(京阪電車:大谷駅)
(大津宿 8)
2012年4月24日快晴、気温24℃予定。
AM10時、京阪電車の大谷駅をスタートする。
無人駅の自動改札口を出て、旧東海道は左折する。
目の前には蝉丸神社の階段がある。
左折してすぐ京阪電車の線路と国道1号線を横断する歩道橋を渡る。
長いこと風雨にさらされているらしく、
歩道橋には錆があちこちに出ていて、
全体に赤茶けた色に染まっている。
歩道橋を渡り終えると国道1号線の左端の歩道を歩く事になる。
(歩道橋)
(国道1号線の左端の歩道)
大津市は算盤と大津絵が名高いそうであるが、
ソロバンも大津絵も、最早、時代から忘れ去られそうなものである。
国道に沿って歩いていくと、左手に大津市のソロバンの説明がある。
(大津市算盤(ソロバン)の始祖・片岡庄兵衛、
江戸時代、東海道のこの付近で売られていた大津算盤は、
慶長十七年(1612)片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に、
製造を始めたものと伝える。
同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、
幕府御用達の算盤師になったという。
全体に赤茶けた色に染まっている。
歩道橋を渡り終えると国道1号線の左端の歩道を歩く事になる。
(歩道橋)
(国道1号線の左端の歩道)
大津市は算盤と大津絵が名高いそうであるが、
ソロバンも大津絵も、最早、時代から忘れ去られそうなものである。
国道に沿って歩いていくと、左手に大津市のソロバンの説明がある。
(大津市算盤(ソロバン)の始祖・片岡庄兵衛、
江戸時代、東海道のこの付近で売られていた大津算盤は、
慶長十七年(1612)片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に、
製造を始めたものと伝える。
同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、
幕府御用達の算盤師になったという。
なお、昭和初期まで、
この碑の場所にも同家の御子孫が住まわれていた。)とある。(大津市)
(大津市ソロバンの案内がある家)
算盤師の家の先に浮世絵にも描かれた月心寺があるが、
今は無人らしく寂れて扉も閉まったままである。
月心寺の表札も薄くなっており、読み取るのにやっとの状態である。
もちろん、有名な走井の溢れるような清流も見る事は叶わなかった。
(月心寺の家の前)
(殆んど読み取れない月心寺の表札)
石垣の塀をたどっていくと、
塀の内側に「明治天皇駐〇〇」の石碑が見える。
その隣に山に登る階段があるが、
これがどこへ繋がっているのか分からない。
階段の右横は清水が流れる溝になっており、街道からの上り口に、
「右一里丁 左大半町」と彫られた石碑がある。
このあたりに一里塚はあったのかもしれない。
中山道の134番目の一里塚で、
東海道から見れば123番目の一里塚だったはずである。
(塀の内側に見える「明治天皇〇〇」の碑)
(隣に見える階段はどこへ通じているやら)
(石碑)
その先石垣の中に階段がある。
登っていくと、「瑞東山 月心寺」の表札がかかっている門がある。
先ほどの月心寺は料亭の方の月心寺かと、勝手に決め込んで登っていくと、
階段はまだ続き、上りきったところに、お堂がある。
お堂の左奥には、茶室と思われる東屋があり、
この碑の場所にも同家の御子孫が住まわれていた。)とある。(大津市)
(大津市ソロバンの案内がある家)
算盤師の家の先に浮世絵にも描かれた月心寺があるが、
今は無人らしく寂れて扉も閉まったままである。
月心寺の表札も薄くなっており、読み取るのにやっとの状態である。
もちろん、有名な走井の溢れるような清流も見る事は叶わなかった。
(月心寺の家の前)
(殆んど読み取れない月心寺の表札)
石垣の塀をたどっていくと、
塀の内側に「明治天皇駐〇〇」の石碑が見える。
その隣に山に登る階段があるが、
これがどこへ繋がっているのか分からない。
階段の右横は清水が流れる溝になっており、街道からの上り口に、
「右一里丁 左大半町」と彫られた石碑がある。
このあたりに一里塚はあったのかもしれない。
中山道の134番目の一里塚で、
東海道から見れば123番目の一里塚だったはずである。
(塀の内側に見える「明治天皇〇〇」の碑)
(隣に見える階段はどこへ通じているやら)
(石碑)
その先石垣の中に階段がある。
登っていくと、「瑞東山 月心寺」の表札がかかっている門がある。
先ほどの月心寺は料亭の方の月心寺かと、勝手に決め込んで登っていくと、
階段はまだ続き、上りきったところに、お堂がある。
お堂の左奥には、茶室と思われる東屋があり、
東屋の手前に四角の井戸がある。
これが走井の井戸かと、半ば疑いながら写真に収める。
走井の井戸は、水鉢の横に「走井」と書いてあるし、
料亭の中に存在するから、これが広重が書いた
これが走井の井戸かと、半ば疑いながら写真に収める。
走井の井戸は、水鉢の横に「走井」と書いてあるし、
料亭の中に存在するから、これが広重が書いた
「走井の井戸」ではない。
東屋は正面から見ると、「う(雨)花亭」の額が掛かっている。
この「雨花亭」の前に、大きな手水鉢が置いてある。
やはりお茶室であったように思われる。
(石垣の中にある階段)
(瑞東山 月心寺の門)
(門の先の階段)
(お堂)
(お堂の先に見える東屋)
(走井の井戸と間違えた井戸)
(広重描く浮世絵「大津」の走井(左下)
(東屋の正面には「う(雨)花亭」の額が掛かっている)
境内には、五輪塔がいくつもあり、
きっと名のある方のお墓であろう。
そのほか境内にある石造物も、
いずれも古式でいわれの在るもののように思われる。
月心寺を出て、一路1号線に沿って進む。
(五輪の塔)
(五輪の塔2)
(五輪の塔3)
(境内1)
(境内2)
道路は下り坂で、狭い歩道を進むが、やがて道路は右に曲がり、
東海道線をガードで潜り抜けるのが見える。
その手前でおばちゃんが、草取りをしていた。
「こんにちは」と挨拶をして、通り抜けようとすると、
「旧街道を歩いているのですか?」と訊ねられる。
「ハイ」と答えると
「東海道は、そこのガードをくぐり、三階建ての交番を左折して、
追分を右へ行き、歩道橋を渡り進みます。
歩道橋には東海道の案内がある歩道橋を渡ります。
この間、同じように東海道を歩いている方にも教えました。
その方は、私の写真を撮って、コンピューターに東海道のことを
書いているので、見てくださいと、名刺までもらいました。」
「それでは、もうパソコンに載っていましたか?」
「まだです。今か今かと、待っている所です。」と言う。
「じゃあ楽しみにしていてください」と言ってお礼を述べて別れた。
ボクがPCに載せる訳でもないのに、
(楽しみに)なんて余計な事を言ってしまったと、思った。
以前通った方は東海道を歩いている人、
ボクは中山道を歩いている。
いずれどこかで接点があるかもしれない。
道路を進み、おばちゃんが言ったとおり、
左手に三階建ての交番があるので、交番手前を左折する。
左折してすぐ右手に「南無妙法蓮華経 佛立寺」の石塔がある。
なお直進する。
道路は左方に登りながら曲線を描いて行くと、道路は突き当たり状態で、
二又路になる。突き当たりにある「京都右 左宇治」の看板横に、
石柱がある。
正面に「みぎ 京みち」、左側面に「ひだり ふしみみち」、
右側面に「柳緑 花紅(やなぎみどり はなくれない)」が彫られている。
伏見街道への分岐点――つまり大阪道の追分である。
普通、東海道53次を東海道57次という場合、
ここから大阪までは、伏見、淀、枚方、守口の四宿を加えることになる。
(下り坂の東海道、右は1号線、その隣の高架は東海道線)
(東海道線の高架下をくぐる)
(東海道をくぐるとすぐある三階建ての交番)
(右に折れたすぐ右にある佛立寺)
(道路は右に曲がりながら上る)
(二股道路に出る)
(正面に右京都、左宇治の案内)
(左ふしみみちの碑)
(柳緑 花紅)
東海道は「みぎ 京みち」を進むと、追分町である。
追分町について大津市の案内看板によると、
(この地は江戸時代、東海道と伏見街道(奈良街道)の
分岐点に当たっていました。
追分の名は、このような街道の分かれ道で、
馬子が馬を追い分ける事から来たものです。
なお、江戸時代、この付近の街道沿いには、髭茶屋町、
南北追分町、追分町の三か町が並んでいました。)とある。
(追分町の案内)
道を進むと右手に櫓を乗せたお寺の門がある。
東屋は正面から見ると、「う(雨)花亭」の額が掛かっている。
この「雨花亭」の前に、大きな手水鉢が置いてある。
やはりお茶室であったように思われる。
(石垣の中にある階段)
(瑞東山 月心寺の門)
(門の先の階段)
(お堂)
(お堂の先に見える東屋)
(走井の井戸と間違えた井戸)
(広重描く浮世絵「大津」の走井(左下)
(東屋の正面には「う(雨)花亭」の額が掛かっている)
境内には、五輪塔がいくつもあり、
きっと名のある方のお墓であろう。
そのほか境内にある石造物も、
いずれも古式でいわれの在るもののように思われる。
月心寺を出て、一路1号線に沿って進む。
(五輪の塔)
(五輪の塔2)
(五輪の塔3)
(境内1)
(境内2)
道路は下り坂で、狭い歩道を進むが、やがて道路は右に曲がり、
東海道線をガードで潜り抜けるのが見える。
その手前でおばちゃんが、草取りをしていた。
「こんにちは」と挨拶をして、通り抜けようとすると、
「旧街道を歩いているのですか?」と訊ねられる。
「ハイ」と答えると
「東海道は、そこのガードをくぐり、三階建ての交番を左折して、
追分を右へ行き、歩道橋を渡り進みます。
歩道橋には東海道の案内がある歩道橋を渡ります。
この間、同じように東海道を歩いている方にも教えました。
その方は、私の写真を撮って、コンピューターに東海道のことを
書いているので、見てくださいと、名刺までもらいました。」
「それでは、もうパソコンに載っていましたか?」
「まだです。今か今かと、待っている所です。」と言う。
「じゃあ楽しみにしていてください」と言ってお礼を述べて別れた。
ボクがPCに載せる訳でもないのに、
(楽しみに)なんて余計な事を言ってしまったと、思った。
以前通った方は東海道を歩いている人、
ボクは中山道を歩いている。
いずれどこかで接点があるかもしれない。
道路を進み、おばちゃんが言ったとおり、
左手に三階建ての交番があるので、交番手前を左折する。
左折してすぐ右手に「南無妙法蓮華経 佛立寺」の石塔がある。
なお直進する。
道路は左方に登りながら曲線を描いて行くと、道路は突き当たり状態で、
二又路になる。突き当たりにある「京都右 左宇治」の看板横に、
石柱がある。
正面に「みぎ 京みち」、左側面に「ひだり ふしみみち」、
右側面に「柳緑 花紅(やなぎみどり はなくれない)」が彫られている。
伏見街道への分岐点――つまり大阪道の追分である。
普通、東海道53次を東海道57次という場合、
ここから大阪までは、伏見、淀、枚方、守口の四宿を加えることになる。
(下り坂の東海道、右は1号線、その隣の高架は東海道線)
(東海道線の高架下をくぐる)
(東海道をくぐるとすぐある三階建ての交番)
(右に折れたすぐ右にある佛立寺)
(道路は右に曲がりながら上る)
(二股道路に出る)
(正面に右京都、左宇治の案内)
(左ふしみみちの碑)
(柳緑 花紅)
東海道は「みぎ 京みち」を進むと、追分町である。
追分町について大津市の案内看板によると、
(この地は江戸時代、東海道と伏見街道(奈良街道)の
分岐点に当たっていました。
追分の名は、このような街道の分かれ道で、
馬子が馬を追い分ける事から来たものです。
なお、江戸時代、この付近の街道沿いには、髭茶屋町、
南北追分町、追分町の三か町が並んでいました。)とある。
(追分町の案内)
道を進むと右手に櫓を乗せたお寺の門がある。
「放光山 閑栖寺」がある。
車石と大津絵、蓮如上人御蔭道中御立寄処で知られる。
車石は大津から京まで、
車石と大津絵、蓮如上人御蔭道中御立寄処で知られる。
車石は大津から京まで、
大八車の両輪にレールのように花崗岩に溝をつけ、
その花崗岩のレールの上で車を引いた。
その花崗岩のレールの上で車を引いた。
ぬかるみの山道を引くより、
石の上を引いた方がはるかに楽で、早かったに違いない。
国道を施設するにあたり、大津から京まで、
石の上を引いた方がはるかに楽で、早かったに違いない。
国道を施設するにあたり、大津から京まで、
大量の車石が発掘されたといわれる。
その車石が展示されている。
(櫓の載っている門)
(放光山 閑栖寺)
また、大津絵については、
「大津絵の源流
追分絵
追分の絵師もしらしな
けさの春
元禄二年 和風」の石碑があり、
車石の上を荷を運ぶ大津絵が展示してある。
また、「従是西寺領(これよりにしじりょう)」の石碑もある。
(ここから西はお寺の知行地である)の石碑で、由緒ある寺院とみうけられる。
(展示されている車石)
(大津絵の元は追分絵の石碑)
(大津絵)
(ここから西はお寺の知行地)
閑栖寺を後に進むと、旧道は国道1号線が平行接近して行く。
国道をまたぐ歩道橋が二つあるが、
最初の歩道橋手前には「旧藤尾小学校跡地」の碑が建っており、
その左には、旧東海道の案内が電柱の上部に、でかでかと張られている。
この歩道橋には、おばちゃんが言った「東海道」の案内は無く、
渡るのはこの歩道橋ではない。
東海道と案内がある歩道橋を渡らなければならない。
道路を直進すると、先のほうに右へカーブして歩道橋が見える。
近づくと歩道橋の手すりに旧東海道の案内がある。
歩道橋をわたり、道路の向こう側を降りようとする所に小さく、
旧東海道左への矢印案内がある。
この歩道橋の先に、大津市と京都の分岐点がある。
(旧藤尾小学校敷地跡の碑)
(碑の先に見える歩道橋は渡らない)
(電柱の上にある旧東海道の案内)
(もう一つの歩道橋、上る前に東海道は登ると案内がある)
(歩道橋にある旧東海道の案内)
(歩道橋渡りきった先にある東海道は下るlの案内)
その車石が展示されている。
(櫓の載っている門)
(放光山 閑栖寺)
また、大津絵については、
「大津絵の源流
追分絵
追分の絵師もしらしな
けさの春
元禄二年 和風」の石碑があり、
車石の上を荷を運ぶ大津絵が展示してある。
また、「従是西寺領(これよりにしじりょう)」の石碑もある。
(ここから西はお寺の知行地である)の石碑で、由緒ある寺院とみうけられる。
(展示されている車石)
(大津絵の元は追分絵の石碑)
(大津絵)
(ここから西はお寺の知行地)
閑栖寺を後に進むと、旧道は国道1号線が平行接近して行く。
国道をまたぐ歩道橋が二つあるが、
最初の歩道橋手前には「旧藤尾小学校跡地」の碑が建っており、
その左には、旧東海道の案内が電柱の上部に、でかでかと張られている。
この歩道橋には、おばちゃんが言った「東海道」の案内は無く、
渡るのはこの歩道橋ではない。
東海道と案内がある歩道橋を渡らなければならない。
道路を直進すると、先のほうに右へカーブして歩道橋が見える。
近づくと歩道橋の手すりに旧東海道の案内がある。
歩道橋をわたり、道路の向こう側を降りようとする所に小さく、
旧東海道左への矢印案内がある。
この歩道橋の先に、大津市と京都の分岐点がある。
(旧藤尾小学校敷地跡の碑)
(碑の先に見える歩道橋は渡らない)
(電柱の上にある旧東海道の案内)
(もう一つの歩道橋、上る前に東海道は登ると案内がある)
(歩道橋にある旧東海道の案内)
(歩道橋渡りきった先にある東海道は下るlの案内)