中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

碓氷郡役所と安中教会(旧中山道を歩く 93)

2007年04月26日 08時09分21秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

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(旧碓氷郡役所)

(安中宿6)
旧中山道の本陣跡がある郵便局を、すこし西に進むと「伝馬町」の信号があり、
右折すると「旧碓氷郡役所」が坂を上りきった正面に見え、
その隣に安中キリスト教会の美しい姿をした礼拝堂が見える。
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(「伝馬町」の信号を右折)
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(信号のある交差点から見た旧碓氷郡役所)
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(安中キリスト教会入り口)

坂上の旧碓氷郡役所に寄ると、案内の男性から

「いらっしゃいませ!」と声を掛けられる。
こうした記念館で入った途端、声を掛けられることはいまだかってなかったが、
気持ちの好いものである。その日は春本番の暖かさで、休日でもあったためか、
訪れる人が今日は多いと話しておられた。

郡県制度ができた明治時代、群馬県は17郡の行政区画があったが、そこに11の郡役所が設置された。
碓氷郡役所は、明治21年に新築されたが、原因不明の火事により消失、
明治44年再建されたものが、今に残る。

建物は、元事務所であった部屋と会議室でほとんど占められており、
付け足すような感じで小さな所長室と応接室が中央にある。
郡役所跡は床を除けば、すべて古いまま再現されたというが、
木造建築はずいぶん長持ちするものだと今更ながら驚く。
もう100年を経過する。
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(郡役所の間取り)

考えてみればボクの生まれた家も、子供の頃 母に、「この家は何年経っているのか」と聞いたら、
「もう30年になる」と回答を得た。
今日に至るまで、建て直したと聞いていないので、
建ててからすでに100年近く経過する事になる。
百年をセンチュリー(世紀)というが、
思えばそんなに長い昔のことに感じられないのは、自分が歳をとったということか。
古い歴史の中に居ると、百年もついこの間のような気持ちになる。

旧碓氷郡役所を出る。
道一つ隔てた西側に、日本キリスト教団安中教会がある。
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(安中教会礼拝堂)

説明によれば、
「この教会は1878年 新島襄より湯浅治郎をはじめとする
地元の求道者30名が洗礼を受け、安中教会が創立されました。
群馬県では最初のキリスト教会であり、同時に日本人の手によって創立された
日本で最初のキリスト教会でもあります。
なかでも安中教会教会堂(新島襄記念会堂)は新島襄召天30周年を記念して建てられた会堂。
牧師柏木義円(旧中山道を歩く91参照)と信徒湯浅治郎が中心になり
信徒及び日本中から広く募った献金により1919年(大正8年)竣工。
有形文化財に登録されている。」(安中市教育委員会)

旧碓氷郡役所と安中教会の前の道を西に向かう道路は「大名小路」と名づけられており、
道路は旧中山道の北側を平行に走っている。

四百メートルほど先に、平成6年に復元された
旧安中藩郡奉行役宅、その先に旧安中藩武家長屋がある。
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(大名小路の標柱)



安中藩と大泉寺(旧中山道を歩く 92)

2007年04月21日 09時29分31秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

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(大泉寺の山門)
(安中宿5)
安中の人たちはすこぶるにこやかで、挨拶はだれかれの隔てなく
きちんとされるし、とても親切である。空気は澄んで綺麗だし、
山の緑、広がる畑、穏やかな土地柄、こんな土地に住んでみたいと思う。
安中駅から東京まで約二時間であるから、どうにか通勤圏に入る。
地価も安いだろうから案外住みやすいのではないだろうか?

さて、旧中山道に戻って西に向かうと、町の中ほど左側に
郵便局があり、駐車場の隅の花壇の中にひっそりと
「安中宿本陣の跡」の標柱が立っている。
旧中山道を挟んで反対側の坂の上に大泉寺の山門が見える。
ここには安中藩初代藩主、井伊直勝の父井伊直政の妻、
つまり直勝の母親のお墓と直勝の側室(二代目藩主直好の母)の墓がある。

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(郵便局の本陣跡の標柱)
ここで安中藩について触れておきたい。
「安中の地名は、戦国時代にこの地を治めた安中越後守忠政が、
古来野尻(のじり、野後とも書いた)と呼ばれていたこの地に
永禄二年(1559)に城を築き、野尻を安中に改めたことに始まるといわれている。
安中地域は、越後の上杉、甲斐の武田、小田原の北条という戦国大名の三つ巴の戦いの場となり、
安中氏をはじめとする在地の武士達は、必死で生き残ろうとしますが、
長篠の戦や小田原攻めといった激しい戦いに巻き込まれ滅んでいきます。

戦国最後の覇者となった徳川家康は、井伊直政を西上州に配置し、
碓氷の関所を守らせ江戸防衛の要としました。直政には、二人の男子がありましたが、
家康の命で本領(近江の国 彦根18万石)を次男直孝に譲り、
長男直勝は元和元年(1615)三万石をもって安中に入部し、安中藩初代藩主となります。
江戸防衛の要である碓氷の関所を守る任務を背負った安中藩には、
井伊、水野、堀田、板倉、内藤、板倉の順で歴代徳川譜代の大名が入部しました。
この間16人の藩主が交代しましたが半数の8人が板倉氏で、
江戸中期から明治まで安中藩主を勤めました。」(安中教育委員会)

徳川家康の並々ならぬ力の入れようが分かります。
江戸防衛の要を守備する人は、すべて譜代大名である。
反旗を翻すことは絶対無い大名が選ばれている。しかも、重職ではあるがたった三万石。
それでも家康から認められた重要な役目として勤めたところに、
家康の人の使い方の上手さがあり、見習うべきところがあります。

上に立つものが、自らを裏切らない者たちを部下にして、要所要所に配備する、
現代のサラリーマンの縮図のようでもある。

その初代安中藩主 井伊直勝の母と息子で二代目藩主直好の母の
お墓がある大泉寺に寄ってみる。

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(大泉寺の本堂)

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(門前にある庚申塔は200年前のもの)
大泉寺の門前にある庚申塔文化十年(1813)とある。
およそ200年前のものだ。
山門をくぐり、右手に墓地が広がる。中央付近にある白い看板を
目指して進むと、二つの立派なお墓がある。
東側には、直勝の生母(直政の妻)のお墓が、戒名は
唐梅院殿台誉崇玉大姉

西側には、直勝の妻で息子直好の母のお墓で、戒名は
隆崇院殿念誉寿専大姉


という。

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(唐梅院=直勝の母の墓)

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(隆崇院=直勝の妻の墓)










柏木義園と西広寺(旧中山道を歩く 91)

2007年04月17日 08時40分58秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10



(西広寺入り口にある柏木義円の墓の案内)

(安中宿4)

熊野神社を背に鳥居の下に立って周りを見渡すと、
西広寺北口の案内看板が目に入る。その方向に進むと
道路右側に「安中城東門跡」の標柱があった。
ちょうど通りかかったご婦人が挨拶をされたので、
「ここに安中城の東門があったのですか?」とお訊ねすると
「そうです」と回答を得た。
安中城は、三万石の小規模の城であり、今は残っていない。
安中城については後ほど触れる。

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(安中城東門の標柱)

柏木義園のお墓がある西広寺に入る。浄土宗のお寺である。
このお寺には、柏木義円の墓と推定300年の「西広寺の椿」がある。
椿はボクも好きな花で、もう二十年経つ赤と白および八重の椿の鉢植えを持っている。
椿はやはり花びらが一重の赤いものが清楚で一番好きであるが、
ここ「西広寺の椿」も赤くて一重の花びらの椿であった。

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(樹齢推定300年の椿、ユキツバキといい、群馬県天然記念物に指定されている)
ボクは柏木義園なる人物をはじめて耳にするが、新島襄没後の
30年に、安中にキリスト教会を建て、伝道に当たった牧師と言えば理解できる。
非戦の主義を貫いた人である。

しかし、キリストの牧師が、なぜ浄土宗のお寺に墓地があるのか、
その点について理解に苦しむ。
尊敬する新島襄と一緒の教会では、荷が重かったのであろうか?
それにしても新島襄はこのキリスト教会に埋葬されていない。
隠れキリシタンなどの時代ではないが、異人の宗教ということで、
残された家族が周囲を気にして、浄土宗のお寺に埋葬したのであろうか?

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墓地の前に次のように紹介されている。
柏木義円の墓

「非戦の先覚
   無戦世界の出現を期する

柏木義円は安政七年(1860)生まれ、東京師範学校を卒業、
明治十二年土塩、新井、上増田三村連合で細野西小学校を創設した時の初代校長に就任。
(淡々と書いたが、この時21歳である。相当優秀な人であったことがわかる。)
この時の官選村長荻原州年は安中教会の執事で、この村長を通じてキリスト教に触れ、
新島襄を敬慕するようになった。
明治十三年同志社に入学するも休学して上州に帰り、明治十五年細野東小学校の校長に就任した。
明治十七年同志社に復学し同二十三年同志社通学課を卒業するや同校予備校の主任に迎えられた。
明治二十五年に平瀬かや子と結婚し、「同志社文学」の編集者として活躍、
明治三十年同志社を去り湯浅治郎の招きに応じ、安中教会の第四代牧師に就任し、
「上毛教界同報」を創刊し、県下のキリスト教界の情報を伝えると共に、
神の福音、キリスト教に基づく自由と平和を説き、昭和十一年まで刊行し続けた。

この間、新島襄昇天30周年を記念して、新島襄記念会堂安中キリスト教会礼拝堂を新築した。
昭和十三年永眠すると、先になくなったかや子夫人が眠るここの墓地に葬られた。」(安中教育委員会)

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(安中市文化センターにある「非戦」の石碑)
この案内を読んでクリスチャンである柏木義円が、仏教寺院に埋葬された理由がやっと分かった。
カミサンと同じ墓地に葬られたのだ。
信じる宗教には関係なく、また時代に関わりなく、
日本の男は、死んでもカミサンの傍が好いという事なのだ。

実に人間くさくて好感が持てる。



東光院と人生訓(旧中山道を歩く 90)

2007年04月13日 08時04分54秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10


(東光院山門の扉の裏側にある天狗の面)

(安中宿3)
熊野神社を出る前に回りを見渡すと東となりに東光院と言う名の
真言宗のお寺があって、ちょうど法事があるのか読経の声が
高らかに聞こえてきたので、立ち寄る。山門の扉の裏に見事で
巨大な天狗の面が取り付けてあった。
どんな意味を持つのか案内板もなかったが、
参道に人生訓の石碑が並んでいたので紹介しておきたい。

その1、

         死にたいこともあったけど
    生きていたからよかったね
    ここで こうして こうやって
         不思議な 不思議な めぐりあい
         あきらめなくてよかったね
(どんな一生でも生きることは大切なこと)

その2、

死ぬより前に愛執を離れ
過去にこだわることなく
現在においても こせこせと
思いめぐらすことがないならば、
未来に関しても 顧慮することなどない
     (ズッタニパータ)
(後顧の憂いなくしておきたいものである)

その3、

いかなる願望にも執着せず
次々と禅定の段階を深めていき
あらゆる煩悩を焼き尽くし
やがて無量の三昧(心統一)に入り
すべての三昧境地を超越して
一つの三昧に住しつつ無量三昧に入り
すべての三昧の境地を知って
諸仏の智慧を具えるに至る
(華厳経)
(何事にも一心不乱に行えば、この境地を会得出来ようか)

その4、

         この上もなお
        憂きことを
            積まれかし
    限りある身の
         力ためさん
(いやなこと、どんどん持って来い!ボクの力で解決して見せるぞ)

その5、

  慰の詩(うた)
人がこの世に生まれることは
    人がこの世で死ぬること
早い遅いはあるけれど
  誰でも必ず通る道
功なり名を遂げて逝く人や
  のぞみ半ばで果てる人
思うようにならないけれど
  永遠(とわ)の別れの悲しさは
同じ色した涙です
  祈ってあげよう冥福を
人の運(さだ)めのむなしさは
  面影慕って泣いたとて
冥府は境を異にして
  見えぬ 聞こえぬ もの言わぬ
情(じょう)なし烏といわれても
  わたしはおすすめ致します
悲しみ越えて明日(あした)から
  試練に耐えて明日(あした)から
強い心になることを
    (作者不詳)
*(注)ふりがなや解釈は筆者が勝手につけたものです)

皆さんのご感想をお待ちしてます。


(参道入り口天台宗東光院の標柱)


安中宿下の木戸と熊野神社(旧中山道を歩く 89)

2007年04月08日 09時06分38秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10


(熊野神社)

(安中宿2)
旧中山道を下野尻の信号から二つ目の信号の右向こう側にある
理髪店の前に、「安中宿下の木戸跡」の標柱があり。その先に
熊野神社参道の看板がある。


(下ノ木戸跡の標柱)


(熊野神社参道)

参道を進むと正面に熊野神社の石段が見える。途中左側に
急な登り階段が見え、柏木義円の墓入り口と書いた標柱に出会う。
あとで、すこし寄り道をしてみようと、先に熊野神社に寄る。

熊野神社は安中市の重用指定文化財になっており、
説明によると、
「熊野神社は、明治以前は熊野大権現とよばれていたが、
明治初期の廃仏毀釈により、熊野神社になり近郊の総鎮守となった。
その期限は、永禄二年(1559)安中越中守忠政が安中城を築城した時、
ここに熊野神社を勧請して、安中城の鬼門の守護神としたのが始まりと言われる。
以後安中藩歴代城主が厚く信仰し、また安中城下の総鎮守として
地域住民の尊崇を集めた。――中略――

社殿は、本殿、幣殿、拝殿からなる。
本殿は切妻作り 妻入り桁行三間、梁間二間の大きさで前面に千鳥破風をつけ、
向拝に流れ屋根をつけた春日造り。
この本殿の七面の板羽目に鳳凰らしい鳥を中心に梅、楓などの樹木や
霞様の雲を配した彫刻を施し、
室町時代風で淡雅であり、写実を特色としている。――以下省略」(安中市教育委員会)


(熊野神社)


(春日作りの本殿見事な木彫に惚れ惚れする)


(七面の板羽目の木彫の二面)


(木彫の三面)


(木彫の二面、計七面)

神社本殿の右横には、天然記念物になっている千年の大欅が龍のように延び出ている。
また、安中市指定重要文化財になっている、絵師として最高位
法眼を授与された狩野永英知信描く、文久元年(1861)の絵馬が
本殿内に飾ってあったが、覗いてみても暗くて良く見えなかった。
しかし、現代の高性能カメラが見事に映し出してくれたので、
紹介しておきます。


(龍のような枝振りのケヤキ)


(国宝級の狩野派の絵馬)


安中宿へ(旧中山道を歩く 88)

2007年04月02日 08時53分44秒 | 3上州(群馬県)の.旧中山道を歩く(66~10

(安中宿)
旧中山道、日本橋を出発して17日目になる。 2007年3月4日(晴)最高気温17℃の予想。
JR安中駅に朝9:25着。
駅前の広い道路のなだらかな下り坂を鷹ノ巣橋に向かう。
旧中山道の板鼻本陣を出て、西に進むと道路に突き当たり、
右側に鷹巣神社の門柱が見えるが、鷹ノ巣神社は右手山の上にあるはずで、
神社は見当たらない。
左手 前方に鷹ノ巣橋が見える。
旧中山道はさらに直進して碓氷川を渡ったが、今はこの鷹ノ巣橋渡り、
渡り終えたところにある「中宿」の信号を右折、突き当りにある左右の道が、
旧中山道である。

「中宿」の信号の左向こう側、道路に背を向けて、中宿の鎮守
「諏訪神社」があり、明治天皇が腰を下ろして休んだ平らな石が置かれている。
また、諏訪神社の向かいにある蓮華寺は、世良田の長楽寺を建てた栄朝(*)が、
中宿で仮寝をしたときの夢によって建てられた寺で、栄朝の写実的坐像が残されている。
また、文化四年(1807)の読誦供養塔があるが、金網で囲ってある。
いかにも古そうで今にも崩れ落ちそうである。

(*){栄朝禅師は臨済宗の開祖・栄西の高弟で、名僧の誉れ高く、世良田の長楽寺を建てた。
その名声を慕って長楽寺に学んだ僧侶も多く、世良田は全国の僧侶の憧れの地となりました。}

「中宿」信号に戻り、道路を右折すると左右の道に突き当たる。
これが旧中山道で、右を見ると中宿消防団と書かれた小屋で突き当たる。
昔はこの道路の先に碓氷川を渡る場所があったと思われる。
この消防団の小屋までの間に「旧中山道」の標柱が立っている。
「左安中宿 2km、右板鼻宿 0,4km」とある。

安中宿に向かって、旧中山道を進むと熟年の婦人とすれ違う。
「おはようございます」と、にこやかに挨拶をされた。ボクも
笑顔で応えて「おはようございます」と返す。
安中に来て気が付いたが、どの方もすれ違うと挨拶をされる。
それが中学生であってもである。ずいぶんしっかり躾けされているらしい。

旧街道らしく昔が偲ばれる旧い家並みが続く。
すぐ左側民家の店先に
「是より一宮 大日 街道」と書かれた道しるべは、
西側に庚申塔と刻んである。

さらに進むと、道は左へ大きくカーブしている。ここで昔は直進したが、
今は、すこし先で行き止まりになっているので、
道なりにカーブして進むと、再び碓氷川の土手に突き当たる。
左側には国道18号線が見える。さらに向こうの山の上には、
数々のコンベアーや煙突、ブリキの囲いなどがあり、
SF映画に出てきそうな要塞の様な工場が見える。

東邦亜鉛精錬所である。

土手に上がると碓氷川に架かる「久芳橋」がある。
結構長い橋で、河原には野球場などスポーツ施設があり、
スポーツを楽しむ人たちでにぎわっている。

橋を渡ると「下野尻」大きな信号があり、直進と左方向に分かれていく道になる。
案内看板に、左「旧中山道」、安中市街地とある。

もう安中宿である。