中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

顕正寺,深廣寺と静御前の墓(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 34)

2014年05月29日 10時42分52秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(顕正寺の石柱)


(栗橋宿2)

道路を挟んで顕正寺(けんしょうじ)がある。
ここには久喜市指定有形文化財の
木造阿弥陀如来立像があることで知られる。
久喜市に拠れば、寄木つくり阿弥陀如来立像は、
像高79cm、鎌倉時代の作と言われる。
本堂右横に(池田鴨之介の墓→)の大きな案内があるのでそちらに向う。

(池田鴨之介の墓の案内)


久喜市教育委員会の説明によれば、
(池田鴨之介は「新編武蔵風土記稿」によると、
並木五郎兵衛と共に、幕府に願い出て、
慶長年間(1596~1614)に、下総国栗橋村(現茨城県五霞町元栗橋)より、
村民を引き連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。
また下総の国中田新宿村藤の森(現茨城県古河市中田)より、
顕正寺を移したといわれています。
慶安元年(1648)12月9日に没し、
法名「光明院釈常薫」と言います。(中略)
代々栗橋宿の本陣役を務め、
子孫は明治22年私立淑徳女学館を設立し、
早くから女子教育に力を入れ、旧栗橋町の第三代町長として、
町政のために尽くした。久喜市教育委員会)とある。

(池田鴨之介のお墓、法名「光明院常薫」とあった)


顕正寺を出て、旧日光街道を行くと左手に(深廣寺)の案内がある。
左に進むと深廣寺(じんこうじ)の石柱があり、
正面に本堂があり、寄木造の単信上人の椅子に腰を掛けた座像が、
厨子に納められているとのことで、
深廣寺の第二代住職になった。
本堂左手に、樹齢300年の松の大木と21基の六角名号塔が目を引く。
この名号塔を造ったのが、単信上人であると言う。

(深廣寺の案内杭)

(深廣寺の石柱)

(深廣寺の本堂)

(本堂の無涯山の扁額)

(大松と21基の名号塔)


久喜市指定文化財(歴史資料)となっている「六角名号塔」について、
(高さ約360cm、一面の巾約50cm、
六角からなる石塔で、「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれている。
この塔は、深廣寺二代住職 単信上人が伊豆より大石を船で持ち帰り、
承応3年(1654)~明暦二年(1656)の間に供養塔を20基建立、
その後明和三年(1766)に九代住職 法信上人が一基建立したもの。
基礎部右側面の地名の表記が、右から①~④番目までと、⑬~⑳番目までが、
「武州栗橋」となっており、⑤~⑫番目までは「武蔵野国新栗橋となっている。

(石柱の基礎部分)

(武州栗橋 深廣寺と書いた基礎部分)

(武蔵国新栗橋 深廣寺とかいた基礎)

(21番目には「現世安穏 後生浄土」とある)


深廣寺を出て、旧日光街道を進むが、時間が17時近くなったので、
(栗橋駅入り口)の信号を左折、帰宅の用意をする。
栗橋駅までは、歩いて歩いて、疲れた身にはかなり遠く感じられたが、
街の雰囲気が駅に近く感じられたので、
T字路に指しかかったところで、左右どちらが駅か分からず、
右折した所に、車が停車していたので、近寄って道を訊ねると、
栗橋駅は左折するのが正しいとのこと、
「真直ぐですよ」と大声で念を押され、
内心ホッとして、駅に向った。

(「栗橋駅入り口」の信号機)


前方右手に駅らしき建物が見え、タクシーが待っているのが見え、
栗橋駅であることが分かった。JRと東武の栗橋駅が一箇所にあった。

(栗橋駅の建物)


駅が見えたところで、左手に小公園が見える。
入り口に「静御前の墓」と書いた石塔が建っている。

(静御前の墓と書いてある小公園)


静御前の墓がこんな所にあるとは、全く予想すらしなかった。
しかし、調べて見ると、日本全国に数箇所、静御前の墓があり、
伝説多き源義経が平泉から北海道に渡って、
さらに蒙古でジンギスカンになったと言われることから考えれば、
その妾の静御前の墓が、あっちこっちにあっても可笑しくはない。

静御前の墓として、久喜市教育委員会の説明をご覧ください。
(静御前は、磯の禅師(ぜんに)の一人娘として仁安3年(1168)に
生まれたといわれ、白拍子と呼ばれる美しい舞姫に成長いたしました。
干ばつが三年も続き、加えてその年も長い日照りで、
農民が大変困っておりました。
そこで、後鳥羽上皇が寿永元年(1182)、京都神泉苑に舞姫100人を選び、
「雨乞いの舞」を命ぜられました。
最後に静が舞い始めると空がにわかに曇り、激しく雨が降り出し、
三日三晩、雨が降り続いたといいます。
後鳥羽上皇は、静が15歳でありながら類稀な才能を賞嘆され、
褒美に「蝦蟇龍」の錦の舞衣を賜りました。
この衣は現在、古河市中田町の光了寺に保存されています。
平氏追討に功績のあった義経の寵愛を受けた静が、
初めて義経に出会ったのもその頃のことでした。
その後義経は兄頼朝の不興を蒙り、
奥州平泉の藤原氏を頼って京都を落ち延びました。
静は義経を慕って京都を発ち、平泉へ向いましたが、
途中下総の国下辺見付近で「義経討ち死」の報を耳にして、
悲しみにくれ仏門に入り、義経の菩提を弔いたいと再び京へ戻ろうとしました。
しかし、重なる悲しみと馴れぬ長旅の疲れから病気となり、
文治5年(1189)9月15日、この地で死去したと伝えられています。
侍女琴柱(ことじ)はこの地にあった高柳寺に遺骸を葬りましたが、
墓のしるしの無いのを哀れみ、
享和3年(1803)5月、関東郡代中川飛騨守忠英が
「静女之墳(はか)」の墓碑を建立したものと考えられています。
また境内にある「舞う蝶の 果てや夢みる 塚の蔭」と言う歌碑は、
江戸の歌人坐泉の作を村人が、
文化3年(1806)3月に建立したものであります。久喜市教育委員会)とある。

(静御前のお墓、遠景)

(静御前之墳とある)

墓石の右側にある歌碑、

 「   静や志づ
  しづのおだまき 
 くり返し昔を
  いまになすよしも
       がな」
 

墓石左側にある歌碑には、

 「   吉野山
 みねのしらゆき
     ふみわけて
 いりに志ひとの
  あとぞ恋し
      き」


(左手に旧墓石がガラス張りになって保存されている)

(旧墓石がガラス張りになって保存されている2)

(栗橋駅舎)


本日の歩行数4、5万歩、約28kmの歩行であった。





権現堂調整池と焙烙地蔵(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 33)

2014年05月26日 10時39分49秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(栗橋宿)
小右衛門の一里塚跡を過ぎて、
旧日光街道を進むと前方に高速道路の橋脚が見える。
(見える高速道路の橋脚)


地図に拠れば、この高架の下を抜けて右側にある国道四号線にぶつかり、
国道四号線の下をくぐって反対側に出なければならない。
旧日光街道は今まで右に国道四号線、
さらに国道の右手を権現堂調節池(行幸湖)がつながっているはずである。
(突き当たりは国道四号線)

(国道四号線をガードでくぐる案内図)

(ガードが見える)

(ガード)

(ガードを出たところ)


ガードをくぐって出ると見晴らしが良く、
正面に権現堂調節池(行幸湖)が見える。
(ガードを出ると見晴らしの良い桜と権現堂行幸湖の調節池)

(えんえんと続く桜並木と権現堂調節池)


日光街道はこの権現堂調節池(行幸湖)と左手の国道四号線との間の、
見晴らしの良い桜並木の道を何処までも歩く。
まもなく大きなビルに突き当たり、ビルを避けるように迂回すると、
東北新幹線の高架が見え、高架をくぐると車道で、
車は左へ国道四号線に入っていくが、
歩道は脇道に下りここでまた国道下を通り、国道四号線の反対側に出る。
(大きなビルを迂回する)

(東北新幹線の高架)

(高架を過ぎると左へは車道)

(歩道は脇道を下る)

(国道四号線をガードで反対側に出る)

(国道四号線のガード)


反対側に出たら右へ、国道四号線の方へ坂を登り、
国道四号線の左脇に「栗橋大一劇場」のところを、
旧街道は左の脇道に下っていく。
下り道は右へ曲がっていくが、曲がりきった所に神社がある。
鳥居の扁額に(香取宮 八幡宮)とある。
さらに進んで、左手に「会津見送り稲荷右」の案内杭があり、
進むと右手にお稲荷さんの赤い鳥居があり、近づくとお宮にでかでかと
「会津見送り稲荷」と書いてある。
(国道四号線に昇る)

(栗橋大一劇場)

(下りきった八幡神社)

(香取宮 八幡宮の扁額)

(会津見送り稲荷の案内杭)

(お稲荷さんの赤い鳥居)

(会津見送り稲荷と墨書してある)


説明板によると、
(江戸時代、徳川幕府が参勤交代制をとっていたころ、
会津藩の武士が藩主が江戸参向に先立ち、
先遣隊として江戸へ書面を届けるため、
この街道を栗橋宿下河原まで来た所、地水のため通行できず、
街道がどこかわからず大変困っていると、
突然白髪の老人が現れて道案内をしてくれました。
お蔭で武士は無事面目を果たすことが出来たという。-中略。
のちになって、この老人が狐の化身であることが判り、
お稲荷様として祀ったものである。久喜市教育委員会)とある。

久喜市の教育委員会も大変苦労なさっていると思える。
これはボクの感想。

このあと旧日光道中は、また国道四号線に上がり、
すぐ下ってガードを潜り抜け、出たところを右折する。
旧街道らしく初めての草道で、これで正しいのかと思ったが、
草道はすぐ終り、ぐるっと左へ曲がると、
案内にある通り、三河屋衣裳店がある。
(二回目国道四号線への上り道)

(下ったところ)

(ガードをくぐる)

(草道)

(左へ曲がる草道)

(三河屋衣裳店)


ここから栗崎宿のようで、
街道は鉤の手になって道路は右に急回転している。
言い伝えでは、ここに関所があったという。
この衣裳店の真裏に当る所に、焙烙(ほうろく)地蔵はあった。
ほうろくとは、戦時中金属は、大砲や鉄砲のために全てが供出したために、
フライパン代わりに土で出来たフライパンと思っていただきたい。
豆を炒ったり、米を炒ったりした。
焙烙地蔵堂は、関所破りを火あぶりの刑にした人のを哀れんで作られた。
(焙烙地蔵堂)

(焙烙地蔵尊)

(焙烙(ほうろく)


この焙烙地蔵について、
(むかし、現在の利根川に関所が設けられ、
人の通行をきびしく取り締まっていた時代、
関所を通らないで川を渡った者、
あるいは渡ろうとくわだて事前に発見された者は、
関所破りの銃罪人として、火あぶりの刑に処せられたと伝えられている。
処刑場も地蔵尊のある現在の場所であったと言う。
こうした沢山の処刑者をあわれみ、
火あぶりになぞらえて、
その後土地の人が供養のため焙烙地蔵として祀ったものである。
今も焙烙に名前を書き入れ奉納されているのが見受けられる。
またエボ地蔵(エボ=イボのこと)とも言われ、
あげた線香の灰をエボにつけると治る、
と言い伝えられている。久喜市教育委員会)とある。

旧街道を進むが、目当ての浄信寺が見当たらないので、
杖代わりに乳母車を押して歩いて居るおばあちゃんがいたので、
お訊ねする。

「浄信寺へ行きたいのですが、ご存知ですか?」と訊くと、
「そこに鏡(カーブミラーのこと)があるだろう、
その先に旗がひらめいている所があるからそこだよ。
あんたは檀家さんかよ?」と逆に訊かれた。
「いえ、違います。ボクは旧日光街道を歩いて日光まで行く所です。
昔の人は、どんな気持ちで歩いたのかと思って」と答えると、
「どっから来ただ。」と言うから、
「今日は(幸手)からきて、(栗橋)まで歩きます。」と言ったら、
「大変だなあ,これ持ってけ」と飴をポケットから沢山取り出した。
折角出されたものを、いりませんとは言えず、
「では遠慮なく」と言ってひとつまみ上げたら、
「もっともってけ」と手のひらに、どっさり飴を乗せられた。
「ありがとう」と言って頂戴したが、遠慮すべきだったのか、
今でもよく判らないが、疲れていることも手伝って、美味しく戴いた。
(旧日光街道)

(紅白ののぼり旗)





権現堂桜堤と小右衛門の一里塚跡(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 32)

2014年05月18日 17時59分02秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(権現堂桜堤)

(幸手宿4)

権現堂川(中川)に作られた堤防約一キロにわたって、
ソメイヨシノが植えられており、
この時期、桜祭りが行われている。
圧倒的な量の桜堤に何万と言う人が花見に来ている。
(桜堤)

(桜堤2)

(桜堤3)

(桜堤4)

(桜堤と人出を示す車)

国道四号線に架かる中川に架かる行幸橋が起点になって、
東南へ桜堤は続くが起点になる行幸橋右手に、
「明治天皇権現堂御野点所」の石碑がある。
その隣に「行幸堤(みゆきつつみ)の碑」がある。
行幸堤の説明板によると、
(権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。
しかし江戸時代を通じて何回もの洪水を経て、
明治時代になって地元から新しい堤防造成の機運が起こり、
明治八年八月に着工し、十月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光道中の平行した新権現堂堤が完成。(現在はその上を国道四号線が通っています。)
明治九年、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られて、
その労に感じ入り、この仕事に携わった者の名前を刻んで残すように言われ、
費用の一部が下賜されました。
人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸橋呼ばせていただきたい、
と申し出ると許可されたということです。
明治二十二年の町村制施行により高須賀村、外国府間村、内国府間村、松石村、
千塚村が合併して行幸村となりましたが、
その村名もこの行幸堤に由来している。―後略―(幸手市教育委員会)とある。

(「明治天皇権現堂御野点所」の石碑)

(「行幸(みゆき)堤の碑」)


文章では少し表現が難しいが、
国道四号線が通る橋(行幸橋)は中川をまたいでおり、
川に沿って権現堂桜堤はある。
そして四号線に平行して権現堂湖が水をたたえており、
この湖に沿って行幸堤はあったが、
今はその堤の上を国道四号線が走っているのだ。
栗橋に至るまで、この権現堂湖は国道四号線に平行してある。
(権現堂行幸湖の地図)


さて、権現堂堤には、桜が千本以上あり見事なことこの上ない。
堤の上の桜見物の雑踏の中に、
巡礼の碑がある。
(順礼の碑)


幸手市の説明板によれば、
(権現堂堤の上には、順礼供養塔と順礼供養の碑が建てられている。
享和二年(1802)六月、長雨のために水位が高まった利根川はついに決壊し、
人々は土手の修復に当ったが、
激しい濁流に工事を進めることが出来ず、手をこまねいていた。
そのときそこを通りかかった順礼親子がこれを見かねて、
自ら人柱を申し出、逆巻く流に身を投じたと言う。
するとたちまち洪水はおさまり、修復の工事が完成したという。
これに対し、順礼親子が工事はムダだといったのに怒った人夫たちが、
親子を川に投げ込んでしまったという説もある。
どちらが本当か分からないが、
順礼供養塔は、人身御供になった順礼親子を供養するため、
昭和八年に建設されたものである。
また順礼供養の碑には、
明治、大正の有名な画家結城素明の筆による、
母子順礼の姿が刻まれている。)とある。
(石碑には順礼の親子が線刻してあるが見えますでしょうか)


さてこのあと、順礼の碑の近くにマリア地蔵があると、
地図に書かれているので、訪ねることにしたが、
これが間違いで、近いどころかかなり先まで歩くことになった。
桜堤に沿ってかなり歩いた道路左に、そのマリア地蔵はあった。
(マリア地蔵)


説明によると、
(文政四年(1820)に造られた子胎(こそだて)延命地蔵で、
キリストを抱いたマリアに見立てられています。
錫杖の上に十字架が刻んであること、
キリスト教の仮託礼拝物の蛇や魚が刻んであること、
イメス(イエスをカモフラージュしたもの)と刻んであること、
などから江戸時代の隠れ切支丹の信仰の対象であったと考えられます。
一般にマリア地蔵と呼ばれ、市指定有形文化財になっています。
幸手市教育委員会)とある。

(子供=キリスト?)

(蛇と魚の画?)

(錫杖の十字架)


以前にも書いたと思いますが、隠れキリシタンの研究は、
ボクの高校の教頭先生が権威のようである。
隠れ切支丹の研究家は、
こぞって、この教頭先生の論文に敬意を表して引用しているが、
その論文に拠れば、隠れキリシタンは現在も続いており、
大正の終わり頃から昭和の初めに掛けて、
隠れキリシタンが、各地で話題になったが、
いずれも根拠がなく根も葉もない戯れ言であると結論付けている。

本題に戻って、旧日光道中は行幸橋を渡り終えると外国府間(そとごうま)で、
ここで国道四号線と別れを告げ左折する。
土手を下って最初の道を右折して、Y字路があるところまで直進する。
廻りは田畑でのどかな陽射しの中を歩く。
Y字路の中央に外国府間道標と言われる石碑がある。
中央に「右つくば道」、左側に「左日光道」、
右側に「東かわしま前ばやし」とある。これは現在の茨城県五霞村川妻、
総和町前林のこと。
(橋を渡り終え左折する道)
(左折した道)

(廻りは田畑のどかな道)

(Y字路)

(外国府間道標「右つくば道」とある)

(左側面 左日光道と読める)

(右側面「東かわつままえばやし」と書いてあるそうだが読めますか?)


その先道路は、田畑の中を進み、やがて神社にぶつかるところを左折し、
すぐ右折する。
(広がる田畑)

(田畑が広がる道)

(神社にぶつかる)

さらに進んで左手に八幡神社があり、設立由来が刻まれた石碑に、
「小右衛門下組」とあるから、この辺に一里塚跡がお寺の隣にあるはずと、
お寺を探すと、右手にお寺らしきものが見えた。
近づくと、小右衛門一里塚跡があった。
(八幡神社)

(小右衛門下組の石碑)


久喜市指定文化財としての一里塚跡について、
(慶長九年(1604)江戸(徳川)幕府は、大久保長安に命じて、
五街道を初めとして、主要街道に一里塚を築かせた。
江戸の日本橋を基点として、一里(約4km)毎に塚を築き、
その上にエノキなどの木を植えて道のりを表し、
伝馬制度に大きな役割を果たしたほか、
旅人の休憩所にも利用された。
道中奉行が作成した「五街道文間延絵図」のうち、
日光道中を描いた「日光道中文間延絵図」にも、
この一里塚が描かれている。
この塚は幸手宿と栗橋宿の中間で小右衛門村にあったものである。
現在塚の上には、昭和初期に付近から移築されたと言う
弁財天堂が建てられている。――以下省略。久喜市教育委員会)とある。
(お寺と弁財天堂らしき建物)


小右衛門村にあったため、
何時の頃からか「小右衛門の一里塚跡」と呼ぶようになったらしい。
説明にある、一里塚の上にエノキを植えたのは、
大久保長安が、
「どんな木を植えたら宜しいでしょうか?」と、
家康に聞いたところ、
「ええ木を植えろ」と言ったのが、よく聞こえなかったので、
エノキと言うことになったと言うが、定かではない。
(一里塚跡の弁財天堂)




聖福寺と正福寺(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 31)

2014年05月05日 17時12分40秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(荒宿の信号)

(聖福寺の石塔)

(幸手宿4)
街道を進むと、(荒宿)の信号があり、
次いで左手に(聖福寺)の石塔が見え、
奥のほうにいかめしい山門が見える。

山門前に聖福寺について(埼玉県、幸手市)の説明板がある。
(聖福寺は、寺号を菩提山東皐院聖福寺(ぼだいさんとうこういんしょうふくじ)
と称する浄土宗知恩院の末寺で、
本尊は阿弥陀如来で観音像は運慶作と伝えられて言う。
徳川三代将軍家光が日光社参の折、
御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを初めとし、
天皇の例弊使や歴代の将軍が十八回にわたり休憩した。
将軍の間、例弊使の間、菊の紋章の入った勅使門があり、
左甚五郎作と伝えられる彫刻も保存されている。
また、ご朱印状により十石を賜っていたことが判る。―後略)とある。

勅使門の前に来ると、説明にあった「御殿所勅使門」の石碑があり、
菊のご紋の入った扉が付いている。
往時は、徳川将軍や日光例弊使が来た時しか門を明けることは無かったそうであるが、
将軍と間違えたわけでもないと思うが、ボクが訪ねた時は開いていた。

(勅使門)

(菩提山の扁額)

(御殿所勅使門の石碑)

(門扉にある菊の御紋章)

(鐘楼と本堂)


勅使門右手に鐘楼があり、奥に本堂がある。
通りからは奥まっていることもあり、静寂に包まれていた。
聖福寺参道の右横に、芭蕉の句碑が建てられている。
・幸手を行ば栗橋の門     焦
・松風をはさみ揃ゆる寺の門  良

句碑左下の解説によると、
(江戸時代、門前の通りの日光街道は、将軍の日光社参をはじめ、
さまざまな旅人がゆきかい、その中には奥州へ向う文人、
芸術家も多くあったことであろう。

 『奥の細道』の旅を終えた俳人松尾芭蕉は4年後の元禄6年9月13日、
江戸深川、芭蕉庵で十三夜連句を催した折、奥州の旅を思いおこし、
同行した弟子曽良と並んで右の句をよんだ。

 時を経て、昭和62年4月10日付の新聞紙上、
埼玉の俳人鈴木一郎氏は、右2句を紹介しながら、
芭蕉に続いてよまれたこの曽良の句の門を
聖福寺の勅使門として間違いなかろうと説を示された。
平成13年、日光街道400年を迎え、同14年、山門の改修工事が成り、
併せてこの句碑を建立し、往時をしのぶものとする。

                         平成15年 秋彼岸
                     聖福寺第二十八世 静誉康隆

 石碑の書体は、『芭蕉袖草紙』の原本を拡大複写して刻んだものである。)
とある。

(芭蕉句碑)


聖福寺を出て街道を進む。
道路正面に大きな石灯籠が見え、奥にお寺らしきものが見える。
旧日光街道はその石灯篭の前を右へ緩やかに曲がって行く。
石灯篭の奥に香水山正福寺(こうすいざんしょうふくじ)がある。
(大きな石灯篭)

(正福寺)


正福寺(しょうふくじ)は、先ほどの聖福寺(しょうふくじ)と字は違うが、
読み方が同じで地元の方は呼ぶのに困るだろうと思う。

いずれにせよ、埼玉県と幸手市が紹介する説明では、
(正福寺は、香水山楊池院(こうすいさんようちいん)正福寺と称する
真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王である。
当山は、江戸時代学問の研究や子弟を養成する定法談林であり、
当時この寺は、四十九ヶ寺の末寺を持っていた。
また、将軍徳川家光の代、御朱印十三石を賜っている。
境内には、県指定史跡の「義賑窮餓の碑」がある。
天明三年(1783)に浅間山が大噴火したため関東一円に灰が降り、
冷害も重なって大飢饉となった。
この時、幸手町の有志二十一名が金品を出し合って、
難民の救援に当った。この善行が時の関東郡代伊那忠尊の知る所となり、
顕彰碑を建てさせたという。
また、樹齢四百五十年、根回り五メートルもある槙の大木があり、
県の天然記念物に指定されていたが、惜しくもかれてしまった。
―後略)とある。

(義賑窮餓顕彰碑)

(史跡義賑窮餓の碑)

(道標の馬頭観音供養塔 左側面に見える左日光道中)

(枯れてしまった元天然記念物の槙)


説明板にもあったように、正福寺は古い寺院であるため、
無縁になった墓が多くなり、寺の経営にも影響するのであろう、
無縁の墓を一箇所に集め、新しい墓地を売り出したに違いない。
無縁になった供養塔を境内入り口に山のように積み上げて供養してある。
(無縁仏となった供養塔の数々)

(左へ曲がる旧日光道中)

正福寺を出て、旧道を行くとまもなく国道四号線に合流する。
その合流点の交差点を(内国府間)という。
権現堂川(中川)を挟んで手前が内国府間(うちごうま)、
橋を渡ると外国府間(そとごうま)になる。
奇妙な地名であるが、公民館などで訊いても、土地の年寄りに聞いても、
この変わった名前の由来を知っている人はいなかった。
(内国府間の信号で四号線と合流)

(信号機 幸手 内国府間 Uchigomaと読む)


この(内国府間)の信号を左折して、しばらく歩くと右手前方に、
ものすごい量の桜が見渡す限り続いている。
その量たるや圧倒的という意外に言葉を知らない。
さすが埼玉県随一の桜名所である。

(権現堂桜堤の圧倒的な桜)


桜にも取れて歩くと、左に八幡神社参道の石碑があるのに気づく。
参道の方へ左折すると、右手に神社の鳥居と本殿が見える。
この神社は、幸手城主一色宮内大輔の家臣、
遠藤石見清吉が帰農して開発したと言われている。
庚申信仰の対象となっていたという。
(八幡神社参道の石碑)

(八幡神社の鳥居と本殿)

(神社脇の庚申塔の数々)

(石碑には庚申塔と書かれている)

旧街道に戻って、少し歩くと、中川をまたぐ橋に出る。
行幸橋(みゆきばし)という。
行幸橋の少し下流で権現堂行幸湖(みゆきこ)が、
権現堂桜堤にぶつかる様にして、中川に合流して流れていく。
橋の袂に信号があり、右手が権現堂桜堤で奥までつながっている。
国道四号線(日光街道)は橋を渡ってすぐ左折するが、
右手には権現堂行幸湖が川のようにあり、それに平行して進む。
この四号線は権現堂行幸湖が氾濫しないように、
住民によって造られた土手であった。
こから栗橋まで長い道のりを行く四号線は、
右手に見える権現堂行幸湖の堤であったようである。

(行幸橋みゆきばし)

(行幸橋から撮った中川)




幸手市街の歴史を感じる建造物(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 30)

2014年05月02日 11時57分05秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(岸本家)


(幸手宿3)
幸手宿に残る歴史を感じる建造物には、
紺地に白で「日光街道幸手宿」と書かれた暖簾(のれん)が出されている。
信号を渡ってすぐ右側に小島商店。元薪炭商であり、絹糸商であった。

(小島商店)


少し先の右側にお酒類を商う永文商店、
右側の壁にでかでかと芭蕉と曾良の図が描かれ、

・ 幸手を行ば栗橋の関      焦(芭蕉)
・ 松風をはさみ揃ゆる寺の門   良(曾良)

連句の一部が記入されている。
ここにある曾良が読んだ寺の門は、
幸手市のこの先にある聖福寺にある門を指していると言われる。
芭蕉の詠んだ句の中にある関は、栗橋のどこにあるのだろう。
先行きが楽しみになってきた。

(永文商店)

(永文商店の右側の壁の芭蕉と曾良の旅姿と俳句)


さらに進むと右手に小公園があり、問屋場跡の説明板がある。
その後ろに幸手福祉会館があって、
お手洗いがあるので用のある方はここで済ませて置きたい。

(問屋場跡)


各街道の宿場には、荷捌きをする問屋場があり、
宿場ごとに荷物の運賃が定められていた。

さらに進む、元石炭商の竹村家がある。昭和初期の建物だそうで、
現在は、建物だけ残って生活の痕跡が見られない。

(竹村家)


次いで平井家、元米穀賞でもあり、
味噌を商っていたのか味噌増の屋号があるという。

(平井家)


次が幸手宿の中心となる本陣家、知久家跡。
(知久家は本陣、問屋、名主の三役を兼ね、
幸手宿ではもっとも重要な役割を果たした家柄でした。
初代帯刀(たてわき)は、長野県伊那郡の豪族の出で、
同郷の関東郡代伊那熊蔵より幸手宿の久喜町開拓を命じられ、
諸役を務め、明治三年(1870)に本陣が廃止されるまで、
代々幸手宿の繁栄に尽くしました。
明治六年、知久家の書院で小学校が開設され、
明治九年、明治天皇が東北巡行の折に宿泊されています。)
(幸手市教育委員会)とある
(幸手宿本陣 知久家跡)


その先同じく左手に(ならいち)文房具店があり、
その手前にも古い家が見える。

(古い家)

(ならいち文具店)


この(ならいち文具店)では、
幸手宿について地元の歴史家が調べた歴史書を購入することが出来る。
さらに進むと、同じならびに往時を感じさせる高浜商事の家がある。
ここでは今も昔と変わらぬ肥料店を商っていると言う。

(高浜商事)

これで幸手宿の旧家は終りを遂げる。
「幸手桜まつり」の現地はまだまだ先だ。



歴史を感じる幸手宿(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 29)

2014年04月29日 10時36分45秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(東武幸手駅)


(幸手宿2)
2014年4月1日晴れ、気温19℃の予定。
二日続く五月並の陽気に、桜が満開になる。
幸手駅は、花見客が電車を降りるためか、普段の日というのに、
老若入り混じって混雑している。

駅を出ると観光協会が大声を出して、
「権現堂桜まつり行きのバスが発車しま~す」と声を張り上げて、
一人一人にパンフレットを渡している。
花見で有名な幸手の権現堂堤は、今朝NHKのニュースで映像が流れていた。
幸手駅まで、上野駅から急行でおよそ60分かかると言うのに、
この人出である。
日本人の桜好きは今始まった事ではないが、
それにしても上野公園や、墨田公園、千鳥ヶ淵公園だけでは飽き足らず、
埼玉県の幸手まで足を伸ばしたのであろうか。

いやいや上野の山や隅田川、千鳥ヶ淵の足の踏み場もない混雑から言えば、
多分、埼玉の方へ行けば混雑が緩和されると思って、
みんな出かけて来るのであろう。

駅を出て旧日光街道まで出る歩道を歩いて居ると、
(桜祭り)ののぼり旗がはためいており、
よく見ると街灯の頭にも桜のマークが入っている。
幸手市は、この桜堤のお蔭で潤っているのであろう。

(のぼり旗のある街灯)


話は飛んだ方向にずれてしまったが、
今日は幸手宿を歩いて栗橋まで行く予定である。
時計を見ると11:30分である。
時間を知ったら、急にお腹が空いて来た。
目の前にあるお蕎麦屋さんに入って腹ごしらえ。

店内は桜見物のお客さんで殆んど埋っており、
やっと座る場所を見つけて、
「大盛りそばは量がたくさんありますか?」と聞く。
その昔、信州の小諸のお蕎麦屋さんで、
「大盛そば」と注文したところ、
お店の女性がメニューを差し出した。
見ると、もりそば、中もりそば、大盛蕎麦と、
三段階に分けてある。
その女性が言うには、
「大盛りは、1kgありますが・・・」と。
そこですぐ察して、「もり一枚に訂正」と変更した経験がある。
「もり蕎麦」だけでも、東京の「大盛り蕎麦」に匹敵した量であったのだ。

女将さん曰く、「一人前半ですよ」それで納得して、
改めて「大もり蕎麦」と元気よく頼んだ。
店内のお客さん達は、まだお店に入ったばかりであったと見え、
「大盛りそば」が目の前に現れるまでかなりな時間が掛かった。

お蕎麦屋さんを出たら、12:30分。一時間も掛かっている。
少し歩いて、(幸手駅入り口)の交叉点にでる。

(幸手駅入り口の信号のある旧日光街道)


ここの左右が旧日光街道である。
信号の向うに、旧家らしい建物が目に付く。
目を右に移すと塀に(歴史を感じる街 幸手)の大きな看板が見える。
交流により幸手の街の活性化を図る団体NPOの看板であった。

(旧家らしい建物)

(歴史を感じる街 幸手)の看板)

(街並みの地図)

(街並みの地図2)

(街並みの地図3)

(街並みの地図4)


建物は(コーヒーショップ)になっているが、
説明によれば、国登録有形文化財に指定されている
(岸本家住宅母屋)で、元しょうゆ醸造業。
上埜屋(うえのや)の屋号で、
その醤油はパリ万博で銅メダルを獲得していた家である。
そう言えば、お店の横に国登録有形文化財の標柱があった。

(国登録有形文化財の標柱)


この看板を一所懸命見ていたら、見知らぬ男性から声を掛けられた。
「はいっ!」と手渡された小冊子
「日光街道幸手を感じる会」の発行の看板と瓜二つの内容の印刷物であった。
欲しいと思って写真を撮っていたので大助かり、
厚く礼を言って、印刷物を頂戴した。
(パンフレット)(左側は旧日光街道 幸手宿の延絵図)




たにし不動の神明神社(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 28)

2014年03月19日 15時57分41秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(幸手市の看板)

(幸手宿)
幸手市の看板があるところから、
少しすると杉戸高野台駅は左の案内看板がある。
四号線は、両側にマクドナルドや日高屋のラーメン、
吉野家などの外食産業の看板が目に付く。

(杉戸高野台駅の案内)


しばらくすると、自動車買取業者の看板があって、
その手前を左に入る道がある。
これが旧日光街道で、ここで左折すると、
すぐホンダ幸手店があり、少し行くとジョイフル・ホンダのお店がある。
さらに進むと道路は左にカーブして、踏み切りにぶつかる。
東武日光線のこの踏切を渡ると一面に広がる畑がある。
関東平野広いと感心しながらひたすら進むと、T字路で信号にぶつかる。
信号の先は何屋であろう(Belc)の看板が見に入る。
この道を左折するのであるが、後で調べたら、この道は日光御成り道であった。

(自動車買取業者の看板のある国道から左へ入る所)

(ジョイフル・ホンダの大きな店)

(東武線の踏み切り)

(踏み切り先の一面の畑)

(突き当たりに見えるBelcの看板)


江戸時代、日光へ通う道は、の三通りあった。
一つは、誰もが通った五街道の一つ、日光道中。
二つ目に、家康の命日に、
京都から日光東照宮に幣帛を奉献するための勅使が通った、日光例弊使街道。
三つ目に、将軍が江戸城から東照宮へ通った、日光御成り道、である。

このT字路で日光御成り道に旧日光街道は合流していたのだ。
将軍になったつもりで、先に進むと左手に神宮寺があるはずであるが、
見回したところ見当たらない。
歩いてきた老人に尋ねたが、ご存じない。
あまり人通りが無いので止む無く前に進む。

(合流した日光御成り道)


かなり先の左手のやや奥まった所に、その神宮寺はあった。
(鷹尾山誓願院神宮寺は、浄土宗の寺で、本尊は薬師如来です。
源頼朝が奥州征伐の折に、この地で鷹狩をし、
戦勝を薬師様に祈って開基したとも伝えられ、
この故事から鷹尾山誓願院の名が付けられたといわれています。
薬師如来像と十二神将ともに立派な彫刻で春日賢門作と言われています。
中世の頃は、神宮寺村と村名になるほどの大寺で、
一村が寺領であったこともありました。)(幸手市教育委員会)とある。

立派な本堂が見えたが、入り口に鍵のかかった鉄柵があったので、
中に入って、薬師様と十二神将を拝む事は叶わなかったが、
門前の新しく造られた六地蔵で我慢した。

(神宮寺と六地蔵尊)


少し進むと東武線の踏切を越え、信号があって左から来た道路と合流する。
ここから先に倉松川に架かる志手橋を渡ると、
すぐ右手に石の鳥居があり、その鳥居の右側に
「螺不動」と自然石で出来た石碑がある。
神明神社である。

(左から来た道路と合流)

(神明神社の鳥居と螺不動の石碑、左手に二つの社が見える)


鳥居の奥には、四つ神社があり、
左側に手前から、菅谷山、次が成田山、の扁額を持つ神社、
正面が、今宮大杉神社の扁額を持つ神社、
手前右手に、稲荷大明神・聖徳太子堂・水神宮の扁額を持つ神社がある。
入り口鳥居横の「螺不動」は「たにし不動」と読むらしい。

(正面の今宮大杉神社と
右手前の稲荷大明神・聖徳太子堂・水神宮の扁額を持つ神社)


説明板には、神明神社とたにし不動尊として次のように説明がある。
(神明神社は、宝暦五年(1755)伊勢皇大神宮の分霊を祀った神社です。
境内には、成田・菅谷不動尊があり、
菅谷不動尊は「たにし不動」とも言われています。
眼病の人が、「たにし」を描いた絵馬を奉納して祈願すれば、
ご利益があるといわれ、この絵馬は他にはあまり例のないものです。
江戸時代には、ここに高札場がありました。幸手市教育委員会)とある。

ここに高札場があったと言う事は、
ここから先が日光街道の幸手宿ということになる。
また、他では聞いた事のない、
たにしの絵馬を奉納すると眼病に効くと言うのも珍しい神社で、
絵馬を見てみたいと思ったが、見渡した所絵馬は見当たらない。
そこで菅谷山の扁額がある神社を覗いて見たら、
ご神体に「たにし」が置かれている様であった。

(菅谷山の社)

(菅谷山の扁額)

(ご神体は「たにし」でしょうか)


神明神社を出て進むと、(幸手駅左)の案内看板、そして信号があり、
左手に「明治天皇幸手行在所」の石碑がある。
ここを幸手市は公園と言っておりますが、
公園にはしてはあまりにも小さな一画です。

(幸手駅左)の案内看板)

(「明治天皇幸手行在所」の石碑)


説明では、
(明治天皇は、明治九年(1877)奥羽巡幸の際、
明治十四年七月、と十月山形・秋田・北海道巡幸の際、
また明治29年十月近衛師団の演習天覧の際、
幸手を通られ、明治九年には元本郷の知久家に、
あとは右馬之助町の元名主であった中村家に宿泊しております。
この公園に、「明治大帝行在所御跡」と刻んだ記念碑、
指定説明をした説明板(台、屋根部分は復元)、現在は効力を失っていますが、
当時の史蹟名勝天然記念保存法による指定標識の三点が移設保存されことになりました。幸手市教育委員会)とある。

(「明治大帝行在所御跡」と刻んだ記念碑)

(手前の屋根つき説明板)


この信号を左折して幸手駅から帰宅した。

時刻:16:16発北千住行き、帰宅したのは18時であった。
歩行数3・5万歩、約22kmであった。



杉戸山 宝性院(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 27)

2014年03月15日 17時26分39秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(東武動物公園駅)


(杉戸宿)
旧日光街道の杉戸宿には、取り立てて紹介するようなものはない。
東武日光動物公園駅を下車して、
東口を旧日光街道の(杉戸宿本陣跡)に向って進む。
動物公園駅を降りたところは宮代町であるが、
電柱には「百間」と書いてある。
「百間」とは妙な地名であるが、どんな読み方をするのかと、
商店の方に聞いてみた。
(百間の電柱)


「ここの地名は(百間)と書いて何とお読みするのですか」
「(もんま)と読みます」と答が返って来た。
聞き間違いかと、訊きなおすとやはり地名は{もんま}と読むそうだ。
「ももま」が転じて「もんま」になったと勝手に想像して先を急ぐ。

(杉戸宿本陣跡)の信号をさせつする、これが旧日光道中である。
杉戸宿には旧家が点々として残っている。
(杉戸宿本陣跡前の信号)

(大きな木のある古い家の門)

(旧街道にふさわしい家1)

(旧街道にふさわしい家2)

(旧街道にふさわしい家3)

(旧街道にふさわしい家4)

(久喜方面と幸手方面の道標)

(宝性院の看板)


しばらくすると街道の途中に宝性院の看板がある。
看板の前に立つと、左手に立派な山門が見える。
真新しい宝性院の石柱が印象的であった。
その石柱の左手に、
「第十五番 奥の細道 関東三十三箇所霊場」の石柱が建っている。
石柱の背後には、
「芭蕉紀行三百年記念建之」と刻んである。
芭蕉の「おくの細道」紀行の300年を記念して建てたものと思われる。
(真新しい宝性院の石柱と山門)

(第十五番 奥の細道 関東三十三箇所霊場の石柱)

(石柱の背面)


山門に近づくと、杉戸町教育委員会の説明板が文字もかすれて立っている。
説明では、
(太政官より明治五年(1872)近代的法規である「学制」が出されると、
ここ宝性院にも杉戸宿・清地村・倉林村の児童を教育するために、
杉戸学校が設立された。児童数は男子117人、女子35人、
教員は五人であった。以下省略)とある。

以後紆余曲折があって、現在の小学校になった模様が、
書き記されていたが、
明治の初めには、
この地区の児童全員が学校に行ったようには記されていなかった。
「男子117名に対し女子35名」は、
女子は勉強する必要なしの時代を表している。
男女の差別は戦後まで歴然として続いていた。

亭主である父が白いものを黒と言うと、
妻の母はそれに抵抗する事が出来なかったのを、
ボクは覚えている。
終戦後、男女も職業も人種も、法律により平等である事が示されると、
父、母の立場が逆転したのを鮮烈に記憶している。
また人種の差別も次第に無くなっていった。

話は戻って、
門前には、三体の石柱があり、
一番左に、「庚申塔」の文字が、
中央には、庚申塔の「青面金剛像と足元には三猿」があり、
右側には、笠つきの庚申塔「青面金剛と三猿」が立っており、
旅の安全を願った証拠だ。
(宝性院門前の庚申塔)


山門をくぐって右側にある不動堂について
(真言宗智山派の杉戸山 宝性院は、杉戸宿の中央に位置して、
不動堂は弘化三年(1846)に再建されたもの。
由来は、幸手城主 一色宮内大輔義直が、永禄三年(1561)
亡き妻の追福菩提のため一宇を建立し、
「安産不動明王」を安置し、不動寺と号した。
その後、安政四年(1858)春、
成田山・菅谷山の不動明王を祀り、現在三体の不動明王が祀られている。
元和二年(1616)教職大和尚が旅人の安全を願って大伽藍を建立し、
次号を宝性院と改めた。
当時の伽藍は関東大震災で大破したため、弘法太子1100年記念事業として、
昭和九年現在の本堂は再建された。)(杉戸町教育委員会)の説明がある。
(宝性院の不動堂)

(宝性院の本堂)


その後旧日光街道は旧家らしい家を右手に見たりして、
国道四号線に合流する。
ここには左手に、交通安全のお地蔵様が見え、
国道の安全を願って建っている。
しばらく歩くと右側に、赤い鳥居と神社が見えてくる。
赤いのでお稲荷様かと思ったが、
厳島神社の分社であった。
(国道四号線への合流点)

(交通安全のお地蔵様)

(厳島神社の分社)


ややあって(幸手市)の看板があり、ここから幸手市に入る。
(幸手市の看板)




小淵山観音院(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 25)

2014年03月02日 17時26分00秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(小渕山観音院の楼門)

(春日部宿 3)
国道四号線に合流してしばらく進むと、
左側に年代ものの古い木造の、
いかにも古色蒼然とした山門が見える。
小渕山観音院と言う。

古びた門の左右には、阿吽(あうん)の仁王像がこれまた古いものらしく、
今にも崩れ落ちそうな木造であるが、
仁王様らしく鋭い目つきは、きっと名のある彫刻家が刻んだものであろう。
通り過ぎようとする参拝客を睨みつけている。
(左側の吽形の仁王像)

(右側の阿形の仁王像)


楼門は、先の3・11の東北大震災の影響で、
今にも崩れそうなため危険で、周りを縄で囲み、
「仁王門の中を通り抜けないでください」と注意書きがあった。
門の横を恐る恐る通り抜けて本堂に向うと、
「仁王門改修のお知らせ」があって、
(この仁王門は、元禄二年(1689)建立で,三間一戸楼門形式と言い、
向って右側に「阿形(あぎょう)」左に「吽形(うんぎょう)」の金剛力士像が安置されており、
春日部市唯一の仁王門として文化財に指定されています。
2014年1月から改修工事を実施します。
歴史ある文化財の復興事業故に当院のみで行える規模ではありません。
被災文化財の救援と修理・保存に向けて、
多くの方々からご厚志を賜りたく存じます。)とあった。
つまり災害復興事業の寄付金・義捐金のお願いであったが、
確かに、早く復興するように願って賽銭をいつもより多く収めてきた。

今この道を通って、いずれ震災の福島、仙台、石巻を通過するであろうに、
これから被害でまだ復興がままならない場所を目にすることであろう。
(本堂)


小淵山観音院については、埼玉県、春日部市の両著で案内があるので、
紹介しておきたい。
(小淵山観音院は、新編武蔵風土記稿の小渕村、観音院の項に
「本山派修験、京都聖護院末、安永二年(1773)正年行事職を許される。
小渕山正賢寺と号す。本尊正観音、応安二年(1369)住持玄通が書きし
縁起有に拠れば、古き像なるべし。
中興開山は尊慶と言い、年代を知らず。」と記されている由緒ある古刹である。

この寺は、この地方の観音信仰の霊場としても有名で、
家内安全、商売繁盛のほか、いぼ、こぶ、あざにご利益があると言われる。
毎年八月十日には、この日参拝すると四万六千日分のご利益が授けられる
と言われる四万六千日祭りがあり、県内の山伏が参集して護摩修行を行い、
近隣の善男善女が枝豆を奉納し参集する祭礼がある。
また三月には、かって馬寄席祭りがあり、
農耕に従事した牛馬がいろいろな飾りをつけて安全を祈願する祭りがあった。
本堂内には、木造の白馬が安置されている。
本尊「正観音像」には、その昔、洪水でこの地に流れ着き、
一度は元の寺に返したが、その後洪水で再びこの寺に漂着したので、
お堂を建てて安置したものと言われる伝説がある。
本堂の格天井には、花鳥の彩色が施され、
格縁ごとに大勢の粕壁宿の商店主の名前が記されており、
外壁には、多数の絵馬のほか、
八丁目の和算士 原伝三郎が奉納した算額が掲げられている。
また寺には「毛もいへば 唇さむし 秋の風」と詠まれた芭蕉の句碑、
市内随一の楼門(仁王門)七体の円空仏がある。)とある。
(木造の白馬の像)

(残念ながら格天井は暗くて写っていない。正観世音の提灯)

(芭蕉句碑)


・ ものいえへば 唇さむし 秋の風 はせお
と刻まれているのが、やっと読める句碑であった。
なお、外壁の掲げられていると言う算額は、
風雨にさらされ文字や描かれた画は消えて板の木目のみになったいたので、
天井のみを写真に収めた。
(本道の天井部分)



九品寺(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 26)

2014年02月25日 17時21分38秒 | 日光・奥州道中ひとり歩る記
(杉戸町の案内)

(杉戸宿へ)
日光街道に戻って進むと、杉戸町に入る。大きな杉戸町の看板が目に入る。
その後に球形のモニュメントが置いてある。
何を意味するのだろうか?

後で調べて判った事であるが、
北緯36度線上に杉戸町があるということでのモニュメントである。
丸いのは地球儀であり、その北緯36度線上に杉戸町が描かれている。
北緯36度線上の杉戸町の旧日光道中をこれから歩くことになる。
(杉戸町の地球儀)

(ガソリンスタンドの先左へ)

日光街道を進むと、三つのガソリンスタンドをやり過ごして、
その先に国道より左へ分かれる道がある。
これが旧日光街道である。

左へ分かれる道を進むとすぐ左手に九品寺(くほんじ)が見える。
満聚山九品寺という。
ここには本堂のほかに地蔵堂があって、
その横に、往時は街道沿いにあったと思われる道標を兼ねた庚申塔がある。
正面に「青面金剛」、左側面に「左 日光」、右側面に「右 江戸」とある。
どうやら道路の向かい側にあったものを、移動したものらしい。
この九品寺の向かいには、立場を営んでいた高野家があるという。
立場とは、街道際に設けられた休憩所で、茶屋や売店が設けられていた。
道路の向かい側には広い庭があって、その向うに、
それらしき古い家屋が建っているが、これが高野家であろうか。
(満聚山九品寺)

(満聚山九品寺の石柱)

(九品寺の地蔵堂)

(道標を兼ねた庚申塔青面金剛(しょうめんこんごう)と右江戸)

(左日光)

(立場の様に見える向かいの家)

(街道に面してある地蔵堂)

(地蔵堂のある旧家)


杉戸町は旧家が多く門前に地蔵堂(?)を置く旧家が見られる。
少し進むと右手に馬頭院の大きな看板が目に付く。
真言宗智山派の旦照山馬頭院観音寺である。

杉戸町教育委員会によれば、
(馬頭観音寺の本尊は、伝教大師の作と伝えられる。
脇仏には延命地蔵尊及び不動明王がある。
―中略。
また境内には文永七年(1398)の青石塔婆がある。)とある。

その青石塔婆は、山門先の本堂右前に置かれているが、
本来は当山住職墓地に建てられていたもので、
緑泥片岩に阿弥陀如来の梵字と文永七年の記年銘がある。
(現在高さは106センチあるが、関東大震災で倒壊し、
頭部及び種子部が40センチ欠けているが、杉戸町最古のもだそうだ。
墓地改修の折、基礎部を30センチほど失い、
現在地に台石をつけて立て直された。
偈(げ)に
「一見梵字相 當得天眼通 一時持念者 即身成仏道」とあり、
十三世紀の念仏信仰を知る上で貴重である。)(杉戸町教育委員会)とある。

門前にあるベンチの板を抱えているは、リス(?)でとても可愛かった。
(馬頭院の看板)

(旦照山馬頭院観音寺)

(本堂)

(文永七年の記年銘がある板碑)

(板碑に書かれた偈)

(門前のベンチを捧げるリス)


その先右手に杉戸警察署が見えるところを、
斜め左に入るのが旧日光街道で江戸時代の杉戸宿の中心部へ入っていく。
途中、杉戸町役場があり、青地二丁目の信号を超えると、
「杉戸宿」という銘柄のお酒を造っているの関口酒造の伝統的な建物があり、
その先に近津神社がの石鳥居が見える。
この神社は火災で焼失という情報であったが、
本殿は新築されていた。
この町の鎮守様のようであった。
(Y字路を左折、右手に杉戸警察署)

(杉戸警察署)

(杉戸町役場)

(銘酒「杉戸宿」の関口酒造所)

(近津神社の鳥居)

(神殿)


さらに先へ行くと東武動物公園駅へ入る、
(本陣跡地前)の信号に出る。
その信号の右角に「明治天皇御小休所跡」の碑が建っている。
多分ここが杉戸本陣跡に違いないが、今は銀行がお店を出している。

時間も午後15:30を過ぎているので、
ここを左折し東武動物公園駅に向い帰宅した。
(「明治天皇御小休所跡」の碑がある銀行)

(東武動物公園駅へ入る本陣跡前の信号)