中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

樋口一葉 (旧中山道を歩く 10)

2005年01月29日 20時36分02秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(樋口一葉)

本郷三丁目を過ぎてから、中山道は、また歴史の博物館に入る。



まず、本郷三丁目信号を渡った左側に交番が在り、
その裏手に本郷薬師がある。
「江戸御府内に病に倒れるもの数知れずでたため、
薬師さまに祈願してやっと治まったといわれる。

本郷夜店は、著名なり。連夜商人露天を張る。
薬師の縁日の夜は、ことに雑踏を極むるなり」
とある。

(本郷薬師)


(本郷薬師の提灯)


(薬師像)

現代の巣鴨の地蔵堂の縁日並であったのであろう。
(後の世に’04年頃の巣鴨の縁日の繁盛ぶりは
理解されないかもしれないが)

本郷薬師をあとに、すぐ東京大学の赤門が右手に見えてくる。
赤門前に信号があるが、その信号の左手に
(浄土宗 法真寺)石塔が見える。


(浄土宗 法真寺)

樋口一葉が幼少の頃住んでいた家と隣接するお寺である。
この年(’04年)、新札五千円のモデルとなった一葉は、
この家を「桜木の宿」呼んで懐かしんだ。

樋口一葉の「ゆく雲」の中に、
「寺内広々と桃桜いろいろ植わしたれば、此方の二階より
見下ろすに、雲はたなびく天上界に似て、腰ごろもの観音様
濡れ仏におわします。お肩のあたり、膝のあたり、
はらはらと花散りこぼれて....」


(念ずれば花ひらく」の地蔵)

(法真寺にある「念ずれば花ひらく」の
地蔵さまの微笑みがなんともいえない。)
文中の寺がこの浄土宗 法真寺で、濡れ仏は、
本堂横に安置されている。腰衣観世音でその前方に、
一葉塚の石碑がある。
 

(腰衣観世音と一葉塚)

一葉は4歳~9歳になる明治14年(1881年)までの五年間、
住んだ場所で、最も豊かで安定した時期といわれている。

24歳で短い生涯を閉じたが、
病床で書いた雑誌の中で
「桜木の宿」と懐かしんだ。
(文京区教育委員会)





本郷も「かねやす」までは江戸のうち(旧中山道を歩く 9)

2005年01月29日 10時04分17秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(筋違御門、湯島聖堂、神田明神、かねやす)


(神田明神の扁額)

中山道は国道17号としばらく同じ道である。

国道17号(中山道)へ戻って歩くと、神田駅のガードをくぐり、
やがて須田町交差点へ出る。


(須田町交差点の案内看板。左側の道を行く)

交差点はY字路になっており、ここで17号と旧中山道が分かれる。
国道17号は直進するが、旧中山道は、Y字路を左の方へ進む。

右側に交通博物館(今は大宮に移転)を見ながら進むと、
中央線のガードの赤レンガに突き当たる。
昌平橋の手前である。


(赤レンガ塀)

その赤レンガに「御成道」の由来を書いた
案内看板を見ることが出来る。
徳川将軍が上野寛永寺に墓参のために、
この道を通ったので御成道という。

(映画や芝居の殿様が出てくる場面で、
「殿様のおなり~」と小姓がいうと、
家臣一同が平伏する、あの「御成り」である。
将軍が通る道を御成り道という。
日光街道は、庶民は旅籠、
大名やその家臣は本陣脇本陣で宿泊した。
しかし将軍の道中は城に宿泊した。
そのため道路は別になった。その道を「御成道」といった。)

千代田区教育委員会の説明によれば、
「御成道、筋違外広小路(すじちがいそとひろこうじ)の
東より、上野広小路に至る道をいう。
筋違は筋違い御門のあった所で、現在の昌平橋の
下流50mのところ辺りに見附橋が、
架かっていました。
御成道の名は、将軍が上野寛永寺に墓参のため、
江戸城から神田橋(神田御門)を渡り、
この道を通っていったからです。
見付内の広場は八つ小路といい、筋違、昌平橋、
駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町(須田町)、
柳原の各口に通じており、江戸時代で最も賑やかな場所で、
明治時代まで続きました。
また、御成道の道筋には、武家屋敷が多くありました。
江戸時代筋違の北詰めに高砂屋があり
庭の松が評判であったと言います。
明治時代には御成道の京屋の大時計は人目を引き、
太太餅(だいだいもち)で売り出した
店もあったということです。」とある。


(昌平橋)

現在では、昌平橋の向こうは、電気街となっており、
賑やかさでは、昔に引けをとらない。

中央線の昌平橋ガードに沿って歩くと、
右側に昌平橋が見えてくる。
中央線ガードを右折し、昌平橋を渡ると、
総武線の鉄橋が見える。
総武線をくぐり昌平橋交差点を直進すると
国道17号であるが、旧中山道はここで左折し、
最初の道を右折し国道17号に合流する。

合流して左折するとすぐ左が湯島聖堂、
右に神田明神がある。
ここで湯島聖堂のトイレの案内が目に付くので、
用がある人はここで済ましておくことをお勧めする。


(湯島聖堂入り口)

入り口を入って、突き当たりに「楷の木」があり、
その右横に孔子像がある。
「楷の木」は孔子の墓所の前に植えられた木で、
葉が整然と並んでいるので、
書道の楷書の語源になったといわれる。
お墓がある中国の曲阜から、
種を持ち帰り苗をこの聖堂に植えられた。
生来雌雄異株である上、
花が咲くまで30年位かかるため、
わが国では種子を得ることは出来なかったが、
幸い数年前より数箇所で結実を見るにいたった。
貴重な木である。


(楷の木)


(孔子像)


(孔子廟)

湯島聖堂は、幕府の昌平坂学問所の跡であり、
学問の神様として孔子が祀られており、
木々がうっそうとしており、
厳かな雰囲気につつまれている。

神田明神は、平将門が祭られており、
江戸庶民には人気があったそうであるが、
今は、銭形平次の方が知られていて、人気が高い。


(神田明神)

神田明神、湯島聖堂の間の旧街道を進むと、
カレーライスで有名な「御茶ノ水小川軒」が右手に見える。
土日でなければ営業しているので、
ここで昼食というのも良い。カレーライスの
1600円は高いか、安いかは懐具合による。

やがて本郷に入り、本郷三丁目の交差点手前左側に、
「かねやす」がある。休日にはシャッターが下りており、
大きく「かねやす」と書いてあるから判りやすい。


(かねやす)

その壁に、「本郷もかねやすまでは江戸の内」と川柳の表示がある。

案内板によれば、
「兼安祐悦という口中医師(歯科医)が、
乳香散というは磨き粉を売り出し、評判になり、
客が多数集まり祭りのように賑わった。」
とある。(文京区教育委員会)

余談になるが、
NHKの「金曜時代劇 慶次郎縁側日記」
(2004年放映)北原亞以子著に
(本郷の「かねやす」までは瓦屋根が続いたが、
この先はわらぶき屋根が多く見られる。)とあるが、
この「かねやす」の史実をさらっと書き込み
江戸時代をうまく表現している。

享保15年大火があり、防災上本郷三丁目から
江戸城にかけて、土蔵造りを奨励し、
屋根は萱葺を禁じ瓦にすることを許可した。
江戸の町並みは、本郷までは瓦葺がつづき、
それからの中山道は板や茅葺の家が続いたという。
その境目が「かねやす」であった。そこで

「本郷もかねやすまでは江戸の内」と川柳が出来た。



なお、
「かねやす」は芝神明の兼安と本郷の兼安があり、
よくある元祖争いが起きて、
(本郷は仮名で、芝は漢字で表示)と、
奉行所は粋な判決をくだした。

さすが大岡越前守というところか。
(文京区教育委員会)





「中山道」と「中仙道」(旧中山道番外記)

2005年01月26日 16時19分37秒 | 中山道番外記


(中山道と中仙道)
古来より、中山道は中仙道と二つの表示がある。
これが「中山道」に決められたいきさつが記された資料を
蕨市歴史民族資料館で見つけた。

[「中山道と中仙道」江戸時代の出版物を見ていくと
「中山道」と記されたものと「中仙道」と記されたものがあります。
どちらが正しいでしょうか?
 正徳6年(1716)4月のお触書によると、
「只今までは「仙」之字書候得ども、向後は「山」の字書可申事」
(今までは「仙」の字を書いていたが、
今後は「山」の字を書くようにすること)とあり、
「中山道」と書くよう決められています。

また、同じ御触書に、奥州・日光・甲州道中ついて、
「これは海端を通り不申候間 海道とは申し間敷候」
(これは海の端を通らないから、海道とは申しません)
とあり、奥州・日光・甲州街道でなく、奥州・日光・甲州道中
と呼ぶのが正しいことがわかります。] とある。

東海道は海の端を歩くから東海道で、中山道は山の中を
歩くから中山道。とても解りやすい。

(宿場について)
[宿場は旅人の休泊のための旅籠や、大名・公家など身分の高い
人々の宿泊設備である本陣・脇本陣があった。
加えて問屋場、高札場が設けられていたのが標準のようだ。
また、宿場間の旅人と荷物を輸送する事務を執り行う
問屋・年寄り・帳付け・馬指し・人足指しなどの宿役人がいた。]

こうしたさまざまな人たちの生活に必要な商売屋も
軒を連ねて繁盛したといわれる。



十思公園  (旧中山道を歩く 8)

2005年01月22日 10時43分00秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(十思公園/じゅっしこうえん)


この公園は是非訪れたい。

中山道から少し離れるが、この江戸通りに沿って、
東へ進むと、昭和通にでる。
昭和通を渡って、さらに江戸通りをいくと、



「小伝馬町」の交差点に出るが、交差点を渡らずに、
左に折れたところの左側が、
「十思公園」と名づけられた公園になっている。

吉田松陰終焉の地の石碑があり、
公園の由来が書かれた案内板がある。

(松蔭終焉の地の石碑)

元「伝馬町牢屋敷跡」である。

その説明によれば、
「規模は広大で、面積2600坪あり、敷地は四方に
堀をめぐらし、獄舎は、揚座敷、揚屋、大牢、女郎部屋に
分かれ明暦三年(1657年)の収容囚人は130人あり、
安政の大獄(1859年)には吉田松陰ら90余名収容」
とある。


吉田松陰は、天保元年(1830年)萩で次男坊として生まれ、
名を寅次郎といった。
(男 寅次郎である。笑ってはいけない。
国民的アイドル、柴又のフーテンの寅と同じではない。)

佐久間象山に指示し、海外渡航を企て失敗、捕えられ下田の獄に。
後 伝馬町獄送りとなる。沢山の歌を残した。

高輪泉岳寺前で詠んだ一首、

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」

(こんなことをすれば、こうなることは判っていたが、
日本の将来を憂いて、日本男児が やむを得ずしたことだ。)
これはボクの勝手な訳だ。

六ヶ月間、伝馬町獄にあったが、国元萩で謹慎の身となり,
後の松下村塾での教育が生涯の偉業といえる。
塾生であった中から伊藤博文、山縣有朋、木戸孝允などは、
明治維新の大きな力となった。

後に安政の大獄に連座して、再び伝馬町獄に入牢。その時の歌。

「まち得たる時は今とて武蔵野よいさましくも鳴くくつわ虫かな」

その後、父、叔父、兄に永の訣れの文を送った時の一首。

「親思う心に勝る親心今日のおとずれなんと聞くらん」

処刑されるに当たり、

「今我が国のために死す。死して君親に背かず。
悠々たり天地のこと、鑑照明神に在り」と、

同囚の士に別れを告げた。

松蔭は辞世の歌

「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」と

詠んで、従容として刑についたといわれる。
行年30歳。明治22年2月11日正四位を贈位された。

偉人とはかく在るものかと感心させられる。

公園の中に鐘楼がある。

(時の鐘)

この鐘は、江戸城内で時を知らせたが、音が耳障りのため、
太鼓に替え、鐘は、日本橋石町に鐘楼堂を造って収めた。
三度にわたる江戸の大火で破損し、
宝永八年に鋳造されたものが、今に残る。

(余談であるが、鐘に代わった太鼓の音の「どん」が
土曜日の「はんどん」の語源になったという説もある。)

その日本橋石町にあった、時を知らせた鐘。
時の鐘に合わせ、斬首の刑が行われる場合は、
鐘を鳴らすのを故意に遅らせたという。
そんな粋な計らいは、人情味たっぷりな
江戸の下町人情に目頭が熱くなる。

(処刑場跡の石碑)
もし、このことを罪人が、処刑前に聞いていたら、
松蔭のように、従容として刑に服したに違いない。

牢屋敷で亡くなった人たちを弔うためであろう、
すぐ道路を隔てたところに、高野山別院と
身延別院が並んで建っている。
高野山別院の大安楽寺に、伝馬町処刑場跡の碑が
残されている。


(高野山別院)


(身延山別院)



日本橋界隈:十軒店と長崎屋(旧中山道を歩く 7)

2005年01月21日 10時19分05秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(日本橋界隈:十軒店と長崎屋)

海外で日本語ガイドさんの話す日本語のアクセントや言葉遣いで、
この人は大阪、この人は京都で、日本語を学んだなと判る。
言葉遣いによって、教わった場所や教えた先生の人柄なども、
自然と思い浮かんでくる。

東京の下町で学んだガイドさんも、言葉使いで判る。
「いらっしゃいまし」「しらがな(ひらがな)」
「しなびた町(ひなびた町)」などなど・・・を聞いていると、

日本語を教えた方は「和服姿で正座を崩さず、
背筋をピンと伸ばし、しかも粋な教師」
そんな姿が想いだされる。

印半纏、お祭、神輿、神社、鳥居、狛犬、なども日本的で、
こんな話になると、たかだか一二週間の外国の旅なのに、
日本が急に恋しくなるのは不思議だ。

日本橋にはそうした古き良き日本の姿を町中に沢山残している。
「日本橋」の橋だけで一時間以上費やした。


(東京市道路原票)

日本橋界隈には「老舗」が多く目に付く。
お店の名前を書くのもはばかられるが、思い切って書くことにする。

創業元禄3年(1690)の海苔の「山本山」、
かつぶしの「にんべん」は創業元禄12年(1699)、
創業寛政四年(1792)刃物の「木屋」、
飴の「栄太楼本舗」は安政4年(1857)
忘れてならないのが昔は「越後屋」、今「三越」は330年の歴史を持つ。
果物の「千疋屋」など、そのほかにも沢山の老舗が並ぶ。


(刃物の木屋)


(何屋さんか知らないが如何にも由緒ありそう)


(にんべんの看板)

また下町情緒あふれる人情、歯切れのよい言葉が飛び交い、
人々はきびきびと活動し、きっぷが自慢だ。
そんな下町を代表するかのような「日本橋」と書いた
印半纏を着た人たちを見かけると、
何かホットするのは、やはり日本人だからであろうか?


(日本橋の標半纏)

老舗デパートに沿って左折、貨幣博物館の先に橋が見える。

つまり日本橋から日本橋川の一つ上流にある常盤橋である。
橋を渡ると城壁があり、これが昔江戸城の、常盤橋御門の跡である。
説明によれば、奥州道に通じるこの御門は、
江戸城外郭の正門として、敵の侵入を防ぎ、味方の攻撃を
容易にするため、大きな切石を積み上げた「コ」の字型の
枡形門である。


(常盤橋門)

江戸城警備の関係で道がコの字型に作られており、
真っすぐ入ることはできない。
常盤橋門を突破して、江戸城が攻撃されないような
構造になっていたと言う。

今は公園になっているその常盤橋御門に
「青淵 渋沢栄一」の銅像がある。
渋沢栄一については、その出身地の深谷宿で述べることにする。


(渋沢栄一の像)

中山道に戻り進むと、次の信号から、
江戸通りまでの4~50mの間の短い通りに、

(昔は桃の節句や端午の節句の雛人形を売るために、
江戸時代の始めには十軒の仮店があって人形を売ったという。
それでこの通りを「十軒店」といった。
江戸時代には、三月と五月の節句や12月歳暮市には、
内裏雛、禿(かむろ)人形、飾り道具、甲(かぶと)人形、
鯉のぼり、破魔弓、手まり、羽子板など、
季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べた。)
(中央区教育委員会)

しかし今はその跡形も無く、ただ上記の説明板があるだけ。

(十軒店の図)

先の信号、江戸通りの交叉点を渡り、右に折れると、
すぐ左側、JR新日本橋駅の出口に「長崎屋跡」の
史跡プレートが壁に架かっている。

このプレートによれば、
「江戸時代、ここに長崎屋という薬種屋があり、
長崎に駐在したオランダ商館長の江戸登城、
将軍拝謁の際の、定宿になった。
鎖国政策のため外国貿易を独占したオランダは、
幕府に謝意を表するため献上品を携えて、将軍に拝謁。
長崎から随行員に通訳、学者らが商館長に同行した。

随行員の中には、医者のツンベルクやシーボルトなどの
一流医学者がいたので、蘭学に興味を持つ桂川甫周や
平賀源内をはじめとする日本人医者、蘭学者が、
この長崎屋を訪問し、外国文化の交流の場として
有名になった。」

案内プレートには、葛飾北斎が描く長崎屋の繁盛振りが、
浮世絵になって載っている。

(長崎屋の浮世絵)

中山道からは道草になるが、そのまま直進し昭和通を横切ると
小伝馬町の信号がある。渡らないで左折すると
左手に小公園が見えるので、ぜひ寄って欲しい。
明治時代まであった伝馬町牢屋敷跡

十思公園がある。





日本橋界隈:貨幣博物館 (旧中山道を歩く 6)

2005年01月17日 09時48分33秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26

日本橋を後にして中山道を歩き始める。
入り口にライオン像のある老舗のデパートを横目に見て、

(老舗デパートのライオン)

次の路地を左折するとすぐ右側に日本銀行がある。
左側には日本銀行経営というのも可笑しいが、
貨幣博物館がある。

入り口まで階段を三段上がり、
すこし年季の入った細かい鉄格子の扉は重厚で、
入るにはすこし勇気が必要である。
しかも、両脇に警察官に似た警備員がいる。
でも、大きく入場無料という文字が目に入ったので、
思い切って入ることにした。

(経営者は日本銀行で、お金には執着しない。
無料で当然と勝手に決め込んだ。)

警備員に頭を下げ、胸を張って入ろうとすると、
扉の両側に「扉に手を触れないで下さい」と看板がある。

(いくら日本銀行だからといって、
鉄の扉を破って強盗に入る訳じゃあるまいし、
この看板は行き過ぎ)と思ったが、

手を触れないで
どうやってドアーを開けるのだろうと考えながら
恐る恐る扉の前に立つと、
ドアーがゆっくりゆっくり開いた。
何のことはない自動ドアーだった。

一歩、中に進むと同じようなドアーがもう一つある。
御丁寧に「扉には手を触れないでください」の看板が
また立っている。ドアーは同じように自動で開く。
「扉には手を触れないでください」でなく、
「自動ドアー」と何処かに小さく書けばことは足りる。

中に入って驚いた。

鮮やかな真紅のカーペットが目に入ったからだ。
一歩足を踏み出すのをためらった。

ボクは知っている、
外国の要人が来日して、
首相が案内し、閲兵式をするとき、
あるいは外国の元首が国賓として招かれ、
飛行機のタラップを降りて歩き始める時、
そこには必ずレッドカーペットが敷かれていることを。

辞書にある、
Red carpet=
(貴賓などを迎えるための)赤じゅうたん
丁重なもてなし、手厚くもてなす意味とある。

ままよ、と足を一歩踏み出した。
こんなこともあろうかと、
今日は出掛けに靴もピカピカに磨いたし、
下町の粋な小父さん達に失礼があってはならないと、
イギリス王室御用達のトレンチコートを着てきたし、
同じメーカーのカラーシャツに、
胸と袖口に四つの金ボタンが付いた
ヨーロッピアン・タキシードと言われるジャケットも着てきた。

ここにも警備員がいる。

いかにも物々しく厳重であるが、日本銀行でもあるし、
これくらい厳重にしておけば
(中の展示物の重要さを判って頂ける)
と思っているのだろう。

警備員が「こちらに記帳を」と言って手招きをする。
これまた重々しい年代物と思しき机の前で紙を手渡される。
(展示してある貨幣の一部でも盗られた時の用心?)
で止むを得ないかと思ったら、
記入するのは性別、住所の都道府県名と個人か団体かの区別だけ。

「展示は二階です」の案内で階段を上る。
この間もレッドカーペットが敷かれており、
最上級のおもてなしを意味している。

博物館のお客様はボクと先客の40歳がらみの紳士だけで
静まり返っている。
展示物は、貨幣の歴史で人間が貨幣を必要とした
起源から始まり、世界の貨幣の移り変わりから、
日本の貨幣の変遷が実物で展示されている。
現存する硬貨で、世界一大きいといわれる大判は
小判と比べると本当に大きい。

(江戸時代一両で買えたもの)

お金はその昔は不要で、物々交換で取引されていた。
それが物と物の間で均衡が取れなくなり、
物に代わるための物として、お金が出来た。

お代としての品物であるから、希少で誰もが欲しがる
貴重品と言うことになる。

最初にお金に変わるものとして、貝殻が中国で発見された。
なぜ貝殻かと思ったが、考えてみると中国は広く、
昔の都は大陸の内深いところにあったので、
海にある貝殻が珍重されたと容易にうなずける。
小さな貝から大きな貝に、
価値としては上がって行ったであろう。

だから、お金に関わる漢字には、貝の文字が入っている。
売、買、寶、財、費、貯、etc.

(お金にかかわる文字と貝殻)

ついで、新札についての展示。
一万円、五千円、千円の登場人物について。

最後、出口の直前に、一億円が束になってケースの中にあり、
両サイドに手が入り、10センチほど持ち上げる体験が
出来るようになっている。

一億円を持っていかれると困るからだろうか?
ここにも警備員がいる。

両側に手を入れて一億円を持ち上げてみる。
説明によれば、十キロあるそうだ。
ずしりと重い。一億円を一度は手にしたいと、
庶民ならばそんな夢を誰もが持っているのであろう。
そんな気持ちをくすぐらせる展示であった。
警備員とレッドカーペットで重々しくお迎えするのは、
一億円のお客様の気持ちを満喫させる演出であった。

コートを抱えて、出口に向かった。

貨幣博物館に一度は訪ねてみたいものだ。





高札場跡とさらし場跡と魚河岸跡 (旧中山道を歩く 5)

2005年01月08日 11時44分14秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26


日本橋を品川方向にもどって、右側に高札場跡がある。


「昔の高札場」

今は、高札場の形だけは残しているが、
書かれた内容は、日本橋の由来の碑になっている。

高札場が出来た頃は、道徳的な(?)
「君に忠に、親に孝に...」
などの教訓が書かれていたそうであるが、
評判が良くないので取りやめになったという。

道路の反対側は、さらし場になっていたというから、
不釣合いで、当然のことと言えるかもしれない。

道路を渡って反対側、橋の南たもと、
昔は罪人を三日間さらしものにした、
「さらし場跡」
主人殺し、女犯僧、心中者が主で、朝八時から
夕方16時まで、三日間晒され、その後非人とされた。

非人の歴史は古く、一部終戦の昭和20年まで続いていた。
ボクが子供の頃まで差別はあって、
その子供と遊んではならないと叱られたものだ。
非人は屠殺、寺社掃除、などに従事した賤民のことを言う。

戦後新憲法の下、当たり前のことだが、
人はすべて平等となり、差別は無くなった。

話を戻すと、その「さらし場跡」は、
現在は交番があり、その前には
しだれ桜が見事に咲いていた。
(さらし場跡の桜と交番)

観光客はお巡さんに路を訊いたり、
記念写真を撮ったりしていた。

橋を渡って、つまり中山道を進む右側に、
竜宮城の乙姫をかたどった石像があり、その前に
「日本橋魚河岸記念碑」がある。

今は築地に移転し、築地の魚河岸として、
首都圏に大量の魚を供給しているが、
元は魚河岸がここにあって、将軍に収めた魚の余りを、
ここで一般庶民に売りさばいた場所だそうだ。

(日本橋魚河岸記念碑)


(写真左端の橋のたもとに乙姫像はある)

講談などで有名な「大久保彦左衛門と一心太助」の
話に出てくる魚屋、天秤棒をかついだ一心太助も、
ここから魚を仕入れて売り歩いたのであろうか?
そんなことを思うと、なんとなく微笑ましく思える、
魚河岸跡の乙姫像である。





日本橋道路原標 (旧中山道を歩く 4)

2005年01月08日 10時56分37秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(日本橋 4)
(日本橋の文字)

第一日目。2004年3月27日(土)晴れ

日本橋界隈は、史跡が豊富にある。
出発点の日本橋。
そこはミニ博物館のようだ。


(東京市道路元標)

「日本橋がはじめて架けられたのは、
徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603年)と伝えられる。
幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋と定め、
日本橋川と交差する点として、
重要な江戸経済の中心となっていたことは、
橋詰めに、高札場、魚河岸があったことでもうかがえます。」
東京都中央区教育委員会の案内にもある。

現在の日本橋の橋は、明治44年(1911)に創設された
ルネッサンス様式のアーチ型石橋。
日本橋名は十五代将軍 徳川慶喜の筆によるもので、
青銅の照明灯装飾品のキリンは東京市の繁栄を、
獅子は守護を表現しているとのこと。

(ルネッサンス様式のアーチ橋)


(キリン)

その日本橋のたもと。

品川方面から来て、橋を渡って左側に、
(橋の北、道路の東側)
「東京市道路元標」と「日本国道路元標」のレプリカがある。
真鍮で造られた本物は橋の中央、道路の真ん中にある。
(日本国道路元標のレプリカ)


(道路の中央にある本物の日本国道路元標)

「日本国道路元標」(レプリカ)の脇に日本橋を起点とする、
各地への距離が刻まれた石碑がある。

「日本国道路元標」を中心に西側に
横浜市    29km
甲府市   131km
名古屋市  370km
京都市   503km
大阪市   550km
下関市  1076km
鹿児島市 1469km



「日本国道路元標」を中心に東側に、
千葉市     37km
宇都宮市   107km
水戸市    118km
新潟市    344km
仙台市    350km
青森市    736km
札幌市   1156km  



二つの里程標がある。
この二つの里程標を見て、不思議に思うのは、
東方面は、本州を離れて海の向こうの札幌市までの
里程標はあるのに、
西方面については、海の向こうの那覇市までの
里程標が無いことである。
また、九州、北海道までの里程はあるのに、
四国の松山が無いのはどうしてだろうか?

この里程標が沖縄返還前に造られたから、
那覇市までの里程が刻まれていないのだろうか?
あるいは、JRの線路がつながっている街までの、
距離だけを表示したのだろうか?

そんな疑問が湧いた。




お江戸日本橋(旧中山道を歩く 3)

2005年01月08日 10時43分09秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(お江戸日本橋3)

(日本橋の文字は慶喜揮毫か)

童謡 「一寸法師」は次のような歌詞になっている。

〽指に足りない一寸法師
 小さな体に 大きな望み
 お椀の舟に 箸の櫂(かい)
 京へはるばる 上り行く〽

最後の一句「京へはるばる 上り行く」とある。

現在は新幹線などすべて、東京に向かって上りになる。
それは天皇が東京にいらっしゃるからだ。

しかし、五街道が出来た頃は天皇が京都にいらっしゃったので
「京へ上る」となる。この違いだけ頭に入れておきたい。

日本橋を後に、徒歩で京を目指すことにした。
途中、界隈に残る文明開化の足跡を訪ね、
往時の偉人を偲びながら、可能な限り史跡も訪ね、
写真もふんだんに撮りながら、できるだけ当時の様子を
伝えようと、盛り沢山に欲張って歩こうと思っている。


(お江戸日本橋の浮世絵)

♪お江戸日本橋 七つ立ち 初のぼり
行列そろえて アレワイサノサ
コチャ 高輪(たかなわ)夜明けて
提灯けす コチャエ コチャエ♪

とあるように、
昔の旅人は朝四時(歌の文句の/七つ立ち)に出発して、
第一番の宿場 高輪(品川)で夜明けを迎えた。
旅人は一日に約40キロの距離を歩いた。
しかし、始めに書いたように、ボクは史跡を訪ねながら
歩くので、そんなに遠くまでは歩けない。

中山道の第一の宿場 板橋に到着するのに
4日が必要であった。
真っすぐ歩けば十キロそこそこなのに、
ボクは優に60キロを超えていた。