中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

義仲の母小枝御前の墓・徳音寺(旧中山道を歩く 173)

2009年06月26日 06時47分21秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(左より樋口次郎兼光、巴御前、中央の木曽義仲、その右側に小枝御前、今井四郎兼平の墓が並ぶ)


(宮ノ越宿3)
義仲館を出てすぐ右側に徳音寺はある。
木曽義仲の戒名から「徳音寺」と名づけられた。
木曽義仲が母の小枝御前を弔った寺で、
木曽義仲の墓を中央にして、
左から樋口次郎兼光、巴御前、右側に小枝御前、今井四郎兼平の墓が並ぶ。
この義仲の墓の前面に戒名「徳音寺(じ)殿義山宣公大居士」と刻書されているが、
書物によると「徳音院(いん)殿義山宣公大居士」とあり、
どちらが正しいか解らないが、
いずれにせよ戒名の「徳音」からお寺の名前がついたのであろう。

日照山 徳音寺について、
(仁安三年(1168)義仲公の御母上小枝御前の菩提所と,
平家追悼の祈願所として木曽殿が建てた柏原寺が前身であり、
義仲公討死の後、大夫坊覺明上人が朝日将軍の名を後世に伝えんために、
山号を日照とし、法名により寺号を徳音と改め義仲公の菩提寺とした。
天正七年(1579)大安和尚中興し臨済宗妙心寺派に属し、
二度の水害に埋没し正徳四年(1714)現在地に建立され、
古来木曽八景「徳音の晩鐘」として往来の人々に親しまれてきました。
――中略
寺院は見物の場所で無く、信仰の場所であることを忘れない事)とある。
(日義村教育委員会)
本堂横の宝物殿 宣公郷土館があり、(宣公とは、義仲の法名から取った)
義仲公の遺品や郷土の文化財を展示してある。
また、寺院は見学の場所でなく信仰の場であることをくれぐれも注意したい。
特に外国などで、千年以上の古い教会を見学するときなど、
日本人はえてして、わいわいがやがやと入場するが、
同胞としてとても恥ずかしく感じる。心したいことである。


(鐘楼門)

木曽八景の一つ「徳音の晩鐘」となる鐘楼門については、

(徳音寺の山門は鐘楼門となっており、
尾張藩犬山城主 成瀬隼人正藤原正幸の母堂が施主になって、
享保八年(1723)に建立された。)(日義村教育委員会)とある。

[ご~ん]と鳴り響く鐘の音を夕暮れ時に聞いてみたいものである。


(石造群)

それに引きかえ、徳音寺の山門前に並んでいる石造群の中に、
面白い石造――「蛙塚」がある。

・青蛙 許せむかしの 腹風船

なる俳句である。
腹風船とは、子供の頃ストローを蛙のお尻に入れて、
風船のようにお腹を膨らませて遊んだが、このことを云うのであろう。
昔、筆者が子供の頃、同じことをして母親にこっ酷く叱られたものだが、
この俳句の主は、昔の事は許してくださいと言っているだけで、
ただ俳句を楽しんでいる。
腹が立つやら可笑しいやら、
でも蛙塚を建て冥福を祈っているのであろうか。


(蛙塚)


(本堂前の巴御前の馬上像)

山門前は春になると左右に桜が花開き見事であるのが想像できる。
荘重な山門をくぐると、巴御前が馬にまたがった像が本堂前にある。
本堂の奥に義仲霊廟があり、中に木曽檜寄木造り等身大の義仲像がある。

この廟の右横の一段高いところに木曽義仲のお墓はある。

墓前で合唱し、故人の冥福と旅の安全を祈願する。


(本堂奥の義仲廟)


(ピンボケになってしまったが霊廟内の木彫りの義仲公)


(木曽義仲の墓、法名が「徳音殿」と読める)

話が変わるが、
広重美術館所蔵の浮世絵「木曽海道六拾九次乃内・宮ノ越」には、

(木曽義仲は平家討伐の挙兵をした地である。
そういった歴史のいわれとは無関係に、
広重はあぜ道を歩いている親子連れののどかな風情を描いている。
親子連れは、徳音寺の祭りに出かけた帰り、
近くのあぜ道を歩いているところである。
流れている川は木曽川。彼らは昇りかかった満月に照らし出されている。
一方背景は全て輪郭を持たないシルエットで描かれ、
月の光の逆光さえ感じさせてくれる。
中景には、緑、遠景には薄墨を施し、
山国独特の深い霧の中を表現している。)とある。

ここに宮ノ越の浮世絵をご紹介しておく。


(木曽海道69次之内 「宮ノ越宿」)






旗挙八幡宮と義仲館(旧中山道を歩く 172)

2009年06月20日 08時32分47秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(「宮ノ越宿・義仲館・徳恩寺」は直進の案内)

(宮ノ越宿2)
工事中で通行止めの旧中山道を諦めて、巴橋を戻り、木曽川の左側を歩き、
右手の葵橋で、宮ノ越宿・義仲館・徳恩寺は直進と案内がある。
左側にJRのガード、その手前に案内標識で
「左旗挙八幡宮・南宮神社」とあるのでガードをくぐると、
道路は爺ちゃんが言ったとおり、急坂道になる。
ヨイショ、ヨイショと一歩ずつゆっくり歩く。
坂道は先で左折しており、さらにその先は右折している。
登りの坂道はここまでで、右折後はT字路になり、
神社は「左折して200m先」の案内がある。
左手を見ると畑の真ん中にこんもりと木が茂っているところがある。
疲れた足を引きずって進むと鉄柱で支えた大きな欅が在り、
古ぼけた神社がある。


(200mの案内)


(八幡宮)


(義仲館跡の石碑)

旗挙八幡宮である。
赤い鳥居の横に木曽義仲公館跡の立派な石碑がある。
館跡はあまり広くなく、松などの植木があるせいか、敷地は狭いものに感じた。
昔の館はおよそこのくらいの大きさであったのであろう。

以前鴻巣宿で 伝源経基居館跡を見たとき、
こんな狭いところが館?と思ったが、
少なくもそこには空壕りらしきものがあったが、
広さとしては想像していたよりは狭いものであった。

さて、旗挙八幡宮については、
(幼名を駒王丸と名づけられ養父 中原兼遠によって育てられた
義仲公は、この辺りの平地に城を構え八幡宮を祭ったと伝えられている。
十三歳にして元服。木曽次郎源義仲と改め、
治承四年(1180)一千余騎を従え、ここに平家打倒の旗挙をした。
時に義仲二十七歳であった。
以後旗挙八幡宮と呼ばれている。


(大けやき)

社殿脇の大欅は樹齢約八百年と伝えられ、
公の時代より生きつづけ、落雷により傷ついたその姿は
悲劇の武将を物語ってくれるかのようである。)(日義村観光協会)
欅は科学的に調査され樹齢八百年が推定されている。
丁度、義仲公が旗挙した時期に植えられたもののようである。
後世の人たちが、自分たちに都合よく勝手に、
興味深い物語にしていったように思えてならない、。

木曽義仲は久寿元年(1154)源義賢の次男として武蔵国(今の
埼玉県嵐山町)に生まれたが、父が従兄弟の義平に討たれ、
この時二歳であった義仲(幼名駒王丸)は、木曽に逃れ中原兼遠に養育された。
兼遠の子供は、後の巴御前、今井兼平、樋口兼光がいた。兼遠の援助で、
義仲は平家追討の兵を挙げ、
京に上り征夷大将軍となり朝日将軍といわれたが、
源頼朝軍に攻められ滋賀県の粟津口で敗死した。
ときに31歳であった。


(義仲橋)


(義仲館)

元の道に戻って葵橋を渡らずに、爺ちゃんのいう二つ目の橋の袂には、
でかでかと義仲館右の看板がある。
橋を覗くと「義仲橋」であり、左折するとJR宮ノ越駅で、
逆に右折し橋を渡って、
右に公園を見ながら進むと義仲館はある。


(巴と義仲の銅像)

義仲館の入り口では、義仲公と巴御前の銅像が出迎えてくれる。
扉を開け入館料を払うと、受付には知識豊富なガイドさんがいて、
館内を隈なく、もう結構ですと言いたくなるほど、詳しく案内して下さる。
時間があれば1時間くらい掛かるかもしれない。
館内は人形と絵画で、義仲の生涯を解りやすく解説している。

ざっと見て帰ろうとすると、タイミングよく別のお客様が来て、リュックを下ろしている。

早々に挨拶して徳音寺へ向かう。


(徳音寺の石の門柱)





木曽義仲の里(旧中山道を歩く 171)

2009年06月13日 07時52分22秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(薮原駅)

(宮ノ越宿)
今日は2009年5月15日(晴)AM8:15外気温13℃と表示がある。
東京とは6℃くらい気温が低い。
国土地理院の「地図の知識」に書いてあったが、
標高100mにつき-6.4℃と言うから、標高900mのここ薮原では
こんな気温になるのであろう。
昨夜一泊した旅館の部屋には冷房の装置は無かった。
真夏でも25℃を越える日はあっても、朝夕はきっと涼しいに違いない。
今日の最高気温は18℃の予報。日本橋から29日目である。

薮原駅前を国道19号線に向かって歩く。やがて19号線に合流し、
右側の歩道を歩く。
国道は右に左にカーブして木曽川を縫うようにして進む。


(国道19号線)


(鷲鳥橋)


(吉田洞門)


(曲がりくねっている19号線)


(藤の花が美しい)


(山吹トンネル)


(木曽町の信号)


(交差点の右側に宮ノ越宿の看板がわずかに見える交通量が多い)


(義仲館の看板)

まず獅子岩橋で木曽川を渡り、次に鷲鳥橋で、ついで菅橋(すげばし)、
落石を防ぐ吉田洞門の脇を抜けて吉田橋を、さらに第二山吹橋、
山吹山トンネルの330mを抜けて第一山吹橋を渡ると信号があり、木曽町とある。
途中藤の花が咲き誇る景色があり、
雪をかぶった秀麗な山が前方に見えるが、名前は知らない。

その先にある信号の右先に(宮ノ越宿)の看板、
左先に(義仲館まで1800m)の看板を見たら、山吹橋を渡り右折する。
すぐJR中央本線のガードをくぐる。
この間、右側は木曽川のせせらぎに新緑の枝が伸びて、
三脚を持ったカメラマンが撮影の用意をしている。
大変美しい景色の渓谷である。


(渓谷のせせらぎ)

ガードをくぐると小公園がある。
公園の中に橋があり「巴橋」とある。
橋の袂に「巴淵」の石碑が建っている。

伝説が残る巴が淵と題して次のように案内がある。
(歴史が漂うこの淵は、巴状にうずまき巴が淵と名づけられた。
伝説には、この淵に龍神が住み、化身して権の守 
中原兼遠の娘として生れ、名を巴御前と言った。
義仲と戦場に馳せた麗将 巴御前の武勇は、
痛ましくも切々と燃えた愛の証でもあった。
巴御前の尊霊は再びこの淵に帰住したと言う。
法号を龍神院殿と称えられ、義仲の菩提所徳音寺に墓が苔むして並ぶ。
絶世の美女巴は、ここで水浴をし、泳いでは武技を練ったという。
そのつややかな黒髪のしたたりと乙女の白い肌元には、
義仲への恋慕の情が燃えていた。
岩をかみ蒼くうずまく巴が淵、四季の風情が魅する巴が淵、
木曽川の悠久の流と共に、今も世の人の胸に響き渡る。


(巴淵の碑と巴橋、奥の車の右側に手洗い水がある。)

・蒼蒼(あおあお)と巴が淵は岩をかみ
         黒髪愛しホトトギス啼く)(日義村)とある。

その脇の石碑に

・粟津野に 討たれし公の 霊抱きて
           巴の慕情 淵に渦まく 
とある。


(粟津野にの歌碑)

巴橋を渡り、旧中山道を進むと、
(この先道路工事中のため通り抜け出来ません)とある。
橋の袂に爺ちゃんが子守をしているのに出会ったので聞くと、
この先道路工事中で人も車も通れない、
(道路に穴が開いていて、木曽川に落ちてしまうから通れません)という。

橋を渡ったところに「義仲手洗い水」があるので、
「これが手洗い水ですか?」と聞くと
「以前はもっと山の上に在っただが、山が崩れて危ねえためここに置いた。
産土の南宮神社を拝むときの手洗い水にしたんだ。
この山の上には、義仲が烽火を上げた場所があるよ。
ここから木曽福島に合図をした場所だ。」という。
爺ちゃんなんでも良く知っている。ついでに
「旗揚げ八幡神社までまだ距離がありますか?」と聞くと、
「この川下にある二つ目の橋を左に行くと八幡神社だ。
橋を渡ると徳恩寺と義仲館がある。八幡神社はこの山の上にあるが、
何もねえとこだよ」という。
(何にも無いね)これを聞いたら、行く気が無くなった。
しかも山を登ると聞いたら余計に気力がなえた。

しかし、案内によれば宮ノ越の地名は、(この神社から町を眺めると、
町が腰の辺りにあるので、神社の腰あたり→宮ノ越になった)と言うから、
この八幡神社に寄らない訳には行かない。


(手洗い水の清水)


(葵橋の左手のガード前の案内)


(旗挙八幡宮)







薮原神社と極楽寺(旧中山道を歩く 170)

2009年06月07日 07時40分01秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(常夜灯と鐘楼)

(藪原宿2)
日本酒名「木曽路」の造り酒屋の前にあるガードをくぐり、
薮原神社と極楽寺に向かう。
ガードを出ると左から道路は下ってきており、右側は急な上り坂になっている。

坂上に石垣と本堂らしい建物そして鐘楼、常夜灯が見て取れる。
先ほど下ってきたばかりなのに、また上り坂かと、がっかりしながら、
疲れた足を引っ張りあげて坂を登る。

極楽寺の山門は常夜灯よりさらに先にある。
坂道の途中に山門があり中に入る。掃き清められて綺麗な寺院で、
周りの静けさが手伝って、より厳かに見える。
砂利を踏みしめて本堂に、その奥に阿弥陀堂のような建物があるが、
これが「お六廟」といわれたものなのか?と思いながらお参りをする。


(極楽寺山門)


(本堂)


(お六廟?)

「お六廟」とは藪原宿の工芸品として、
その昔、お六さんが造った櫛が大変有名になり、
旅人が藪原宿のお土産に「お六櫛」を買う人が増え名産品になったという。
その「お六さん」のお墓というのであるが、どうも真偽のほどが定かではない。

しかし「お六櫛」はその形から、子供の頃に母が使っていた木櫛を思い出す。
三日月形のその櫛は、大変頑丈に出来ており、
昔の長い髪の毛を解きほぐすとき、
櫛の歯こぼれに悩まされたのに、木曽の櫛は歯こぼれしないと、
母は大変重宝していたことを思い出す。

その櫛の伝統は連綿と引き継がれ、
ロケットが宇宙に飛び出すような世の中にあっても、
手作りで制作されているようである。

その阿弥陀堂なのか、「お六廟」なのかわからないが、
その横に、お隣の薮原神社に通ずる塀の切れ目から、
いったん外に出る。
案内書に寄れば、極楽寺には小堀遠州の手になる
美しい庭園があることになっているので、
阿弥陀堂、本堂、庫裏の裏などを覗いてみたが、
裏手はすぐ山になっていて、とても庭園など出来る余地はない。
どこか別の場所にあるのであろうか、見当たらない。
庭園は次回にまわして、薮原神社を訪ねる。


(薮原神社の赤い鳥居)


(奥に見える階段をさらに登る)


(写真が悪く、日陰ですこし見難いが高い階段を登る)


(本殿に掛かる扁額)


(本殿右奥の覆屋。木祖村有形文化財の標柱)

極楽寺のすぐ横にある赤い鳥居を横目に見て、
坂を登ると神社の本殿はさらに高い階段の上にある。
ボクは横の高い位置から階段を登るが、
正面から薮原神社に行くには、下のほうからそうとう長い階段を登らなければならない。

本殿は木祖村有形文化財で、本殿は三間社流造り、
(神殿の間口が3間あるつくり。通常は一間の間口が多く、一間社流れ造りという。)
文政十年(1827)諏訪の工匠二代 立川和四郎の作という。

薮原神社からもとの中山道に戻ると、左手の高台に薮原神社の赤鳥居と
極楽寺の甍(いらか)が丁度西日に当たって美しく見える。


(街道から見える薮原神社と極楽寺)


(防火のため造られた土手、防火高塀)


(お六櫛問屋)


(高札場跡)

少し進むと、その先に防火高塀跡がある。
元禄八年(1695)藪原宿に大火があった。
その後の大火対策で、類焼を防ぐために造った塀の跡である。
家と家の間に土塁を作り延焼を防いだ。
その先左手に旧家の宮川漆器店があり、宮川資料館として公開されている。
そのすぐ右手に木祖村役場があり、先ほど書いた「お六櫛」問屋はさらに先の
左手にある。

やがて右側に高札場跡の標柱があるので、
道路に沿って右折するのが旧中山道である。
道路は弓なりに右にふくらみ、広い道路に出る。
見上げると高い位置に薮原駅が見える。
右側は木祖村駐在所となっており、警察官が常駐している場所だ。
道は駐在所の前を大きく右に曲がっているが、
その先右手の木祖村村民センターの駐車場に「D51」の蒸気機関車があり、
機関車の横に一里塚の碑がある。

(中山道藪原宿 一里塚  江戸より 六十六里)とある。

66番目の一里塚である。


(高いところに見える薮原駅)


(右側の駐在所)


(その先のD51の機関車)


(一里塚の碑)

立派な建物の村民センターも隣接する「お六櫛」の資料を展示する
木祖村郷土館も無人で、郷土館に至っては
「御用の方は呼び鈴を押してください」と張り紙もむなしく、
誰も応答しないばかりか、誰も来る気配が無い。

旧中山道を歩くと、絢爛豪華な立派な建物や夜間照明を持つ運動場が
山間(やまあい)に場違いのように目に付く。
山村には、こうした設備はなかなか無いので、
欲しいと願う人の気持ちは良く判るが、
どれほど利用されるかを考えて造らなければ、宝の持ち腐れになってしまう。

ボクなどから言わせれば、緑と水の豊富な素晴らしい環境に囲まれて、
それ以上の運動場、体育館が必要になるとはとても思えない。
年間どれほどの利用があるかをきちんと推計した上で、
造ることを考えたいものである。
木祖村村民センター、木祖村郷土館をみてそう感じた。
村民センター前で中山道は県道26号とT字路で合流して左折、
JR踏切をガードでくぐり、さらに左折すると薮原駅舎にでる。

今日はこの駅前の旅館で一泊し、明日木曽福島まで歩を進める。

本日歩いた歩数 26832歩 距離にして16km。
鳥居峠があったから短い距離ながら、非常に疲れた。


(薮原)


(JR薮原駅)


(駅名が当用漢字でない所が雰囲気を出している)


(英泉描く浮世絵「木曽海道六拾九次乃内・薮原」)

ここで英泉は、鳥居峠の「義仲硯(すずり)水」の清水と

・ひばりより うへにやすらふ 峠かな   はせを(芭蕉)

の芭蕉句碑を絵の左側 松の根元に描いている。








藪原宿(旧中山道を歩く 169)

2009年06月03日 09時09分37秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(山中の下り道、山吹やつつじが咲いている)


(二つ目の熊除けの鐘)

(藪原宿)
丸山公園から峠の坂道をぐんぐん降って来ると、
二つ目の熊除けの鈴がある。
大きく鳴らして先を急ぐ。

ここには鳥居峠について説明が出ているので書き留めておきたい。
(「鳥居峠」は、標高1197mの峻嶺で木曽川と
信濃川の上流奈良井川の分水嶺をなしている。
峠の東麓が楢川村奈良井で、西麓が木祖村薮原で、
頂上は木祖村に属し、
薮原駅から約3km、奈良井駅から約3.6kmである。
そこの眺望は非常によく西には霊峰御嶽山、
南に駒ケ岳の雄峰が目の前に眺められる。
旧中山道筋に当たる峠路は、新緑紅葉共に美しく、
ハイキングコースとしては最適で、
昭和46年信濃路自然歩道として長野県より指定されている。
峠路の開通は歴史が古く、和銅年間(708~714)に開かれたという
「吉蘇路」をこれに当てている。はじめに県坂といい、
中世においては「ならい坂」あるいは「薮原坂」と呼ばれ、
明応年間(1492~1500)になって、
木曽領主木曽義元が松本の小笠原と戦った時、
この頂上から西方はるかに御嶽権現を遥拝して戦勝を祈願。
霊夢によって勝つことが出来たので、ここに鳥居を建立したので、
それより「鳥居峠」と呼ばれるようになった。)(木祖村)


(下りの道)


(下りの石畳道)


(原町稲荷社)

さらに降って左に原町稲荷社と書いた稲荷神社があり、
その先に三つ目の熊除けの鈴がある。
急な下り坂はこれで終わるのであろう、杖置き場が造ってあり、
山越えをしようという人に、
(友愛の杖で安心して楽しく峠越えをしましょう。木祖村)とあり、
数本の杖が置かれてあった。

考えれば、奈良井からの上り口には(杖置き場)など無く、
片手落ちだと思ったが、
熊除けの鐘も木祖村側(峠の下り側)にあったので、
これは木祖村の親切心の表れであろう。


(三つ目の熊除けの鐘と杖置き場)


(薮原600mの看板、右方面を見るとWCが見える)

杖はもう要らないということだから、山道はこれで終る。
しかし下り道はまだ続く。
やがて道路に交差するが、手前に藪原宿まっすぐ600mの看板があり、
右手に消防署らしからぬ消防署の建物がある。
消防署前の道を挟んだ向こう側に公衆トイレがあるので用を足しておきたい。
この跡は藪原宿の先にしかW.C.が見当たらないからだ。

道路をさらに下ると左手に赤い鳥居があり、「天降社」がある。
ここは「大もみじ」が木曽村天然記念物となっている。
さらに進み両側の家並みを抜け下り坂を行くと、目の前が開け右側に、
「尾張藩薮原尾鷹匠役所跡」の碑がある。


(鳥居の奥に見える大紅葉)


(お鷹匠役所跡)

説明によれば、
(はじめ美洲御鷹匠役所は妻籠宿にあったが、
伊奈川にあった鷹の飼育場を統合して享保15年、ここ薮原に移された。
この役所は明治四年に廃止されるまで存続したが、
土地の人々が「おたかじょ」と呼んでいるこの場所がその跡地になる。

毎年春になると、尾張藩から鷹匠と役人が出張して来た。
鷹巣を見つけて鷹の飼育や調教・鷹の公儀献上・巣山の管理および巡視等を、
木曽代官山村家の家臣や土地の人々の手助けを得て行っていた。
厳しい自然環境の中に棲みつき育った当地の鷹は優秀であり、
生まれた幼鷹とともに鷹狩を好む尾張藩主をはじめ、
将軍家に人気があったといわれる。)(木祖村)


(さらに下り街中に入る)


(飛騨街道追分の標柱)


(右の階段様の道を右折)


(人家の軒先の感じ)


(跨線橋を渡る)

少し町並みを下ると左手に「飛騨街道追分(分岐点)」の標柱がある。
中山道はJRの線路にさえぎられ、線路の向こうに行くには、
この標柱の右側の人家の前に、
これが道かと思われる下り道があるので、降りていく。
線路に沿って右側を覗くと跨線橋が見えるのでこれを渡る。
跨線橋を降りて道なりに進むと左側に藪原宿本陣跡の碑があり、
さらに古い旅館の(こめや)米屋がある。
米屋与左衛門のいかめしい看板を横目にして、
今度はすぐ右手にお酒のみには有名な「木曽路」の造り酒屋があり、
その向かい側に線路をくぐるガードがある。

薮原神社と極楽寺がその先にある。


(本陣跡)


(旅館米屋)


(「木曽路」の造り酒屋)