中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

雄島(芭蕉の道を歩く 55)

2015年03月15日 11時16分38秒 | 芭蕉の道を歩く
(奥の細道【20】松島3)

雄島については松島町松島観光協会の説明板を載せておきたい。

(雄島は、
立ち帰り またも来てみん 松島や
        雄島のとまや 波にあらすな   
(藤原俊成「新古今和歌集」)
心ある 雄島のあまの 袂かな
        目やどれとは ぬれぬものから  
(後鳥羽院の官女源師光の女「前同」)
と歌枕として詠まれている。

元禄二年五月九日(1689 陽暦六月二十五日)
芭蕉は、塩釜から舟で松島海岸に着き、瑞巌寺に詣でた後、
雄島を訪れた。

芭蕉に同行した曽良の旅日記には、
雄島、雲居の座禅堂有。その南に寧一山の碑有。
北に庵あり。道心者住す
」とある。

「奥の細道」には、雄島の印象を
雄島が磯は地つづきて海に出でたる地なり。
雲居禅師の別室の跡、座禅石などあり。將(はた)
松の木陰に世をいとふ人も稀々(まれまれ)見えはべりて、
落穂、松かさなど打ちけぶりたる草の庵閑に住みなし、
いかなる人とは知られずながら、先ずなつかしく立ち寄るほどに、
月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。」
ー以下省略。
としているが、
「地つづきて」は文学としての流れで、実際には渡月橋でつながっている。

(雄島「地つづき」でない)

(渡月橋)

党内には岩窟が数多くあり、卒塔婆、仏像が置かれ、
昔より諸国から集まった僧侶や巡礼の人たちが修業した場所で、
全島が霊場といった雰囲気である。

渡月橋を渡り終えた場所からその霊地を感じる修行場の岩屋が見える。
雄島に入り先ず正面に「奥の細道」の案内標識が見える。
案内標識の左奥へ進むとたくさんの石碑が並んでいる。
そこに芭蕉や曽良の句碑も並んでいる。

(橋を渡った後に見える霊場)

(奥の細道案内標識)

芭蕉の句碑には、
・朝よさを 誰まつしまぞ 片心 芭蕉翁
曽良の句碑は、
・松島や 鶴に身をかれ ほととぎす 曽良
大島寥太の句碑は、
・朝ぎりや 跡より恋の 千松しま  雪中庵寥太

(左は芭蕉と右は曽良の句碑)

(大島寥太の句碑)


さらに奥に(北に)進むと僧侶たちの修行場の跡地に五輪の塔などがたくさん見られる。
北の端に来ると「妙覚庵敷」の標柱がある。
これは十二世紀初頭、見仏上人が妙覚庵を結び十二年間法華経読誦に過ごし、
その後、頼賢がこの庵を継ぎ、22年間島に籠り、
見仏上人の再来と崇められた。

(修行場跡の岩屋など)

(修行場跡の岩屋など2)

(修行場跡の岩屋など3)

(修行場から見た美しい松島)

(妙覚庵敷)

(妙覚庵敷から見た松島)

(妙覚庵敷から見た松島2

雄島を南へ戻って、「奥の細道 雄島」の標柱を右へ(南へ)向かうと、
すぐ左手に座禅堂がある。
ここは芭蕉が(草の庵)と書いた雲居禅師の座禅堂で
「把不住軒(はふじゅうけん)」と呼ばれる。
ここから見る松島も本当に美しい。

(把不住軒の座禅堂)

(座禅堂から見た美しい松島の景色)

雄島をさらに南へ行くと、頼賢の碑がある。
この頼賢の碑は国の重要文化財に指定されているが、
碑の内容は建長寺十世の唐僧、一山一寧(寧一山)上人の撰文による、
島の歴史が草書で詳しく書かれているそうである。
この頼賢の碑は六角堂に納められているが、
六角堂には、先の東日本大震災で受けた津波による痛手を覆うように
何本かの角材で補強されているのは痛々しい。
(頼賢の碑がある六角堂)



瑞巌寺(芭蕉の道を歩く 54)

2015年03月10日 11時13分07秒 | 芭蕉の道を歩く
(奥の細道【20】松島2)
瑞巌寺方面に歩くと、三陸三十三観音 第二番札所 瑞雲峰天麟院がある。
ここは伊達政宗公長女 伊達五郎八姫(いろはひめ)霊廟の地である。
政宗と愛姫(めごひめ)の長女で徳川家康の六男松平忠輝の正室。
後に離別となり、仙台に戻り落飾後、天麟院と名乗った。
五郎八姫(いろはひめ)とは、母正室愛姫が生まれた女の子に男名をつけると、
次は男子が生まれると言ういわれから五郎八姫と名付けたと言う。

(天麟院)

この五郎八は女性に付けた名として、有名である。
銘酒の名前にもなっている。しかしこちらは名前は「五郎八」でも、
呼び方は「ごろはち」、お酒は期間限定の濁り酒で新潟の銘酒。

話が飛んでしまったが、天麟院の隣に円通院がある。
伊達政宗の孫 光宗の菩提寺。文武に優れ将来を嘱望されていたが、
19歳の若さでこの世を去った。
庭は小堀遠州の作と伝えられ、紅葉が美しい。

(円通院と紅葉)

その先に、修行僧の岩窟があり、石碑がいくつも並んでいることは、
前回述べた。
そして瑞巌寺の受付がある。

(修行僧の岩窟と石碑)

(修行僧の岩窟と石碑2)

受付で拝観料を納め、奥を覗くと本堂が見えない。
よくよく見ると本堂は幕で覆われ、ただいま修復中と言う。

(修復中の本堂)

(幕に画かれた本堂)


(受付)の反対側に修行僧の洞窟があり、格子戸で覆われている。
法身窟(ほっしんくつ)という。

(法身窟)

説明板によれば、
「鎌倉時代、北条時頼が、
後に臨済宗円福寺(現瑞巌寺)の開山となる法身性西
(俗に真壁平四郎)と出会った場所と伝えられている。
正安二年(1300)京都嵯峨天龍寺開山の夢想国師がここを訪れた時、
無人の窟内から天台止観を講ずる声が聞こえたと言う。
窟内には時頼の法名碑・当山中興雲居国師行状碑・
三陸海嘯供養碑が所狭しとおさめられている。」とある。

法身窟の格子戸前の左側には、観音菩薩立像が線刻された石碑がある。

(線刻の観音菩薩像)

受付の前を抜けて、養生シートでで覆われた修復中の本堂へ向かい、
手前で右折すると、右手に宝物館があり、左手に国宝の庫裡がある。
本堂が工事中で庫裡には入場できるようで、
ガードマンの案内で靴を脱いでスリッパに代え入場すると、
目の前にガラス箱に入った観音様が「いらっしゃい」と挨拶している。
順路通りに進むと、
次は仮本堂になっている大書院である。

大書院には、
伊達家三代綱宗から十三代斉邦、および各正室の位牌が所狭しと置かれている。
一方には、三代開山の木造および藩祖の位牌を置く。

説明に、
「左は仙台藩祖伊達政宗の位牌。「瑞巌寺殿前黄門貞山利公大居士神儀」は、
瑞巌寺を建立した功績によって名づけられた。
62万石の祖ににふさわしい大きさ・華麗さで、
迦陵頻伽(かりょうびんか)(*)を脇に彫り出す。
黄門は中納言の中国名。神儀は大名への位号で神と同義、
揮毫は雲居禅師。」とある。
右側は、政宗の嫡男、二代忠宗の位牌である。

(*)迦陵頻伽(かりょうびんか)は想像上の鳥。極楽に住むと言う人頭鳥身。(Wikipediaより)

(国宝の庫裡)

(庫裡内の観音像)

(伊達家歴代と各正室の位牌)

(開山上人像)

(伊達政宗の位牌、右側は二代忠宗の位牌)

位牌の横に普段は本堂の文王の間の欄間にある額が飾られている。
額には虎哉和尚の撰文による「松島方丈記」が記されている。
額に記されてボクに読める部分は、

「夫松島者日本第一佳境也。四囲皆山也。山間皆海也。水光瀲灔(れんえん)、
疑是大湖三萬六千頃。山色清浄者、望則波心七十二峯。青海中数百の島嶼、
山畔許多之家、奇石怪松茂林脩竹、其風景也可愛可楽。
寔天下霊地也。(後略)」とある。

(欄間の額)

現代文にすると、
「およそ松島は日本第一の景色の佳い所である。四方みな山に囲まれ、
山の間はみな海である。海の水は光に映え、海の中に数百の島あり。
山は清らかで、波間に72峰を数える。
山のほとりには若干の人家軒をつらね、その風景愛すべし、楽しむべし。
唐土西湖三万六千頂か、いつ見ても初めて向かうように思える。
まことに天下一の霊地である。」でしょうか。(拙文お許しを)

床の間には、「半身達磨図」の掛け軸があり、
「純一無雑」と書かれ、これは純粋そのもの百%で、
余計なものは一つも混在しないと言う意味で、
禅宗の修行は純一無雑であることを示しているそうである。

その隣に「関」の字の衝立がある。
関は閉ざし、侵入を防ぐ事。
その閉ざされた場所をいかに通るかが、禅の問題で、
家屋の入口を「玄関」いうのは、この問題に発しているという。

(「半身達磨図」掛け軸)

(「関」の字の衝立)

この時期、特別公開されている伊達政宗の正室 陽徳院田村氏愛姫(1568~1653)の
墓堂 寶華殿を拝観する。
庫裡を出て東へ向かうと物々しく監視小屋があり、
そこには修行中か若いお坊さんが、番人として監視している。
その前を通り、修行道場の横を抜けて裏山に行く。
かなりの階段を上るとその上に目指す「寶華殿」はある。
荘厳な墓堂ではある。

(修行道場入口)

(修行道場)

(裏山への道)
(階段の上の寶華殿)

(伊達政宗正室 愛姫(めごひめ)の立派な墓堂 「寶華殿」)


瑞巌寺は伊達家の菩提寺であるが、正妻の墓堂はあっても、政宗のお墓はない。
独眼竜 伊達政宗の遺体は、別途、仙台市の経ヶ峰にある瑞鳳殿に埋葬されている。

五大堂と瑞巌寺山門(芭蕉の道を歩く 53)

2015年03月05日 11時09分40秒 | 芭蕉の道を歩く
(奥の細道【20】松島)
前日、塩竃から遊覧船で松島を一巡して松島海岸に着いたのは、
午後15:50分で、秋の陽はつるべ落としと言われ、
陽が落ちるのが早い。
予定では、瑞巌寺を見てホテルに帰ることにしてあったが、
仙台まで帰り、瑞巌寺、五大堂、雄島などの松島海岸を、
翌日観光することにした。

(松島桟橋)


仙台から松島海岸に行き方も知らないので、
仙台駅で駅員さんに松島海岸は何番線ですかと聞いてしまった。

「○○番線の××行きに乗ってください」と言う。
仙石線と言うことだけは解っていても、それが何番線であるかは知らない。
鉄道について不勉強で、人に見られたら笑われてしまいそうだ。

本当はAM9:08分発だと言うことは調べてあったが、
その紙がどこにしまってあるか分からなくて、
聞いた方が手っ取り早いという、年寄りのエゴだ。

松島海岸駅で降りたら、この先に行く人は、バスの振り替え輸送でと、
駅のアナウンスが昨日あったが、今朝も同じ放送が流れている。
なぜだか知らないが、(津波でこの先は電車が走らない)、
まだ復旧していないのだと勝手に決めて、電車を降りた。

(松島海岸駅)


昨日遊覧船の中で、松島湾の牡蠣は身が厚くて美味しいと聞いていたので、
今日は是非、焼いた牡蠣を食べたいと、カミさんに注文を受けていた。
どこか牡蠣を焼いて食べさせる所があるか、気を付けることにした。

駅から歩いて10分ほどで遊覧船のりばの桟橋まで来る。
奥の細道の案内看板に五大堂直進、瑞巌寺左と書いてある。

(奥の細道案内標柱)

先ず五大堂を目指す。
道路途中に「日本三景碑」の石碑に出会う。

言うまでもなく日本三景の一つに松島が入っている。
芭蕉もその美しさを「美人の顔(かんばせ)を粧(よそお)う」と名文で綴っている。

島々の数を尽くして、欹つものは天を指さし、ふすものは波に腹ばふ。
あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。
負えるあり抱けるあり、児孫(じそん)愛するがごとし。
松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹きたはめて、屈曲おのずからためたるがごとし。
其の景色窅然(ようぜん)として、美人の顔(かんばせ)を粧ふ。
」と、
その美しさは、天の神のなせる業か、筆舌に尽くしがたいと述べている。

(日本三景の碑)

(五大堂)


「五大堂は国指定の重要文化財で、
大同二年(802)坂上田村麻呂が毘沙門堂を建立したのが始まり。
後に、慈覚大師が五大明王をお祀りしたことで五大堂と呼ばれるようになった。
現在の建物は、伊達政宗が慶長9年(1604)瑞巌寺に先駆けて再建したもの。
東北で現存する最古の桃山様式の建造物。
お堂までには、「透かし橋」を渡って行くので緊張する。」(松島町産業観光課)

ここで言う五大明王とは、不動明王を中央にして、
東西南北に五大明王像を安置したことにより、
五大堂と呼ばれるようになった。

(五大堂への一の橋入口)

(一の橋と二の橋の先に見える五大堂)

(床がすけて海面が見えるすかし橋と五大堂)

(国宝の五大堂)

また、五大堂島までに渡る「すかし橋」は、海面が覗ける様に造ってある。
海面までの高さがあって、ボクは足がすくみそうになるが、
およそ15センチ間隔に板が張られているので、
下に落ちることはなく、ガイドさんの説明によると、
これは参拝者の心を引き締めるためのもだそうです。
なお、五大明王は秘仏で、堂の開帳は33年に一回、
(平成18年8月)に御開帳があったそうで、
次回は平成51年でこの後25年先であるから、
ボクは見ることが出来そうにない。

五大堂から松島桟橋まで戻り、瑞巌寺へ向かう。
道路を渡ると瑞巌寺への石柱がある。
石柱の奥に山門が見える。
山門にかかる扁額は「桑海禅林」とあり、門をくぐると「瑞巌寺」の説明板があり、
瑞巌寺をもっともよく説明しているので紹介したい。

「  瑞巌寺
元禄二年五月九日【1689・陽暦六月ん十五日)塩竃から
舟で松島に着いた芭蕉は、小憩ののち、瑞巌寺に参詣した。
・・・瑞巌寺に詣づ。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して
入唐帰朝の後開山す。その後に雲居禅師の徳化に依て
七堂甍改まりて、金壁荘厳を輝かし、仏土成就の大伽藍とはなれりける。
彼見物聖の寺はいつくにやとしたはる。
(奥の細道より)

瑞巌寺は九世記、慈覚大師を開基とする天台宗の寺院、
青竜山延福寺(松島寺)として創建され、十三世記中葉、
改めて法身を開山とし、臨済宗(建長寺派)の青竜山円福寺となったと伝えられる。
法身(法心とも)は、常陸の国真壁郡の俗名平四郎で、
卑賤の身で発憤して仏門に入り、入宋して修業し、高僧になったと言われる。
円福寺は、その後妙心寺派となった。慶長十年(1605)、
伊達政宗は衰微していた円福寺の再建に着手し、
寺号を松島青竜山瑞岩円福寺(松島山瑞巌寺とも)と改め、
四年を費やして大伽藍を完成した。」とある。


松尾芭蕉の「奥の細道」に始まる瑞巌寺の寺伝を紹介している。
(瑞巌寺の石柱)

(山門)

(桑海禅林の扁額)

(山門の奥に杉木立が見える)


門をくぐって奥を見ると、杉並木に囲まれた長い参道が見える。
右を見ると、鰻塚があり、その後の崖には、修行僧の供養塔であろうか、
沢山の五輪の塔が見える。

(杉木立)

(鰻塚と崖の五輪の塔)


右へ歩を進める。右面は崖になっており、岩窟がいたるところにあって、
ここで修行に励んだと思われる跡が偲ばれる。
その岩窟の前の仏像は西国33ケ寺を現わす仏像である。

(崖に彫られた岩窟の数々)

(その一)

(その二)


山門から続く参道を進むと、受付があり瑞巌寺拝観料を受け付けている。
拝観料大人(高校生以上)700円、子供(小学生~中学生)400円。
[受付]に入る手前の左側に延命地蔵があり、そこから左へ、
鉄製の灯篭、更に左へかけて石碑が沢山あるが、文字が読めない。
読めたのは芭蕉碑、それに奥の細道文学碑「抑もことふりにたれど・・・」くらいなものだ。

(延命地蔵尊と灯篭)

(芭蕉碑)

(奥の細道文学碑)

(右芭蕉碑、左が文学碑、中央は歌碑?読めなかった)