中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

関所代官屋敷から福島宿(旧中山道を歩く 178)

2009年07月28日 10時49分19秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(山村代官屋敷外観)

(木曽福島宿 4)
長福寺を出て、木曽川に沿って歩きJR福島駅のほうに進み、
山村代官の屋敷を訪ねる。

(木曽福島を代官として家康から任され同時に関所も預かりました。
途中、木曽福島が尾張藩の管轄になってから、
石高7,500石に白木5千駄を給付され、
山村氏は引き続き関所の管理をした。)(木曽代官屋敷)
関所代官としては適任であったのであろう。
その山村氏の上屋敷は、今は小学校になっているが、
その隣に下屋敷が残っているので、是非見学したい。

この下屋敷は、代官の住居棟であるが、
参勤交代で通過する大名を接待する場所でもあったと言う。(ガイドさん談)
そのため屋敷の中に、厨房を中心にした部屋が三箇所あり、
そこで接待をしたという説明であったがどうも納得できない。

少なくも大名を接待するのに、住居棟を使うとは考えられない。
上屋敷があるのだから、そこで接待したであろうと思われる。
説明してくださった方は、大名の石高の大小で上屋敷、
下屋敷を使い分けたと説明されたが、納得しにくい。
下屋敷に厨房を中心にした部屋の固まりが、三箇所あったのは、
主人と家族、家来、召使、と分けてあったのではないだろうか?
疑問は残る。

それにしても手入れの行き届いた庭や座敷、
数々の什器は見応えがある。
博物館にでも行ったように感ずる。


(代官屋敷入り口)

山村代官屋敷を出て駅に向かうのに、大手橋を渡り道路の突き当りに、
木曽町木曽福島支所があり、玄関前に木曽福島宿本陣跡の碑がある。
この当たり一帯が上町と言い、バス停があり、
その横には木製のベンチが置いてあった。
バス停の脇には、元食堂を営んでいたオジサンが、ベンチを片付けていた。
バス停「上町」の読み方は(かみまち)でなく「(かんまち)と言う」と言う。
「この辺り、以前は人通りも多くバスの乗り降りの人も沢山あったが、
道路の前後を見てください。人の姿が見えないでしょ。
もう随分前から若者は都会に出て、人口も減り、
ベンチを出しておく必要もなくなりました。淋しいことです。」と言う。


(本陣跡の碑)


(上町(かんまち)のバス停)

なるほど、長福寺から山村代官屋敷内でも案内してくださった方以外に
人に会わなかった。本陣跡のある支所でも、
お手洗いを借りるとき場所をお聞きした事務員の方以外に人に会わなかった。
考えれば、駅を出てから会った人は、
駅前のタクシーの運転手さんを除いたら、
このオジサンを入れて三人にしか遇っていない。
JR木曽福島駅は特急も止まると言うのに本当に淋しい事である。


(右手に旅館を見て、左折すると旧宿場に入る。)


(造り酒屋)


(千村家門前の「喜又橋」)

中山道を進むと、右側にある昔ながらの旅館を見て、左に折れる。
左折してすぐ左側に銘酒「七笑」の造酒屋がある。
その反対側、つまり進行方向の右側に真新しい木の橋がある。
「喜又橋」とある。この奥が木曽福島代官の家来 千村喜又のお屋敷である。

福島町の説明によれば、
(この橋は、清水の湧いた場所より小川が流れ出て、
その小川に木製の橋がかかっていたものである。
「喜又」とは、この地を治めた11代当主であり、
島崎藤村の実兄と共に、この町の山林確保に私財を投売りながらも、
町のために尽くした天晴れな人柄を思い銘々いたしました。」とある。
この橋の奥には、門、母屋、お蔵、美しく手入れされたお庭、
その庭の奥の階段を上ると、高札場に出る仕組みになっている。


(母屋と鯉のぼり)


(千村家の蔵)


(手入れされた美しい庭)


(裏庭の階段を登ると高札場がある)


(登り坂の上に高札場がある。)


(高札場横の道を下ると千村家に出る)


(下から見た高札場)

門前の「喜又橋」と「七笑」酒造会社の間を通り抜けると、宿場の桝形があり、
道は右折して登り坂になる。登りきった所の右側に高札場がある。
つまり、千村家の裏庭からの登り坂は、この高札場の裏手にある。

高札場を通り過ぎると水場があり、左折するとさらに昇りになるが、
この当たり両側は旧中山道の宿場町を彷彿させる家並みが並ぶ。
左側にもう一つの水場があり、水が豊富に流れ出れ居る。
その右脇を覗くと、古いいかめしい寺院の山門が奥のほうに見え、
道路の左端は水場に流れる水流が音を立てて流れ、
水流の左はナマコ壁がつながって、
寺院の山門に威厳をかもし出している。

その山門に向かう。

お寺は智勝山大通寺という。


(高札場横の水場、奥に見える建物はお手洗い)


(宿場らしい建物が並ぶ)


(水場の右横にナマコ壁が)


(ナマコ壁の奥に見える山門)









龍源山長福寺と信玄公廟所(旧中山道を歩く 177)

2009年07月21日 09時44分09秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(JR木曽福島駅)

(木曽福島宿 3)
6月1日(晴)気温予想25℃。日本橋をスタートして30日目。
今回は2泊3日で
①木曽福島宿から上松宿まで
②上松宿より野尻宿
③野尻宿より妻籠宿入り口
の予定である。

JR木曽福島にAM10:30に降り立つ。日差しが強く暑い。
駅前の観光協会に顔を出し、木曽福島の観光地図を頂く。
駅前には、食堂やらみやげ物を扱うお店が並んでいるが、
月曜日でもあり閑散としている。
前回時間が無く、見損なった場所を訪問する予定である。
この先上松宿に向かうには、もう一度この駅前を通らなければならない。
木曽の旧街道は、途切れ途切れになっておりたどるのに少し面倒のようである。
一番先に木曽福島駅からどこをむいて出発してよいのか、
チラッと反対側を見ただけでも、解りづらいのが良く判る。

先のことは先のこととして、取り越し苦労をするのは後にして、
まずは、先日立ち寄りそこなった長福寺に向かう。
目の前の旧中山道を宮ノ越宿方向に戻るように進む。


(戻るように道を下る。いたるところに水場がある。)


(長福寺山門)


木曽福島の関所まで歩き、関所前にある関所橋を渡り直進。
突き当りを左折すると長福寺が右側にある。
門前の白壁に、長福寺の略縁起が書かれている。

長福寺縁起によれば、
(臨済宗妙心寺派 龍源山長福寺の草創は遠く、
大宝二年(702)岐岨(きそ)山道が開けた頃、
当郷薬師平附近に創立された古寺と伝えられ後小丸山城下に移り、
富田山長福寺と称していた。
木曽家治世の中、永享二年(1430)十三代源太郎豊方公
先祖追善のためこの地に再興。笠陰禅師を開山となし、
多くの寺領山林を寄進して木曽三刹の一つとされる。
次いで十六代義元公も龍源寺を再興されたが後に長福寺に合併、
爾来龍源山長福寺と改称する。
永正の頃(1504~1521)義元公の伯父、信叔�窩允禅師 
京都妙心寺獨秀乾方禅師の法を嗣ぎ当寺に住して妙心寺派を興す。
これより木曽路、諏訪、松本方面に妙心寺派の禅風大いに振う。

戦国の世の天文元年(1573)甲斐の武田信玄公病没す。
時に十九代義昌公は義父追善のため、当寺に墓を建て廟所となす。
また、木曽代官山村公も先祖以来の菩提所なり。――後略。)


(白壁の奥に鐘楼と本堂が見える)

随分勿体つけて長々と書いてあるが、
つまり、武田信玄のお墓があり、関所の代官山村家の菩提寺となっている
由緒あるお寺でございますと書いてある。
お寺の門を出て裏山の墓地に行き、信玄公のお墓と
木曽福島の関所 山村代官のお墓を探したが見当たらず、
あきらめて帰ろうとお寺の裏門の外側を通り過ぎると、
塀の中になにやらお墓らしきものの頭が見える。
つま先立って塀越しに中を覗くと、
木の柱の横に五輪の塔と地蔵尊が、立派な石台のうえに安置されている。
脇にある柱の薄れた法名がどうも信玄公のもと思われるので、
手を伸ばして写真を撮った。
果たして法名は恵林寺殿機山玄公大禅定まで読め、
信玄公のお墓であることが判った。
しかしこのお墓には何が収まっているのであろうか?
子孫が建てたようであり、遺物は何も無いのかもしれない。


(信玄のお墓)


以前岩村田宿を歩いたとき、龍雲寺というお寺に、
信玄公廟所があった記憶がある。信玄は
「死んだ後も死んだことをしばらくは世間に発表するな」と
言い残したため、遺体すらどこに埋葬したかさえ定かではない。
戦国時代は、将が居なくなれば領地が脅かされるから、
死の情報を隠したのであろう。
歌にもあるように、「甲斐の山々・・・」と言うから、
ボクは信玄のお墓は山梨県にあるものと思っていたが、
岩村田宿、木曽福島宿と長野県にあるのは意外であった。

信玄のお墓は、全国に幾つかあるようであるが、
まだボクは他の墓には行ったことが無い。
戦国時代の武将の墓はいくつか複数あるものだ。
各地に散らばった子孫が供養するために建立するのであろうから止むを得ない。
信長が五箇所、近藤勇も五箇所、家康と今川義元は3箇所もあるらしい。

長福寺の庭も枯山水で立派なものであった。
しかし、山村代官のお墓は見つけることが出来なかった。


(枯山水の庭)





興禅寺と木曽義仲の墓(旧中山道を歩く 176)

2009年07月15日 09時41分51秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(興禅寺門前の石碑)


(義仲廟所の碑)

(木曽福島宿 2)
興禅寺の山門は厳(いか)めしく、由緒ある寺の門前らしく、
萬松山興禅寺の石碑と木曽義仲公廟所の石碑が据えてある。
寄り道をして、このお寺に寄ったのは、宮ノ越宿に義仲のお墓はあったが、
ここにも義仲のお墓があるというので、しっかり確認して置きたい。
入り口に「四つの庭と宝物殿拝観料金500円」とあるが、
義仲のお墓を確認したいから止むを得ない。

門をくぐると勅使門が出迎え、その門をくぐると左に、
細川家18代 元内閣総理大臣細川護煕氏の揮毫で、
「先祖ゆかりの地」の石碑が建っている。

(これは、細川家初代幽斎公が天正18年(1580)3月、
関東小田原の北条氏平定のため、
秀吉について出陣したが病に侵され、
秀吉に暇をとり帰洛した際、興禅寺に立ち寄ったとされる
「ゆかりの地」である。)(東国陣道記)


(勅使門)


(元総理大臣細川護煕揮毫の碑)

石碑の先右側に「昇竜の庭」その先左に「須弥山の庭」があり、
さらに先の左に宝物殿がある。美しい庭は全部で4箇所あるが、
枯山水の庭「看雲庭」、
稀代の茶人で宗和流さえある金森宗和作庭の「万松庭」、
その四つの庭を抜けて本堂に通じる。
「方丈」の扁額が掛かる本堂前には、
義仲公お手植えの「時雨桜」がある。

「昇竜の庭」は
(「登竜門」といわれ、その昔中国の黄河の上流に、
三級岩という険しい滝があり、龍門瀑と呼ばれ、
下流から泳いできた鯉はこの滝を登り勢いよく登り、
勢いよく登った鯉はそのまま龍と化して昇天すると伝えられている。
そのことから元気のよい男子は龍となって天に登るように
「鯉のぼり」の風習が江戸時代に定着した。
この庭の場合は、親子三体の龍が衝天する姿を滝上部に表現し、
下部にはこれから龍とならんとする鯉魚石を表現している。
小口基実作庭)とある。(満松山興禅寺)

「須弥山の庭」とは、
(仏教の宇宙観で世界の中心にそびえ立つ高山を須弥山といい、
金、銀、瑠璃、玻璃からなる須弥山を囲む九つの山と
八つの海からなる世界観を表わす。
一石でいくつもの石を表現したものを九山八海石と呼ぶが、
この庭は石組みで九石山を表現し周りを砂で囲み八海を表わした。)
(満松山興禅寺)
ボクには良く分からないが、
瞑目し心静かに眺めれば、邪念が吹っ飛び、
心が洗われるに違いない。
そんな静かなたたずまいであった。


(昇竜の庭)


(鯉三体が昇る滝?)


(須弥山の庭)

その先にある宝物殿で入場料¥500を支払い、
見学するも現代絵画が並んでおり、
宝物殿のお宝はどこへ行ったのやら見当たらない。
宝物殿を早々に出て残りの庭園二つと、
義仲の廟所を見たいものと先を急ぐ。
何といっても帰りの電車の時刻が迫っている。

次が「看雲庭」であるが、これは立派な枯山水のお庭であった。
入り口に画家?が居て、物も言わずスケッチブックに描きこんでいた。
この田舎では、通常、人に会うと挨拶があるのだが、
夢中になっているのか挨拶も無かった。
もっとも、突然闖入したボクのほうから挨拶をすべきと思い
「こんにちは」と声をかけるも返事なく、気分を悪くして先に進んだ。

その先に「万松庭」があり、庭が先か、お寺が先か、
知らないが寺の名前「万松山」と同じ名の庭で、こ
れは有名な茶人金森宗和が作った庭という。
金森宗和は、飛騨高山の城主であったが廃嫡となって茶道を学び、
中でも有名なのが、京焼(色絵陶器)の名工 
野々村仁清を指導したことである。
この陶工 野々村仁清の作った茶碗を真似て「仁清写し」として、
現代も沢山の茶碗が作られる、「写し」でさえとても美しい。
本物の仁清の茶碗は骨董品として出てくると、
どんなものでも○百万円は下らない。


(看雲庭ー枯山水)


(万松庭ーこれが日本庭園らしい雰囲気)

話がそれてしまったが、宗和が作った庭の「万松庭」は
温和な安らぎを感じる庭である。
時間が無いのが残念であった。
その先に、義仲の御影観音堂「大悲殿」があり、
観音堂の前に義仲お手植えの「時雨桜(二代目)」がある。
その桜の前には、山頭火の

・たまたま 詣でて木曽は 花まつり

の句碑に出会う。ボクの境地に似ている。

・たまたま 訪ねて義仲の墓 苔がむし (hide-san)

観音堂を通り過ぎるとお寺の裏門から外に出ることになり、
回りを見渡すと左の山の上に墓地があり、
看板に「木曽義仲乃墓」とある。


(義仲観音堂「大悲殿」)


(義仲お手植えの時雨桜)

木曽義仲のお墓を見たいばかりに,
このお寺「万松山興禅寺」に入り、
拝観料¥500を払ったが、寺の外に墓地があるではないか。
初めから分かっておれば、
寺の裏門へ行き無料でお墓を観ることが出たのにと、
自分の無知さ加減に腹が立った。

それにしても宮ノ越宿にあった徳音寺の義仲のお墓と同じように、
立派なお墓であった。

電車はPM15:25木曽福島駅発であるが、残り30分しかない。
急ぎ駅に向かう。
約2.5kmの上り坂を早足で歩き5分前に駅に到着した。
駅に到着して汗だくであったのに、
さすが木曽は山の中、汗はものの数分で乾いていった。
乾燥もしているが、太陽に当たらなければ気温も低い。

5月15日(晴)日本橋から29日目。本日の歩行45847歩=約27.2km。


(山頭火の句碑)


(義仲の墓所)


(義仲の墓所2)





木曽福島の関所(旧中山道を歩く 175)

2009年07月09日 10時00分20秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(国道の左を上の登ると関所)


(「夢のあと」の関所跡)


(関所の図)


(関所資料館、幔幕の紋所は丸に一)


(木曽福島宿 1)
道路をまたぐ関所門をくぐったら、左の狭い道を登ると、
木曽福島の関所に入って行く。

広重描く浮世絵「木曽海道六拾九次乃内 福し満(ふくしま)宿」は、
(東海道の箱根、荒井、中山道の碓氷と共に四大関所の一つに数えられた福島の関所があった。
両側から山が迫る木曽川の断崖の上、
江戸方向から歩いて急坂を上り詰めたところに、この関所はある。
検問を終えて出てきた武家と飛脚がこれから向かう旅人とすれ違う場面が描かれている。
画面奥には、土下座をして今まさに検問を受けている旅人がいる。
関所内の幕には本来は関所代官 山村氏の紋所「山に数字の一」のところ、
浮世絵版元 錦樹堂の商標「山に林」が藍で染め抜かれている。――後略)とある。
(広重美術館蔵「木曽海道六拾九次乃内」より)
 

(広重の浮世絵木曽海道69次之内「福し満宿」)

木曽路の南の入り口江戸側には贄川関所があるが、
その本店に当たるのが木曽福島の関所である。
その昔、旧中山道は左右の山に挟まれた木曽川の流れの上にあり、
他に抜ける道が無く、関所を避けて通るには木曽川の急流の中を行くか、
かなり無理をして山の上を行くより方法が無かった。

関所としては最良の地形であったに違いない。
今では、旧中山道より下の山を削って国道が走っており、
関所跡から見下ろすと国道に平行に流れる木曽川、そこにかかる橋、
そして川に沿って広がる木曽福島の町を一望することが出来る。


(木曽川に沿った福島の街)


(関所跡2)


(関所跡の草)


(関所跡3)

福島の関所跡に入ると、
建物があっとされる場所に「東門跡」「上番所跡(うわばんしょ)」「西門跡」の石碑が置かれており、
一面の草の原であった。
・夏草や つわものどもが 夢のあと
の芭蕉の句を思い出させる場面であった。

関所跡の向こうに見えるのが、復元された関所で関所資料館になっている。
関所そのものは、贄川の関所のほうが立派であったように思われる。
福島の関所も「入り鉄砲に出女」を重視されたのは贄川の関所と同じである。
(URL:http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2008/11/post_cf50.html参照)
関所は贄川関所と逆のつくりになっており、勝手(台所)が京都側にあり、
次いで上番所、座敷、下番所と並んでいる。
管理は山村氏に委ねられていた。


(上番所)


(成瀬大和守の花押)

関所資料館の見学にガイドが着いて回るわけでなく、
自由に見学でき(入場料は300円であるが)
ガイドはテープレコーダーが繰り返し何度もお話しをしてくれる。
展示資料の中で目を引いたのが、発行される道中手形の発行者印があったことだ。

上番所では通行手形の発行者印の照合をし、合致すれば通行を許可した。
その基になる印(花押)が何点か展示してあったのは収穫であった。
もう一つ、女が一人で通行するのは大変稀で、
必ず男性が付き添っていたものだそうであるが、
一人で通行した通行手形が展示されていたことだ。
しかも、皇女和宮のお付の父親が病で倒れ、
娘が看病のため通行するという内容のものである。

以前にも書いたが皇女和宮の行列は史上空前の大掛かりなものであった。
京より江戸まで通しで行くお付の人が4千名、京よりお見送りの人が一万人、
江戸よりお出迎えの人が一万五千人、都合三万人弱の大行列であった。
食事や排泄、寝泊りの状況については旧中山道番外記に書いたが、
お付の人たちの中で、道中病に倒れるものがいるところにまでは思いが及ばなかった。
まして、病に倒れた人を心配して看病のため、
道中一人旅を急ぐ娘がいることなど考えもしなかった。


(皇女和宮通行に際し人足の父が藪原宿で病気のため看病に行く娘の手形)


(高瀬家資料館、副業の「奇應丸」の石の看板)

木曽福島関所資料館の隣にある高瀬家資料館に寄る。
高瀬家は木曽福島関所代官の山村氏に仕えたのが始まりで、
以来お側役、砲術指南役、勘定役等として幕末まで仕えた。
第14代当主高瀬薫に島崎藤村の姉、園が嫁いだ。

その高瀬家は島崎藤村の小説「家」の題材になった家である。
その中で藤村の姉、園はお種として登場し、
また小説「夜明け前」では、お粂であり、
「ある女の生涯」のモデルにもなっている。

園の生涯は、決して幸せであったとは言えないようである。
「ある女の生涯」によれば、園の臨終には親戚の誰も間に合わないままに、
見も心もぼろぼろになって、精神病院で死んでいったとある。
小説「夜明け前」は文明が押し寄せる新しい時代の波に、
古いしきたりを守っていこうとする旧家が、
崩壊していく様を見事に描いている。

資料館には、藤村の手紙、軸、遺品類および
当家に伝わった兵法の書類などが展示されている。
資料館横には、藤村の姉・園も散策したと思われる、
美しく整備された庭があるが、そこを歩きながら、
男尊女卑の時代の一人の女性の生き様に思いを馳せると、
何ともやり切れないものを感ずる。
太平洋戦争後の男女同権の世の中が、
いかに自由でのびのびしているかを想像できるはずも無く、
今の時代(平成21年)に生きていることが、如何に幸せであるか感じざるを得ない。


(高瀬家の庭)


(左に見える関所橋に向かう国道)


(関所橋)

高瀬家資料館を出て眼下に開けた町並みを見ると、
国道と木曽川が平行しているのが見え、
川にはいくつかの橋が架かっているのが見える。
中山道は国道に下って進むのであるが、木曽川の向こう側に史跡があるので、
少し寄り道をすることにした。
関所の門から下に降りた辺りにある関所橋へ向かう。

関所橋を渡って道路を突き当たり、
左には長福寺があるが、先に右にある興禅寺に行く。

此処には見事な庭園と木曽義仲の廟所があると案内書に見える。


(万松山興禅寺入り口)






手習天神(旧中山道を歩く 174)

2009年07月02日 08時12分40秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

0085
(徳音寺から見た義仲橋、その背景の山々)

0086
(一番奥に見える山)

(宮ノ越宿4)
徳音寺を出て義仲橋を渡り、元の道に戻り進むと本陣跡、
脇本陣・問屋跡、中山道宮ノ越宿の標柱がある。
0087
(本陣跡)
0090
(本陣の建物)

0091
(脇本陣・問屋場跡)

街中をしばらく歩くと、
明治天皇御膳水の井の前を通り、
下町公民館の庭の石造物群を左に見て進むと、
その先が二つに分かれる。
左を見ると上り坂道で踏み切りがあり、
案内書によると道路は左に踏み切りを渡るようになっているので、間違いそうであるが、
道路は鳥居峠より長い下りになっているはずだから、
①上リ道は間違い、また、
②一里塚があるはずであるのに、まだ見ていない、
以上の2点から判断し、直進する。
0092
(宮ノ越の町)

0094
(明治天皇御膳水)

0096
(下町公民館と石造群)

0097
(左上には進まない、右手に行く、右側に見えるコンクリート工場)

0098
(宮ノ越の一里塚の碑)

やがてこれが一里塚の碑?と思われる、
文字が何も見えない標柱が左の空き地に建っている。
道路反対側にコンクリート工場があり、案内書から行けば、
どうも宮ノ越の一里塚らしい。

山間の何も無い道を、さらに進んで、踏切を渡る。
踏み切りは渡るとすぐ右折し、
線路を頂点にかまぼこ型になっており、
長い車は通り抜け不可の看板がある。
長い車の前輪が線路を越えると、
車の腹が線路につかえて動けなくなる、
そんな踏切である。
よくよく見ればJRが「第5仲仙道踏み切り」と書いている。
0100
(何も無い田舎道)

0101
(第五仲仙道と書いた踏み切り)

田舎ののどかな道を進むと、
左手の雪をかぶった山の嶺がとても美しい。
なんと言う山であろうか、これほど間近にこんな美しい山を見たことが無い。
一流のカメラマン気取りで写真を撮りながら、
また、いっぱしの登山家気取りで、道を歩く。
通り抜ける風が心地よい。
この辺り右側にJR原野駅があるはずである。

やがて、中山道中間地点の看板が見える。
日本橋を出て29日目にやっと中間地点である。
中山道69次は距離にして約534km。
丁度真ん中の267kmを歩いたことになる。
この辺りから見る山もとても美しい。
道路案内標識は、木曽駒高原を指しているから、
きっと木曽駒ケ岳であろうと勝手に決める。
0110
(中間地点を表わすと言うから立派なものを想像したが)

0108
(美しい山、木曽駒ケ岳?)

その先の旧中山道は複雑になっているらしく、解りにくい。
どこで間違えたか、国道19号線に出てしまった。
たぶん左へ急カーブしたところを直進するのが正しいようであるが、
戻る気にもならず、国道19号にでて、
間違いに気づいた「栗本」の信号から右に入る。
0115
(屋敷跡の案内)

0116
(屋敷跡を示す看板)

道なりに進むと、左側に「中原兼遠屋敷跡は右」の標柱があるので、
右折し田んぼの中の道を行くと、JRを高架で渡る。
渡り終えると道なりに左に曲がるが、曲がった所線路際に、
「中原兼遠屋敷跡」のお粗末な看板がある。
「木曽義仲の居住地で巴の生誕地である」と書かれている。

元の道に戻る。
すぐ、左手の小高いところに神社があるのが見える。
近づくと手習天神とある。
手前に天神橋があると案内書に在るが、これが橋?という代物。
0118
(手習天神)

手習天神の説明では、
(このお宮は、古くは山下天神と呼び、
木曽義仲を養育した中原兼遠は義仲の学問の神として
勧進したものと伝えられます。
源平盛衰記に義仲を木曽の山下に隠し、
養育したことが記されていますが、山下は上田の古名で、
付近には兼遠の屋敷跡、義仲の元服松等に史跡があり、
このお宮の古さを物語っています。――後略)(木曽町)とある。

進むと中山道は先が分らなくなっているので、国道19号線に合流しすすむ。
出尻の一里塚も今では不明となっているが、出尻のバス停があるので、
およそ、この辺りに一里塚は在ったのであろうと考えながら進むと、
「木曽福島市街地右→」の案内看板が左側に、
道路沿いの右側に大きな蕎麦屋、その先に木曽警察署があり、
そこを右折する。
0122
(木曽福島市街地の案内看板)

0124
(木曽福島警察)

その先でまた国道19号線に合流する。
国道19号線は左のほうへカーブしてトンネルに入っていくが、
中山道は右のほうへ行く道路に沿って進む。

少し先に、大きな関所門が道路をまたいでいるのが見える。
関所門をくぐり、左手の狭い上り道を進む。
これが旧中山道で、昔はおのずと関所の中に入っていったようである。

ここから木曽福島宿である。

0000
(19号線は左のトンネルへ)

0002
(関所門をくぐり左へ坂を登る)