中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

「こくぞうさん」の金生山 明星輪寺①(旧中山道を歩く 264)

2011年08月30日 09時57分52秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(山頂から見たグラウンドのような広場、この左に小さく見える急坂の参道の一部)

(赤坂宿2)
「こくぞうさん」こと「金生山 明星輪寺」は海抜217mの山の上にあり、
道路は頂上まで螺旋状にゆっくり昇るのではなく、
子安神社横から金生山化石館を通り、いっきに昇っている。

途中、石灰石採取で、山が削り取られたのか、
道路左にグラウンドのような広場が見える。
道路わきには桜の木が植えられており、
丁度、「さくらんぼ」熟す時期なのか、
枝には黒く色づいた「さくらんぼ」が無数に実っており、
枝の下には、「さくらんぼ」の種が無数に落ちている。
木の下で手を挙げ、「さくらんぼ」をもいで口に入れ、
種だけはき捨てたものと見える。

急な上り坂は、頂上の天の上まで続いており、
まだ五分の一ほどしか登ってきていないが、
桜の木の下で立ち止まって一休みする。

手を上げて「さくらんぼ」をもいで口に運ぶ。
甘く、しかし、少し渋みのある味が、
返って疲れた体には刺激がある。
数個、口に入れてから、歩き出す。
ゆっくりゆっくりしか進めない。
見上げる道路の先が、緑の樹の陰に隠れる所まで、
優に30分は掛かりそう、などと考え考え進む。

赤坂大橋のたもとで見た蛇がバックする所を見て、
「蛇がバックできる」ことを新発見して、
気分が高揚していたことも手伝って、
「子安神社」から僅か1kmなら、
普段は1km12分程度で歩くことを考えれば、
坂道でも往復一時間もあればと、
気安く考えて登りだしたが、
どう考えても往復2時間は越えそう。

後ろからトラックがエンジン、フルスロットルで、
スピードを上げて通り抜けて行く。
どう考えても、この坂道をあのスピード走るには、
あのエンジン音は、ギアはセカンドにいれたままのようだ。
手を挙げて頂上まで載せて行って貰えないかと、
言いたくなるほどであるが、言い出す暇もなく、
車を恨めしそうに見送る。

やがて登りの坂道は森の中へ右折していく。
物音もしない静寂の中で、
「がさがさ」と左手に動物が動く影を見た。
途中にあった「熊出没に注意」の看板を思い出す。

木曾の藪原宿の手前「鳥居峠」にも、
岐阜県に入った「十三峠」にも、
「熊出没の注意」が沢山あった。
注意しても熊に出くわしたら、
どう対処したら好いかについては、
どこの山にも書かれていない。

木に登れとか、死んだ振りをしろとか、言うが、
実際に出会ったら何も出来ない。
恐怖のあまり、ただジッと睨みつけて動かずにいるのが精一杯のはず。
逃げれば動物は追いかけてくる習性が有ることだけは知っている。
野良犬との体験では、動かずにジッとしているのが一番だからだ。

音がした方を見ると、大きな角を付けた野生の鹿が、
機敏に、きびすを返して森の奥の方へ移動して行った。
こんな街に近い所に鹿も居る位、この奥は山深いのだ。
熊でなかったことに胸をなでおろした。

坂道はすこしなだらかになり、左にカーブすると道路が広がり、
両側に灯籠が並び奥のほうに山門が見える。
山門は古いもののようで、
どうやら門の両側には仁王様が立っているようだ。


(境内へ続く山門)

息も絶え絶え登ってきたから、
写真を撮る余力もなく、
途中経過の写真がありません。


(山門の仁王様)




赤坂宿の中心地と子安神社(旧中山道を歩く 263)

2011年08月25日 09時56分43秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(芭蕉元禄の街のバス停)

(赤坂宿2)
赤坂港跡の前には、「赤坂港跡」のバス停があり、
これには(芭蕉元禄の街)と描かれている。

松尾芭蕉は、奥の細道の旅人になって(大垣)を
「むすびの地」にしているが、芭蕉大垣滞在中、
庶民に「こくぞうさん」と親しまれる赤坂の
金生山明星輪寺に参詣しており、句碑も残されている。
そんな関係で赤坂を(芭蕉元禄の街)と描いているのであろう。
金生山明星輪寺には日本でも有数の虚空蔵菩薩が安置されている。

赤坂港跡をあとに中山道を進むと、「浅間神社」が右手にあり、
その先で踏切をわたる。
踏み切りを渡ったすぐ先の左手には(赤坂本町駅跡)の石碑がある。
その先左手に(中山道赤坂宿本陣跡)の碑が建っており、
その横に和宮の顕彰碑が建っている。
大垣市商工会の説明に
(中山道69次の宿場町の一つで、
江戸時代大名が参勤交代など通行の途次宿泊した高級旅館であった。
現在は建物も無いが、
新しく幕末の青年志士で国家社会に尽した、
所郁太郎の胸像が建立された。)とある。


(浅間神社)


(赤坂本町駅跡の碑と踏み切り)


(赤坂本陣跡の碑と和宮顕彰碑

古い町並みを行くと町の中心地と思われる十字路の右手に、
常夜灯型の道標があり、(右たにくみ道)と刻まれている。
その奥に史跡中山道 赤坂宿の看板が架かっている。
十字路の奥を覘くと、往時を髣髴とさせる建物群がならぶ。
この辺りが赤坂宿の中心部に当る。
左に行けば谷汲山華厳寺へ続く谷汲街道で、ここには街道の起点となる
石灯篭の道標がある。


(宿場らしい家並み)


(宿場らしい雰囲気)


(左たにくみ道の碑と赤坂宿の案内)

その先左手に「脇本陣跡」の碑があり、
右手には「日蓮宗 妙法寺」がある。
門前の石柱「所 郁太郎の墓」があり、大垣市指定史跡になっている。

大垣市教育委員会によれば、
(所 郁太郎は天保九年(1838)に
中山道赤坂宿の酒造家八橋亦一の四男として生まれ、
幼少にして揖斐郡大野町西方の医師所伊織の養子となった。
 その後、勤皇の志を胸に国事に奔走し、
長州藩遊撃軍参謀となった。
井上聞多(後の元老井上馨)が刺客に襲われ、
重傷を負ったとき外科手術を施し一命を救った。
元治二年(1865)山口市吉敷の陣営において
二十八歳の若さで病没した。)とある。


(脇本陣跡の碑)


(妙法寺と所郁太郎の墓の碑)


(所郁太郎生誕地の碑)


(子安神社入り口)

その先右手に(所 郁太郎生誕地)の石碑があり、
道を挟んでその先に(子安神社、金生山化石館右)の
案内看板があるので右折し、子安神社に向う。

子安神社には鳥居の前に、(安産祈願社)の石碑があるように、
古くからの格式があり、子安神社にある由来はおよそ次の通り。

(当神社は神功皇后・応神天皇の二柱を奉祀し、
安産の神として遠近の崇拝あつく、
殊に大垣領主戸田家の帰依は深く、
現在の社殿は戸田家の寄進による。
霊験により境内の竹で御産刀を作るを常とす。
三代将軍家光公もこの由を聞き、
戸田家に命じ代々御産刀を献上させた。
・・・後略)とある。
安産祈願にはずいぶん由緒ある神社のようだ。


(子安神社)



子安神社の右隣に秋葉神社がある。
江戸時代には、(地震・雷・火事・親父)と、
火事は恐ろしいものの中の四つにあげられていたから、
火災除け、火伏せの神として秋葉神社が無い宿場が少ないように思う。

余談であるが、ここに親父とあるのは、
地震・雷・火事・大山風(おおやまじ)と災害を表わした。
もともとは親父ではなく、(大山風=台風)で、
これが訛ったものと言われる。
それが地震・雷・火事・大山風と、続けて言うのには話し難く、
語呂の関係から親父になったものと思われる。
地震・雷・火事・親父は、七五調に出来ており
七五調は日本語に最もよく合う長さである。
それにしても戦前の「親父」とは、
その命令は絶対であり、逆らうことは出来なかった。
今思えば、特に女性は(男尊女卑)の時代の中で、
辛い思いをした人も多かったに違いない。


(秋葉神社の左の道を登る)

話を戻して、秋葉神社と子安神社の間の坂道を登っていくと、
金生山(きんしょうざん)神社と金生山化石記念館があり、さらに登ると、

「金生山 明星輪寺(きんしょうざん みょうじょうりんじ)」、
土地の人が「こくぞうさん」と呼んで親しむお寺がある。


(金生山神社の右手をさらに登る)


(金生山 明星輪寺の参道)







赤坂湊(旧中山道を歩く 262)

2011年08月19日 10時40分38秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(右に東赤坂駅が見える踏み切り)


(中山道の案内もある)

(赤坂宿)
東赤坂駅が右手にある近鉄養老線の踏切を渡る。
踏切には、中山道の案内看板もある。

100mほど進むと、左に入る道路がありそちらへ向う。
これが「七回り半」の道路の七回り目の曲がり道かもしれない。
しかも直角ではなく30℃ほどの角度で曲がるから、
これが「七回り半」の「半」なのかもしれない。
「中山道左」の案内もキチンとあり解りやすい。


(中山道左の案内)


(宝樹山徳藏寺の石碑)


(徳藏寺の鐘楼と本堂)

少し進んだ左手に真宗大谷派 宝樹山徳藏寺がある。
白壁の美しいお寺の鐘楼と本堂も美しい。
田舎に行けば行くほど寺院は整備され美しい。

中山道を進むと左手に白山神社が見える。
白山神社の手前の川の橋に欄干に
(中山道)の小さなラベルが貼ってある。
さらにその先の民家の前に(中山道一里塚跡)の石碑が建っている。
江戸から数えて110番目(江戸から440km)の
記念すべき一里塚であるが、
塚の跡らしきものは何も残っていない。
京都まで残り100kmを切ったところである。


(白山神社)


(橋の欄干の中山道のラベル)


(一里塚跡の碑)

その先変則な十字路に出るが、
道路向こう側に(中山道)の案内看板が見えるのでそちらに進む。
道なりに進むと、逆Y字路に出て、その先が信号(赤坂大橋東)に出る。
逆Y字の股の部分に常夜灯があり、その竿の部分が道標になっており、
正面に(交通安全)、右側に(右おおがきみち)、
左側に(左なかせんどう)と刻まれている。
つまり大垣道と中山道の追分である。


(変則十字路)


(向こうに中山道の案内がある)


(逆Y字路、中央に常夜灯がある)


(常夜灯の道標「右おおがきみち」)

目の前の杭瀬川を渡る赤坂大橋を渡ろうとすると、
帰宅途中の男子中学生が大勢がやがや騒いでいる。
輪の中をのぞいてみると、大きな蛇(あおだいしょう)が、
橋の石垣の隙間にもぐりこもうとしている。
石垣の間から出てきたところを中学生に見つけられて、
恐る恐る尻込みしているところであった。
蛇は前に進んでもバックはできないものとボクは思い込んでいたので、
何か新しい発見をしたようで、
うれしいような、儲かったような気持ちになって
すこぶる気持ちが高揚した。
これが災いの元で、後で痛い目に遭うことになった。


(杭瀬川の赤坂大橋)


「赤坂大橋東」の信号と橋と中山道の案内)


(橋を渡り終えた所)

橋のたもとにも(中山道)の案内看板はあるので、
見落としが無いように確認して進もう。
この橋を渡る手前から描かれた図が、
歌川広重の浮世絵「木曽海道六拾九次之内 赤坂」であるという。

(図は宿場の東側を流れる杭瀬川を描いていると思われる。
杭瀬川にかかる土橋とその向こうに望む赤坂宿で、
丁度雨上がりらしく、
橋を渡るご婦人が持つ傘が閉じられようとしている。
広重描く杭瀬川は川幅も狭く浅瀬になっているが、
実際は赤坂湊として桑名との間に船運が発達しており、
数百層の舟が出入りしていたものだという。)
(「木曽海道六拾九次之内 赤坂」より抜粋)


(広重の浮世絵「赤坂」)

中山道を少し進むと次の十字路の先が川になっており、
道路右手にその赤坂港跡がある。
その赤坂港の左手に天高く雲つくようにそびえる火の見櫓が目立つ。
どちらかと言うとこの木造の火の見櫓の反対側に、
赤坂港があるといったほうが解りやすい。

大垣市赤坂商工会発行の小冊子によると、
(赤坂港は昔、西美濃の産物や金生山の石灰等を運ぶ、
水運交通の要所で、かっては数百艘の舟が出入りした。
その跡に往時を偲ぶ常夜灯が残されており、
港会館が復元された。)とある。

昔は数百艘の舟で賑わったというが、
今は非常に静かで川面も穏やかで、
とてもその賑わいを想像できない。

杭瀬川は元揖斐川の本流であったという。

先ほど通った赤坂大橋が杭瀬川の上にあった事から考えると、
昔、この杭瀬川は赤坂大橋から赤坂港のあるところまで、
広い川幅だったに違いない。
そうでなければ数百艘の船を想像すら難しい。


(火の見櫓)


(赤坂港と赤坂港会館と常夜灯)


(今は小さくて穏やかな港公園)










「七回り半」の道路(旧中山道を歩く 261)

2011年08月13日 09時37分24秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(「中仙道三回り半」の石碑、後ろが歩いてきた道)


(「中仙道三回り半」の石碑を左折、道路向こうに中山道の案内あり)

(美江寺宿から赤坂宿へ)
道に迷っていると、自転車に乗った二人連れの高校生に出会ったので、
道順を聞くことにした。

「中山道はここで左ですか?」と訊くと、
高校生は中山道がわからず、

「中山道?」と聞き返してきた。
「家康が徳川幕府を造ったあとに、すぐ五街道を整備したよね。
江戸から京都へ東海道と中山道はそのうちの一つ」とボク。
どうも解っていない様子。

「どこへ行くのですか?」と高校生。
ボク「赤坂宿へ行くのですが・・・」
高校生「これからボク達 赤坂へ帰るところです」という。

ボク「聖観音?金生山(きんしょうざん)?東赤坂駅は?」と訊くと、
高校生「あそこの山が金生山です」と指差す。

石灰岩を採掘すると聞いている山は、
岩肌がむき出しになって白く見える。
東赤坂駅はこの石灰岩を輸送するのに敷かれた鉄道である。
聖観音は赤坂宿に出る手前の途中にある観音堂である。
しかし、聖観音は高校生も知らない。

高校生「ボク達、赤坂へ帰るところです。
この道をまっすぐ行けば出ます。」と。
清潔そうな白いカッターシャツと礼儀正しい物言いとにとても好感が持てた。

「この先に大学がありますから、
その手前で左折したら如何ですか」と高校生。
ボク「ありがとう」

そこでお礼を言って高校生と分かれ直進すると、
何のことは無い100mもしないうちに、
左折道路があり「中仙道三回り半」の石碑が道路左角にあるのを見つけた。

直進道路は、そこから土手の方向に登っていくので、
方向としては直進は間違いのようだ。
いろいろ考えて頭を上げると、左折道路の向こう側に、
「中山道←」の案内看板があるではないか。
するとこの「中仙道三回り半」は何だろうか。
この先の中山道が「三回り半」しているのだろうか。


(「中山道」左折の案内、直進は土手に登る道)

案内に沿って左折すると、
道路は素盛鳴神社の前ですぐ右折、
そしてさらに左折、これで三回りであるが「半」がわからない。

まっすぐ道路を進むと、途中左手に「秋葉神社」があり、
右手に「長徳寺」があり、少し行くと十字路に出て、
右手前に「聖観音菩薩」がある十字路に出た。
十字路を横切ってさらに麦穂が波打つほかは水田地帯、
田植えを待つ水田の間をしばらく直進する。


(二回り目の素盛鳴神社前)


(火の神秋葉神社)


(右手の長徳寺)


(聖観世音菩薩)


(麦穂が波打つ水田地帯)

左角に「七回り半」の標識があり、
右折してすぐ民家の前で左折する。
これで「二回り」と数えて、水田地帯を抜け、
やがて左にトラックが並ぶ(エスライン・・・)の物流センターをみて、
広い道路を横切る。
十字路の向こう右手に田舎にしては洒落た(コーポ・・・)が見える。
道路を渡り、中山道の案内は右折を示している。
コーポの裏手へ右折する道路へ進み、すぐ広い通りへ出て、
右手の(中沢)の信号を見て左折する。これで「四回り」と数える。
道路を右側に渡り「中山道」の案内看板を見て、右手の水田に沿って歩くと、
道路は右折し道なりにすぐ左折する。これで「六回り」で、
どう数えても「七回り半」にならない・・?!?!・・。
赤坂宿に入るまでにあと一回半 曲がり道があるのか、
昔はあったが、今はもうなくなっているのか・・・解からない。


(左手の物流センター)


(大通りを横断、右向こうのしゃれたコーポ)


(コーポ後ろの道路を案内に沿って右折)


(右の「中沢」信号を道路を渡って左折)


(水田脇を案内に沿って進む)


(次を右折)


(道なりに左折)

しかしこれで踏み切りを渡ると東赤坂駅が右手に見える。
これが中山道の「西の赤坂」である。
「東赤坂駅」なのに「西の赤坂」というのも可笑しいが、
「うとう峠」を降りてきた所にある「赤坂の地蔵堂」を
「東の赤坂」といい、これに対抗してこちらの「赤坂」を西の赤坂という。

その赤坂宿の東側にある駅を「東赤坂」駅と名づけた。
踏切を渡って、少し行くと道路は左へ行く狭い道に入る。
これで「七回り」なのかもしれない。

これから赤坂宿に入る。


(右に見える東赤坂駅)


(先に見える左折の狭い道路)





「呂久の渡し」の先の解り難い中山道(旧中山道を歩く 260)

2011年08月10日 10時51分14秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(「小簾紅園」を出た道は柿の木畑)

(美江寺宿)
「小簾紅園」を出て道は隣の赤坂宿に向って進む。
今歩いている旧中山道は、昔は「呂久の渡しの川の中」であった。
その川に水が無くなって陸路になっていることから、
赤坂宿までの道のりが少々ややこしい。

「小簾紅園」の前の道を西に進む。
道路わきに「旧中山道」の標識がありここは問題ない。
民家が途切れる頃、前方に橋が見えてくる。
近づくと左手に地蔵堂があり、
「小簾紅園」にあった[東の地蔵堂]と一対になって[西側の地蔵堂]といえよう。
この地蔵堂の東と西の間が「呂久の渡し」であったように思える。
西の地蔵堂のすぐ先に「新橋」があり、橋を渡ると土手に突き当たり、
道路は左右に分かれる。


(「小簾紅園」先の民家の中山道案内)


(道路先に橋(新橋)が見え、その先が土手になっている)


(橋の手前の地蔵堂)


(橋の先の土手に二又道は右?左?)

どれが中山道なのか判らないが、
いづれ土手を越さなければならないので土手に上る方向で、
車両の行き来が多いほうに検討をつけて、右折する。
これが正解だったようで、
少し行くと道路左わき土手の中腹に石の道標がある。
石標は「左木曽路」「右すのまた宿道」の文字の、
上部の三文字くらいしか読めないほど深い草の中に立っている。


(車往来が多い右の道で、土手を越えるべく登り道を選ぶ)


(草の中にある道標)


(道標を左に見て土手の上へ登る)

その先が二又道になっており、
土手を登り終えるべく上へ行く道ーつまり左側の道を選ぶ。
道路は土手の頂上らしく平坦になり左に曲がっている。
曲がりきると、右に大きく曲がる平らな道と、
左にまっすぐ進む坂を下る道に出る。

右に曲がる道は自動車専用道路で歩行者は進めないと看板が出ているので、
案内に従い直進して坂を下る。
下りきったところで「サイクリングロード」の案内と
「中山道」の案内があり矢印は右折を示している。


(土手の頂上を左折した所、左へ下る道あり)


(坂を下りたところの案内に沿って進む)


(左手民家の木々に覆われて進む)

道路の先を見ると直進と右折の両方が見える。
案内どおり右折する。
道路の右側は土手、左は民家の木々に道は覆われている。

すぐ道路は開け、土手に沿って直進と左へ向う道に分かれる。
その分かれ道の間に案内看板「サイクリングロード」と「中山道」がある。
取り付け方が悪く、案内看板の方向が右なのか左なのかよく解らない。
土手に沿った直進道路の先を見ると、
右手の土手上の自動車道が左折して一般道へ降りてきており、
直進道路はその自動車道をくぐるように伸びている。
自動車道を潜り抜けるとさらに道路は直進と左折に別れる。
赤坂宿に抜けるには方向的には左折であるが、
まだ少し早そうである。

そこへ自転車で帰路の二人連れ高校生に出会う。
道順について二人に聞くことにした。

(「三回り半」の石碑、後ろが今まで歩いて来た道路)







小簾紅園(おずこうえん)(旧中山道を歩く 259)

2011年08月06日 11時42分08秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(「小簾紅園、第十八代 徳川宗家お手植えのもみじ)

(美江寺宿4)

♪てんてんてんまり てん手まり   
 てんてん手まりの手がそれて   
 どこからどこまでとんでった    
 垣根を越えて屋根越えて
 おもての通りへとんでったとんでった♪


この童謡は西條八十の作詞で有名である。
二番は次の通りで、

♪おもての行列なんじゃいな
 紀州の殿様お国入り
 きんもん先箱供揃い
 お駕篭の傍には髭やっこ
 毛槍をふりふり やっこらさの やっこらさ♪


この二番の歌詞にある、
「金紋先箱供揃い お駕篭の傍には髭やっこ」は、
非常に豪華な大名行列を想像させる。

(日本最後の大行列は、何と言っても第14代将軍 徳川家茂に嫁いだ
皇女和宮の行列であったに違いない。

警護の武士団を先頭に、色鮮やかな宮中人の絢爛たる行列が、
延延と続き、美江寺宿の人々を驚かせたに違いない。
公武合体とは言え、年端も行かない皇女和宮のご降嫁は、
悲壮なご覚悟があったことは、詠まれた歌にもにじみ出ている。

・惜しまじな 君と民とのためならば
             身は武蔵野の 露と消ゆとも

文化元年(1861)十月、「呂久の渡し」を御座舟でお渡りになられた。
その折、対岸の馬渕孫衛門の庭にあったもみじをご覧になり、
一枝ご所望になった。
これを船のへさきに立てさせられ、玉簾(すだれ)越しにご覧になり、

・おちてゆく 身と知りながら
           もみじ葉の 人なつかしく
                     こがれこそすれ

ご自分の境遇をもみじ葉に託し詠まれた。


(・・・もみじ葉の人なつかしく こがれこそすれ」の歌碑、柵の中)


(和宮の歌碑)

ここ美江寺宿では、このご渡船を記念して、
歴史ゆかりの呂久の地に
「和宮遺跡」を保存したいと機運が盛り上がり、
昭和の初め、時の村長らが並々ならぬ努力の末、
昭和四年四月その名もゆかしい「小簾紅園」が完成した。)
(瑞穂市)と小簾紅園が出来たいきさつが述べられている。

昭和51年には秩父宮妃殿下を始め多数のご臨席を仰ぎ、
和宮100年祭を盛大とり行った、と付け加えられている。
なお、「小簾紅園」は歌にあるようにもみじの木が覆い、
池があり、歌碑があり、また十八代 徳川宗家の
お手植えの「もみじ」もあり、
大変美しい静かな公園となっている。


(和宮御遺跡の石碑)


(小簾紅園入り口)







鷺田橋と「呂久の渡し」(旧中山道を歩く 258)

2011年08月04日 09時57分52秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(富有柿畑)


(千躰寺を左折)

(美江寺3)
美江寺宿から赤坂宿までの道のりは、
ここから少し複雑で、案内書でも説明しきっていない。

千躰寺の枡形で左折して、
道なりに進むとあたりは一面の富有柿畑。
やがて右手に真新しい「神明神社」がある。
なお進むと右手に広いJA(農協)とその駐車場があり、
多数の車が駐車している。
駐車場の先で道路は巣南中学の校舎で突き当たり、
弧を画いて右にカーブすると、広い通りに合流する。
合流する時に左に折れるが、その先が赤い欄干の「ちょうごじばし」で、
一級河川 長護寺川を渡る。
欄干が赤いのは、長護寺に関係があるのだろうか?


(神明神社)


(道路左は水田、右側はJAの駐車場、突き当たりは巣南中学校)


(弧を画いて右へカーブ、正面は中学校の建物)


(広い通りへ出る)


(左折すると「ちょうごじばし」の赤い橋、右手は瑞穂市西部複合センター)

橋を渡るとすぐの信号を右折するが、信号左手には巣南中学校があり、
交差点の右先には交番が、右手前は瑞穂市西部複合センターがある。
右折するとすぐ左折する道路に入る。
左折する手前右側には(アクアパークすなみ)があり、
その土手に(旧中山道)の杭が二本建っている。
この土手を右に見て左折する。
これぞまさしく水田地帯の中で、交番の裏手も良く見える。
先の方に鷺田橋のある揖斐川の土手も見える。
見晴らしが良いので道に迷うことは無さそう。
迷ったら、とにかく鷺田橋を目指せばよい。


(瑞穂市西部複合センター)


(左手巣南中学)


(右側信号の先 交番、手前の道路へ右折して入る)


(右折したらすぐ左折する。その右側が「アクアパークすなみ」)


(「アクアパークすなみ」の石碑)


(旧中山道の標柱)


(左折し水田地帯)


(道路わきにある旧中山道の案内)

道路を少し進むと(この道は 旧中山道です)の案内看板がありホッとする。
あたり一体は見渡す限りの水田の中をしばらく進む。
「小簾紅園(おずこうえん)」左折の案内が道路端にある。
この先中山道は「小簾紅園」の前を通ることになっているから、
この案内に沿って進めばよい。
次から次へとある「小簾紅園」の案内に沿って(鷺田橋)まで進む。
鷺田橋は揖斐川を渡る大きな橋で、
渡り終えた所にある「小簾紅園」の案内に従って左折し陸橋を渡る。


(小簾紅園の案内で左折)


(皇女和宮の小簾紅園の看板拡大)


(一面の水田地帯、はるか先に鷺田橋はある)


(最初の信号で左折の案内、左に鷺田橋へ)


(鷺田橋)


(鷺田橋を渡り終えたところの陸橋も案内に沿って渡る)


(陸橋の様子)

「小簾紅園」まではこの案内が役にたつ。
良縁寺と白鳥神社を右に見てすすむと、
途中、石を積んだ石積みの家並みがあり、
揖斐川から遠ざかるにつれ石積みが低くなる。
揖斐川氾濫に備えて組まれた石積みが低くなるのは、
溢れた水が川から遠ざかれば水かさが浅くなる為であろう。


(良縁寺)


(白鳥神社)


(石積みの家)


(石積みの家を案内に沿って右折)

この辺り、昔は揖斐川の流れの岸にあたり、
「呂久の渡し」があったところ。
今は、木曽川上流の改修工事で現在の流れに変わった。
「小簾紅園(おずこうえん)」の案内看板で右折すると、
右側に真宗大谷派 蓮正寺があり、
続いて真淵家の長屋門がある。
真淵家は織田氏の支配の頃から呂久の渡船業の権利を持っていた。

真淵家の先の左手には、大きな駐車場を持ったバス停「呂久」がある。
バス停にこんな大きな駐車場があるのを見るのは初めてである。
交通の不便な場所にあるからであろう、
このバス停まで自家用車で来て、バスに乗り換えて行くための
駐車場であるに相違ない。


(蓮正寺、石積みが低くなっている)


(蓮正寺隣の真淵家の長屋門)


(「呂久」のバス停、大きな駐車場の中にある)

その先に地蔵堂と観音堂が並んであるが、
地蔵堂は元「呂久の渡し」にあった地蔵堂という。
観音堂の裏手は広場になっており、ここが「小簾紅園」である。
しかし「小簾紅園」の入り口はこの先にある。
その入り口には「揖斐川呂久の渡船場所」の石碑がある。

瑞穂市によれば、
(天正時代織田信長が岐阜に在城し、
天下統一のため京に近く交通の要衝である近江の安土城に居所を移した頃から
美濃と京都の交通が頻繁となり、
赤坂―呂久―美江寺―河渡―加納の新路線が栄えた。
これが江戸時代の初頭に整備されて五街道の一つ中山道となり、
この呂久の渡しもそれ以来交通の要所となった。
 慶長15年(1610)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は、十三を数え、
中でも船年寄真淵家には、船頭八人、助務七人が置かれた。
その頃の川幅は、平水で90m、中水で120m、
大水では180mに及んだといわれています。
 文久元年(1861)には、皇女和宮親子内親王が中山道を御降嫁の折、
この呂久川を渡られ、
その折船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺め、
これに感懐を託されて、

「落ちていく 身と知りながら もみじ葉の
          人なつかしく こがれこそすれ」

と詠まれた。
 後に、和宮様の御遺徳をしのび、
昭和四年(1929)この呂久の渡しの地に歌碑を中心とした
「小簾紅園」が建設され昭和45年(1970)には、
巣南町指定史跡となった。

この地「呂久の渡船場」は、大正14年(1925)木曽川上流改修の
揖斐川 新川付け替え工事完成により、
この地より東へ移り、
現在の揖斐川水流となり長い歴史を閉じることとなった。)
と詳しく説明されている。

さきほどの地蔵堂は「呂久の渡し」の「東の地蔵堂」で、
西には西の地蔵堂があって、
その間を川が流れていた往時を偲んでみよう。


(写真右が観音堂、東の地蔵堂は写真左側)


(読めるでしょうか、右側の「揖斐川呂久の渡船場跡」の碑)


(「小簾紅園」の碑と後ろ側にある公園の池)


(紅園の中はもみじで一杯)


(壇上は皇女和宮の歌碑)


(・・・もみじ葉の人なつかしく こがれこそすれ」の歌碑)