(爆撃で瓦礫の山と化したスタレミャストを以前に復元させたポーランド人の心意気)
(スタレ・ミャストの旧市街)
(旧市街2)
(アウシュビッツ1)
ポーランドからチェコ、スロバキア、
ハンガリーと約二週間の旅をして、
印象に残ったのは、ポーランドのワルシャワの街並み、
それにショパンの曲とアウシュビッツ。
映画「戦場のピアニスト」に出てくる廃墟のシーンは、
第二次世界大戦で、全くの廃墟となったワルシャワそのもの。
しかし、その廃墟を全く同じ街に復元したのが
ワルシャワっ子の心意気という。
旧市街のスタレ・ミャストの美しい町並みが続く。
(ショパンを記念した公園)
(公園2)
国土は日本の五分の四の広さに、
約4000万人が居住する農業国。
従って、観光するには、
広々とした田園風景の丘陵地帯が延々と続く中を、
バスで走っていく。
ツアー人数は14名。大型50人乗りのバスに、
ゆったり座り観光を続ける。
美しいショパンのピアノ曲に魅せられ
訪れることになったポーランド。
ワルシャワからバスに揺られて一時間。
その田園風景の中をショパンの故郷ジェラゾーバ・ポーラへ。
ショパンの生家でショパンの曲のミニコンサートを
楽しむために出かけた。
ショパンの生家は、広大な森のある庭の中に、
こじんまりと佇んでいた。
生家の中を案内される。
食堂が、居間だ、客間だ、ピアノを練習した部屋だ、と。
家の中から外を見ると、朝日を通して黄葉が美しい。
栗のような形のマロニエ(日本名トチノキ)の実が、
落ち葉の上に落ちてくる音だけが響く静けさ。
(ショパン生家の庭)
(ショパンの生家)
(庭のマロニエの黄葉)
(ショパンの奏者アンナ・ヤストルジェブスカーキンさん)
ショパンの曲のミニコンサートが始まる。
ピアノ奏者は、アンナ・ヤストルジェブスカーキンさん。
第一回ショパン国際ピアノコンクールの優勝者。
今はワルシャワのショパン音楽アカデミーでピアノを教えている。
かなり年配の女性が美しいショパンの曲を7曲弾いてくれた。
音痴の私の心にも、これらの曲は十分快く響いた。
こうして一日は終わった。
二日目もクラクフの旧市街地を観光し、
古き良き市街地―世界遺産―を観て回った。
(クラクフの街角)
(岩塩抗内の岩塩製のシャンデリア)
(岩塩製のシャンデリア2)
翌日、ヴェリチカの地下岩塩坑見学の後、ポーランド語で
オシフィエンチム、ドイツ語でアウシュビッツに出かけた。
アウシュビッツ強制収容所は、
現在「負の世界遺産」
「アウシュビッツ博物館」として残っている。
アウシュビッツを見学して、
印象が強烈過ぎて、頭が混乱し、
チェコも、スロバキアも、ハンガリーも何を観てきたか、
何も残っていません。
まず、アウシュビッツのガイドは、
中谷 剛さん。ポーランド語を勉強し、
ポーランド語でポーランドのガイド試験に合格した、
アウシュビッツで唯一の日本人ガイド。
日本の総理大臣にも、議員さんにも、われわれ観光客にも、
「私は同じ説明をします」と言う。
とつとつと話す内容は、
詳しい勉強の痕(あと)を物語っている。
戦争とは?
人間とは?
生きるとは?
問題を投げかける説明をする。
(収容所にやってきた人たち当時の写真から)
(当時の写真から②)
虐殺された数150万人。遺品をリサイクルするため、
品物ごとに展示してある。
ドイツ・ナチスが敗戦と共に、証拠隠滅を図ったが、
それでも残った膨大な展示物の数々...
髪の毛、義足など、子供の靴、女性の靴、男性の靴、
未知の土地に希望を託して、
持ち込んだ全財産を入れた鞄、鞄、鞄、...
時間の経過と共に風化して触れば粉になるのではないか、と言われる
その展示物を今後どのように保存するか...
問題は山積する。
ポーランド人をはじめユダヤ人が強制収用されてやってきたが、
その人達が薄々には、感じていたと思われる処刑への旅。
列車から降りると、軍医が収容者の顔色を見て、
強制労働に耐えうるかどうかを決め、
右左(みぎ、ひだり)に人を振り分ける。
右へ行けば過酷な強制労働が待っており、
左に行けば、ガス室での虐殺が待っている。
(自分の名前を書き記した鞄の数々。展示物をガラス越しに撮影)
(義足、義足、義足・・・実物をガラス越しに撮影)
(右側の赤レンガの建物がガス室)
つづく