中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

関所の女改め(旧中山道番外記 22)

2010年10月04日 09時53分09秒 | 中山道番外記

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(東門から見た木曽福島の関所跡)
0019
(木曽福島の関所跡2)
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(西の関所入口門)

(「皇女和宮御下向御用日記留」を読んで)

中山道の木曽福島宿に関所があったのは良く知られている。
木曽福島を描いた広重の浮世絵には、
広重美術館の説明に次のように記してある。

(江戸と京のほぼ中間にあるこの木曽福島には、
東海道の箱根、荒井、中山道の碓氷、
と共に四大関所の一つに数えられている関所があった。
両側から山が迫る木曽川の断崖の上、
江戸方向から歩いて急坂を上り詰めた所にこの関所はある。
検問を終えて出てきた武家と飛脚が
これから向かう旅人とすれ違う場面が描かれている。
画面奥には、土下座をして今まさに検問を受けている旅人がいる。――下略)

Kiso161
(木曽海道69次之内 広重画「福し満」)

関所の通行は、男性は比較的簡単で手形があり、
発行者の確認が取れればOKであるが、
女性の場合は厄介である。
「入り鉄砲に出女」が取締りの最重要課題であるからだ。

そもそも昔は女性が旅をするのは珍しく、
せいぜい嫁に行くか
嫁ぎ先で親の危篤で実家に帰るときくらいなものであった。
それでも女の一人旅は無く、必ず男性が付き添っており、
先に付き添いの男性が関所にお伺いを立てて通行の許可を取ってから、
女性を伴って通行したものらしい。
それでもチェックはそれほど厳しくなく、
独身と言う触れ込みなのに「鉄漿(おはぐろ)」があるとか、
眉毛が無いとか、結婚しているのに振袖を着ているとか、
不審な点があるとチェックは厳しくなる。
また、女性が男装している疑いがあるときも厳しい。

027
(嫁入りの女手形)

関所には上番所と下番所があり、
審査は下番所で行われるが、
下番所の奥に窓なしの部屋があり、
疑わしき女性の場合は、
窓なしの部屋で下番所役人の妻か母親が、
役人に代わって身体検査を手探りで行う。

その窓の無い部屋にカミサンと入ってみたが、
異様な感じがした。

どのように手探りで検査したのか知らないが、
女性が男装してくるのをチェックするには、
胸元に手を差し入れるのか、
あるいは股間に手を差し入れて、
あるべきものがあるかないか探るのであろうか・・・

女性だと思って手を差し入れ男性のものが有ったとしたら・・・
チェック役が母親の場合はまだしも、
妻の場合はつい悲鳴が起こってしまうに違いない。
役柄とは言え、ご苦労なことである。(笑)

話は変わるが、
木曽福島の関所に女一人旅の手形が展示してあった。

「文久元年皇女和宮様の御通行に際し
人足に出ていた父親が藪原宿で病気になったので
娘が看病のため関所を通して欲しいという手形」である。

なんとも気の毒な話であるが、
最近読んだ「皇女和宮御下向御用日記留」
蕨宿本陣 岡田加兵衛が書き残した膨大な冊子には、

和宮通行に際し、
物を運ぶ人足に駆り出された百姓たちの中には、
食い物をろくに与えられず、
具合の悪くなった者たちがいることを書き残している。
手伝いをさせるのだから飯ぐらい食べさせたであろうに・・・

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(和宮お供の父親見舞の「女一人旅の手形」)

そんな一面があるのに、
食べ物については、
人足に与えるために炊き出した大量の赤飯が、
10日も経って酸っぱくなってきて、
糸を引くようになってきており(心配している)
などと他人事のように書いている。

こんなものを食べさせられているのだから堪ったものではない。
この頃の農民は荷物を運ぶ牛馬と同じように扱われていたのであろうか?

話がとんだ方向に行ってしまったが、

(皇女和宮の御通行は人数も多く警備もさることながら、
荷物運搬にも随分人手がかかったようである。
また建物の修復にも、細かな所まで指示して修復させておきながら、
大工の手間賃や材料費をなかなか支払わず、
皇女和宮通行の一年後に、業を煮やした名主たちが幕府に請求しているが、
一年も支払いを延ばしておいて、
事もあろうに、
支払い遅延で利息を付けると言うのなら理解できるが、
千両に付き五十両値切り倒している。)

こんなことが蕨宿本陣家 岡田加兵衛が書き残した
「皇女和宮御下向御用日記留」に記載されている。

幕府には、余ほどお金が無かったのであろうか・・・

江戸城明け渡しの折、金蔵(かねぐら)には一両も無かったという。
確かめたわけではないが、もっぱらの噂である。




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