぶもくやし 雨なかりせば 
芭蕉翁 
・啄木も 庵(いお)は破らず 夏木立   


とある。

(山門の先にある仏殿)
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(右手の鐘楼)
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(左の句歌碑)
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一つの碑に和歌と俳句が並んで刻まれている。
仏殿右横の階段を上がって、左の方に美しい方丈がある。
この方丈の裏が海岩閣旧跡で今は無い。

方丈の扁額には、

「人面は知らず何れの処にかえる、桃花舊に依って春風に咲(え)む」とある。

(美しい方丈)
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(方丈の扁額)
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(坂の左手を昇った所に佛頂和尚の山居の跡はあるらしい)
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庫裏の先を裏山に登ったところが、
芭蕉が訪ねた仏頂和尚山居の跡だそうだが、
今は通行止めになっているのは残念である。
芭蕉が訪ねた仏頂和尚山居の跡こそ、
「おくのほそ道」にある

「当国雲巌寺のおくに、仏頂和尚山居の跡あり。

・縦横(たてよこ)の五尺にたらぬ草の庵(いお)
          むすぶもくやし雨なかりせば

と松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞こえ給ふ。」


の仏頂和尚の歌も空々しく聞こえてくるからだ。

縦横 五尺に足らぬ草庵ー畳半畳分ーの佇まいをどんなであったか、
見てみたいものと思った。
修行の禅僧が世捨て人として生きる空間を。
この仏頂和尚と芭蕉は、深川の臨川寺(りんせんじ)からの親交があった人である。

帰りは方丈と逆に右手へ庫裏の横を抜けて、
階段を降りて三仏堂に突き当たり、
なだらかな道を右へ下ると裏門に出る。

(三仏堂)
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(裏門)
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裏門を出たところで、道路の落ち葉を掃除している小母ちゃんがいた。
「ご苦労様です」と声を掛けると、
「こんにちは」と返事が返ってきた。
このところ急に寒くなってきて、いくら掃いても落ち葉は尽きない。
「どんなにやっても、きりがないですね」と話すと、
「やらないより、掃いたほうが良いでしょう。
このお寺は住職と小坊さんの二人で、
門前にまで手がまわらないと思うので、
頼まれているわけではないが、こうしてきれいにしているのです。」
「御功徳な事でございます。その心がけでは、極楽へいけますよ。」
と言って別れたが、小僧と住職の二人にしては、
あの広い伽藍を、奇麗に維持するのはただ事ではないと思われる。

この裏門を出て道路に出ると橋があり、瑞雲橋という。
五橋について案内看板があり、これで五橋が良くわかった。

(瑞雲橋)
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(五橋に加えて新道が出来たので八橋となっている)
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(武茂川の清流)
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時計を見ると、17時近く山際は薄暗がりになっている。
急いで駐車場に戻り帰宅した。
帰宅すると20時で、本日の歩行は11818=約7kmであった。
車の走行距離は400kmを越えていた。

(薄暗くなった鉢盂峰(はつうほう)
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・短さは 今の時間と 秋の夕暮れ  hide-san





大雄寺と芭蕉の館(芭蕉の道を歩く 29)

2012年12月06日 10時41分46秒 | 芭蕉の道を歩く
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(大雄寺)
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(那須・黒羽5)
修験光明寺跡をでて凡そ四キロ、那珂橋西の信号を右折して、
那珂川を渡る。落ち鮎の簗漁(やなりょう)が盛んな所で、
生きの良い鮎の塩焼きが食べられるのだが、
時間も迫っているし、場所も知らない。
橋を渡って最初の信号を左折すると、黒羽観光交流センターへ出るはずである。
信号を左折すると黒羽観光交流センターはすぐ見つかった。
大田原市役所の黒羽庁舎の中にあるからで、
庁舎は大きな駐車場を備えた立派な建物である。

黒羽観光交流センターを右に見て、最初の交差点を右折すると、
道路は上り坂になり道なりに行くと左手に石柱が見える。
大雄寺で、手前左側に駐車場もある。
その先三~四十メートル左に芭蕉公園入り口があるはず。

先ずは大雄寺に入る。
参道入り口の両側に石柱があり、
右側に黒羽山、左側に大雄寺の文字が見える。
少し行くと長い階段が見え、
数段上に右手に「不許葷酒入山門」の石柱が建っている。
(「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」と読み、
葷酒はねぎ・にらなど臭気のある野菜と酒のことで、
臭気と酒気のある者は山門内に入る事を許可しない、という意味。
永平寺など禅宗のお寺の門前に建てられている事が多い。)

(不許葷酒入山門の石碑)
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石の階段を上がっていくと、左右に仁王の石造が置かれている。
右側が阿形の仁王で左が吽形の石造で、
その間の階段を登ると、山門がある。
山門を抜けると、左手に観音菩薩立像があり、
「黒羽藩主大関氏累代の墓」の案内が左を指している。

(右側の吽像)
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(左側の阿像)
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(黒羽藩大関氏累代の墓の案内が見える)
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さらに先にある階段を登ると「大雄寺参禅道場」の墨痕鮮やかな看板が見える。
ここは禅道場への渡り廊下になっている。
渡り廊下を跨ぎ通ると、横に長い見事な総茅葺の本堂、
参禅道場、庫裏が見える。
先客はあるものの、鳥のさえずる声が聞こえるだけで、
水を打ったように静かである。
静かに手を合わせ、頭をたれて本堂から下がる。

(大雄寺参禅道場)
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(渡り廊下)
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(茅葺の本堂)
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大雄寺を出て、少し進むと右側に駐車場があり、
芭蕉公園駐車場と書かれている。
左側には、大きな「芭蕉公園」の看板がある。
山道を入ると、すぐ左に階段があり、その上の方に旧浄法寺桃邸跡がある。

芭蕉は「おくのほそ道」に次のように書いている。

「黒羽の館代浄法寺何がしの方の音信(おとづ)る。思ひがけぬ主の悦び、
日夜語りつづけて、其の弟桃翠など云うが、・・・」
とある。

芭蕉は黒羽藩大関氏の城代である浄法寺桃雪の家を訪ねた。
大層歓迎されてよほど居心地が良かったのであろう、
其の弟桃翠の家にも泊まったりしながら、
14日間も滞在している。

ここに芭蕉句碑、

・山も庭も 動き入るるや 夏座敷  芭蕉

がある。

(芭蕉公園の入り口看板)
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(旧浄法寺桃雪邸)
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(「山も庭も・・・」の句碑)
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さらに進むとT字路となるので、ここは右折すると左手に飲食店があり、
又道路にぶつかる。

途中の芭蕉句碑、

・田や麦や 中にも夏の ほととぎす  芭蕉

がある。

(「田や麦や・・・」の句碑)
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ここを左折すると、竹薮の中を通るようになり、
右へ上る階段がある。
進むと広場に出て、「芭蕉公園」である。
山間部にしては、かなり広い場所で、広場の左手に句碑が建っている。

・鶴鳴くや その声に芭蕉 やれぬべし   芭蕉

とある。

(竹薮の道)
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(芭蕉公園)
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(句碑がある公園)
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(句碑「鶴鳴くや・・・」)
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その先、左手にもう一つ昇りの階段とその上に東屋があり、
昇っていくと芭蕉の館が、広場の向こうにある。
広場の左には、史跡「黒羽城址 三の丸跡」の標柱があり、
その奥に「奥の細道」の文学碑とともに、

・かさねとは 八重撫子の 名成るべし  曾良

の句が載っている。

(もう一つの階段道と東屋)
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(芭蕉の館)
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(黒羽城址 三の丸の標柱)
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(「かさねとは・・」の句がある文学碑)
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芭蕉の館前には馬に乗った芭蕉と曾良の銅像があり、
その脇にも文学碑が置かれている。

館の中の電灯が気になり、早々と芭蕉公園を出る。

(芭蕉の館2)
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(騎馬の芭蕉と曾良の銅像)
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もうすこし あれと願う わがままに 
           時は静かに 流れ行くなり   hide-san





西教寺、翠桃のお墓と修験光明寺跡(芭蕉の道を歩く 28)

2012年12月02日 10時12分35秒 | 芭蕉の道を歩く
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(西教寺本堂)
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(那須・黒羽4)
玉藻稲荷神社より引き返し、突き当った道路を左折し、
交差する道を右へ右へと行き、最初の信号を右折すると右側に西教寺がある。
那須の篠原の道は分かに分かれていて、非常に判りづらい。
何度も、交差点で引き返し、引き返ししながら、西教寺に到着した。

奥の細道で、(那須野は目印の無い道で、道なれたこの馬に乗っていき、
馬が止った所で返してくださいと、野良の農夫が馬を貸してくれた。)
と芭蕉が書いている様に、回りが水田の道路は、
地図がなければ動きが取れない。
地図はあっても、折れ曲がる道が判りづらく、
人に尋ねようにも人がいなくて、進むのに苦労する。

この西教寺には、曾良の句碑がある。

・かさねとは 八重撫子の 名成るべし   曾良

である。

(曾良の句碑)
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(「かさねとは・・・」の句碑)
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奥の細道にある、
馬を借りたあとを小さな子が追いかけてくる。
名前を聞くと「かさね」という。そこで曾良が詠んだ句である。

西教寺の手前を左に入り、水田の中を道なりに進むと、
左手に十数基並んだ墓地があり、翠桃の墓がある。

翠桃については、奥の細道で、

(那須の黒羽という所に知人(しりびと)あれば、
是より野越にかかりて、直道(すぐみち)をゆかんとす。
―中略―
黒羽の館代浄法寺何がしの方に音信る(おとづる)。)


と書いている。

(翠桃の墓)
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館代とは城代のことで、黒羽の城代 浄法寺桃雪の家と、
弟の翠桃の家を交互に泊まり、奥の細道で最大の十四日間逗留している。
その翠桃のお墓である。
墓碑が並んでいる写真の一番左の墓碑が翠桃のもので、
碑面の「不説軒一忠・・・」までの法名は読むことができる。

(左端が「不説軒」の法名がある翠桃本人のお墓)
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また兄の桃雪の住まいについては、「旧浄法寺邸」として、
芭蕉公園の入り口に復元されている。

旧住居の玄関に、ご近所の女性が数人休んでいらっしゃった。
顔を出して挨拶すると、
「美人が揃っているので驚かれたでしょう。」と声をかけられた。
昔鳴らした美女たちが、玄関先にずらりと並んで休憩中であった。
ボクもそれ相応な年齢であるから、驚きもせず、
「芭蕉はどの部屋に泊まられたのか、どちらの美人の方がご存知ですか?」
とお訪ねすると、中でも少し若作りの人が、
「一番奥の部屋です。」指差して答えた。
「有難うございます」と答えて三間続きの座敷を、外側から見に行く。
城代のお邸にしては少し狭いと思われたが、
今でも田舎、と思える城代の家としては、充分であったに違いない。

(昔の美人が並んでいた旧浄法寺邸)
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(浄法寺邸の一番左の座敷に芭蕉は泊まったと言う)
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話が脱線してしまった。
翠桃のお墓で、地面が食い込むのではないかと心配しながら、
車をUターンさせ、修験光明寺跡へ向う。
案内に沿って、左折すると三叉路に出て、
どれを行けば良いか車を止めて思案していると、
運良く車が通りかかったので、地図を見せながらお訪ねする。

「一番右側の道を行くと案内があります」男性は親切に教えてくれた。
人っ子一人見ない田舎では、会話をできる人がいて、
お役に立てることが余程嬉しいらしく、
満面の笑みをたたえて教えてくださった。

「修験光明寺跡」は案内看板が、
山すその道路わきの草地に建っているだけで、
修験光明寺行者堂跡らしきものは見えない。
それもその筈、光明寺行者堂跡は左の山の中へ入らなければならない。

(修験光明寺跡の案内)
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(枝が覆いかぶさった山道の階段)
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左手の木が追いかぶさる山に入ると階段が見える。
これからどんな深い山に登るのかと、恐る恐る昇ると、
階段は意外に少なく、すぐ頂上らしき所についてしまった。
左手を見ると、句碑が建っている。

・夏山に 足駄をおがむ かどでかな   はせを

芭蕉の句碑である。

(修験光明寺行者堂跡の句碑)
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修験光明寺行者堂跡と伝えられているが、
今はこの句碑しかない。
この句碑は、阿部能成(あべよししげ)氏の揮毫であるという。
阿部能成氏は、ボクが結婚するころまで、学習院大学の学長で、
もと文部大臣であったので良く覚えている。
今の平成天皇が学ばれたころの学長の筆になるという。

修験光明寺跡をでて、大雄寺へ向う。

(安部能成の揮毫という句碑)
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・木洩れ日に 碑文が浮ぶ 行者堂   hide-san