中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

五料村と夜泣き地蔵(旧中山道を歩く 100)

2007年05月30日 11時07分12秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

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(五料村高札場跡の看板、右奥が五料茶屋本陣)

(松井田宿 3)
「旧中山道を歩く」も記念すべき100回になった。
距離にして、日本橋から125km程度しか進んでいない。
旧中山道(日本橋から京都三条大橋まで)533kmからすれば、たかだか23%にしか当たらない。
それでもすこしづつ京都に近づいて行く。
時間だけはタップリある、あせらずゆっくり歩こう。
楽しみはその土地に残る史跡、伝説、何よりもその土地土地に
住む人たちに接する事ができることだ。

中山道の話に戻る。
信号を渡って左折、すこし歩くと右側に白い立て看板があり、
次のように記されている。

「安中藩 板倉伊予守領分 五料村 高札場跡」

その看板の手前を右折すると、信越線の踏切があり、
その向こう側に五料茶屋本陣が正面に見える。

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(踏切を渡った正面にあるのが「お東」)

中山道の松井田宿と横川の碓氷関所のほぼ中間で
奇岩峰の山として有名な妙義を眼前にする山懐に建っている大きな二軒の家が
「五料の茶屋本陣」で、向かって左、
西側に見える家が「お西」、
東側に位置しているのが「お東」。

「お西」についての説明によると、
「五料茶屋本陣・お西は、江戸時代の名主屋敷であるとともに、茶屋本陣でもありました。
茶屋本陣とは、中山道を参勤交代などで往来する大名や公家などの休憩所としておかれたものです。
この(お西)中島家は、16世紀末から、代々名主役を勤め、
特に天保七年(1876)から明治五年(1872)まで(お東)
と一年交代で名主役を務めました。
この建物は(お東)と同じ年(文化3年)に建てられたもので、
間口13間、奥行き7軒の切妻造りで、両家の母屋の規模、平面とも
ほとんど同じで、白壁作りの良く映えた屋敷構えに当時を偲ぶことが出来、
中山道の街道交通を知る上で貴重な史跡です。」
(群馬県教育委員会・松井田町教育委員会)

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(「お西」の石柱)

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(五料茶屋本陣の入り口から望む「お西」)

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(本陣の全貌)

美しく整備された史跡の保存状態に感心する。
僕が訪問したときは、月曜日で休館日に当たっていたが、
係りの人が、親切にも中に招きいれ資料など下さり案内して頂いた。
こんなところにも安中市の住人の親切が旅人には
身にしみるところである。
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(旧中山道の案内看板)

中山道に出て進むと、すぐ右側に「左 坂本5,5km 右 松井田宿2,8km」の
標柱が立っている。この標柱は街中を除き、どうやら五百メートル間隔で立っているようだ。

中山道はしばらく信越本線と並んで歩くが、やがて踏み切りと交差し、
線路の北側に出る。踏切には榎踏切と書いてある。
道路は山道に差しかかり馬頭観音や元文五年の青面金剛、馬頭尊などの五基の石造物がある。
その先すこし上り坂が急になった左側に、「夜泣き地蔵」と呼ばれる大きな地蔵尊や
庚申塔、馬頭尊、その前に石でたたくと茶釜の音がする茶釜石がある。

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(榎踏切)

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(青面金剛などのある石造群)

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(夜泣き地蔵と茶釜石)

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(夜泣き地蔵の頭)

五料村では、この茶釜石は有名であったので、山道に入ってからでは、
叩く石も見当たらないと具合が悪いと思って、
前もって大きな石をポケットに忍ばせておいた。
しかし、その用心も甲斐なく、現場に到着するとなんて事は無い、
たたく石が三つも用意されており、
茶釜石の上においてあった。小石で茶釜岩をたたいてみると、
確かに中が空洞のような音がする。茶釜を知らない人もいるであろうが、
ボクにはお湯をたたえた茶釜の音に似ているように感じられた。

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(茶釜石)

たて看板には次のようにある。
(この石は、もと中山道丸山坂の上にあったものです。
たまたまここを通りかかった太田蜀山人は、この石をたたいて珍しい音色に、
即座に次のような狂歌を作った。

「御料(五両)では、あんまり高い(位置が高い山の上)
茶釜石 音打(ねうち=値打ち)を聞いて通る旅人」)

そして「夜泣き地蔵」の足元には、夜泣き地蔵の云われの通りだと感じさせる、
赤い毛糸の帽子をかぶった地蔵の頭が置かれていた。

(昔、馬方が積荷のバランスを取るために、道路わきに落ちていた地蔵の首を拾い、
一緒に馬で運び深谷まで行った。
積荷を降ろしたので不必要になった地蔵の首を捨ててしまった。
すると夜な夜なその首が「五料恋しや」と泣くので、深谷の人が五料まで戻して
地蔵の胴の上に乗せたところ泣き止んだ。
それから夜泣き地蔵と言うようになった。)という。

夜泣き地蔵の背景の妙義山が美しい。
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村社八幡宮と補陀寺(旧中山道を歩く 99)

2007年05月23日 07時27分29秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

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(中山道松井田宿の案内)

(松井田宿2)
松井田の町に沿って、中山道を西に進む.

街路灯には「中山道松井田宿」の小さな看板が打ち付けてあり、
「ここは中山道旧街道です」と案内してくれる。
すこし進むと道路の南側、すこし奥まったところに、村社の八幡宮がある。
鳥居をくぐったすぐ左側にある石造群には万延元年(1860)の庚申塔や二十二夜塔、
また、石段を登った上のほうには、
群馬県重要指定文化財になっている本殿が、村人の安寧を願っている。
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(八幡宮)

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(石像群)

「建久8年(1197)鎌倉右大将頼朝が立ち寄った記録がある。また、
慶安元年(1648)に徳川将軍家光より朱印地13石6斗を賜った。
本殿の建立は寛永年間(1624~1644)と伝えられている。

三間社流造りで正面は三間(2.55m)側面二間(1.6m)の
銅板葺きで幣殿と拝殿と連結している。――以下省略」(松井田町教育委員会)

階段を登った先の本殿にたたずむと、そんな説明より
(百聞は一見に如かず)の言葉が妙に身に迫る雰囲気の神社で、
静かで厳かなたたずまいのする神社である。
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(階段の上に本殿が)

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(本殿)

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(本殿を背に階段を見下ろす古刹の雰囲気)

中山道をなお西に進む。西松井田駅に入る「駅前」信号の北側に、
補陀寺がある。ここは曹洞宗 大泉山補陀寺と云い、後北条氏の臣
大道寺政繁の菩提寺で、今は廃城となったこの寺の北側にある
松井田城の最後の城主を祀っている。大道寺駿河守政繁は秀吉の
東山軍に破れ、天正18年(1590)川越城に送られ自刃した。

本堂裏手にある政繁のお墓を見ていると、鐘楼から鐘の音が聞こえてきた。
時計を見ると、どうやらお昼を知らせる鐘だ。

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(門前にある大道寺駿河守政繁の墓の石柱)

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(大道寺駿河守政繁の墓)

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(補陀寺の東入り口、鐘楼が見える)

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(鐘楼と本堂)

誰が鐘を撞くのかと本堂前の鐘楼に戻るが、鐘楼には誰も居ない。
しばらくするとまた鐘をつく音がした。鐘を撞く人はいないが、
撞木がひとりで動いて鐘を撞いている。どうやら電気仕掛けで、
時間が来ると自動的に撞木が動くらしい。
人手不足はここまで来ているのであろうか?
それにしても電気仕掛けでは有り難みも無い。
ひょっとしてお寺の坊さん、鐘の撞き方を知らないのであろうか?

先日、中国の寒山寺に立ち寄った。
鐘楼に登り、鐘を撞くと十年長生きが出来るというご利益があるというので、
観光客が鐘を撞いた。
一人づつ撞くのであるが、「ご~~ん」と上手につける人は一人としていなかった。
ボクは子供の頃、腕白のあまり近所のお寺さんの日曜学校に入れられ、
すこしは腕白も良くなるだろうという親の願いから、
毎週日曜日にお経を読み、時間が来ると鐘つきをさせられた。
12時には、12回鐘を撞くのである。
ボクは鐘の撞き方を知っている。
撞木を二~三回振り、力を貯めてから「ご~~ん」と撞くのである。
年の暮れの除夜の鐘を撞くシーンが放映されるが、あの要領である。
でも経験がないと、にわかには出来ないものである。
そんなことを思い出しながら、本堂前の鐘楼を離れた。

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(補陀禅林の扁額)

本堂の扁額には「補陀禅林」山門には関東一の道場という意味の
「関左法窟」という扁額がある。

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(関左法窟の扁額)

補陀寺を出て中山道を進む。
正面に安中警察署を見て、左に入る細い道路があるが、これが旧中山道である。
左に入る右角には田舎には珍しい瀟洒な家がある。
住人が親切で、土地柄が穏やかで、空気がきれいな松井田に、
都会から移り住んできた人の住居かと思われるほど垢抜けている。
その家の前を左折する。
道路は右にゆっくりカーブしているが、回り終わったところの右側、
土手の上に道祖神が二基立っている。土手の向こうはため池になっていて
当時は農業用の水を貯めておいた場所と思われる。

すこし先の左側、民家の端の茂みに一里塚跡の立て札が立っている。

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(左に入る旧中山道の道)

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(旧中山道へ左折する箇所の右側にある瀟洒な家)

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(ため池の土手にある道祖神)

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(一里塚の案内)

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(一里塚の案内は車の先の人家の間にある)

「一里塚(江戸より32里目)
この場所は、松井田町大字新堀字漆原一里山という。
明治20年代まで、この中山道の南側と北側に一里塚がありました。
この立て札のおよそ南方10m先に南側の一里塚が、
その跡をとどめています。」(松井田町教育委員会)

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(人家の間を縫ってその先にある一里塚跡、すこし盛り上がっている)

他人の敷地の中、恐る恐る、生垣に沿って10mほど奥に進むと、
なるほど土まんじゅうの形をした一里塚が見える。
他人の敷地内であるので、そっと帰る。
中山道へ出ると、すぐ先に左折できる道路(私道かもしれない)があるので、
思い切って入ってみると小屋の後ろに元一里塚の土まんじゅうが見えた。

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(不法侵入?して見た一里塚)

中山道をさらに進むと信越線に突き当たる。
昔は信越線を越えて道路があったようだが、今は消失しているので、信越線に沿って進む。
よく晴れた日で、南側に妙義山が、西方正面に浅間山が美しかった。
やがて信越線と道路は交差し、踏切を渡る。
踏切には(第十中仙道踏切)とかいた看板があるので判りやすい。

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(第十中山道踏切)

今度は信越線の南側をしばらく歩くと、やがて国道18号と並行するようになる。
そして国道と交差するかと思われるころ、
「旧中山道⇔」の案内標識があり、中山道はここで国道18号を突き切っているが、
自動車道を横断できず、先の信号まで歩く。
信号で国道18号を北に横断し、旧中山道に出たら左折する。
すこし進むと五料茶屋本陣に出る。
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(旧中山道の道路案内、自動車道を渡ると危険なので先に見える信号を北へ渡る)






松井田宿のお寺さん(旧中山道を歩く 98)

2007年05月17日 06時21分54秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

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(松井田町観光案内地図)

(松井田宿)
日本橋を出て18日目。2007年3月26日(晴)気温20℃の予想。
信越線 松井田駅(AM9:30)降り立つ。駅前の広場にタクシーが待っているが、
ボクが乗客の最後と判断するや、利用しそうも無いボクを見て空車のまま発車する。
駅広場の前方に高架になっているような道路へ登る階段がある。
階段脇に松井田町の観光案内地図の看板が立っている。

旧中山道に出るには、階段の上の道路を右に歩くと、下り坂は
右に半円を描いている。その先に信号があるが、
左折せず道なりに真っすぐ歩き碓氷川の橋を渡り、
その次の信号を左折すると、旧中山道松井田町の「下町」の信号に出る。
松井田宿の下町(しもまち)で、京都側から上町、中町、下町になっている。

前回安中から松井田で終わった旧中山道のひとり歩きは、
JR松井田から電車に乗って東京へ帰る予定であったが、
松井田駅が分からなくて、その先の西松井田駅まで行ってしまった。
町で松井田駅までの道順を訊いたが、とても教えにくそうであったのと、
西松井田駅に近かったこともあり、西松井田駅から東京に帰ったが、
この道では、なるほど教えるのも大変なら、
行くにも大変であることが良くわかった。

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(上り坂の松井田町)

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(妙義山)

旧中山道は、高崎を出ると道路は上り坂になるが、板鼻宿→安中宿→横川宿へと、
登り坂の道路は心なしかすこしづつ勾配がきつくなっていくように感じる。
浮世絵「木曽海道六拾九次之内」(歌川広重・渓斎英泉)にある「板鼻」「案中」「横川」を見ても、
絵は歩くのに難儀そうな登り坂道が描かれている。
旧中山道を西に向かうのであるが、左側に妙義山がくっきり見え、
上り坂の道路の正面には、雪をかぶった浅間山のいただきが覗いている。

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(浮世絵 板鼻宿)

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(浮世絵 安中宿)

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(浮世絵 松井田宿、いずれも蕨宿の歩道上のタイルより)

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(下町の信号)

「下町」の信号左角に、「中山道 松井田宿」の標柱が立っている。
旧街道らしく、古いたたずまいの家が目に付く、落ち着いた雰囲気の町である。
歩き出したすぐ左側に崇徳寺の石柱があり、左折すると突き当たりに幼稚園、
すぐ右側の古びた山門をくぐると、境内左側に鐘楼、右側に本堂を持つ立派なお寺である。
鐘楼手前には大地蔵菩薩、百八十八番供養の石造、地蔵尊など石像群がある。

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(松井田宿の標柱)

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(古い家並みと上り坂)

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(崇徳寺)

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(崇徳寺の山門)

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(鐘楼)

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(本堂)

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(石造群)

中山道に戻って進むと、「中町」の信号角北側に松井田町の道路元標がある。
その信号の先を北に入ると不動寺がある。
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(中町の信号)

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(道路元標)

道順が分からず土地の方にお訪ねすると
「不動寺さんはその道を入った所にあります。
道路はすこし曲がっていますので、そこからは見えません。」とのことだ。「
不動寺さん」と敬語を使う言葉が新鮮に聞こえた。

そういえば、最近、葬式とか法事でもない限り、
坊さんに接することも無く、会話の中にお寺のことを話す事も無くった。
考えてみれば、子供の頃に
「お寺さんに行って、何日の法事に来ていただくよう頼んできて欲しい」などと
「お寺さん」と敬語を使った母親の言葉を思い出した。
子供の頃には、お坊さんは供養をされる立派な方として、
敬語を使うのが当たり前であった。
今では幼稚園を経営し、駐車場を管理する利益重視主義の生臭坊主が増えて、
敬語を使うことすら忘れている。
「不動寺」などと呼び捨てにしている浅ましい自分の心を恥じた。

不動寺に到着すると、朱塗りの仁王門が目に付く。
県指定重要文化財の仁王門と自然石の板碑の石塔婆が三基置かれている。
不動寺は寛元元年(1243)創建された古刹である。

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(不動寺の仁王門)

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(仁王像)

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(石塔婆)

説明によれば、
「仁王門は間口6.05m、奥行き3.5mの三間二間の柿葺
単層・切妻造りの門で欄間などは桃山時代の作風を良く残しているが、
江戸初期の改築と推定される。
石塔婆は、参道前西側に三基並んでいる異形の板碑で安山岩の
自然石に板碑様式の仏種子や文字を刻んだものである。
文字は観応三年(1352)円観・見性・敬白などがあり、
北朝の年号が刻んである。」(安中市教育委員会)
桜がちょうど咲き始めたところで、日当たりの良いところには、
陽光の中で花が美しく輝いていた。
中山道に戻る途中に、白壁と黒米に囲まれた連子格子の家が見える。
良く見ると古い感じを出した新しい造りの料理屋のようであった。

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(桜咲く鐘楼)

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(本堂)

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(さくら)

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(白壁、黒板塀の家)








安中原市杉並木(旧中山道を歩く 97)

2007年05月13日 18時54分58秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

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(文部省の指定天然記念物の石碑で京都側に立っている)

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(杉並木の一部)

(安中宿10)
旧中山道は、なだらかな上り坂がどこまでも続き、西陽を受けてひたすら歩く。
やがて、昔の街道を思わせる杉並木が現れる。これが話に聞いた
「安中原市杉並木」で、昔はうっそうとした杉並木であったろうと思わせる。
しかし今はアスファルトの舗装道路に歩道まで付いた道路で、コンビニエンス・ストアやパチンコ店、
スーパーマーケットや老舗を思わせる割烹料理店が立ち並ぶ。
すれ違った中学生らしい二人組みの男子が「こんにちは!」と声を掛けて通り過ぎる。

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(杉並木の道祖神)

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(道祖神)

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(お稲荷さん)

杉並木に並んで道祖神、庚申塔の石造群や赤い木組みの中に
お稲荷さんが祀ってある。
昔は旅人が、旅の安全を願い休憩したのであろうか。
道を進むと「原市村戸長役場跡」の標柱が道路右側の民家の門に立っている。
さらにその先今度は左側に「明治天皇原市御小休所」の石柱と
「原市高札場跡」の標柱が道路沿いの民家の前に立っている。

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(原市村戸長役場跡の標柱)

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(明治天皇小休止所と高札場の碑)

明治天皇が御行幸の折、いろいろな足跡を残されているが、
ここで休憩された場所である。当時の天皇は明治神宮があるように、
神様みたいなものだから足跡が残されているのであろう。
中山道で、今まで観てきた中には、桶川宿で宿泊所が、
板鼻宿を出て安中に入る「鷹ノ巣橋」たもとにある熊野神社には腰掛岩が残されている。
今では、天皇は人間であるから、どこかに行っても、石柱を建てるなど、
足跡が残されることはあまり聞かない。

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(古い家)

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(ピンボケですが、立場茶屋跡(大名公家の休憩所)の碑)

安中宿からの街道沿いには、古い家が散見され往時を偲ばせてくれる。
旧中山道はこの先特筆するものは無く、妙義山が正面に見えて、やがて国道18号線と合流する。
合流地点の国道18号線脇に妙義山常夜灯が置かれている。
さらに進むと18号線を約600メートル先で左方向に松井田町がある。
松井田町に入ると正面には妙義山に代わって、
今度は雪をかぶった浅間山が見えてくる。

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(妙義山の常夜灯)

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(およそ500m間隔の置かれた案内で旧中山道であることが確認できる)

日本橋を旅立って17日目。今日の歩きは三万九千歩(約27km)。
安中市は史跡がしっかり管理されて、案内も的確に表示されている。
資料館の管理人兼ガイドの説明も楽しく、
なんと言っても市民の皆さんが親切で礼儀正しく好印象であった。

次回は松井田宿から横川に入る。



新島襄の旧宅(旧中山道を歩く 96)

2007年05月09日 08時07分55秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

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(新島襄旧宅)

(安中宿9)

板鼻宿から安中宿に入る「久芳橋」たもと「下野尻」の信号を
左方向に入ってからの旧中山道の道路は、妙義山に向かって長い
なだらかな上り坂になっているので、進むのに足の疲れが気になる。

旧安中藩武家屋敷を後にして、旧中山道に戻って西に向かうと、
すぐ左側に安楽寺がある。
道路が上り坂にあるせいで、寺の奥は急な下り斜面になっている。
その斜面にお墓が沢山並んでいるが、斜面を下り終えたところに
「橋供養塔」「道祖神」「庚申塚」が並んでいる。

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(安楽寺入り口)

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(安楽寺墓下の橋供養塔、道祖神、庚申塔)

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(便覧社跡の碑)

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(愛宕神社の御神灯)

安楽寺を出て中山道を西に進むと左側に「便覧舎跡」の石碑がある。
図書館発祥の碑である。
さらに進むと右側に愛宕神社があり、入り口には安政二年の御神燈がある。
その先左側に新島襄先生旧宅入り口の案内看板と大きな道祖神が立っている。
道祖神は弘化4年(1847)とある。
案内に沿って左折すると、必要なところに新島襄旧宅への案内があるので
迷わず旧家にたどり着く。新島襄旧宅は以前あった場所から、やや西側に移築されている。

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(新島襄旧宅入り口の案内と道祖神)

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(新島襄旧宅入り口の標柱)

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(新島襄旧宅の座敷側、奥の突き出たところがトイレ、手前は台所)

安中藩は三万石の小藩であった(旧中山道を歩く 94 参照)ので、
藩士の住まいも質素なものであった。
新島襄旧宅も元は二軒長屋であったが、そのうちの東半分を切り取り移築したもので、
西半分は新築して管理人室・資料室を設け、外見は茅葺き二軒長屋になっている。
東半分は当時のまま移築し、間取りなど再現している。
座敷には床の間があり、新島襄が揮毫した掛け軸が掛かっていたが、
本物であれば骨董品として値段のつけようも無い高価な品物である。
右筆(ゆうひつ=書記)の跡取りらしく、見事な達筆な文字が書かれていた。
いつも見学者のために、明かり障子が開け放たれているせいで、
掛け軸が風にゆれ、後ろの壁が削れている。掛け軸はレプリカであるが、
それにしても削られる壁にも注意を払って欲しいものである。
折角の古い建造物である、大切にしたい。

管理人を兼ねるボランティアガイドの話では、
「新島襄の父は、江戸で右筆(書記)を勤め、四人の娘がいた。
跡取りの息子が欲しいと願っていたところ、五人目に男子が誕生。
(これはしめた!)とばかり、(しめた=七五三太)と名を付けた。
幼名 七五三太(しめた)の新島襄は才気活発な子供であった。
幼少のころ、下駄を履いたまま木登りをして木から落ち、
頭に怪我をして長いこと病床についた。
今でも写真を見ると左こめかみに傷跡が残っている。
その怪我で病の床に臥しているとき、
父親がいろいろな知識を授けるが、一度聞くとすべて諳んじた。
その様子を見たか聴いたか、
その才能を買ったのが、英邁の誉れ高い藩主の板倉勝明である。

藩主板倉勝明は、西洋砲術など取り入れるほどの名君であったので、
七五三太(しめた)を脱藩させ、アメリカで勉強するよう仕向ける。
徳川譜代の大名が国禁を犯して、
家臣をアメリカにやることははばかられたので、
家臣が勝手に脱藩したことにした。
七五三太(しめた)の新島襄は、江戸の港より船で北海道に渡り、
そこからアメリカの船に乗り継いで出国しますが、北海道までは、
藩主 板倉勝明所有の船で北海道に行っている。

アメリカ行きの船長が七五三太(しめた)では呼びにくいので、
ジョーと呼び、以来アメリカではJoe(じょー)で過ごした。
国禁を犯してアメリカに渡り大学を卒業し、キリスト教に触れ、
信者になり神学校を卒業、牧師になる。英語も身に付け帰国。
岩倉遣外使節団で通訳が必要とされたとき、藩主板倉勝明に推薦され、
通訳として再度アメリカに渡り欧米の教育をつぶさに視察した。
そのとき国禁を犯したものが使節団の通訳では都合が悪いと、
名を改め七五三太(しめた)から
新島襄を名乗るよう藩主に命名されたという。
新島襄の父母共に新島姓ではなく、
父方と母方の姓から一字づつもらって新島としたとの事である。

さて、一方でアメリカのキリスト教団から日本に布教にきた牧師の仕事がはかどらないので、
新島襄が呼ばれ布教の手伝いをするが、
布教は遅々として進まず、
明治八年に京都の旧薩摩藩邸跡を買い、
同志社大学の前身同志社英学校を開校した。}
以上が新島襄旧宅のボランティアガイドの説明でした。

ガイドさんに「名前の七五三太(しめた)は、
子沢山の両親が子供はこれで終わりにしたい。
〆(しめ)にしたい願いから付けたのではないですか?
「留吉」とか女の子なら「留(とめ」としたように)と聴いたら、
「そんなことはありません。現に七五三太(しめた)の後に雙六と言う弟がいます」
と切りかえされてしまった。(笑)

また、「ある日、夕方五時ごろ旧宅を閉館しようとしたら、
黒塗りのハイヤーに乗ったご婦人が飛び込んできて
大きな声で(閉めないで、もう少し待ってください)という。
遠くからいらっしゃたと思い、
サービスで案内を延長する事にしたら、
どこかで見たお顔、お名前を聞いたら
(土井孝子です、大変お世話掛けました。
私は同志社出ですので、
近くに来たので生家をお訪ねしたいと急いできましたが、
時間外で申し訳ありませんでした)と仰った。
元衆議院議長のおたかさん(土井孝子さん)でした。〆ないで良かったです。」
と最後まで〆にこだわった駄洒落と共に
得意そうに話されたのが印象に残った。

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(道路から見た新島襄の旧宅、ここには3週間しか居住していない)

新島襄旧宅を出て中山道へ戻る。
しばらくすると国道18号線と交差するが、
ここでも旧中山道の案内は京都のほうからの案内がしっかりしている。

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(京都方面からは旧中山道の案内がある)

交差点をわたり終えると、まもなく昔の街道を思わせる杉木立が見えてきた。
途中に道祖神などがあるが、日光の杉並木、東海道の箱根の杉並木と比べると、
明るくて舗装道路で、昔を偲ぶことは出来ない。
しかし、文部省の重要文化財に指定されている。これも京都側に石碑があり、
「安中原市杉並木」と刻まれている。
ここから杉並木は始まり、東京方面に延びている。

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(杉並木の案内看板)






お風呂(旧中山道を歩く 95)

2007年05月06日 09時44分25秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

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(旧安中藩武家長屋の案内)

(安中宿 8)
「風呂」に「お」をつけて、「お風呂」と敬語をつけるのは何故だろう?
「お」をつける言葉には、お箸、お米、お酒、お皿、お金、お財布、お産、お祝い、お経、お坊さん・・・
生きるための食事に関係するもの、生死に関係するもの、それらを購入する金銭に関わるものなどに、
「お」をつける。

「お風呂」はその歴史が物語るように、日本人のお風呂は、最初は、温泉から始まったようだ。
岩穴に溜まる温泉の蒸気を利用、ついで中国から薬湯の考えが渡来し、柚子湯、菖蒲湯、
今で言うハーブ湯が親しまれ、寺院に湯殿を設けては入る。江戸時代には銭湯が出来るが、
湯気によるものであったようだ。今で云うサウナである。
お風呂はさらに進化して五右衛門風呂ができ、各家庭に浴槽が出来るにいたった。
そもそもの考えが、お風呂は健康を維持するものという考えから始まっている。
「健康を維持する」は、人にとって大切なことだから敬語の「お」がついて「お風呂」になったのであろう。
さて、今回はそのお風呂のこと。

前回に引き続き、安中市の史跡を訪ねて歩く

大名小路の信号を西に進み、旧安中藩武家長屋に寄る。

説明によれば、
「安中藩は、三万石の小藩でしたので、最も高禄の年寄級
(家老職)でも300石未満で多くの藩士はつつましい暮らしを
していました。家臣団(徒歩格以上)は、約240名でその内安中に約140名、
江戸の藩邸に100名ほどが暮らしていた。
住居についても郡奉行役宅のように、一戸建ての独立家屋に住めたのは、
30名ほどの上級藩士だけで、ほとんどの藩士は長屋住まいであった。
復元されている武家長屋の前庭は、今は見事な庭園になっているが、実際は畑で、
少しでも生活の足しになるようにと野菜を作っていました。

旧安中藩武家長屋に実際に住んでいたのは、西側から
弓削田発(儒者見習い、給人、十人扶持)
飯島伴四郎(近習、朱印番、大小姓、十石、二人扶持)
佐藤鎌蔵(広間平番、中小姓、八石三人扶持)
小野盛太郎(勘定役、大小姓、八両三人扶持)の四人。
ずれも安中藩では中位の藩士でした。

建物の構造は、木造平屋建て茅葺きで、間取りは、西側から間口
八間、六間、六間で一番西側の弓削田発家だけが一間多く、
それ以外は、台所、上座敷、下座敷、流し場、便所、押入れ、
床の間、縁側で構成されている。建築年代は、柱の寸法、
描かれている絵図などから1800年代と推定されている。」
(安中市教育委員会)
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(修復中の武家長屋跡)
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(武家長屋の間取り、二軒分で中央の飛び出たところがトイレ)

見学した折は、ちょうど補修工事中であったが、長屋らしさは、二軒の家でお手洗いが
隣り合わせになっている点から伺える。
それにしても、郡奉行役宅にも武家長屋にもお手洗いはあるが、
お風呂が見当たらない。後で訪問した新島襄の旧宅にもお風呂の形跡はない。

浮世絵などを見ると風呂上りの美人図などがあるし、銭湯の図などもあるが、
これは江戸(東京)のことで、田舎には風呂は無かったのであろうか?
いやいや、田舎でも板鼻本陣の図面を見ると、湯殿が四箇所もある。

どこであったか忘れたが、お城を見学していたとき、殿様の風呂の間を見たことがあった。
予期していた浴槽は無く、板の間だけで、水が流れるように床の板が傾斜していたことを思い出した。

これと同じで、本陣の湯殿といっても、お湯につかるのではなく、板張りの部屋で、
お湯を体に流すだけの部屋であったかもしれない。
江戸庶民の長屋にもお風呂は無く、週に一回は銭湯に行き、後は行水で済ませたというから、
安中では、行水だけで済ませたのであろうか?

水戸黄門の漫遊記などのテレビドラマで、お風呂の場面が出てくるが、
安中藩のように、禄高三万石の小禄では、お風呂を造る余裕が
無かったのであろうか?



旧安中藩郡奉行役宅(旧中山道を歩く 94)

2007年05月01日 08時03分42秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10


(旧安中藩郡奉行役宅跡の入り口)

(安中宿7)
安中教会を出て大名小路を約400メートル西に向かうと
平成6年に復元された旧安中藩郡奉行役宅、その先に旧安中藩武家長屋がある。

安中藩の藩主については、((旧中山道を歩く 92)参照)で
詳しく述べたが、その続きで安中教育委員会は次のように記している。

「藩主の中でも15代藩主の板倉勝明は、学者大名として有名で、
新井白石や荻生徂徠といった古今の学者の未刊の書を集めた
「甘雨亭叢書(かんうていそうしょ)」を刊行し新島襄ら藩士に洋学を学ばせ、
日本最初のマラソンとして名高い「遠足(とおあし」を実施するなど、文武の効用に勤めました。
また高島秋汎の西洋砲術を採用し藩の軍備の近代化を進めました。
さらに長崎に「種痘」が伝来するやいち早く領民に実施したり、
領内に漆苗百万本を植え、その利益の一部で窮民を救おうとするなど善政を行いました。

その英明の藩主 板倉勝明の側近 山田三郎(1804~1862)が
この旧安中藩郡奉行役宅住んでいたと伝えられ、およそこのころの建築と考えられる。
その後、猪狩幾右衛門懐忠(1820~1883)が入居しました。
郡奉行とは、安中藩の民生をつかさどる役で、
安中藩には三人の奉行とその配下に四人の代官がいて、
年貢の割り当てから取り立て、お触れの通達、領内の治安裁判などの仕事をしていました。

この建物は猪狩さんの子孫の猪狩芳子氏より、安中市に建物が寄贈されたのを機会に
安中市の重要文化財に指定しました。
母屋は県内でも珍しい曲がり屋形式で、上段の間、土間、式台つき玄関、茅葺き屋根、武者窓、
砂ずりの壁など、いずれも素朴で重厚な地方武家屋敷の姿をとどめている。(以下省略)」
(安中市教育委員会)

(旧安中藩郡奉行役宅跡)

(曲がり屋の役宅母屋と玄関、中庭)

大名小路から、茅葺きの長屋門を入ると、母屋との間の中庭(?)に入る。
曲がり屋の角に玄関がある。後ろを見ると長屋門の脇の部屋は明かり障子が閉められている。
中に人がいるのかどうか分からないが、障子前に小さく入場料210円とある。
母屋の玄関方面に砂利を踏んで数歩進むと、明かり障子が開いて、
入場料はこちらですと声を掛けられた。
長屋門の入り口らしき明かり障子の戸を引くと、なるほど受付がある。
安中城地図や安中市史跡案内を書いた資料なども置いてある。
有料のものもあったが、資料を求めながら入場料を払う。
入場料に但し書きがある。安中市住民は無料だ。
管理費用は住民税からでているのだろうか?

訪問したこの時期に、住居の座敷で雛人形展を開催していて、
ボクが始めて目にする「享保雛」が飾られていた。普段、我々が目にする大きさの
五倍もの大きさであったのに驚いた。

(役宅の座敷側から)

(台所から見た座敷、雛人形が飾られていた)

(雛人形の数々、ひときわ大きいのが享保雛)

(享保雛)

もう一つ驚いたことがある。
台所の土間の片隅に「男部屋」なるものがある。
下男か中間の部屋と見受けられるが、ただの一畳分の板の間である。
飯炊きや庭掃除に使ったのであろうが、身分の低い男かどうか知らないがあまりにも狭い場所である。

(男部屋)

(男部屋の内側)

人間立って半畳、寝て一畳というが、まさにその範囲を出ない居場所であるのに驚いた。
説明していただいた案内の方にも、
この部屋がどのように使われたか良くわからないとの返事であった。

旧安中藩郡奉行役宅を出て、交差点ななめ向う側を見ると、立派な生垣がめぐらされた家があったが、
案内の方の説明によれば、三人居た郡奉行のもう一人の役宅があった跡だそうであるが、
今は新しい家が建っていた。

(もう一人の郡奉行役宅があったと言われる所)
信号を渡って、大名小路を西に向かうとすぐ左側に、旧安中藩武家長屋が残っている。
ここは郡奉行所役宅で入場料を払えば無料である。
つまり旧郡奉行所役宅と旧安中藩武家長屋と両方で、入場料は210円である。

なお、郡奉行所役宅の長屋門の住まいには、同心が住んでいたと
案内の方のお話であるが、何人住んでいたのかは分からない。
念のため申し添えます。