中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

千住宿(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 15)

2013年07月10日 19時40分02秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(千住宿歴史プチテラス入り口と左手の芭蕉句碑)


(千住宿)
京成線のガードをくぐって、すぐ左手に、
千住宿プチテラスとして無料貸し出しギャラリーとして、
江戸時代の蔵を貸し出している。
訪ねた時は門が閉まっていたが、以前訪ねた時は、
ギャラリーが開いており、展示品の数々を見ることができた。
入り口には、やっちゃば跡地であることが解かる案内板があり、

門の左脇に芭蕉句碑があり、

・鮎の子の白魚送る別哉  芭蕉

と刻まれている。江戸を出るとき、送りの人に 
詠んだ句とされる。

道路の反対側には、やっちゃ場の屋号を示す、

元果物専門問屋 カネカ 水重、
元青物問屋   ?   伊勢屋
元果物専門問屋 カネ宗 水宗、

など、往時を物語る屋号が掛かっている。
(屋号 水重の名札)

(屋号 伊勢屋)


その先の交叉点に千住中町商店街のアーケードが見える。
今まで歩いてきた通りが千住中町商店街で,
見えるアーケードは、千住中町商店街ここまでをしるすアーケードである。
(千住仲町商店街のアーケード)


信号を渡ると、(HONCHO CENTER)のアーケードがあり、
信号手前の左右に一里塚があったところであるが、
今は右手の植え込みに一里塚跡の碑があり、
左手には高札場があったところで、
これまた高札場跡の碑がひっそりと建っているだけだ。

(Honcho Centerのアーケードと一里塚跡(右下)の碑)

(一里塚跡の碑)

(千住高札場跡の碑)


しかも旧日光街道沿いにあるのではなく、交差する左右の道に建てられている。
この一里塚は日本橋から二番目の一里塚である。
徳川幕府は、五街道を設置した時、一里ごとに塚を築かせ、
塚には榎を植えさせ、旅人に旅程を知らせると共に、
日陰を作って休憩場所とした。

高札場は、宿場の入り口に建てられていて、
お上(徳川幕府)からのお達しや宿場の決まり事などが書かれており、
旅人は笠を取り、必ずこれを読んで通った。
この高札場は千住宿の江戸側に建てられたものであろう。

信号を渡ると、ここから本来の千住宿へ入っていく。
信号を渡って左手に立派な構えの源長寺がある。
その先、同じく左手に、千住宿の問屋場跡、貫目改め所跡があって、
広場になっている。
旅をする大名の荷物は、問屋を通じて宿場から宿場へと受け継がれていくが、
荷物を運ぶ人足や馬に運ばせる重量を、人足、馬ごとに定められており、
料金も、人足一人いくら、馬一匹いくらと決められていた。
大名の参勤交代には、諸藩にとってかなりな経費が係り、
家来はやりくりに手を焼いていた事情があり、
荷駄の定量を無理矢理増やす輩がいたので、
これを食い止めるために、重量を改める場所があった。
それを貫目改め所といった。
(千住宿問屋場跡と貫目改め所後の碑)


千住宿問屋場跡と貫目改め所跡の碑のうしろは、広場になっており、
右手に問屋場の建物、正面に貫目改め所の建物があったようで、
その建物跡が地面に記されている。
広場中央は荷捌き所であったらしい。
(問屋場跡)

(貫目改め所跡)

(荷捌き所跡)


そもそも参勤交代は、
各藩の財政がぎりぎり賄える程度に消費させるよう、
徳川幕府が考えたものであった。
参勤交代でお金を使い果たさせて、余分な金銭を蓄えさせない仕組みであった。
余計なお金が出来ると、藩の戦力増強につながり、
徳川家に謀反を計画する余裕を持ってしまうからである。

この貫目改め所は、街道の分岐になる宿場に設けられていた。
千住宿では、日光街道と水戸街道の別れ道があった。
また宇都宮宿にも貫目改め所があったが、
ここは奥州街道との分岐である。
中山道では、板橋宿に貫目改め所はあり、ここからは川越街道が分岐している。
中山道の洗馬宿にも貫目改め所があったが、
この宿場では「北国往還、善光寺道」に分岐している。
と言うように貫目改め所は設置されていた。

北千住と言う町は、もと千住宿があった所為かどうか解からないが、
大変繁華で人通りも多く、商店も盛んで活気付いている。
旧日光街道千住宿を進むと、
道路をまたいで、(千住ほんちょう商店街)の、
大きなアーケードが目に入る。
その右手にブルーの建物に白地で大きく(TOPOSトポス)と書いた、
スーパーマーケットがある。

(本町商店街のアーケードとトポスのスーパー)


このアーケードとスーパーの角を右折すると足立都税事務所があり、
都税事務所の植え込みに、「森鴎外旧居橘井堂(きっせいどう)跡」の碑がある。
森鴎外の父親が医者をしていた場所で、
鴎外が東京帝国大学卒業後19歳で医師として医療活動をしていた場所である。
19歳は今では大学二年生の年齢である。
この年令で東京大学医学部を卒業し、医師であったと言うから、
余程優秀な人であったと思われる。

ちなみに現在の医師は6年かけて大学医学部卒業後、
国家試験合格から2年研修医(実務経験を積んで)をして一人前の医師になる。
従って、順調に行っても26歳で一人前の医師になれる。

(足立都税事務所)

(森鴎外旧居橘井堂跡の碑)




千住大橋と矢立初めの地(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 14)

2013年07月07日 19時36分00秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(千住大橋)
JR南千住駅を出て、左突き当りが、小塚原回向院でその前の道路が、
旧日光街道である。
道路を進むと、突き当たりになり、二階を高速道路が走っている。
今や国道4号線日光街道である。
正面は交番で、その背後に神社らしき木が生えており、
回りは石垣で囲まれている。
(JR南千住駅)
(旧日光街道の現在)
(4号線に面した交番)

石垣に沿って右に進むと提灯が見え、
「素盞雄(すさのお)神社」と書かれている。
(この神社は、荒川区内で最も広い氏子域を持つ鎮守です。
――中略――
千住は、松尾芭蕉が「奥の細道」旅立ちの地として有名ですが、
芭蕉が矢立初めとして詠んだ
「ゆく春や鳥鳴き魚の目は泪」の句を刻んだ句碑があります。
江戸時代に、南北の千住宿の文人たちによって建てられたものです。)
(荒川区産業経済部 観光振興課、足立区産業経済部 観光交流課)
とあります。

どうして荒川区と足立区が共同で出しているかと言うと、
千住大橋を挟んで、芭蕉の奥の細道 矢立はじめの地が、
双方にあるからです。

荒川区は「素盞雄(すさのお)神社」を矢立はじめの地としているし、
足立区は千住大橋を渡った左側の大橋公園を、
矢立はじめの地としているからです。

芭蕉は深川から小名木川を船に乗って、千住まで来た。
上陸したのは、千住大橋の荒川区側だったのか、
あるいは足立区側であったのか何処にも記録はない。
それで荒川区は荒川区側に上陸したとし、
足立区では足立区側に上陸したとしている。

ボクが考えるに、もともと前途三千里の奥州街道を行くことになるのだから、
千住宿のある足立区側に降り立ったものと思われる。
わざわざ荒川区側に降りて、千住大橋を渡って千住宿に入るとは、
到底考えられないからだ。
しかし、「素盞雄(すさのお)神社」にある芭蕉句碑
「ゆく春や 鳥啼き魚の目に泪」の句碑は、
江戸時代に建てられた事からすると、
荒川区側に上陸したのかもしれない。
どうも解からない。

(すさのお神社の鳥居と提灯)

鳥居をくぐって「素盞雄(すさのお)神社」へ入ると、
赤い日傘が目に入る。
手前に千住大橋の杭があり、その先に小さな流れがあって、
千住大橋で隅田川を渡るかたちで、その奥に芭蕉句碑がある。

・行く春や 鳥啼き魚の目に泪   はせお翁

そしてこの句碑の外側に、
(「おくの細道」の「千住といふ所より」から
「行く春や」の句までを刻し、亡友単兆子、翁の小影をうつし、
また我をして、その句を記さしむ。鵬斉老人書)の芭蕉の碑文があるが、
碑陰には、文政三年とあるから1820年に建てられたものである。
(すさのを神社内の芭蕉句碑)
(荒川区が芭蕉のの矢立始めの地となる証拠の句碑)

(芭蕉の碑文)

さて、一方で千住大橋を渡った左手にある大橋公園に、
「奥の細道 矢立初めの地」の石碑があり、
ここは足立区橋戸町です。

千住大橋を挟んで南北のどちらも「矢立初めの地」を譲らぬ構えです。
荒川区、足立区共に「芭蕉 矢立はじめの地」は、
我が方が正しいと言っているのです。
しかし、小冊子は仲良く荒川区、足立区共同で作成していますのも、
このような事情があるからなのでしょう。
隅田川の南側(荒川区)に上陸したのか、
隅田川の北側(足立区)に上陸したのか、
今となっては誰にも判らないようです。

千住大橋を渡ると、橋戸公園が左手にあり、
「奥の細道 矢立初めの地」の大きな石碑があります。
少し奥に目をやると、
「史跡 奥の細道 矢立初めの碑」として
(千住と言う所にて舟を上がれば)から始まり
(後かげのみゆる迄はと見送るなるべし)までの
おくの細道の一節が刻まれている石碑がある。
(千住大橋を渡ると足立区)
(足立区の大橋公園にある「矢立初め地」の石碑)
(公園内にある矢立初めの碑)

公園の奥に入り、隅田川の川べりに出ると、
護岸工事の壁に、
芭蕉と曾良の旅姿と
「奥の細道 旅立ちの地」として、
「千住と云所にて、舟をあがれば、前途三千里のおもい・・・」
が記されている。
(隅田川護岸壁の芭蕉旅立ちの地)

橋戸公園を出て、千住大橋を下れば、最初の信号に出る。
広い信号で、国道4号線は直進、
旧日光街道は右側の一方通行出口の標識のある所、
今丁度トラックが出てくるところを入っていきます。
入り口右手に「千住宿 奥の細道」の大看板があり、
手前に芭蕉翁の旅姿像があります。
芭蕉像の前には「日光道中 千住宿」の石碑が建っています。
左へ行けば「草加」と刻んであります。
昔から「そうか(草加)こしがや(越谷)千住の先」と言う言葉があるから、
どうせなら「草加越谷この先」とでも入れておけば、
面白い道標になったように思う。

(千住大橋を渡った最初の信号、旧日光街道は右側のトラックのいる所を入って行く)
(「千住宿 奥の細道」の大看板)
(芭蕉像と道標千住宿)

日光・奥州街道の第一の宿場 千住宿に入って行く。



南千住、小塚原刑場と小塚原回向院(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 13)

2013年07月03日 16時51分03秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(言問橋西の信号、靴屋のビルの左へ行くのが吉野通り)


(南千住の小塚原刑場と小塚原回向院)
(言問橋西)の信号を斜め左に入っていくのが旧日光街道である。
今は吉野通りといっている。
以前は山谷通りと言ったらしいが、
「山谷」=「ドヤ街」のイメージを払拭したかったのか、
吉野通りに変った。
吉野通りを進むと浅草高校前の信号に出て、
その両脇が山谷掘公園の吉野橋になっていることは、
(旧日光・奥州道中番外記 5)に書いた。
(吉野橋の跡)

(旧日光街道にある浅草高校前の信号)

この通り(吉野通り)は、その昔山谷通りといってドヤ街以外に、
旧日光街道として目に付くものは無い。

次の信号は(東浅草交番前)で、信号角に交番がある。
台東区のお巡りさんがいる。
お巡りさんに「泪橋(なみだばし)」はまだ先ですか」と訪ねる。
「まだ大分ありますよ」とご親切。
「ところでどうして泪橋というのでしょうね。」というと、
「明治通りは以前、川だったのですよ」との答え。
何年も東京に住んでいるのに、東京について殆んど知らないボクは、
明治通りが元は川であったというのを初めて聞いた。
明治通りはかっては思川という小さな川があり、
泪橋はそこに架かっていたという。
小塚原刑場に引かれる罪人とここでお別れした家族は、
この橋で涙したらしい。いや、家族でなく罪人の方かも知れない。
それで泪橋という。

(東浅草交番前の信号)

泪橋はまた別の意味で有名である。
漫画「あしたのジョー」で、ボクサーのジョーが
この泪橋からドヤ街のどん底を抜け出すという設定である。
ボクシングで世界一になる、サクセスストーリーに、
ファンは夢中になった。そしてアニメ映画にもなった。
その「泪橋」である。

次に東浅草二丁目の信号を過ぎ、
表通りは、何の変哲も無い通りであるが、
左右に一本はいると、
いわゆるドヤ街の象徴の簡易宿泊所があるはず。
あるはずと書いたのは、元ドヤ街を東京の名所?
いえいえ地元の人は恥部と思っているはずだからだ。
最近、表通りにコンクリートつくりのビルが出来るようになって来た。
それらは外国人のバックパッカーが宿泊する超格安宿泊所になっている。

歩いていると、歩道上のガードレールにもたれかかった、
数人の外国人女性が、ボクに言わせればフランス人形のような恰好をした、
女性がたむろしている。

(東浅草二丁目の信号)


その次の信号で「泪橋」の信号になる。
明治通りが川であったとすると、旧日光街道はここを橋で渡ったことになる。
「泪橋」を渡ると荒川区に入り、台東区とはお別れである。

JR常磐線と地下鉄東京メトロの南千住駅になる。
地下鉄といっても南千住駅は二階にある。
線路を渡るには、自動車は立体交差で地下にもぐっているし、
歩行者はエレベーターに乗って歩道橋で線路を越える。
JR常磐線の線路を越えた所にもう一台のエレベーターがあって、
これで地上に降り立つと、道路の向うの右手にJR南千住駅が見える。
(泪橋の信号)



(泪橋の信号2)



(泪橋の信号3 明治通りでフランス人形のような恰好の外国人が見える)


左手は、小塚原刑場跡の延命院と小塚原回向院が並んで建っている。
最初に、刑場跡の延命寺を訪ねる。
(ここは品川の鈴が森刑場と並ぶ江戸時代の刑場で、
磔(はりつけ)・斬首などが執行されていました。
「小塚原の首切り地蔵」が、江戸時代の刑死者をはじめとする、
無縁の霊を幾つも静かに見守ってきました。)(荒川区観光振興課)とある。
大きな首切り地蔵尊が鎮座している。
先の東北大震災の折には、石で出来た地蔵尊の腕が落ちて、
修復に大層な費用がかかったようだ。

(首きり地蔵がある延命寺)

(小塚原の首切り地蔵)

(震災で落ちた手の修復に寄付を集める看板)

(修復された地蔵尊)

また小塚原回向院は、墨田区の本所回向院の別院として出来たが、
今は回向院として独立している。
(吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らの幕末の志士の墓や、
ねずみ小僧次郎吉・片岡直次郎・高橋お伝らのお墓があります。
また杉田玄白や前野良沢らが、ここでの刑死者の解剖見学をきっかけに、
「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「解体新書」を表したことから、
近代医学発祥の地として「観臓記念碑」建てられている。)(荒川区観光振興課)

ねずみ小僧次郎吉、高橋お伝のお墓は、両国の回向院にもあった。
小塚原の回向院は両国の回向院の別院であったが、
今は独立して小塚原回向院となったようだが、兄弟寺院なのであろう。
(観臓記念碑)


(小塚原回向院)


また、回向院入り口には、吉展(よしのぶ)地蔵尊が安置されている。
吉展の字を見ると、思い出す事件がある。
(時の売れっ子芸人の息子が誘拐された事件で、
誘拐された子供を生きたまま奪取する手法に、
警察の手違いがあり、
子供は殺される、身代金は取られるという、
惨憺たる事件があった。
その時の子供の名が「吉展ちゃん」であった。)
その吉展ちゃんを悼んで建てられた地蔵のように思われる。
今後かかることの無いよう、冥福を祈って手を合わせて通り過ぎた。

旧日光街道が目の前を通っており、
道路標識に日光街道直進の案内がある。
(吉展ちゃん地蔵尊)

(日光街道直進の案内看板)