中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

馬籠城と子規の歌碑(旧中山道を歩く 208)

2010年08月27日 09時45分30秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(馬籠宿)

(馬籠宿本陣、藤村の実家)

(馬籠宿 4)
馬籠宿の枡形を過ぎて坂を下ると、
右手にJAのスーパーがあるバス通りに出る。
バス停(馬籠)のあるところで、
道路向こう側にはお土産物屋が並び、
中山道馬籠宿の京都側の石標が立っている。


(馬籠宿終りを示す枡形)


(土産物屋)


(京都側の中山道馬籠宿の石碑)

バス通りを過ぎて中山道を進むと今まで囲まれていた山々はなくなり、
開けた空と水田が一面に見える明るい地域に変わる。
間もなく丸山の坂という石碑があり、その先が馬籠城址になっている。
城跡とは言いながら、こんもりとした土塁が、
竹薮で覆われているだけの本当に何もない城址である。

説明によれば、
(この辺りの地名を「丸山」とも「城山」とも言い、
ここには今から五百年ほど前の室町時代から
「馬籠城(砦)」あったことが記されている。
戦国動乱の時代、馬籠は武田信玄の領地となるが、
武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て、木曽義昌の治める所となる。
天正十二年(1584)三月、豊臣秀吉・徳川家康の両軍は小牧山に対峙した。
秀吉は徳川軍の攻め上がることを防ぐため、
木曽義昌に木曽路防衛を命じた。
義昌は兵三百を送って山村良勝に妻籠城を固めさせた。
馬籠城は島崎重道(島崎藤村の祖)が警備した。
天正十二年九月徳川家康は、
飯田の菅沼定利・高遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。
三軍は妻籠城を責め、その一部は馬籠に攻め入り馬籠の北に陣地を構えた。
馬籠を守っていた島崎茂通は、あまりの大軍襲来に恐れをなし、
夜陰に紛れて木曽川沿いに妻籠城へ逃れた。
このため馬籠の集落は戦火から免れることが出来た。
今、三軍の陣地を敷いた馬籠集落の北の辺りを「陣場」という。
慶長五年(1600)、関が原の戦いで天下を制した家康は、
木曽を直轄地としていたが、元和元年(1615)尾州徳川義直の領地となり、
以来戦火のない馬篭城は姿を消した。)とある。


(丸山の坂の碑)


(庚申塔などがある左の階段を上がった所が馬籠城跡か)


(今は竹薮の城址)

「丸山の坂」の石碑にあるように、坂を登ると左に大きな森があり、
鳥居がある神社に出る。諏訪神社である。

鳥居脇には、島崎正樹翁記念碑が建っている。
島崎正樹は、藤村の父で「夜明け前」の青山半蔵のモデルになった人である。
この人を記念するもので、次男の広助(藤村の兄)の奔走により
明治45年に立てられたものである。なお、島崎藤村の本名は島崎春樹と言う。


(諏訪神社の鳥居)


(鳥居脇の島崎正樹翁記念碑)


(宿外れの民家)


(轍が馬籠宿を連想させる)]


(馬込のいわれ、「生活物資を運んだ馬、病人を運んだ籠」=馬籠とある)

先に進み、
馬籠のいわれや、旅の駕籠を展示した所、
微笑ましい双体道祖神があったり、
清水が流れる水舟が置いてあったり、
田舎の情景に出会い楽しい。


(双体道祖神)


(水舟)

楽しみながら歩いて、諏訪神社から「夜明け前」の中にも出てくる地名
(荒町)(なかのかや)と言ったバス停を三箇所も過ぎる頃、
中津川盆地が一望できる所に出る。
その眺望の良い所には、正岡子規の句碑があり小公園になっている。
句碑には、

・桑の実の 木曽路出れば 穂麦かな   (子規)

碑文には、
(明治二十四年、帝国大学文科大学生の正岡子規は
中山道を経て松山に帰省、馬篭を出て、
桑の実を食みつつこの辺りを過ぎる時、四囲一時に開け、
麦の緑と美濃の村落を見下ろす善美を愛でて、この俳句を作った。
後、木曽路の見聞を「かけはしの記」の紀行文、
岐蘇雑詩の漢詩として残した。――下略――)(松井利彦)とあり、
昭和54年に出来たものである。
石碑は中津川の市街地を見下ろすように建てられている。


(視界が広がる場所)


(小公園)


(正岡子規の歌碑)


(田園風景が続く)










文豪島崎藤村の故郷 馬籠宿(旧中山道を歩く 207)

2010年08月21日 10時21分09秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(英泉画「木曽海道69次之内馬籠宿」)


(水車塚先の国道方面から来る高校生たち)

(馬籠宿 3)
中山道を馬籠峠に登る生徒たちがまだまだ沢山やってくる。
水車塚の先で、国道7号線を横断し、
石畳の道、砂利道、杉林や竹林の中を抜けると、
左側にやや広い田んぼがある開けた場所に出る。
今までの木々で空を塞がれた道と比べ、開放感を感じて道路を少し登ると、
また国道7号線に出る。


(林の道)


(砂利道)


(田んぼがあって開けた場所)


(石畳の道、右に上り国道へ合流)

今度は横断せず、左へ国道の脇を歩く。
道路は大きく左へカーブして、カーブが終りを告げる頃、
道路右側に狭い階段状の道路が見えるので、
この階段を右へ登る。


(右へ階段を登る、手前に「中山道」の石碑がある)

しばらくして「a detour」の案内看板があり、
新しく出来た手すりと、新しく出来た石畳の階段に出る。
この「a detour」の看板の意味が分らず、新しい石畳の道を行くと、
見晴台のような整備された場所に出る。
案内書に寄れば、ここで民家の庭先を通り抜けるようになっている。

しかし新しい道が上手に出来ていて誘導するので、
何の疑いもなく、見晴台に着く。
見晴台の前方は、見事な恵那山が姿を見せ、
旧道のことなど忘れさせてくれる。


(恵那山が綺麗に見える新しい道に誘導される)


(誘導されていく新しい石畳道、前方中央が見晴台、この右上に民家がある。旧道はその前を通った)


(見晴台から見た恵那山)

恵那山に満足して、見晴台を後ろに振り返ると、中央に階段がある。
昇ってみると、一段高い所に左右に石畳の道がある。
これが旧中山道本来の道で右奥を見ると、
旧道は確かに民家の庭先を抜けるようになっている。
しかし、近年中山道を歩く方が増えたので、
プライバシーの問題もあり、
馬籠が岐阜県中津川市に編入されたこともあり、
役所の計らいで、迂回路を作ったのであろう。


(見晴台の中央後ろにある階段)


(階段を登って右を見ると民家があり、庭先を旧道が抜けている)


(階段の上から左折すると旧道は下り坂で石畳がある)

ここでやっと「a detour」が迂回路の表示だと言うことが分った。
昨日は外国人に沢山すれ違ったが、
外国人の案内書は、ボクが持っている案内書と同じで、
きっと民家の庭先を通るようになっているのであろう。
ボクは日本国内にいるため、
英語の「a detour」の意味が判らなかっただけのこと、
外国人には「a detour」が「迂回路」と分ったに違いない。

見晴台を出て、左に折れようとすると道祖神があり、(左馬籠宿100m)
(右妻籠宿7.6km)の案内があり、京都方向に向う上りの旧道がみえる。
これを行くと、途中で「a detour」の看板があり、
右折して見晴台に下りてくることになる。
「a detour」の看板の先に民家の庭先が見えるはずだ。


(見晴台出口の道祖神、馬籠宿右100mとある)

案内どおり左100mも下ると、馬籠宿北の入口の高札場があり、
その向こうに恵那山が見える。先ほど見た見晴台の恵那山は、
つい最近作られた見晴台の恵那山であるが、
ここ馬籠宿の高札場から見る恵那山は、島崎藤村も「夜明け前」の
主人公青山半蔵(藤村の父)も同じ恵那山を見たに違いない。

高札場を下りて県道を横切る手前に、中山道馬籠宿の石碑があり、
沢山の中国系の外国人観光客が、背景に高札場を入れて写真を撮っていた。


(高札場、奥に馬籠宿が見え、観光客が沢山見える)


(江戸側の中山道馬籠宿の石碑と高札場と中国人観光客)


(藤村も「夜明け前」の主人公青山半蔵も見た高札場からの恵那山)

馬籠宿入口の高札場は、旅行案内パンフレットにも良く載っており、
街道の石畳と馬籠宿入口を表わし、写真撮影の絶好ポイントである。
馬籠宿は、この先下り坂で両脇に古い家屋が点在しており、
途中右側に、脇本陣蜂谷家が馬籠宿脇本陣資料館になっており、
上段の間や珍しい玄武石垣が残されている。


(馬籠宿脇本陣資料館)


(脇本陣の玄武石垣)

その先に藤村の初恋の人 おゆうさんが育った大黒屋、
その隣に藤村の実家、馬籠本陣跡が藤村記念館となって残っている。

「夜明け前」の中で、主人公の青山半蔵の父吉左衛門(きちざえもん)の
隠居所として、本陣建物の裏手にあったと書かれている土蔵が出てくるが、
その土蔵が火災に遭わず現在に残されている。
実はボクは、この土蔵が見たくて馬籠宿には来たようなもの。
ついでに隣に見える大黒屋(藤村の初恋の人の家)も見てみたかった。
藤村記念館で聞くと、大黒屋は今では飲食店を営んでいるので、
いつでもご覧になれますという。
丁度お昼時でもあったので、おそばを食べに大黒屋に入った。


(馬籠本陣跡の門、藤村記念館になっている)


(本陣裏手の土蔵の隠居所)


(今は飲食店の「大黒屋」)


(本陣島崎家から見た隣の大黒屋)

おゆうさんを想い書いた詩「初恋」は、

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれなゐ)の秋の実に
人こひ初めしはじめなり  --後略。


(食事をした黒光りする大黒屋内部)

その先に清水屋資料館があり、
藤村の手紙など資料が残っているし、
本陣家島崎家の菩提寺である永昌寺が近くにある。
島崎家のお墓群などが見られるので足を伸ばし訪ねたい。

馬籠宿に戻り、坂を下ると京都側の枡形があり、
大きな水車が廻っている。
ここで馬籠宿の中心部分は終わりになる。

馬籠宿はこの先、落合の石畳が始まる

新茶屋の一里塚まで続く。


(清水屋資料館)


(馬籠宿の途中から近道を行く永昌寺)


(永昌寺山門へ上がる参道)


(永昌寺山門)


(永昌寺山門と鐘楼)


(島崎家の墓)


(馬籠宿の枡形、右下に水車が見える)


(枡形にある水車)












水車塚(旧中山道を歩く 206)

2010年08月17日 09時42分47秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(恵那山)

(馬籠宿2)
昨日は沢山の外国人とすれ違ったが、
今日(5/14)は、高校生のハイキングが多く、
尾張一宮の商業高校生 男女約260名、
群馬県水上町の高校生 男女約240名とすれ違った。

「こんにちは!」の挨拶を80回ほどしたが、
全員から元気良く挨拶が返ってきた。
馬籠宿から妻籠宿まで歩くのだそうで、
若い彼らは元気そのもので羨ましかった。


(峠でであった高校生、空の青さが美しかった)


(沢山すれ違った高校生)

やがて右手に休憩所とWCがあり、休憩所の前面の木の根方に、
十辺舎一九の狂歌の碑が建っているのが見える。

・渋皮の むけし女は 見えねども 
                 栗のこわめし 爰(ここ)の名物   (十辺舎一九)

説明によると、
(古くから峠の名物は(栗のこわめし)であった。
江戸期の戯作者 十辺舎一九(じゅっぺんしゃいっく)は
文政二年(1819)に木曽路を旅して、
「岐蘇街道膝栗毛(きそかいどうひざくりげ)」の馬籠宿のくだりで、
このような狂歌を詠んでいる。)とある。

(狂歌の意味は、渋皮の剥けたような、チョイト良い女は、
この片田舎には居ないが、
栗おこわ(栗の入ったおこわのこと)はとても良いという意。)



(十返舎一九の歌碑)


(国道と交差する)


(左脇に清水バス停がある)

次いで清水のバス停で国道7号線を横断し、
ドライブインなのか、(お食事喫茶の家)の前をヘヤピンカーブで右折し、
石畳の急な下り坂を歩く。
沢山の高校生に挨拶を送りながら、暑い日差しの中を進む。
下り終えた右手に橋があり、その先に藤村の水車塚がある。

水車塚について、
(「山家にありて、水にうもれたる 蜂谷の家族 四人の記念に
                     藤村しるす」
明治37年(1904)七月、
水害のためここにあった家屋は一瞬にして押し流され、
一家四人が惨死した。
難を逃れた家族の一人、蜂谷義一は、
たまたま藤村と親交があったことから、
後年に供養のため藤村に碑文を依頼して建てたものが、
この「水車塚」である。

碑の文字を見る限り、島崎藤村は端正で、几帳面な性格に写る。

水車塚の脇に水車小屋があり水車が廻っていた。


(右側が食堂兼喫茶の家、ここでヘヤーピンカーブする)


(高校生がどんどん登って来る)


(水車塚横にある水車小屋)


(水車塚、文字は藤村の筆、几帳面な字)




牛方の頌徳碑(旧中山道を歩く 205)

2010年08月08日 09時01分18秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(英泉画浮世絵 木曽海道69次之内「馬籠駅」峠ヨリ遠望の図)


(馬籠峠)

(馬籠宿)
今は馬篭峠は岐阜県であるが、
ボクは旧中山道を歩いているから、
木曽十一宿の最後の宿場、
馬籠宿へこれから入って行く。
つまり、信濃を歩いて行く、
馬籠宿を過ぎた先の新茶屋の一里塚までが信濃である。

峠のすぐ先の坂を下りたところに、
右に入る道路があるので、右折する。
右折する右かどのガードレールに案内がるので心配ない。
杉林の中を歩くと、すぐ左手に神社がある。
熊野神社である。


(峠を下ってすぐ右に入る道)


(入口右側にある案内)


(峠を下る杉林)


(林の中の熊野神社)


(熊野神社)

この先は馬籠峠らしい古い集落が続き、道は下る。
(この集落は江戸時代中期以降の姿を今にとどめている)
と説明があるほど、往時を偲べる家が繋がっている。
集落が終りを告げる頃、
道路はやや右に曲がるが、その曲がりかかる左に、
盛り上がった塚がある。

生垣が周囲を囲んでいるが、階段を上がり中へ入ると、
「峠乃御頭頌徳碑(とうげのおかしらしょうとくひ」」なる石碑が建っている。
安政三年(1856)峠集落の牛方(牛を使って荷物を運ぶ人)が
中津川の問屋(荷物の取次ぎをする所)との間で運賃の配分で争いがあり、
牛方が勝った。その時の牛方の代表今井を讃えた碑で、
藤村の「夜明け前」にも登場する話である。


(静かなたたずまいの集落)


(集落のはずれ、左手に大きな木の生えている塚が見える)

かいつまんで話すと、問屋が牛方に仕事を出すに当って、
料金についての不正があった。
この頃の問屋と牛方の関係は、地主と小作人の関係に似ており、
牛方が問屋の旦那に反抗することなど、
この当時では考えることが出来ない関係であった。

話が変わるが、
太平洋戦争終結まで、こうした身分の差は歴然としており、
例えば百姓と小作人の関係は、極端な例であるが、
疎開先のボクが小学3年で同級生が小作人の子であるとする、
一緒に遊びたいから、その子の家に行って誘うと、
親が出てきて遊べないと断る。
家に帰って、この話をすると、
その子の家に行ってはならないし、
遊んでもいけません、と固く叱られる。
そんな体験がある。

つい最近まで(65年前まで)こんな封建的な関係が続いていたのに、
さらにさかのぼった明治に入る12年前の
安政三年(1856)の話であるから、
牛方の反抗は相当な覚悟、一つ間違えば死に相当する覚悟が、
必要な時代であった。

話を戻す、
問屋の不正に対し、
牛方が荷物の輸送を拒否する事件がおきた。
こんなことは前代未聞の出来事であるが、
もめにもめたこの事件は牛方が勝利した。
このことに対する頌徳碑(徳を讃える碑)である。

(塚の中にある峠乃御頭頌徳碑)












馬籠峠(旧中山道を歩く 204)

2010年08月02日 09時50分09秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(「一石栃の白木改番所跡」の標柱)

(妻籠宿 6)
馬籠峠に向って進むと、
「一石栃白木改番所跡」の門柱に出会う。
その手前右手が牧場の柵のようなものが見えて、
柵の内側が広場になっている。
脇に屋根と柱だけが残る残骸の家が一軒あった。
これが番所跡なのであろう。

歴史的には、木曽の材木が重要視されていた頃、
木曾から持ち出されるヒノキなどの材木や
細工物を厳しく監視した場所である。
「一石栃」とはこの辺りの地名である。


(一石栃の白木改番所跡)

「一石栃白木改番所跡」の標柱の先に、立場茶屋があり、
現在は無料休憩所になっている。
休憩所ではボランティアのオジサンが、
何人か交代でこの休憩所を管理しているという。
温かいお茶を無料で入れてくださった。(感謝!感謝!)
新しいお手洗いが出来ているので、利用したい。

なお、立場茶屋についての案内が次のようにある。
(立てば茶屋は宿場と宿場の中間にあって、
旅人に休息と利便を与えた。
一石栃は妻籠宿と馬籠宿の中間に位置し、
往時は七軒ほどの家があって栄えていたが、
今ではこの牧野家一軒だけになっている。
牧野家住宅は江戸時代後期の建物で、
当初は間口十間半もある大きなものであったが、
現在は南側が切り取られて八間に縮小されている。)(南木曽町)


(立場茶屋)


(立場茶屋の休憩所)


(石畳の道を進む)

休憩が終わったら馬籠峠に向って、さらに石畳の道を進む。
長い急坂を登り終えると馬籠峠の広い道路に出る。
峠には休業中の峠の茶屋があり、その横に正岡子規の句が
馬籠峠と大書された石碑の下部に刻まれている。

・白雲や 青葉若葉の 三十里   (子規)

句碑に沿って道路脇に国道7号線の標識があり、
そこには南木曽町馬籠峠とあり、道路反対側には、
馬籠峠の案内看板とバス停が見える。
道路の西側を見上げると、
岐阜県中津川市の県境の案内看板がある。

2005年の町村合併により長野県の馬籠峠から西は岐阜県中津川市に編入された。
あと三十歩も歩けば岐阜県には入る。


(馬籠峠頂上)


(峠の茶屋)


(馬籠峠の子規の歌碑)


(子規の歌碑、・白雲や 青葉若葉の 三十里が読めますでしょうか)


(馬籠峠のバス停)


(岐阜県中津川市の県境の看板)