中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

美江寺観世音(旧中山道を歩く 257)

2011年07月31日 10時13分04秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(美江寺宿の名所・遺跡図)


(美江寺東口のバス停)

(美江寺宿2)
踏切から数十歩行くと、
右手に(美江寺東口)のバス停があり、
旧中山道の案内看板も立っている。
道路わきには「美江寺宿の名所・遺跡図」案内看板もある。
少し行くと右手に「美江寺一里塚跡」の碑が建っている。
その手前を北に入ると、亀頂山 瑞光寺がある。


(美江寺一里塚の碑)


(亀頂山 瑞光寺)

ここは美江寺宿本陣の主 山本友佐坊の菩提寺であり、
友佐坊は芭蕉門美濃派のお弟子さんでもある。
その関係で亀頂山 瑞光寺山門前には、芭蕉とその門弟の句碑が建つ。

山本友佐坊句碑
・影も匂ふ かと おもわれつ 梅に月

各務於菟句碑(芭蕉門人)
・時雨る々や  あるかなきかの  石のこえ

芭蕉句碑
・旅人と  我名呼れん  初時雨


(山本友佐坊句碑)


(各務於菟句碑)


(芭蕉句碑)

少し歩くと(美江寺)の信号があり、
その右手に美江神社の石の鳥居がある。
境内に入ると右手に「中山道 美江寺宿跡」の石碑があり、
説明案内板もあるので、しっかり読んで置きたい。
その先に高札場が復元されている。
高札場は、本来宿場の決まりを伝えるものであるから、
以前は通りに面した所にあったに違いない。
高札場には六枚の高札が掛けられていた。
内容はどこの高札も同じで、
忠孝を大切に、キリシタンの禁止、人馬の駄賃の取り決めなど、
幕府や領主が決めた掟書などを知らせた。


(美江寺の信号)


(美江神社)


(入って右側の美江寺宿の石碑)


(右側の高札場)

左手には神社の本殿があり、
その前を通り奥に進むと、美江寺観世音堂もある。
お堂前に二つの引き出しがあり、
「どうぞご自由にお持ちください」とあるので開くと
(歴史の道・中山道 美江寺宿)と(美江寺宿 マップ)とがあるので、
賽銭をいれ頂戴する。
ここでは美濃最古の天平仏、十一面観音立像があったが、
斉藤道三時代に現在の岐阜美江寺に移された。
今は、美江寺城の和田家に伝わる観音像が祀ってある。


(左側の本殿)


(左奥の美江寺観世音)

美江神社まえで、最初の枡形を左折、すぐ右に和田家、
これは美江寺城主和田氏の末裔と伝えられる。
その先左手に本陣跡の碑があり、
商人宿が右手に、その先突き当たり辺りが、
広重の浮世絵「木曽海道69次之内 みゑじ」を画いた所という。


(元美江寺城主の末裔和田氏の家)


(左手に本陣跡の碑)


(商人宿、今で言うビジネスホテル)


(正面が広重の浮世絵を描いた場所といわれる所)


(広重画く「みえじ」)

この2番目の枡形を右折してすぐ左手に石標があり、

「右大垣 赤坂ニ至ル」
「左大垣 墨俣二至ル」とある。

石標を左に見て、進むと右手に「美江寺千手観音堂」がある。
お堂の中には石造りのこちらは千手観世音像が祀られている。
また、お堂の先には「新月橋」があり、
この橋は、寛文7年(1667)に寄付金で築造されたという記録が残ったいる。
周りは富有柿の産地らしく柿の畑が見渡せる。


(右大垣の石標)


(千手観音堂)


(石造りの観世音)


(新月橋)


(富有柿畑)


(周りは富有柿の畑)

道路はその先で突き当たりの枡形、
ここに「千躰寺」があって、

瑞穂市教育委員会の説明によると、
(――前略――千躰寺には高さ12cm~23cmの
ヒノキ材一木造の阿弥陀如来立像、千躰が八段に並べ祀られている。
仏像は千躰仏と呼ばれ、寺の名の由緒となった。――後略)とある。
この案内看板の隅に千躰仏の写真が出ていたので、パチリと写真。

千躰仏が安置されているというが、
確かめることは叶わなかった。

千躰寺の前で、最後の枡形を左折。


(突き当たりの千躰寺)


(千躰仏を見ることができなかった千躰の仏様、
看板の写真です。本物を見たら感動するでしょうね)







樽見線 美江寺駅(旧中山道を歩く 256)

2011年07月27日 10時21分37秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(JR大垣駅)

(道路端にあるカーブミラーの美江寺の看板)


(美江寺宿)
前回、「京都三条大橋に到着するのは、
何日のことになるやら思いやられる。」
と書いたが、気分一新して中山道を歩く。

本日、2011年6月7日(曇り)気温24℃予想。
JR東海道線大垣駅AM8:54着。
樽見線 大垣発9:10の予定。
大垣駅を降りて、お昼弁当をKiosukuで購入。
樽見線美江寺駅まで乗車運賃300円は判ったが、
切符を買う場所がわからない。
売店の叔母さんに「4番目の自動券売機で」と教えられたが、
300円の切符のボタンが無い。
切符売り場には人がいて、なにやら難しそうな話をしている。
割り込む隙もない。
焦って時計を見ると後3分しかない。
切符売り場の人がやっと退き、駅員さんに聞くことが出来た。
「樽見線の切符はどこで買うのですか?」
駅員さんはつれない、「こちらから4番目の券売機で買えますよ」の返事。
券売機の前に立って、急ぐ時ほど落ち着いてと、
気持ちを取り直し、券売機の画面を左上から順を追ってじっくり読むと、
一番右下、つまり読んで行くと、一番最後のところに
(樽見線)のボタンがあった。
ボタンを押すと300円のボタンが現れた。
お金を入れて切符を買い、自動改札機を通る時、
時計を見ると後1分で発車時間の8:10.


(樽見線のワンマン電車)

前回樽見線を降りた時、階段のすぐ近くであった記憶がしたが、
電車は止まっていない。
ホームの先の方に赤旗を持った駅員さんがいるので、
「樽見線はどこですか?」と遠くから大声で叫ぶと、
駅員さんが赤い旗を振って招き、
「こちらです」という。
電車は見えないが発車時間は迫っている。
駅員さんが嘘は言うまいと、駆け足で近づくと、
自動販売機に隠れて電車が1両停車している。
前の方に運転手さんらしいが、見た所、体格が女性のようであった。
急いで電車に乗ると、運転手さんも所定の位置につき、
「発車します」と車内放送がある。

初日はどうも予定が狂って危なっかしい。
美江寺駅は四つ目の駅で、車両はがら空きの状態。
ボクを入れて4人の乗客である。
単線運転で、ワンマンカーであるが、
バスと違って降車客も乗車客がいなくても駅には止まる。

美江寺駅に着くまで、どの駅にも乗り降りの客は一人もいない。
運転席近くまで行って、美江寺駅に近づくのを待って、
単線のレールをカメラに収めた。


(美江寺駅近くの単線レール)

駅舎には上り電車待ちの乗客が3人ほどいて、
ボクが降りるとみんな「おはようございます」と挨拶。
とても礼儀正しい町の人たちである。
返事をかえして、駅を出る。
駅舎と言っても、どこからでもホームに入ることが出来、
どこからでも出ることが出来る。
「みえじ」の駅名表示の写真を撮って町に出る。

カメラに収めた踏切が中山道である。

0004
(「みえじ」駅のホーム)


(レールの手前の踏切を通る道路が中山道)







本田(ほんでん)代官所跡(旧中山道を歩く 255)

2011年07月22日 09時43分23秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(「馬頭観世音菩薩」のお堂)

(河渡宿2)
合渡小学校を右に見て土手の下の道を、
前方に見える河渡橋に向って歩く。

200m先の河渡橋の下をくぐると、
右手に「馬頭観世音菩薩」のお堂(愛染堂)があり、
少し先に「祭りに いこまい 河渡宿」
と書いた大きな黒い常夜灯が目に付く。
「いこまい」というのは、岐阜の(名古屋?の)言葉で(いきましょう)という意味だ。
だから「祭りに行きましょう河渡宿」という意味である。


(祭りにいこまい河渡宿の常夜灯)

さらに進むと右側に「中山道河渡宿」と書いた黒い小さな常夜灯がある。
常夜灯の脇に小さな祠があるが、なんだか解らない。
ここで右折すると右奥に同じような小さな木製の常夜灯が見える。
これが河渡宿だと安心して右折する。

少し歩くと右側に「中山道 河渡宿」の石柱が建っている。
少し奥まった所にやはり黒の小さな常夜灯が見られる。
その奥には祠がある。


(道路右角にある「中山道河渡宿」の常夜灯と祠)


(少し奥に見える黒い常夜灯)


(中山道河渡宿の石碑)

石柱の横に一里塚跡と刻んであり、
前には中山道河渡宿文化保存会が作った石碑がある。
それによれば、
(江戸時代、江戸と京都を結ぶ重要な街道として中山道が整備され、
六十九の宿場が設けられた。
河渡宿は江戸から百六里二十七町、五十五番目の宿場であった。
加納宿へ一里半、美江寺宿へは一里六町を隔て、
長良川の渡しを東に臨み、
大名行列や旅人が往来宿泊して大いに反映しました。
ここはかって一里塚のあった場所である。
塚は道の両側に夫々あり榎が植えられて、
塚の大きさは五間四方であった。)とある。(河渡宿文化保存会)


(石碑横に一里塚跡とある)

河渡宿には特筆するものはほとんど無い。
慶応橋を渡り、生津(なまづ=地名)を抜けて田園地帯を進む。
糸貫川を渡ると左手に延命地蔵尊を祀る地蔵堂がある。
僅かに残る旧家が昔を偲ばせる中山道の街並みで、
やがて右側に本田(ほんでん)代官所跡がある。

瑞穂市教育委員会の説明よれば、
(江戸時代の一時期、このあたりに幕府直轄地の代官所があったが、
詳細は定かではない。
しかし、古文書等から推測すると、寛文十年(1670)
野田三郎左衛門が初代代官に任じられ、この地に陣屋を設けたと思われる。
本田代官は後に川崎平衛門定孝(十一年間在任)という名代官を
迎えるなど、この地の人々の大きくかかわった。
明和七年(1770)大垣藩に預けられるまで続いた。
今も「代官跡」「お屋敷跡」「牢屋敷跡」という地所が残っている。)という。
(瑞穂市教育委員会)


(慶応橋)


(糸貫川)


(「生津/なまづ」のバス停)


(延命地蔵尊)


(中山道の旧家)


(「本田(ほんでん)代官所跡)

その先に高札場跡の案内看板があり、
さらに先の道路端には、中山道の案内があるだけで、
田園地帯をどこまでも進む。
やがて電車の線路をまたぐが、単線のレールの右奥に美江寺駅が見える。
樽見鉄道樽見線の「美江寺駅」である。


(高札場跡)


(中山道の案内が時々あるが周りは田畑)


(樽見線の単線踏み切り)

電車は一時間に一本だけで、時刻表を見ると16:25大垣行きがある。
今、16:10で運良く電車にありつくことが出来た。
今日はこれで終り、帰京することにする。

駅には誰もいないどころか切符売り場もない。
単線運転で掲示板によるとワンマンカーである。
電車のワンマンカーは始めてである。

時間だけは正確に、電車はやってきた。
ドアーが開いて乗ろうとすると、
(乗車の方は後ろから乗ってください)と運転手さんが大声で言っている。
誰も降りないんだから、
開いているドアーから乗せてくれても良さそうなものを、そうも行かないらしい。
後ろのドアーまで走って乗り込んだ。

乗ったらスピーカーが「券を取ってください」とわめいている。
うろうろしていると乗客が近くにある券を取ってくれた。
(これで美江寺駅から乗ったことが分かる)
終点の大垣駅までおよそ20分。
ワンマンの運転手さんが何か大声で独り言を言っている。
興味を持って電車の前の方へ行くと、
「出発進行」とか「信号注意」とか言っている。
単線運転でレールの上を走っているのに、
何か注意しながら走らなければならない規則も可笑しい。

バスの運転手でワンマンカーが沢山都内を走っているが、
出発しますとか、信号注意とか、ブレーキ掛けますとか、
大声で話しているのを聞いたことがない。
レールの上を走っている訳ではないので、
電車より余ほど注意が必要なのに・・・

終点の大垣駅に着いた。

運転手さんが運転席から立ち上がって、
乗客に券はこちらの箱へ、料金は運転手さんに渡す。
乗った場所によって料金が違うので、勘定が大変である。
ボクは300円で簡単だが、780円や880円もある。
お釣りや時には、運転手さんに料金を訊いてから、
やおら財布を取り出す人もいる。

つり銭が要らぬように細かいお金を出そうとするが、
860円まで来て、あと20円が無くて、結局千円札を出す人もいる。
すると120円のお釣りが必要になり出口は大混乱。
最後に改札を通過するのに必要な切符を渡される。
あまりお客さんが居ないから良いようなものだが、
大垣駅で乗り換えの人はどうするのだろう。

ボクも大垣で乗り換え名古屋へ行くのだが、
もたもたしていて、「特別快速」に乗りそこねて、
10分後の「快速」に乗った。
通学時間で、座席一杯の電車になった。

ナゴヤ発17:33東京行きに飛び乗り、21時近くに家に帰る。
本日歩いた距離、56825歩=約34km、足の裏に肉刺(まめ)が出来た。
次は関が原まで行けるか?
そして岐阜県を終了して、滋賀県へいけるか?

どんどん歳はとり、カタツムリとは言わないが、
牛歩であることには違いない。
この後は、番場の忠太郎、信長、秀吉、お茶茶、お江に関わる、
長浜、彦根、安土、琵琶湖が続き、瀬田の唐橋、などなど、
歴史・物語も多くなりそう。
楽しみではあるが、京都三条大橋に到着するのは、
何時のことになるやら思いやられる。


(美江寺駅が左に見える)


(美江寺駅)







小紅の渡し(おべにのわたし)(旧中山道を歩く 254)

2011年07月17日 10時54分51秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(小紅の渡し)

(河渡宿)
鏡島弘法の乙津寺を出ると、「小紅の渡し」右の看板がある。

「小紅の渡し」について、岐阜市教育委員会の説明によると、

(ここには、江戸時代から長良川の対岸とを結ぶ交通路として
「小紅の渡し」が設けられています。
この小紅の渡しは、古くから鏡島弘法(乙津寺)への経路として、
約1km下流にあった中山道「河渡の渡し」と共に栄えていました。
現在では県道文殊茶屋新田線の一部になっています。
近代的な橋の施行技術が発達する以前は各地に渡しがありました。
現在では、小紅の渡しが岐阜市内に現存する唯一の渡しとなりました。
なお、小紅の名の由来については、いろいろな説があり、
お紅という名の女性の船頭がいたとか、
川を渡る花嫁が水面に顔を映して紅を直したとか、
紅を採る草が生えていた、などの言い伝えがあります。)

看板の右手を見ると川の土手になっており、
土手に登る階段がある。
階段には、小紅の渡しは土手を登るとでかでかと書いてある。
土手に上れば今度は下ると書いてあり、
降りれば川べりへ出る案内がある。


(小紅の渡しへの階段)


(土手を下る階段)


(渡しの船乗り場)


(対岸の小屋へ手を振って合図する)

川べりで対岸に手を振ると、
対岸の小屋にいる船頭が見つけて、
船をこちらへ滑るように動かしてくる。
舟にも(小紅の渡し)と書いてある。

風の向きがボクから見れば追い風であったためか、
エンジン音は全く聞こえず、
川の流れを利用して動かしているのかと思うほど、
静かにやってくる。


(音もなく滑るようにやって来る)

船に乗るとエンジン音がするのに気づく。
船頭さんは一年中日光に照らされているせいか、
真っ黒に日焼けしている。

渡しの料金は無料である。
岐阜市がこの舟渡しを管理しているからである。
だから船頭さんは公務員ということだろうか?
今、地方の自治体は財政難であろうから、
渡しを維持するのも楽ではない。


(乗り場へ向う船)


(対岸に向う船)

渓斎英泉画く浮世絵
「木曽海道六拾九次之内(岐阻路ノ駅 河渡 長良川鵜飼船)」では、
長良川の鵜飼船を画いている。
(鵜飼は古来より伝わる漁法で、
古くは(古事記、日本書紀)にもその記録が見えるという。
織田信長以来大名の庇護を受けた鵜飼は、
船首にかがり火の松明を焚き、
舟を流しながら行うものであるという。
この浮世絵では、かがり火により舟だけが照らされ、
後はシルエットで表現されている。
水上部と水中が見事に描き出されている。
また、背景の濃淡によって金華山がみえる。)
(歌川広重・渓斎英泉「木曽海道六拾九次之内」より抜粋)


(栄泉描浮世絵「木曽海道六拾九次之内」(岐阻路ノ駅 河渡 長良川鵜飼船)

舟を降りて土手を上がり、
土手の上を左方向へ時計回りで歩き橋を渡ると、
岐阜市立合渡小学校が目の前にある。
まさか小学生が通うために、
この渡し舟を使っているということは無いだろう。


(土手を時計回りに半円を書くとある橋)


(橋の向こうにある合渡小学校)








鏡島弘法 「乙津寺(おっしんじ)」(旧中山道を歩く 253)

2011年07月12日 09時33分51秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(鏡島弘法「乙津寺」)

(加納宿3)
岐阜市の歴史的建造物として残されている旧加納町役場を過ぎ、
中山道は西に向うと、右側に「中山道加納宿当分本陣跡」の碑がある。
当分ということは間に合わせで、補助的なに置かれた本陣のこと。
それにしても脇本陣もあることなのに・・・
その碑の左横には(明治天皇御小休所跡)と書かれている。
何か事情があって、天皇がお休みになる場所を造って、
本陣とし、本来の本陣の補助的役割を果たしたのであろう。

加納宿には本陣も脇本陣も残っていない。
残っているのは、標柱だけである。
しばらくして加納宿西問屋跡、脇本陣跡があり、
JR岐阜駅から伸びてきた道路と交差する。


(当分本陣跡)


(加納宿問屋跡)


(脇本陣跡)


(岐阜駅から来た広い道)

考えたら、お昼弁当を出発前に駅で買うところ、買うのを忘れていた。
丁度お昼でもあり、お手洗いにも寄りたいので岐阜駅に向う。
駅には岐阜観光案内所もあることだから、
西の番所跡のあり場所も聞いておきたい。

食事とお手洗いを済ませて、観光案内所を訪ねる。
西番所跡は駅から伸びた広い通りより西にあり、
しかも行く手の左側にあることが解った。

旧中山道に戻って駅から来た道から右折するも、
西番所跡はなかなか見つからない。
左手に秋葉神社はある。
余り見つからないので、秋葉神社を振り返ると、
中山道加納宿西番所跡の石柱が見えるではないか。


(秋葉神社、手前の後ろ向き西番所跡標柱)


(西番所跡)

何のことはない秋葉神社の敷地内に西番所跡の碑はあるが、
その碑が西向きになっているから、
江戸方面から来た人には背面しか見えないため、
なかなか見つからないのだ。
これが京都方面から来れば、何の苦もなく見つかるであろうに・・・

ここが加納宿西の入り口であろう。
東の番所跡からおよそ2kmあるという。
先に進むと左手に阿賀多神社があり、
その先に(中山道)の案内がある。
この辺りに一里塚があったものと思われる。


(阿賀多神社)


(中山道の案内、この辺りにあった一里塚)

先に進むと東海道線の高架と交差する場所に出る。
(清水町2)の信号である。
中山道はどちらなのか、ここではたと困った。
直進した所には目印となるものはどこにも見当たらない。
高架をくぐって向こう側へ出てみると、
左手の金網のフェンスに
(本荘まちづくり協議会)作成の案内があることが解った。


(清水2の信号)


(中山道の道案内地図)


(東海道線の高架をくぐった先)

案内によれば、高架をくぐって向こう側に出て、
道路は二手に分かれるが、
手前の道を進むのが中山道であると示してある。
手前の道を十数歩進むと、
右側の金網に(中山道)の案内がありホッとする。
その道路を出たところが、また変形の交叉点になっていて、
道路向こう側にある「いちだクリニック」脇の道路の、
その向こう側の道路を行くように案内がある。


(手前の道路を十数歩進むと見える中山道の案内)


(ワンブロック進むと変則交差点、いちだクリニックのビルが見える)


(ここにもフェンスに本荘まちづくり協議会の案内がある)

案内どおり進むと、進んだ先の右側に本荘小学校があり、
道路際に学校のお手洗いがある。
必要の方は是非ご利用をお勧めする。この先田舎道には
W.C.はない。

この先に進むとまた厄介な道路に出るが、
親切にも本荘まちづくり協議会の丁寧な案内に沿って進めばよい。
やがて広い交叉点に出る。
道路向こう側に八幡神社が見える。
道路を渡ると「中山道の案内」があるので、
この地図に従って進む。


(反対側に八幡神社が見える、森医院の間の道路を進む)


(八幡神社にある案内)

次の信号が(鏡島大橋南)で広い通りを横切り進む。
地図の通りT字路に出てこれを左折すると、
左手に(鏡島弘法前)のバス停があり、その先右側に
「瑞甲山 乙津寺」の石碑があり。
中山道はこの石碑を右手に見ながら、
道なりに進むと長良川に掛かる河渡橋へ出る。
橋を渡ってすぐ左折し土手沿いに歩けば中山道である。

しかし、鏡島弘法の乙津寺の裏手に、
長良川を渡す「小紅の渡し(おべにのわたし)」が今でもまだ健在ということを聞いて、
どうしても舟で長良川を越えたい。
せっかくここまで来たから、鏡島の乙津寺へ寄って、
その裏手の渡しへ行きたいものである。

「乙津寺」の石碑のある場所の左横の道路を覘くと
奥に赤い鳥居が見え、
その横に「弘法入り口」の案内看板が見えるので進む。
赤い鳥居まで来ると、
右横方向に山門があり手前に(弘法大師)の石柱が見える。


(鏡島大橋南の信号)


(T字路を左へ)


(左にある鏡島弘法前のバス停)


(右手の乙津寺の石柱)


(奥を覘くと弘法入り口と赤い鳥居が見える)


(山門の弘法大師の石柱)

ここが鏡島弘法 「乙津寺」である。
門をくぐると、左手に工事中の金網があり、
正面に本堂らしきものが見える。
その手前に御神木と書いた大楠の木があり、
およそ400年経っているらしいが、
相当な大きさである。
正面にある真新しい建物は本殿(?)なのかよく解らない。

この真新しい本殿の左横に、
四国八十八箇所の南無弘法大師の旗がはためいている。
その旗のほうへ行くと、八十八個の大師像が並んでいる。
カタカナのコの字がたに並んでいる八十八個の像の前で、
手を合わせ進むと、乙津寺の裏手へでる。

出たところに「小紅の渡し右」の看板がある。


(山門をくぐると本殿?)


(手前のご神木、樹齢400年)


(こちらへ遷宮?)


(四国八十八箇所)


(四国八十八箇所2)


(小紅の渡しの案内看板)













加納宿の枡形と歴史的建造物(旧中山道を歩く 252)

2011年07月06日 09時49分41秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(広重画浮世絵 木曾海道69次之内「加納」)


(だんごや)

(加納宿2)
右手に(だんごや)があるので手前を右折する。
これが加納宿の第一の枡形である。

(だんごや)の店角に(中山道 加納宿)の標柱が建っている。
進んだ左生垣の中に(中山道 加納宿 八幡町)の地図入り案内もある。
その先に「加納大橋」があり、浅いけれど水が綺麗に流れている。
橋の欄干に彫られた胴板は、浮世絵の参勤交代行列図で、
童謡(まりと殿様)の唄を思い出させる。

少し進むと、左手の駐車場角に道標があり(左西京 右岐阜・谷汲)とあり、
この手前を左折します。
ここが第二の枡形になる。
左折して少し歩くと、右手の広い通りへ出る手前の右側に、
(中山道加納宿の東番所跡)の碑があり、
これを左折する。
これが第三の枡形になる。
左折すると正面に(法性山 善徳寺)があり、これを右折する。
ここが第4の枡形になる。


(だんごや脇の標柱)


(中山道の案内地図)


(加納大橋)


(浮世絵のモチーフ1。上の浮世絵と比較ください)


(浮世絵のモチーフ2。上の浮世絵と比較ください)


(第二の枡形)


(第三の枡形)


(第四の枡形、善徳寺)

広い通りを横切って、茶色のアスファルトを進むのが中山道。
通りの隅のU字溝の蓋に(中山道 御鮨街道)とある。
左手に(東福寺)を見て進むと、
同じ左手、道路を挟んで向こう側に太田薬局がある。
その店前に(左中山道)の石碑があり、ここを左折する。
ここが第五の枡形。


(茶色のコンクリート道路)


(中山道、加納宿のU字溝の蓋)


(東福寺)


(太田薬局、店頭の中山道の石碑が見える、第五の枡形)

少し先の橋を渡り終えた左側に(高札場跡)の看板がある。
ここからが昔の宿場があったところであろう。
関東では名主、その他では庄屋が宿場や村の治安維持に努めた。
各宿場や村へ入ってくるよそ者に、
宿場や村の決まり(法律)を知らせるために、
宿場や村の出入り口に置かれた高札場を管理していた。
時には文字の読めない人には読んでやることもした。
旅人などよそ者は高札場の前では、
笠を取って読んだといわれる。

話がそれたが、高札場の前を通り抜けると、信号にでる。
信号手前に(加納城大手門跡)の石碑がある。
中山道はここを右折する。
ここが第六の枡形になる。


(高札場跡)


(加納城大手門跡、第六の枡形)

案内ではこの近くにお手洗いがあることになっている。
お手洗いがあることを期待していたが、どうも見当たらない。
我慢をして先へ歩くことにする。

右折すると道路は茶色のアスファルトが続いている。
中山道である。
すぐ左手に旧加納町役場が、岐阜市の歴史的建造物として残されている。
この建物は文化庁に登録された有形文化財である。

見るからに古くてピラミッドのように重々しいが、
見方によっては、今にも崩れそうな気配がする。
この気配については説明のし方がないので、
写真を見てもらう以外に手はない。

岐阜市の説明では。
(国内屈指の和傘の町、
文京の町として繁栄した稲葉郡加納町を象徴する建物で、
大正十五年(1926)に竣工。
京都帝国大学武田五一教授の設計。
構造・様式は「イスパニヤ式」手法を加味した鉄骨鉄筋コンクリートで、
耐震耐火構造、基礎工事は、「フーチング式」鉄筋コンクリート、
当時の最先端技術を駆使し、
旧岐阜県庁と共にデザイン感覚に優れた建造物として、
多くの専門家から高い評価を受けている。
同教授の手になる名和昆虫記念館、同博物館、
大垣市の旧浅沼銀行本店などは当地に縁も深く、
広く知られている。――後略――)(文化庁、他)

古かろうと役場であるからトイレくらいはあるだろうと思ったが、
残念ながら入り口はしまっていて中には入れそうにもない。
どんな立派な建造物もボクにとっては使えるトイレがないのでは、
何の役にもたたない。

しかたなく次へ向う。

(旧加納町役場)





関取 鏡岩濱の助(旧中山道を歩く 251)

2011年07月01日 09時40分45秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(切通 4)の交差点)


(恵比寿神社)


(真宗寺)


(156号線と交差する)

(加納宿)
古い街を歩き、(切通4)の信号を横断し、
「恵比寿神社」、「親鸞聖人御旧蹟 真宗寺」を右に見て、
国道156号線を横断する。

約300mで細畑の一里塚が道路の両側にある。
民家が立て込んでいる中によく残ったものだ。
頂上には榎が植えられている。


(細畑の一里塚の北塚)


(一里塚の南塚)

少し歩くと延命地蔵堂があり、その前に道標の石標がある。
よく見ると、
「伊勢 名古屋 ちかみち 笠松 凡一里」とあり、
普通は「左」の文字が入る所を、
石標に「左」を指差す「手」が彫られている。
「西京道 加納宿 凡八丁」
「明治九年一月建之 遠藤平左衛門」とある。
石標は意外に新しい。
「左方向へ」を「左」の文字でなく、
「手で指差す」新しい手法を取り入れたに違いない。
推測するに、作者の遠藤平左衛門さんは、
きっと新しい物が好きな方であったのでろう。


(追分の延命地蔵)


(延命地蔵菩薩の脇にある道標)


(指先で方向を示す道標)


(明治九年の文字)

ここで「伊勢 名古屋 ちかみち 笠松 凡一里」、
「西京道 加納宿 凡八丁」と
「凡(およそ)」と書いたが、
どうも「凡」は「兀(こつ)」が正しいのではないか、
これは「まで」を意味する字で、
(笠松まで一里)(加納宿まで八丁)が正しいと言う意見がある。

どうもこれのほうが意味が通じやすいし、
文字そのものも「凡」よりは「兀」の方が解りやすいので、
これをとることにする。


(「凡」よりは「兀」が正しいと思われる。

ここから加納宿に入っていく。
名鉄「茶所駅」の踏切を渡るとすぐ左手に、
関取「鏡岩濱乃助」の碑があり、道標が立っている。

「ぶたれ坊と茶所」と題して、岐阜市教育委員会の案内板によると、
(この、ぶたれ坊と茶所は、
江戸時代の相撲力士「鏡岩濱乃助」にちなむものです。
伝えによると、二代目鏡岩は父の職業を継いで、
力士になりましたが、
土俵の外での行いが悪かったことを改心して寺院を建て、
ぶたれるために等身大の自分の木像を置いて、
罪滅ぼしをしました。
また、茶店を設けて旅人に茶をふるまったそうです。
ここの少し北側にある東西の通りは、
昔の中山道であり、加納宿として栄えていました。
江戸時代には多くの人が訪れたことでしょう。
現在では、歴史的な街並みと地名に当時の様子を伝えていますが、
ここにあった妙壽寺は廃寺になり、
「ぶたれ坊」の像は岐阜駅南口に近い、
加納伏見町の妙泉寺に移されています。)とある。


(加納宿の碑)


(鏡岩の碑。右側に鏡岩山、左側に妙壽寺と彫ってある。)


ここにある道標には、(東海道いせ路)、(江戸木曽路)、
(京都 大阪 西国道)とあり、
横面には(天保十一年辛丑十一月 鏡岩濱乃助内建之)とある。
これを見ると、この道標は鏡岩が建てたものではなく、
鏡岩のカミサンが建てたものだ。
茶店を出して旅人に茶を振舞ったというから、
旅人が道をたびたび訊いたのだろう、
あんまり訊かれるものだから、
方向を書き込んだものを建てたに違いない。
カミサンも随分大変だったと見える。


(道標、鏡岩濱の助内と彫刻されている)


この鏡岩の碑の前で椅子に寄りかかって、
暖かい陽射しの中で、柔らかい寝息を立てながら、
お休みしているお年寄りがいた。
目の前で鏡岩の碑の写真を撮るのに、
頭の上でカメラを構えても目を覚まさなかった。
あまりにも気持ち良さそうな居眠りで、
写真にしたら絵に成るかと、
構えて撮ったが、腕が悪く良い写真にならなかった。
どんなアングルで撮ったら、
よい写真になったのだろうかと、
後になって悩んでいる。
どなたかご教授願えないものでしょうか?


話がそれてしまったが、話を戻すと、
鏡岩の碑から、中山道を少し進むと、
右手に(だんごや)があるので手前を右折する。
これが加納宿の第一の枡形。


(だんごや)

(日溜りに気持ちよく昼寝のおじさん)