中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

江戸時代の浮世絵師 広重も休憩した甚平坂(旧中山道を歩く 221)

2010年12月27日 10時30分29秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(中山道 恵那市に入る境界の案内看板)

(大井宿)
茄子川村の御小休所跡を過ぎて古い家並みの間を進み、田んぼの中に
左に大きな中山道の石碑、右に恵那市の案内看板の間を抜けて行く。

ここから恵那市に入っていく。
道路は「広久手坂」と言われて、
登り坂で右手に馬頭観音が置かれ旅人の安全を祈願している。
進むと左手に大きなヒノキの木がたっている。
これは中山道大井宿岡瀬沢の社宮司(しゃぐじ)です。
中山道の南側10mで地目原野29平方㎡が社宮司です。
信州の諏訪が元になっている土地の神の信仰であり、
木の神とされます。


(広久手坂)


(馬頭観音)


(社宮司)


(岡瀬沢の常夜灯)


(甚平坂ポケットパーク)


(ポケットパーク内の旧中山道)


(ポケットパーク内の旧中山道案内)


(根津神社入口の階段)


(階段上から見て)

その先は広い道路と交差する。
交差点の先左側に岡瀬沢の常夜灯がある。
その先数百mで甚平坂になり、
甚平坂ポケットパークがある。

甚平坂は、鎌倉時代の根津甚平の活躍による名である。
岐阜県によれば、
(むかし信濃の国の桔梗が原に八重羽のキジという化け鳥が居た。
口ばしは槍のようにとがり、羽根は刀のように鋭く、
羽風に当ると災いが起きると言い、
里人や旅人の内で命を奪われる人が多かった。
困った鎌倉幕府は根津甚平に化け鳥退治を命じた。
甚平は馬に乗り、犬と鷹を連れ、
多くの家臣と息子をひきつれてキジを追った。
キジは羽音高く飛び立って西の空に姿を消したが、
数日の後にこの坂に追い詰めた。
しかし馬はここで倒れ、
犬と鷹はなおも追い続けたが、犬は日吉(現瑞浪市)で力尽きてしまった。
そこで里人はこの坂に犬と馬のなきがらを葬ったと言う。)(岐阜県)

その先に根津神社がある。
神社の後ろにある宝篋印塔は根津甚平の墓であると言う。


(伝説の「馬塚」。残念ながら犬塚は見落とした)

この甚平坂は江戸の浮世絵師 
広重が大井宿の浮世絵を書いた場所として有名である。
広重も休んだであろうが、

ボクもここで昼食を頂いた。


(広重画く浮世絵。木曽海道69次之内「大井」)


(広重の浮世絵は、甚平パークのこの場所から画いた雪の図と言う)














茄子川御小休所(なすかわおこやすみどころ)(旧中山道を歩く 220)

2010年12月21日 11時00分16秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(県道をくぐる手前の石造物群)


(左手前が馬の水のみ場。交差点先右側で家屋の前が坂本立場跡)

(中津川宿 7)
中津川宿から大井宿まで8kmほどであるのに、
随分長く感じるのは水田が続く田舎道、坂道が多いせいなのだろうか。
「三ツ家の一里塚」を過ぎて広い通りを横断し、
坂を登った先の比較的広い道を渡った右側に「坂本立場跡」の碑があるが、
立場の家などは無く、ここで馬を休めたのだろうか、
道路を渡る手前左側に「馬の飲み水場」の池がある。

中山道は左に右に折れて下り、
県道をくぐる手前左側に沢山の石造物が並んでいる。
県道をくぐると川に出るが、
この川の橋を渡った先に「坂本の観音様」が右側にある。
さらに進むと茄子川の高札場跡の碑が左手にあり、
この先が江戸時代の茄子川村の入口になる。


(坂本立場跡の碑)


(馬の水のみ場の池)


(坂本観音様。右奥の建物)


(茄子川村高札場跡の碑)


(尾州白木改め番所跡の碑)

中山道を現す白と黄土色を混ぜたアスファルト道路を進むと、
右手の田んぼの端に「尾州白木改番所跡」の碑がある。
木曽の白木製品を隠して領外に持ち出せないよう監視を行った所で、
中津川の東側にも改番所があった。
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2010/10/post_866a.html参照)
木曽の材木を幕府は管理して、重量材は木曽川をくだり、
軽量な白木製品が領外に出るのを監視した。
しかも徳川家を絶対裏切らない親戚、尾張徳川家に管理を委ねていた。

間もなく古い家並みの住宅街に入っていくが、すぐ左手に篠原家があります。
大井宿と中津川宿の間は距離が長く、中間に茄子川御小休所が置かれました。
それが篠原家です。

説明によると
(篠原家は、加賀前田家の重臣篠原一孝の子弥右衛門が、
十七世紀の初め頃当地に移り住んだことに由来する。
篠原家の当主は代々「長八郎」と名乗り、茄子川村の村役人、
尾張領の庄屋、戸長など歴代にわたり務めた。
――中略――
家の脇には中山道から遠州秋庭道への分岐となる大灯篭が置かれています。
篠原家は中山道通行時の休泊施設として、
和宮、明治天皇が御小休した建物が現存し、
休憩した部屋、厠、表門などは当時のままに保存されています。)
(中津川市教育委員会)


(篠原家)


(篠原家の休息所の碑)

家の先に常夜灯が秋場道を挟んで両側に建っている。
(茄子川村は御三家の尾張徳川家の支配地で、
東西を中山道が縦貫し、ここにある常夜灯は安永五年(1776)に建てられ
「これよりあきばみち」と刻まれた道標にもなっている。)(中津川教育委員会)

道路は古い家並みを抜けて、田んぼの中を抜けて、
江戸時代から陶磁器の生産をしていた茄子川焼窯場跡を過ぎると、

大井宿に入っていく。


(秋葉道の常夜灯。左側が秋葉道)


(秋葉大権現の常夜灯。右が秋葉道)


(茄子川窯場跡)










ショウゲンヅカ(旧中山道を歩く 219)

2010年12月14日 10時59分06秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2

(会所沢の石碑)

(中津川宿 6)
旧中山道を進む。
左手の高みに地蔵尊などの石造物がある。
「会所沢の石碑」である。旅の安全を祈願したものであろうか。

旧中山道の道路は白と黄土色を混ぜたアスファルトになっており、
これは落合宿から続いているが、
所々切れて、また始まると言う具合に続いている。
どこまで続くのか楽しみでもある。


(旧中山道の白と黄土色の石を混ぜたアスファルト)


(右折して登り坂)

道路は道なりに右折して登り坂になっている。
さらに左に折れて進むと、
広い道路と交差しその先の、
白と黄土色を混ぜたアスファルト道路もなくなっており、
中山道の案内も無い。

まっすぐ進むべきか曲がるべきか、悩む。
右手のガードレールのカーブミラーの柱に
「中山道の矢印」を発見し、直進する。
道路の先には右側にコンビニがある。
進むと左手に「小石塚の立場跡」の碑を発見。
中津川宿と大井宿の間の茶屋があったのであろう。


(中山道の矢印)


(道路を渡った先のコンビニ)


(小石塚の立場跡)


(下り坂の突き当たりにある案内)


(案内図に従って進む)

道路はその先で下りになり突き当たりになっている。
突き当たった所に立て看板があり、
「歴史の道 中山道」の案内がある。

中津川市教育委員会によると
(ここから400mの間は、道路改良のため
昔の中山道の面影を残していません。)ので
案内にしたがって、進むことにする。

案内看板の裏側が階段になっているので、
階段を降りていく。
{中山道左}の案内の通りに進む。
道路を渡って向こう側にもう一つの
{中山道左}の案内があり、それに従って進むと、
図に示されたような場所に出る。


(案内の裏の階段)


(中山道の案内矢印)


(案内図の関係が良く判る)

そのまま大井宿に向って進むと、
「歴史の道 中山道」直進の青い案内があるのでホッとする。
少し進むと、右手の塀の切れた所に石灯籠が立っているが、
灯籠の籠面に六地蔵が彫りこまれている。
普通、寺の門前に六体の地蔵が安置されているが、
ここには六地蔵を彫刻した石憧を代わりに安置したものと思われる。
明暦三年(1657)の銘が施されている。
また、道路反対側には六地蔵のバス停がある。


(灯籠の六面に地蔵さんが彫ってある)


(六地蔵バス停)

しばらく歩くと右側に坂本神社八幡宮の石碑があり、
道路の奥のほうに石の鳥居が見える。とても綺麗な神社である。
中山道はその先左側に、旅の安全を願ったものであろう、
馬頭観音像が二基並んでおり、
これは「かじや平の石造群」と呼ばれている。


(坂本神社)


(手入れの行き届いたとても綺麗な神社)


(かじや平の石造群)


(Y字路、右がJR美濃坂本駅方面)


(中平の常夜灯)


(中山道の青い案内)

道路はこの先で、Y字路に分かれているが、
中山道は左の道をとる。直進するとJR美濃坂本駅にでる。
田や畑ののどかな道を行くと田んぼの中に常夜灯が立っている。
「中平の常夜灯」と言われるものである。
昔は、この近辺は田や畑のみで目標物がなく建てられたものであろう。
中山道はしばらく青い案内板に沿って土の道を歩く。
少しずつ登り坂になって田舎の山道になる。

田舎道をしばらく進むと、右手に将監塚と書いた場所に出る。
ここ坂本地区文化遺産保存会によると、
(岡田将監善同は慶長18年(1613)より寛永八年(1632)まで
二代目美濃代官でありました。
将監善同は織田信長に仕え、加藤清正に従って加藤姓を
名乗ったこともありましたが、
関が原では東軍(徳川方)に属す。
慶長六年(1601)六月采地 五千石与えられ可児郡姫村に住み、
慶長十年(1811)から初代美濃代官の大久保長安の配下であったことから
長安死後二代目美濃代官になる。
当時大井村には築城の「材木番所」があり、
木曾材持出奉行として当地に駐在。
将監善同の子善政も寛永八年(1631)父の死後、美濃代官を務めろ。
――中略――
恵那郡史には、岡田将監の墓と伝えるものが三ツ屋地内にあり、
旧中山道の北の小丘で五輪の石塔(実際は宝篋印塔)が建っている。
これを「ショウグン塚」と呼んでいるが
「将監(ショウゲン)塚」のなまったものであろうと記されている。
この付近には将監乗馬の塚というものがあり、
地名を岡田と言うことも記されている。)とある。

写真が悪くて申し訳ありませんが、
将監塚をみると中央に見えるのが石灯篭で、
その右に僅かに五輪塔らしきものが見えますでしょうか。


(ショウゲン塚)

中山道はその先で広い道路と交差するが、
交差する手前右側に「三ツ家の一里塚」跡の碑がある。
反対側を覗いたが、塚らしきものは無い。

江戸から86番目の一里塚で、片方だけが残っている。


(86番目の一里塚跡)


(道路反対側には塚らしきものが確認できなかった)


(秋らしく紅葉が美しい)







双頭一身道祖神(旧中山道を歩く 218)

2010年12月09日 10時44分40秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2

(中津の一里塚跡)

(中津川宿 5)
中津川橋を渡り、しばらくすると道路はT字路にぶつかる。
中央の一段高い所に「津島神社参道」の石碑があり、
その横に「中山道」左矢印の案内看板が目に付く。

道路は上り坂になるが、登り始めてすぐ右手に四基の石碑がある。
一番左が「南無阿弥陀仏」その右側には「馬頭」と彫ってある。
石屋坂の名号碑と呼ばれているものである。


(T字路)


(津島神社参道の石碑)


(石屋坂の名号碑)


(中山道の矢印、見落としやすい)


(歴史の道 中山道の青い標識)


(駒場村の高札場跡)


(上記の拡大)

すぐ先に広い道路と交差するが、
左側の見にくい所に「中山道」の矢印看板があるので道路を横断する。
道路はさらに坂を上り、右に行く道に分かれる場所に出るが、
ここにも「歴史街道 中山道」の青い矢印案内があるので右折する。
その先左側に駒場村の高札場跡がある。
横の建物に三枚の高札が掛かっているが、
歴史的値打ちの無い、現代の広告である。

しばらく道路を進むと、右手に東山道坂本駅の石碑があり、
「右駒智駅、左大井駅」とある。

東山道の名残か。
大化の改新の頃、東山道が出来て16kmごとに駅が置かれた。
大井駅から坂本駅を経て、神坂峠を越えて阿智駅に達していた。
その名残であろう。


(東山道の碑がある所)


(東山道坂本宿の石碑)

坂本駅(中津川市駒場)について、中津川市によれば、
(古代、近江と陸奥を結ぶ官道として拓かれた東山道は、
都から美濃の国・坂本駅を経て信濃の国・阿智駅へと通じていた。
この二駅間は、距離が長い上に急峻な神坂峠(みさかとうげ)越え
(標高1595m)を控え、道中でも名の知れた難所であった。
このため両駅には特例として通常の二~三倍、
三十匹の駅馬が用意され、
また、輸送に当る駅子にも免税の恩恵が与えられていた。
その坂本駅が置かれた場所は現在特定されていないが、
この辺りであったと言われている。)(中津川市)

そして道路は小さな橋を渡り、崖にぶつかる。
道路はS字になって坂を登っている。
最初はゆるやかに右に、そして左へカーブして、
もう一度右へカーブし、坂を登りきるとT字路で、
直進は苗木道、中山道は左へ折れている。


(ぶつかった崖)


(こでの木坂の石碑)


(左にカーブする坂道)


(次の右に大きく曲がる道、ショートカットするには階段を登る)


(S字の頂上付近、正面の一段高い所に石造物が見えるか)


(双頭一身道祖神)


(左苗木道の石碑)

左折した右側の一段高いところに一群の石造物がある。
ここに「双頭一身道祖神」がある。
「双頭一身道祖神」頭は二つ、
胴体は一つの道祖神としては珍しい姿をしている。
このS字坂、中山道の通称「こでの木坂」の頂上に安置されている
「双頭一身道祖神」の左肩に「是より苗木道」と記され「道標」でもある。

道祖神について、中津川教育委員会の説明には、
「文化十三年(1816)に建立され、男女別々の頭を持ち、
肩から足元にかけて一体となっている珍しい形態の道祖神である。」
とあるが、
肩から足元にかけて着物の中はどうなっているのだろうか、
男女の片手の位置や、それぞれの片足の位置など、
大変興味のある所である。

この道祖神の先の右手に一里塚があり、
中津川の教育委員会の説明には、
(歴史の道 中山道 「上宿の一里塚」とあり、
江戸から85番目の一里塚である。
なお、南側の一里塚は消滅している。)とあるが、
復元された一里塚の上に立っている石碑には、
「中津一里塚跡」になっている。
どちらが正しいのであろうか?
両方正しいというのが、正解なのであろうか?

ここは場所が平坦になった所で、
恐らく南側の一里塚があった跡と思われる場所に、
休憩所が設置されているので、
一休みしよう。

お手洗いもある。


(中津の一里塚跡)


(休憩所、お手洗いもある)







栗きんとん(旧中山道を歩く 217)

2010年12月07日 10時19分03秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(「栗きんとん」の老舗)


(中津川で見られる「栗きんとん」ののぼり旗)

(中津川宿 4)
中津川の名物は「栗きんとん」。
「栗きんとん」と聞くとすぐ思い浮かべるのが、
正月のおせちに出てくる「栗きんとん」。
黄色で栗が何個か入っていて、粘り気があり水飴みたいなもの。
子供や女性は大好きであるらしい。

我が家では、カミサンが好きでないせいか、
「栗きんとん」と聞いて子供たちもうれしそうな顔を見せない。
今度行く中山道の名物は「栗きんとん」と言っても、
誰もお土産に買って来いとは言わない。


(栗きんとんの包み)

中津川宿の名物「栗きんとん」は、
おせちに出てくる「栗きんとん」とは少しわけが違う。
栗きんとん製造所の説明によれば、
「栗きんとんは、蒸した栗をタテ割りにして、
竹べらで実をほじくり出す。
それをつぶして少量の砂糖を加えながら煮る。
煮あがったのを、茶巾渋りにする。
気抜けがするほど簡単な加工だ。」と製法が書かれている。


(栗きんとんの包みを広げた所)


(ぱくりと一口ではいる)

幾代にも渡って、名物となるようなものは、
作り方が簡単で、それでいて口に入れると絶妙な香りと味を持っている。
この栗きんとんがそれだ。
この素朴な菓子作りを、
何時までも続けて欲しいものである。

素材となるのは木曽の山栗にはじまることであり、
かの江戸期の戯作者 十辺舎一九(じゅっぺんしゃいっく)は
文政二年(1819)に木曽路を旅して、
「岐蘇街道膝栗毛(きそかいどうひざくりげ)」の馬籠宿のくだりで、
次のような狂歌を詠んでいる。
それほどここの山栗は美味しいのである。

・渋皮の むけし女は 見えねども 栗のこわめし 爰(ここ)の名物   (十辺舎一九)


(十辺舎一九のこわめしの歌碑)





珍しい軒卯建(旧中山道を歩く 216)

2010年12月01日 11時02分41秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(JR中津川駅)

(正面屋根の上に、まっすぐの軒ウダツが見える)

(中津川宿 3)
ここは中津川宿のはずれに造り酒屋がある。
軒卯建(のきうだつ)が上がるこの造り酒屋で、
京都側の枡形になり右に曲がる。
その造り酒屋の道路を挟んで左側に石標があり、
「式内恵奈山上道」と書かれている。
恵那山上へ通じる路になっているらしい。

恵那山頂上にはこの辺りの産土神であり延喜式内神社がある。
祭神はイザナギノミコト・イザナミノミコトの二神で、
恵那山の「えな」は「胞衣(えな=胎児を包む膜、胎盤の事。)」を埋めた山を指す。
つまりこの地が二人の神の子 天照大神の生誕地を示している。

またこの石標の手前左角の屋上には「く」の字に曲がった軒卯建がある。
軒卯建は防火壁で幅20cmほどの厚い壁で、
隣家への類焼を防ぐ壁であるが、
普通はすべて直線で出来ており、
このように曲がっている軒卯建を見るのは初めてだ。
大変珍しい。


(恵那山上道の石標)


(正面の屋根の上に「く」の字に曲がったウダツが見える)


(常夜灯)


(旧中山道を表わす石垣、この先突き当たりになっている)

中山道を枡形に沿って右に曲がった右先に常夜灯があり、
中津川(川上川)までの旧中山道は消えている。
その名残はこの常夜灯の裏側にある石垣が当時のままで、
石垣の前の狭い道が旧中山道であると、
土地のお祖母ちゃんと90歳になる爺ちゃんが教えてくれた。
その中津川には橋が掛かっており「中津川橋」と言い、
中津川宿はここで終わる。

その手前にもう一つの橋があり、
下を覗くと、綺麗なレンガ道になっているので、
通りがかりの婆ちゃんに聞くと、
「昔この下は線路が走っていました。
橋は(ちゅうおうばし)って言いましたよ」という。
中津川駅からどこまで行った線路なのかはご存じなかった。
その先に一級河川「木曽川」の支流「中津川」があり、
中津川に掛かる橋を渡ると、川の前後は開けていて見晴らしが良い。


(中津川橋)

「木曽路はすべて山の中である。」と書かれた「夜明け前」の文章の通り、
今まで木に覆われた山中から比べれば、中津川は随分明るく開けた町であった。
島崎藤村が、小説の中で「あの山の向こうが中津川だよ。
美濃は良い国だねえ」と主人公の青山半蔵に語らせた
明るい中津川宿を感じさせた。


(中津川橋から見た景色)


(中津川橋を渡り終えたところから見える景色)