中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

和田宿と信定寺(旧中山道を歩く 135)

2008年06月29日 07時50分43秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(和田宿入り口)

(和田宿4)
和田八幡社で中山道は右のほうへ曲がって坂はさらに上っている。
道路の先を見ると周りの人家の様子が、
昔はこんなであったろうかと想わせる雰囲気――時代劇の宿場の街並みになる。


(「かわちや」ー歴史の道資料館)


(かわちや2)

清流が流れる依田川を渡った右手に「かわちや――歴史の道資料館」、
その奥に黒曜石石器資料館があるが、残念ながらPM16:00で閉館とある。
時計を見ると16時を僅かに回ったところであるが、これほど人の姿を見ないということは、
本日の訪問者は皆無に近いに相違ない。午後四時を待つように閉館しても仕方ない。

そもそもボクの都合で、しかも梅雨いりしたばかりの雨の合間を縫って、
前後は雨の予報で、たった二日間の晴れ間を、
これ幸いと出かけてきたのだから訪問者がいないのも仕方が無い。

旅館を予約したときも、おかみさんらしき人から
「中山道を歩かれるのですか?天候は大丈夫ですか?」と念を押されたくらいである。
後で判った事だが、
旅館の予約はボクたち夫婦二人以外に宿泊客は無かったなかったのである。
この梅雨のシーズンに中山道最大の難所である
和田峠(標高1600m)を下諏訪まで22km歩こうと思う人はいないに違いない。
もっと気象条件のよい時期を狙うのが普通だ。
気象庁の予報に加え、テレビに流れる低気圧の動きを判断して、
この二日間に雨はないと勝手にボクが判断して実行に移した。


(いにしえを想わせる街並み)


(古い家)


(古い家2)


(古い家3)

街道を進むと左側に和田宿本陣が再現されて見学可能であるが、
これも時間外で外から見るだけであったが、
見るからに重厚なつくりで、見学できないのは大変残念であった。
本陣正門前にある説明によれば、(要約ですが)


(本陣)


(本陣のご入門)


(本陣・屋敷)

「和田宿本陣は文久元年(1861)の大火で焼失してしまったが、
同年皇女和宮降嫁に備えて再建された。
その後明治期に座敷棟は丸子町龍願寺へ、
また座敷棟の前にあったご入門は丸子町向陽院へと移築された。
ここにある門は実測調査して作成復元した。
平成元年「潤いのあるまちづくり」優良地方公共団体表彰を受けて再建した。」
(長和町教育委員会)


(信定寺の本堂、裏山が和田城跡)

宿場をさらに進むと右奥に信定寺(しんじょうじ)があるのでよって見る。
信定寺は大井信定の「信定」をとって命名されたものであろう、
「信定の菩提を弔うため天文二十二年(1553)に建立された。
徳川時代、例幣使日光参詣の途中、和田宿に泊まり京都二条城殿祈願寺となり、
諸大名参詣する。
江戸時代十四代住職活紋禅師は幕末の士、
佐久間象山の師と仰がれ、その徳を慕い来るもの千余人、
象山と一対一で世界を語ったといわれる。寺の裏山は和田城跡」と
寺の由来に書かれている。


(信定寺の山門兼鐘楼)

また、鐘楼は二階建ての上の部分にあり、山門をかねている。
これに似た門は桶川宿の浄念寺にあったのを思い出す。
鐘の音は村の人々の心のよりどころとなってきたに違いない。
山門を兼ねたこの鐘楼は柱が細身、
やや腰高でいまにも倒れそうな不安定さを感じさせる。
屋根の上にシャチがいるのも、なにやらお城のようで、
裏山の和田城を連想させて面白い。

鐘楼門の右脇に虚空菩薩像が安置されている。
虚空菩薩とは、字のごとく虚空を蔵する。
つまり宇宙のすべての知恵と慈悲を蔵する仏であることから、
念ずれば記憶がよくなり学力が向上するといわれる。


(中央が虚空蔵菩薩)

しかしボクの経験からは、
学業は神仏を念ずるようでは、向上はおぼつかない。
人は生まれながら同じように平等にすばらしい能力を与えられている。
ただ、その能力を磨き続けることが出来るかどうかによって、
出来る人出来ない人の差がでてくると思う。

ことわざに「小人玉を抱いて磨かず」とある。
せっかく良い頭脳を親から貰って生まれてきたのに、それを磨こうとしなかった人と、
向上の意欲を持って磨いた人とでは格段の差が出来ることを知ってもらいたい。

70年経っていまだに磨き続けて、少々玉が磨り減って小さくなってきたが、
ボクの経験では磨き続ければ、招きもしないのに、
思わぬ幸運が向こうからやってくることを覚えておいて欲しい。

話が脱線してしまったが、
いずれまた時間を見つけて和田宿を訪問し、
歴史の道資料館も
黒曜石石器資料館も
本陣なども見学することにしようと思う。


(信定寺門前から見た道路)



若宮八幡宮と和田八幡社(旧中山道を歩く 134)

2008年06月25日 06時11分59秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(神社らしき杉の大木が見える、これが若宮八幡神社)

(和田宿3)
三千僧接待碑を通り過ぎてしばらくすると、左側に杉の木が数本
まとまって高く生えているのが見える。
田舎の神社や寺院がある証拠である。
近づくと神社手前の道路左脇に地下道が作られており、
「東餅屋(和田峠)地下道をくぐる」と案内看板が出ている。
地下道の左先にこの杉林はある。


(地下道)


(地下道入り口と案内表示板)


(子供の作品と思われる可愛い壁画)

地下道をくぐると、地下道の壁には近隣の中学生が書いたものか
草花の絵とその名前が描かれている。十メートルほどで地下道は出口になる。
何のことは無い道路を地下で渡るようになっているだけである。
地下で渡った道路は二車線の車道であるが、
きっと道路を車が数珠繋ぎで通って横断するのに危険を伴うか、
あるいは以前、この神社へ参拝するに当たって通行した人の死亡事故でも起きているのかもしれない。
(あるいは自治体のただ単に予算消化のために作ったものかもしれない)
しかし、今は車はおろか自転車も人も通らない。
静かな道路である。
朝とか夕方にはきっと沢山車が通るに違いない。
(どう見てもラッシュになりそうも無いが・・・)

さて、地下道を出ると中山道はこちらと矢印が下を向いている。
向いた矢印の方向を見ると、田舎のあぜ道よろしく草は生え放題の
農道が続き、その道路は山裾に入っている。街道にしては狭すぎる。
中山道はもともと2間の広さで造成されているはずであるから、
どうも農道に見える道とは違うと判断して、
広いほうの今まで歩いてきた延長線上を行くことにした。


(若宮八幡神社)

左脇の神社は若宮八幡神社と言い、
和田城主の大井信定父子の墓がある由緒のある神社である。

説明によれば、
「本殿は、一間社流造の間口1.5m、奥行き1.7mの大きさで
棟札には享保六年(1721)建立とある。――中略――
天文二十三年(1555)和田城主大井信定と武田信玄が矢ヶ崎で合戦、
信定父子始め、一族郎党ことごとく戦死しその父子の首級がここに埋葬された。」(長和町教育委員会)


(若宮八幡の反対側にある神社)


(埃だらけで苔むした何の神社か?)

道路反対の右奥の山すそに鳥居があるので寄ってみる。
杉林の前にある神社には、苔むした石の階段を上がらなければならない。
本殿を見ても何の神を祭ってあるのか良く判らない。
土地の氏神様であろうか?


(一里塚後跡の石碑まだ新しい)

道路を進むと、左手に「中山道一里塚」の石碑がある。
日本橋より49番目の一里塚(芹沢の一里塚)である。
この石碑はまだ新しく、最近建てられたもののように見える。
そのように考えると旧中山道は、さっきの草が生えた道なのかもしれないと疑念がわくが、
人の気配すらない田舎道では、どちらが正しいのか訊くことも出来ない。

進んできた中山道は右側に人家がありさらに右奥には山が迫っている。
やがて山との間に人家が無くなり、道路は山すそに沿って進むようになる。
左側に国道142号線と並行するようになると、道は急な登り坂となる。
二百メートルほどで道路は二股に分かれ、
左道路わきに「是より和田宿」の大きな石碑があるのが見えるので、左側の道を採る。
進むと右側に和田小学校、和田中学校があり、
その二つの学校の間に大きな石の鳥居があり和田八幡神社とあるが、
神社らしきものがその鳥居の奥に見当たらない。


(急な上り坂)


(左の道をとる)


(和田宿の立派な石碑)


(和田中学横の鳥居)

さらに進むと右側の一段高いところに八幡神社がある。
ここにも鳥居はあるが、先ほどの石の鳥居との関係が良く判らない。
神社が道路に接近しすぎているところを見ると、
昔は先ほどの大きな鳥居があったが、中山道を通すことになって、
鳥居だけ移動させたのかもしれない。

この八幡神社の境内にはこんもり盛り土をした土俵とけやきの大樹がある。
夏祭りにはちびっ子相撲でも開催されるのか、土俵の円は小さい。


(和田八幡社の鳥居)


(和田八幡の本殿と土俵)

本殿脇にある説明板によると、
「長和町指定文化財の八幡社本殿は、かって和田城主大井氏の
居館の鬼門除けに作られたとの伝承がある。
白木造り一間社流造の本殿は、間口1.7m、奥行き1.8mの大きさで、
蟇又に巴の紋所が入っており、妻の大瓶束が軍配団扇形となっているのが特徴である。
全体にすっきりした建築で十八世紀前期の建築と推定される。
拝殿と覆殿を併合した入母屋造りの建築も珍しい。」(長和町教育委員会)
とあるが何のことか良く判らない。

建築用語については、次のように調べましたので、ご覧ください。

建築用語の解説図を載せますのでご検討ください。


(建築用語の解説図)

・用語について

(本陣)

・一間社:(上の写真で、もし上に神社の屋根があるとして)両方の柱の上に横たわる桁の長さが一間あると一間社、三間あると三間社と言う。


(本陣のご入門)

・流造:門の屋根が直線でなく、流れるように反って流線型になってなっているのを「流造り」という。(上の写真)

・妻:屋根の山の形をした側を「妻」といい、上から下に屋根が下りてきた平らなほうを「平」という。

・妻入り・平入り:妻側に入り口がある建物を「妻入り」、平らなほうに入り口がある建物を「平入り」という。

・妻にある大瓶束(たいへいづか)とある「大瓶束」については下記URLを参照してください。

http://www.kcn-net.org/senior/tsushin/kokenchiku/mon/yotsuashi/taiheitsukashosai.htm


・入り母屋造り:妻の下へさらに屋根が続くのをいう。(写真下参照:妻の山型からさらに屋根が平らにつながる)







三千僧接待碑(旧中山道を歩く 133)

2008年06月21日 09時03分25秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(種を取るためであろうか、ねぎぼうずが見事だった。)

(和田宿2)
ミミズ道祖神の先に三千僧接待碑の石造群がある。
説明によれば、
「信定寺(しんじょうじ、和田宿にある)別院慈眼寺境内に建立されていたものが、
寛政七年(1795)この地に移された。
諸国遍歴の僧侶への接待碑で
一千人の僧侶への供養接待を発願して見事結願し、一躍二千を増やした。
三千の僧侶への供養接待を発願したと碑文に刻まれている。
碑を見れば誰の目にもわかるように
一千僧の「一」の字を三千僧の「三」の字に改刻した痕が歴然としている。
当時三千という僧侶への接待用の食べ物は米飯ばかりでは到底賄いきれないところから
麦飯、麺類、粟飯、ひえ飯等雑穀にても賄い、
更に天保年間の六年に渡る凶作続きの際にはジャガイモの粥などで
賄ったことがあると言われている。」(和田村・長野県・文化庁)


(三千僧接待碑)

なるほど、説明を読むとわかるが、「三」の数字が、
あまりにも上のほうに詰まって刻まれており、
「一」の上に「二」を足したことがよく判る石碑である。
集落を過ぎて行くと、大きな馬頭観世音の碑が一段高いところに見ることが出来る。


(馬頭観世音の碑)


(馬頭観世音の碑2)

一日に何人の僧に接待したのか良く判らないが、
少なくも天保の六年間とあるから六年以上はあったと思われる。
この碑が寛政七年(1795)にこの地に移されたとあるから、
そこから天保六年(1835)までと仮定しても、
実に40年掛かっている。

世界には、千円で何人もの子供の命が救われる地域もあるというのに、
日本では、たった一人の役人に数億円単位の接待をする会社があって、
検挙された事件があるが、少しはお布施にでもまわしてほしいものである。
金に目がくらんだ亡者どもを、どうぞ神様仏様、彼らを改心させてやってください。
そして不幸な子供たちに幸せを分け与えて下さいますよう、お願いします。

分相応の生活に満足し、毎日の生活の中から、
つめに火を灯すようにして倹約できたお金を蓄えて、
報われない子供たちに、寄付をしている人もいることを忘れないで欲しい。

三千僧接待碑の説明を見ながらそう思った。


(中央が虚空菩薩像)



みみず道祖神(旧中山道を歩く 132)

2008年06月17日 09時37分42秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(古い建物)


(街道の町並み)

(和田宿)
追分で左折した中山道は、しばらく古い家並みを通り抜け、
やがて国道に合流する。信号を渡った先に左和田宿5.9km、
東餅屋(和田峠)16.7kmの看板がるので進むと、すぐ次の案内看板にであう。
ここには東餅屋16.6kmとあり左折の矢印になっている。


(5.9kmの案内)


(左16.6kmの案内。後ろに見える広い通りへは行かないで手前の狭い道を行く)

国道を行かずに手前の狭い道を進む。
道路は国道と平行しており、途中道祖神がある大きな木の下を通過するが、
道は突き当たりになっており、道を間違えたかと思う。
しかし案内標識があり、その案内に沿って歩くと、国道に合流するようになる。
前方が開け景色がよく見渡せる。
田んぼと畑、先に町並み、その先に山が待ちうけている。


(木下の男女仲良い道祖神)


(前方に開けた景色)

合流した国道を歩くと、やがて「大和橋」の信号に出る。
道路はY字路になっており、案内書に寄れば、この信号を左折しその先を迂回して、
やがてまた国道に合流するようになっているが、
Y字路の右側の道を見ると
「中山道 これより 和田の里」の大きな石の案内があるので、そのまま国道のほうに行くことにした。


(「大和橋」の信号)


(中山道これより和田の里)


(萱葺きのバス停)

その先に茅葺の一軒家を小型化したバス停があり、
軒先に竹筒の先から清水が流れ落ちている。
カップも置いてあり、先客が水を飲んでいる。
冷たそうで美味しそうだったので、ボクも試す。
今日のカンカン照りにはもってこいの美味しさである。

この和田峠越えは、持病のあるボクの体を心配して、カミさんが同行している。
口うるさくて、心配性で、実際には足手間問いなのであるが、
ボクの身を心配してくれることに感謝して、同行してもらっている。
そのカミサンが、「お腹壊すから、一杯で止めて置いたら」と言う言葉に従った。


(鉄橋が見える「青原」の信号)


(水明の里)


(ブルーの案内看板)

さて、日照りの中山道を進むと、前方に鉄橋が見え、手前に「青原」の信号がある。
信号右側に「水明の里」の大きな案内表示と共に緑の芝生と石材を置いた公園がある。
公園脇に「中山道」と右矢印のブルーの案内表示があるのを見つけ、「青原」の信号を右折する。
今後はこのブルーの案内看板が和田峠の案内役になる。

すこぶる役に立った。

公園の奥には、休憩所のあずま屋と、旧中山道の地図が置かれ、
地図には「和田峠の東餅屋」先まで書かれたており、脇には石塔群が建っている。
この公園の脇を中山道は進む。


(石造群と奥に見える休憩所)


(木曽街道のマンホールの蓋)

どこまでも続く炎天下の田舎道をただただ進む。
両脇に民家はあるが、お昼寝でもしているのか、人が出歩いていない。
「木曽海道 和田」の浮世絵が描かれたマンホールを時々踏み越えていく。
和田宿までどこまでも同じマンホールの蓋が置いてある。
水量が豊富らしく、勢いよく流れる水の音が聞こえる。
さすが「水明の里」と名づけた土地と感心する。
このあたりは静かで、水の音と水田の蛙の合唱以外はあまり音が無い。
のどかな感じがするが、田舎道はほこりが無いせいか空気が綺麗で、
太陽光線もまともに降り注いでくるから、暑いことこの上ない。
道路わきに馬頭観音像に沢山めぐり合う。


(馬頭観音)


(馬頭観音2)

(馬頭観音3)

馬頭観音は江戸時代、馬の守護神として信仰された。
街道を往来する荷駄は馬の助けによるもので、馬なくして商いは広く行うことが出来なかった。
現代で云うトラックの役割を果たした。牛馬が流通に果たした役割は大きい。

しばらくすると「みみず道祖神」が左側にある。
この道祖神は、まだ新しい。

(かわいらしい姿のミミズ道祖神)

説明によれば、
「この記念碑は、ここ(みみず)地区に住む人々の希望により祭られました。
蚯蚓(みみず)は、土壌動物の代表で、みみずは枯れた落ち葉や木の枝をよく食べ糞をします。
その糞が「土」となり、生まれたばかりの土にはよく植物が育つのです。

少し残酷ですが、「ミミズの干物」を作り、解熱剤として煎じて使いました」とある。
日本語と英語と韓国語の説明がついている。

話としては面白いが、何のことは無い土地の名前を観光資源にしているのだ。
地方の活性化のための商業主義が見え隠れする。

もっとも、説明の最後のくだりはボクの子供のころ、
熱さましにミミズの干物を煎じて飲まされたことがあるが、
ミミズが煮干のようにカリカリに乾いていたことを思い出す。

よく効いて漢方薬として貴重なのであろう。







長久保宿本陣と「うだつ」(旧中山道を歩く 131)

2008年06月14日 09時21分11秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(長野新幹線 上田駅)

(2008年6月10日時の記念日(快晴、気温27度予想。
旧中山道を再スタートするに当たって)

日本橋から中山道を歩いて、順番では長久保宿から次は和田宿に入り、
その先の下諏訪宿に行くのが普通である。
和田宿から先は、標高1600mの和田峠があり、その峠は下諏訪宿まで、行程約22kmある。
標高1600mというものの、実際には標高差800mほどで、
それも12km歩くと峠に出るというから、
1mの高さを登るのに15mあるからそれほど困難では無さそうだ。
それにしても、山道を22kmというと、旧道を探し探し、
しかもボクのように史跡があれば立ち止まって、昔をしのび考えながら歩く者には、
どうしても丸一日が必要になる。
そのため前日には和田宿で一泊は必要であり、
今までのように、今日は天気がよいから出かけようなどと簡単にはいかない。
どうしても二日間好天に恵まれた日が続き、
しかもボク自身の用事の無いときでなければ出かけることができない。

昨年10月から立春までは日が短く、仮に朝早く出ても夕方17時には暗くなってしまう。
さらに3月ころまでは寒さと残雪に悩まされそう。
まして今年(2008)は天候不順で、4月になり少し暖かくなってきたと思うと、
今度は雪が降りなどして、出かける機会が無く過ごした。
好天が続く日は、ボクに所要があって出かけられず、とうとう5月も終わりに近づいた。
止むを得ず和田峠越えは後回しにして、その先に歩を進めないといつまで経っても、
旧中山道を完歩することはできない。

なかなか機会が無いと嘆いていた和田峠を歩くチャンスが、思ったより早く巡って来た。
条件は、天候に恵まれた二日間で、ボクの野暮用が無く、和田宿で旅館が取れる日、
しかもカミさんの用の無い日。
6月10・11日がその日に当たる。
そこで一度飛ばしかけましたが、やはり順序どおり旧中山道をたどりたいと思います。

日本橋を出てから通算二十五日目、長野新幹線 上田駅からバスで一時間。長久保宿に到着。)


(バス停 上田市は真田幸村の郷 六文銭の家紋が見える)

(長久保宿2)
田舎道では滅多に人に出会わない。会うのが珍しいくらいである。
長久保宿では、犬を散歩に連れ出している人に出会った。その時、
バス停の位置をお訊ねしたのである。男性は、
「この道を行くと、道路がT字路になり、
突き当たりに(よねや)左側に(濱田屋)の旅館があります。
(よねや)は営業していませんが、そのT字路を右折したところにバス停があります。」と教えてくださった。
そのバス停に14:30に到着した。中山道を少し戻ると、立派な黒門の家まで歩く。


(長久保宿のT字路突き当りに「よねや」が見える)


(大きな木のある黒門の家)

このあたりが長久保宿の中心地なのかもしれない。
このT字路に突き当たる手前の右側に、黒い大きな門構えと庭に大きな木が生えている家である。
門に近づくと左側に大きな看板が建っており、
「長和町指定文化財 長久保宿 旧本陣 石合家住宅」とある。

説明によれば、
「江戸初期の本陣建築で、大名、公卿等の宿泊した御殿の間と呼ばれる
上段の間、二の間、三の間入側等を現存する。書院様式で、大柄な欄間意匠には、
寛永前後(1624前後)の風格がしのばれ中山道旧本陣中、最古の建築として貴重である。
寛永三年(1850)の本陣絵図には、上段の間ほか客室、茶の間、台所等
二十二室が主要部分で、ほかに問屋場、代官詰め所、高札場を併設し、
ご入門ほかいくつかの門、御番所二ヵ所、お湯殿四ヶ所、雪隠七ヶ所、土蔵、馬屋等があった。
旧本陣石合家には、江戸初期よりの古文書、
高札等貴重な文書、資料が数多く残されている。」(長和町教育委員会)とある。


(長久保宿本陣の門)

黒門の横に通用門が開いていたので中に入ってみると
「Close」と書いた看板が庭の苔の上に無造作に置かれていた。
庭は手入れが行き届いていて、普段は公開されていると思われる。


(本陣の庭)


(白壁がつながる釜鳴屋)

その先同じ右側に白壁の塀が続き、「うだつ」が上がった家がある。
玄関先に元酒造業を営んでいた「釜鳴屋」の看板がある。

説明によると、
「釜鳴屋(かまなりや)は、寛永時代より昭和初期まで酒造業を営む。
この住宅の建立年代は江戸前期といわれるが不詳である。
大きさは間口九間半(約17m)奥行き十間半(約19m)
正方形に近い形で建坪約百坪(330平方m)――中略――

屋根には「本うだつ」が上げられている。
「うだつ」については、多くの論考があるが、機能については、
防火のためと格式の表示のためと二論ある。
「うだつ」にはここに見るような「本うだつ」と2階の軒下部分の「軒うだつ」と二種類ある。

竹内家には、笠取峠立場図版木と宿場札の版木もあり
文化財として指定されている。」(長和町教育委員会)
(笠取峠と中山道原道(旧中山道を歩く129)の浮世絵の大きなタイル絵参照)


(二階の屋根に取り付けられた「うだつ」)

説明のように「うだつ」は「卯建」とも書き、防火壁でもある。
後には装飾的な意味に重きが置かれるようになる。
自分の財力をアピールする為の指標として関西地方を中心に商家の屋根上には
互いに競って立派な卯建がつけられたと言う。


(反対側から見た「うだつ」は家の両側にある)


(「本うだつ」を持つ釜鳴屋、元酒造業)

子供のころ、間の抜けたことをしていると、
「それだからお前はうだつが上がらない」などと、よく親にからかわれた覚えがある。

「卯建が上がらない」とは、出世が出来ない。身分がぱっとしない事を指す。
富裕の家でなければ、「うだつ」を上げることが出来なかったことから転じたといわれる。(広辞苑)

中山道はT字路に突き当たるが、突き当りに「よねや」旅館、
手前左側に旅館「浜田屋」、右に折れた右側に「長久保新町道路元票」と
「左ぜんこうじ 中山道 長久保宿 」の道しるべが並んで建っている。

ここは追分で、中山道はここで左折する。


(旅館濱田屋を左折する)


(濱田屋の反対側にある道標と道路元標)