中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

上松宿(旧中山道を歩く 183)

2009年09月05日 10時33分17秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(玉林院)

(上松宿 2) 
十王沢川の橋を渡ると、上松宿に入る。
上町は木曽福島町と同じように、
「かんまち」と呼ぶ。宿場は通常京都側から上町、中町、
下町の順に命名されているのが普通であるが、
上松宿では江戸側から上町,中町の順になっている。

上町へ入ると古い家が並ぶ昇り道で、
すぐ枡形になって道路は右に折れるが、
曲がったすぐ左側に八幡(はちまん)神社がある。

口碑(こうひ)(と書いてあるが、「言い伝え」のこと)に寄れば、
「玉林和尚(*)が甥の木曽義豊(上松蔵人)のために、
源氏の守護神である八幡社を館の近くに勧請したといわれています。
この本殿は江戸中期の代表的な社殿建築で、上松町で一番古い神社です。
棟札には(正徳四年(1714)九月大社八幡宮建立)と書かれている。」(上松町文化財指定)とある。
(*)玉林は木曽家十六代目、木曽義元の次男。

(上町の古い家が並ぶのぼり道)


(八幡社)


(古い家並み)


(山門鐘楼前の石造群)


(山門鐘楼)

その八幡社の鳥居の前を通り抜け古びた家並みの宿場を進むと、
左手に玉林院の案内標柱がある。
中へ入ると正面に苔むした石造群が並び、
その左側にこれまた古めかしい山門があり、鐘突き堂が二階部分にある。
「この山門鐘楼は明治二十六年十二月に玉林院は火災に遭い、
本堂、庫裏は焼失したが、土蔵とこの山門は幸いにも火災をまぬがれました。
この山門鐘楼は、玉林八世凉潭・九世渇山両和尚の頃に再建された。
棟札によれば、明和三年(1766)に落成している。――以下省略」
(上松町文化財指定)となっている。
本堂左手に見える黒松は推定樹齢二百年で、
この松と山門鐘楼が美しい調和を見せている。


(本堂と写真左上の年代物の黒松)


(庄屋、問屋、脇本陣家)


(庄屋、問屋、脇本陣家の看板)

玉林院を出て、宿場を歩くと程なく庄屋、問屋役、脇本陣をつとめた家が右側にあり、
その先左側に本陣跡があると案内書にはあるが見当たらない。
宿場はすぐ先で枡形になり右に曲がって道路は下りになる。
その曲がり角に一里塚跡の石碑がある。

説明によれば、
「左右に二基の一里塚あった。一里塚は土を丸く山に盛って造られているので、
南に向かって右側を下の山と呼び、左側を上の山と読んでいました。
この一里塚の位置は、
京へ六十五里、
江戸へ七十二里です。
残念ながら現存しません。」(上松町)とある。
東京から72番目の「上松の一里塚」である。
道路の右側はやや低くなっており、左側はやや高くなっていることから、
「下(した)の山」「上(うえ)の山」と呼んだのであろう。


(突き当たりに見える一里塚跡の石碑)


(江戸から72番目の一里塚の石碑)


(「広小路」の信号)

一里塚跡の石碑で、宿場を右に曲がっていき、
国道に出たところが枡形で、広い自動車道を左折する。
すぐに広小路の信号があり、旧中山道は直進するが、
左折してJR上松駅に出る。

陽も少し傾いてきた。田舎の汽車は通勤通学時でも、
一時間に一本程度、一台乗り遅れると一時間待ちになるので、
駅で列車の時刻表を確かめ、PM17:03発の汽車で、予約した宿まで
帰ることにする。

今日歩いた距離、約21.1km。35861歩であった。

次回は、「寝覚ノ床」「浦島太郎伝説」が待っている。


(JR上松駅)