中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

志村一里塚(旧中山道を歩く 25)

2005年03月28日 09時34分00秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(志村一里塚)


「縁切り榎」から北に向かうと、左側に交番があり
国道17号にでる。旧街道は、しばらく17号と同じ道路を行く。

やがて右側に真言宗の寺院 南蔵院がある。
御本尊は十一面観音菩薩である。

昔は志村坂下にあったが、
荒川の度重なる洪水で現在地に移転してきた。
新井盛久によって開創された。享保7年(1722)に
徳川吉宗が鷹狩の際、当寺で食事をしたとされる。
(板橋区教育委員会)

境内のしだれ桜は有名で、季節には沢山の人たちで埋まる。

(南蔵院)


(南蔵院桜祭りの頃1)

(南蔵院の桜祭りの頃2)

新井氏の菩提寺で、当寺の門をくぐったすぐ右手に、
先祖代々のお墓が並んでおり、新井三郎右衛門の名が
並んでいる。近年墓地の拡張がままならないので、
真ん中に先祖累代の墓として、一回り大きな墓が
設置されている。
なお、今でも新井氏の子孫と思われる大きな屋敷が、
南蔵院の左手にある。


(新井氏と思われる古い大きなお屋敷)

先に進むと志村の一里塚が見えてくる。
平尾宿から一里(4km)の地点だ。

一里塚の手前右側に古風な竹細工を陳列したお店がある。
斉藤商店、ここはその昔から「あらもの」を扱い現在に至る。
一里塚によく合う古いお店で、
板橋区の「まちなみ景観賞」を得ているが、
保存するのもなかなか大変だと痛感する。

2002年 五街道設置後400年というから、
このお店も400年以上経過しているに違いない。
(一里塚)

(あらものや、左側に一里塚がある)

23区内に残るこの一里塚は、国指定史跡になっている。
「塚は道の両側にあって、巾五間四方(約9m)、高さ一丈
(約3m)の定めによって築かれ、旅人にとっては、
里程や乗り物賃の支払いの目安になり、
またその木陰はかっこうの休憩所にもなった。
完全な形で残る一里塚は稀で都内には北区西ヶ原と二箇所だけ。」
            (板橋区教育委員会)
となっているが、ほぼ完全な形で残っている一里塚は、
日本橋から、東海道は箱根までと中山道は高崎までの間には、
見つけることが出来なかった。

このあと、街道を歩いて見つけることが出来たら、
この記載を改めたいと思う。

なお、西ヶ原の一里塚は王子から本郷に向かう
本郷通り飛鳥山の先にあるが、
志村の一里塚ほど完全な形で残っていない。


縁切り榎の迂回路(旧中山道を歩く 24)

2005年03月25日 09時29分00秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26

(縁切り榎の迂回路)

皇女「和宮」が降嫁されるとき、「縁切り榎」は不吉として、
榎に布を巻いて見えないようにして、通過したという。
「和宮」以前に降嫁された皇女「五十宮(いそのみや)」、
「樂宮(ささのみや)」の折には「縁切り榎」を避けて
迂回路が整備された。そんな記録があるという。

その迂回路を通って見る。

「縁切り榎」の手前50mほど右側に原木歯科医院があり、
その前がT字路になっている。
これが迂回路である。

左に折れて、国道17号を渡ると「愛染通り」で、
すぐ右側に智清寺がある。
(ここは浄土宗のお寺で、室町時代初期に創建されたと伝えられる。
境内には、板橋上宿の名主、板橋市左衛門の家歴代の墓碑がある。)
(板橋区教育委員会)

(智清寺と山門)


(上宿の名主 板橋家の墓、本堂左手より、
   墓地に通じる道を奥に突き当たる手前の左側に並ぶ)

山門前にある石橋は、史跡として認定され
以下のように記されている。
(山門前にある石橋は、江戸時代に使用された中用水に架けられたもの。
中用水は、農業用水として石神井川の水を分水したもの。
明治五年板橋町と下流の上十条村以下 七ヶ村との間で
配水を巡って争い、板橋の農民が当寺に立てこもった。
同石橋は、昭和60年板橋区登録文化財に認定された。)
           (板橋区教育委員会)


(文化財となった石橋)

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(歴史を感じさせる阿弥陀堂の扁額)

この智清寺前を通り過ぎると、すぐ斜め右に入る道があるので、
その道に沿って入ると、日曜寺という面白い名前のお寺がある。

正式には真言宗霊雲寺派、光明山愛染院日曜寺といい、
御本尊は寺の名前とおり、愛染明王。
山門にかかる「日曜寺」と揮毫された扁額が太平洋戦争で
唯一残された1815年より伝わる宝。(板橋教育委員会)

境内には梅ノ木が植えてあり、春先には見事に花を咲かす。
近くには「愛染通り」の名前の通りがあるが、
川口松太郎原作の小説「愛染かつら」とは縁もゆかりもない。

(日曜寺山門)


(文化12年松平定信が奉納した日曜寺の扁額)


(平尾町内の幟旗の支え石)

山門を出る手前に、幟旗を立てる際に必要な支え石があるが、
脇に「平尾町内」の文字が刻まれている。
板橋宿は、先に述べたが、上宿、仲宿、平尾宿に分かれているが、
平尾宿だけは地名にも無く、平尾宿の名残としては、
旧中山道と国道17号線が交差する角にある交番「平尾派出所」と
この石に刻まれた「平尾町内」の文字くらいしか見当たらない。

愛染が藍染に通じ染色組合や、板橋芸妓組合の
寄進による玉垣が奉納されている。藍染組合はともかく、
芸妓組合が奉納しているところを見ると、板橋宿が遊興の里として
繁盛していたことが伺える。
(愛染明王は遊女の守り神である「芭蕉の恋句(岩波新書91参照)」ことが後で解った。
これで芸妓組合が玉垣を奉納する意味が納得できる。)


(芸妓組合と藍染組合寄贈の玉垣)

日曜寺を左に見て進むと、すこし広い道路「愛染通り」に出て右折。
しばらくすると、環状七号線の交差点にでる。
富士街道入り口交差点。
信号を渡るとマンションがあり、左が富士街道で、
マンションに沿って右に入る一方通行の狭い路地があるが、
ここを進むと国道17号にでる。
「清水町」の信号である。
17号を横断して、自動車道ではなく右側に、
今までと同じ如何にも人道らしい路地があるので、
そこを入ると旧中山道に出る。
出た所には園芸用品を扱う店がある。
ここまでが「縁きり榎」の迂回路である。

左折して旧中山道である。

ここまでの迂回路を根村道(ねむらみち)と言う。
根村(ねむら)は板橋区上宿の元になった村である。
昭和22年に板橋区から分かれて練馬区が出来たが、

練馬と根村、(ねりまとねむら)

発音が練馬に似通っており、この村が分岐点となる練馬への
富士街道があるのは面白い。

「縁切り榎」を避ける根村道は約一キロある。


(富士街道入り口信号)


板橋宿の上宿と縁切り榎(旧中山道を歩く 23)

2005年03月21日 09時25分00秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(板橋宿の上宿と縁切り榎)

商店街をしばらく進むと、史跡「縁切り榎」の信号に出る。
信号の向こう右側に史跡「縁切り榎」、右手前に交番があり、
交番の角に「上宿」の石塔がある。
交番の裏手は小公園になっており、当時を思わせる常夜灯が
設置されているが、とってつけたような感じが否めない。

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(交番と常夜灯のある小公園)

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(交番横にある上宿の石柱)

街道は京都より下ってくるという考えであったので、
京都方面より「上宿」「仲宿」「平尾宿」の順になっている。

中山道板橋宿の案内によれば、
(江戸時代の五街道の一つである中山道は、
江戸と京都を結ぶ大動脈として、人々の往来や
物資の流通、文化の交流などを支えてきました。
板橋宿は中山道の第一番目の宿場であり、
その長さ十五町五十九間(約1.7km)でした。
天保十四年(1843)には、人口 2448人、
家数 573軒を数え、旅籠屋、料理屋や駕籠やなど、
さまざまな店舗が軒先を並べていました。
板橋宿は日本橋方面から、平尾宿、仲宿、上宿に分かれており、
石神井川にかかる板橋(板でできた橋)から
現在の環状七号線あたりまでが上宿でした。
(板橋区教育委員会)
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(縁きり榎)

「縁切り榎」に戻るが、もとは、「榎(えのき)と槻(つき=けやき)」が繁っていたことから
「エンがツキる」といわれ、縁を切りたい人や悪縁を絶って
良縁を得たいという民間信仰が生まれた。
この前の通りを「岩の坂」と呼んで、
「エンツキ嫌な坂」と地元の人は呼ぶそうな。

皇女和宮の折は、榎のまわりを覆い、
見えないようにして通行した、といわれる。
しかし、和宮以前にも降嫁した皇女-五十宮(いそのみや)、樂宮(ささのみや)-は、
「縁切り榎」を避けて通行したので、
中山道の迂回路があることを考え合わせると、
皇女和宮も迂回したのではないかと、意見は二つに分かれる。

そこで迂回路を通ってみた。

なお、初代榎は、すでに枯れてしまったが、
幹の中が空洞になった初代榎の残骸が
旧中山道沿いの板橋観光センターに展示してある。

現在の榎は三代目の榎という。

悪縁を切りたい人はどうぞお参りを!
良縁を得たい人もお参りを!
(悪縁が切れるから)




板橋宿の仲宿 (旧中山道を歩く 22)

2005年03月15日 09時24分00秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
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(中山道板橋今昔の板橋、地名の由来となった板の橋)

(板橋宿の仲宿)
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(夢街道ー仲宿商店街)

やがて仲宿に入る。街路灯に仲宿と看板が連なっている。
歩道にも「夢街道 仲宿 お客様との出会いを大切に」の
看板が仲宿商店街振興会の手で作られ置かれている。
また、板橋宿ルネッサンス委員会(どんな会か知らないが)
発行の「中山道板橋宿今昔八景」なる「切り絵はがき」
八枚組(500円)が手に入る。

「中山道板橋宿今昔八景」には、
旧板橋警察、北豊島郡役所、高砂座(大衆劇場)、観明寺の庚申塔、
脇本陣の豊田家、花の湯、新藤楼(遊郭)、
板橋(地名の由来となった橋)が描かれていて興味深い。

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(旧板橋警察署、当然木造)

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(北豊島郡役所)

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(高砂座)

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(新藤楼ー遊郭の中央入り口の実物は板橋郷土資料館に展示してある)

右側に昔が偲ばれる古いお米屋さんがあり、
ついで遍照寺がある。
江戸時代には大日山と号し、板橋区内唯一の天台宗の
寺院であったが、明治四年廃寺となった。
現在は成田山新勝寺の末寺。
境内は、宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に
使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立馬などが
つながれていた。
境内に祭られる寛政十年(1798)建立の馬頭観音と
宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にその名残をとどめている。
(板橋教育委員会)
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(古い佇まいのお米屋さん)


(成田山 遍照寺本堂入り口)

その先、スーパーマーケットライフの手前右側に、
仲宿の本陣跡の石柱があり、
スーパーの先を右に折れてすぐ、文殊院がある。
このお寺は、本陣飯田家の菩提寺で、
古くから信仰を集めていた延命地蔵尊、二大閻魔を
祀る魔堂、足腰の守り神として知られる子の権現がある。

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(板橋宿の石柱)

この文殊院には、史跡として有名な板橋宿時代の遊女のお墓があり、
本堂内には板橋七福神の毘沙門天が安置されている。
なお、本陣を努めた飯田家墓地の飯田静の墓碑は
昭和63年に、また本尊の文殊菩薩は平成元年に、
板橋区の有形文化財に指定された。(板橋区教育委員会)


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(文殊院の山門)

なお、遊女の墓ならびに飯田家墓地は本堂を正面に見て、
右側の渡り廊下を潜ると、墓地があり、
お墓の案内看板があるのでそれを頼りに見学したい。
遊女の墓を造るのは、功徳を積むことになり、
当時の物持ちが信仰の深さを表現する手段であった。
これにより、自らは極楽往生できると考えていた。
東海道の品川宿にも見受けられる。

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(遊女のお墓)

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(本陣の飯田家の立派なお墓)

中山道に戻って、スーパー・ライフの手前左側に、
石神医院(旧水村玄洞宅)がある。
高野長英ゆかりの地である。
(写真を撮ったつもりであるが、見当たらず掲載できません。
板橋区教育委員会の案内が現在の石神医院の門前にある。
高野長英が捕吏に追われて一時隠れていたところ。)

さらに進むと板橋区の名づけの元になり、
往時は板で作られた橋「板橋」がある。今ではコンクリート製の
橋になっているが、 往時は木製の太鼓橋であったという。
橋のたもとに、「日本橋から二里二十二町三十三間、
十キロ六百四十三メートル」と書かれた木の柱が立っている。
いわゆる「板橋」である。

この柱の左手が、上宿脇本陣跡といわれ、板橋家の屋敷跡。
今は石神井川になっており、当時を思い浮かべる物は何も無い。

この間、旧中山道は賑やかな仲宿商店街が続いている。

ここから先が、上宿になる。

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(今は木に見せかけてあるが、コンクリート製の板橋)


板橋宿の下宿ー平尾宿 (旧中山道を歩く 21)

2005年03月11日 09時21分00秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(平尾宿の脇本陣の切り絵)
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(板橋宿の下宿-平尾宿)

中山道に戻ると、旧中山道板橋宿の門がある。
旧中山道 板橋宿が続く。平尾宿、仲宿、上宿の順だ。

その入り口より100mほど歩くと、すぐ右脇に、
旧中山道の主な見所についての看板があるので、
看板を参考にして訪れてみたい。
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(板橋宿の案内看板)

その看板のすぐ近くの右側にある如意輪山観明寺は、
真言宗豊山派のお寺で、ご本尊は正観世音菩薩。
「新編武蔵風土記」には、延宝五年(1677)十月に
入寂した慶浄が中興開山とあります。
江戸時代、板橋宿の寺として、多くの信仰を集めた。
明治六年、当時の住職が、千葉の成田山新勝寺から
不動尊の分身を勧請しました。現在も出世不動という。
境内に鎮座する稲荷神社と赤門は、
もと加賀藩下屋敷にあったもの。
また、入り口にある庚申塔は、寛文元年(1661)
造立されたもので、青面金剛像としては都内最古です。
板橋区指定有形文化財になりました。
             (板橋区教育委員会)
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(観明寺の庚申塔)

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(観明寺の境内)

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(都内最古の庚申塔)

中がよく見えないので上の切り絵でご想像ください。

この辺り一帯は元加賀藩下屋敷があったところだ。
近くに加賀町の町名が残っている。

少し先に行くと、
当時の名残りを見せる湯屋(花の湯)が営業していた。
その手前を右に入ると板橋宿平尾脇本陣跡の標柱がある。

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(400年続く銭湯、花の湯)

入り口が古く年代ものと判り、厳めしい。
(最近、取り壊された。)

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(昔も今も変わらぬ佇まいの「花の湯」)

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(脇本陣の標柱)

近所にお住まいのYさん、Kさんに拠れば、脇本陣は、
家の周りを一周して縁側があり、反対側の道路まで
そのお屋敷はあったという、広い建物であった。
近藤勇が宿泊したこともある。

今ではマンションが建っているが、取り壊す前に
板橋区に史跡として保存してはどうか、
近所から提案があったが、当時は自治体も資金不足で
引き取れなかったようで、取り壊されたという。
今から考えれば残念なことである。

平尾宿の名残は、
板橋宿入り口にある交番、板橋警察平尾派出所、
日曜寺にある幟旗の石柱と、
この平尾宿脇本陣跡の標柱しかない。
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(日曜寺の平尾町幟旗の石柱)


東光寺と宇喜多秀家 (旧中山道を歩く 20)

2005年03月08日 09時19分00秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(板橋区役所板橋出張所にある板橋宿の浮世絵と中山道の地図)
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(東光寺と宇喜多秀家)

板橋宿は三つの宿場からなる。日本橋方向から
平尾宿―仲宿―上宿となる。

最初、日本橋の項で記述したが、京都から江戸に下るのが
基本になる旧東海道、旧中山道である。

国道1号線と17号線の今は、東京から京都へ下りになる。

したがって、板橋宿も京都方向から見て、上宿―仲宿の順になる。

しかし日本橋を起点に歩き出したので、平尾宿―仲宿―上宿の
順序に歩くことになる。

17号線の信号を渡った先を真っすぐ東へ入ると、
右側に東光寺が見える。

東光寺は正式には、丹船山薬王樹院といい
浄土宗のお寺。

(1679年加賀前田家下屋敷の移転に伴い現在の場所に移転。
当初は、旧中山道の面した参道に町家が並び賑やかであったが、
明治初期の大火や関東大震災による火災で再建され往時を偲ぶことは出来ない。
境内には、寛文二年(1662)の庚申塔、
板橋区の有形文化財に指定された石造菩薩坐像、
明治になって子孫が建立した宇喜多秀家の墓があります。)
(板橋区教育委員会)
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(東光寺)

宇喜多秀家は豊臣秀吉の養女(実父は前田利家)豪を娶るほど
秀吉の信任が厚かったが、関ヶ原の戦いで西軍の大将になり、
戦に敗れると死罪だけは免れたが、八丈島に流罪となった。
明治3年、新政府の恩赦により赦免され子孫が東京に入った。
この後一族は、士族に加えられ明治天皇より板橋に宅地を賜わっている。

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(宇喜多秀家の墓)



近藤勇と亀の子たわし (旧中山道を歩く 19)

2005年03月04日 09時40分00秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26

(英泉画浮世絵「板橋之駅」の中央が平尾の一里塚)

(やっと板橋宿へ)第三日目(2004年4月1日)

(近藤勇と亀の子たわし)

国道17号を渡り、元の旧中山道を行くと、
「亀の子たわし」を発案した会社西尾商店の前を通る。
ずいぶん歴史を感じさせる建物である。
「たわし」とは、「束子」と漢字で書くということを
ここで知った。


(亀の子たわし本舗)

明治40年(1907)初代西尾正左衛門の発明。
商っていた履物の泥を落とす玄関マットに使うシュロの
モールを、妻が折り曲げて使っているのをみて、
ひらめいた。水に縁があり、形が亀に似ているところから
「亀の子束子」と名づけ、大ヒット現在に至る。

話がそれたが、旧中山道をさらに進む。特段お伝えする史跡も無い。
この辺りは染井の植木商や種苗商が並んでいた地域である。

やがて、埼京線板橋駅の踏み切りにでるが、
その手前50mほどのところに左に折れると、滝野川通りの桜並木にでる。
右側が板橋駅東口。左手に新撰組局長 近藤勇と
土方歳三と連記したお墓がある。



この辺りは処刑場があった場所で、近藤勇が処刑された。
生き残りの永倉新八が、函館で死んだ土方歳三、他すべての
隊士を供養する意味をかねて近藤・土方両名の名による
お墓を立てた。

(土方歳三と近藤勇連名のお墓)

なお、処刑された近藤勇は、
首実験のため首を京都まで運び出され、
胴体はその日のうちに身内のものが引き取り、
調布の龍源寺にあると言う。

中山道に戻った所に一里塚があり、
ここから板橋宿に入って行く。
板橋宿は、三つの宿場からなって居り、
日本橋方面から、平尾宿―仲宿ー上宿となって居る。

つまり、ここから平尾宿である。
少し行くと踏切を越え、
JR埼京線の板橋駅西口を左に見て、
さらに進むと国道17号に交差する。
その手前の右側に、板橋警察署平尾交番があり、
交番のお巡りさんに
「どうして平尾交番と言うのですか?」と訊くと、
「町名は残っていないが、昔、平尾町と言っていたので、
平尾派出所というのです。」との回答を得た。

平尾宿の名残となっているのは、この交番と
後に出てくる日曜寺の幟を立てる石塔にしかない。


(平尾交番)

その交番の前から17号の斜め向こうを見ると、
旧中山道板橋宿の看板が見える。
17号を少し下ったところに信号があるので渡る。


(旧中山道板橋宿入り口)






四谷怪談 お岩さま (旧中山道を歩く 18)

2005年03月01日 09時45分00秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(四谷怪談お岩様の墓、妙行寺の石柱)


(四谷怪談 お岩さま)
庚申塚は中山道の日本橋と板橋宿の中間に位置している。
その庚申塚を右に折れ、国道17号を横断すると、
そこから「お岩通り」になる。
四谷怪談で有名なお岩様のお寺―妙行寺があるので
寄ってみる。
お岩通りをしばらく行くと、左に折れる道があり都電の線路がある。
そこをまたぐと、妙行寺がある。

本堂左脇を入るとお墓になるが、
案内に沿っていくと、忠臣蔵で有名な浅野たくみの守夫人の
お墓があり、これをひと回りする格好で、お岩様のお墓が見える。

(忠臣蔵の浅野内匠頭の夫人のお墓。この真後ろにお岩様の墓がある)


(お岩様の立派なお墓)

偶然にもお化けにふさわしく墓前に猫が眠っていた。

由緒記によれば
「お岩様が、夫 伊右衛門との折り合いが悪く
病身となられて、その後亡くなったのが、
寛永13年2月22日であり、以来田宮家ではいろいろ
「わざわい」が続き、菩提寺 妙行寺四代目 
日遵上人の法華経の功徳により、一切の因縁が取り除かれた。
この寺も当時は四谷にあったが、明治42年現在地に移転。
お岩様に塔婆を差し上げ、熱心に祈れば願い事成就する。」
(妙行寺由緒記)

このお寺を出て、左に進むと善養寺がある。

「大昔は上野山内にあって、元は東叡山寛永寺の末寺で
天台宗の寺院であった。
江戸時代は下谷の善養寺町、現在は台東区上野公園に移転した後
敷地が鉄道用地にかかるため、現在地に移転した。」
(豊島区教育委員会)
と案内にある。

なぜここに記すかというと、
ここに江戸中期に活躍した、陶工で絵師の尾形乾山の
お墓(東京都指定旧跡)とフランスのジュリオ・キューリー
(キューリー夫人の娘婿)の指導を受けた原子物理学者
湯浅年子のお墓がここにあるからである。

尾形乾山は、御承知の通り尾形光琳の実弟で、
「金の光琳・銀の乾山」と並び称された。
画法を兄に学び、陶芸は色絵陶器では、
右に出るものが無いと言われた名工の 
野々村仁清に感化を受け、高雅な作品を残している。

絵師・陶工として端正な作風で知られ、
いまだに沢山のファンがいることから、
焼き物の作品には、贋作が沢山横行していることでも
有名である。作品には「乾山深省」と署名がある。
(東京都教育委員会)

(尾形乾山のお墓)

一方 湯浅年子は
「第二次世界大戦勃発直後、30歳で単身渡仏し、
ジュリオ・キューリー夫妻のもとで研究を始めたものの、
戦争のため帰国を余儀なくされたが、国際的に活躍した
日本初の女性科学者。
人生の選択に迷う皆さんに勇気を与えます。是非ご覧下さい。

「パリに生きた科学者 湯浅年子」岩波ジュニア新書

男尊女卑の時代に、かかる日本人女性がいらっしゃったことに
敬意を表したい。