中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

「夜明け前」にある「木曾の桟(かけはし)」(旧中山道を歩く193)

2010年05月30日 10時04分53秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(木曽の難所、木曽川に沿った約3kの道路)

(柿其橋から三留野宿まで)
2010年5月13日(木)快晴。放射冷却現象で気温が低く13/6℃の予定。
2010年最初の中山道の日。日本橋から通産33日目。

今回は、妻後宿、馬籠宿、できれば足を伸ばして中津川宿までを歩く予定。
外国人にも有名なこの二宿には、
日本の江戸時代の歴史の面影がある古き良き街並み、
加えて、島崎藤村の「夜明け前」の世界が広がる。


(木曽谷の幽玄の世界)

朝4時に起きて、東京駅6:26発の新幹線で名古屋へ。
名古屋駅8:31発中央西線で中津川駅。ここから普通電車に乗り換え、
「十二兼」駅に10:36到着。

「十二兼」駅までの切符を買う時、切符売り場のお姉さんから、
「駅名は何と読むのでしょうか?」と聞かれたので、
次のように答えた。
「十二兼(じゅうにかね)と読み、中央本線西線にある駅です」と。
そのほど知られていない駅である。
もっとも駅舎にはトイレと寒さしのぎの待合室があるだけで、
全くの無人駅である。

「十二兼駅」には、駅設立40周年の記念碑があるが、

♪汽笛いっせい新橋を・・・の歌から言えば、

まだまだ新しい駅なのである。
駅は山肌に沿ってあり、道路から見れば二階の高さにある。
そんな位置に駅はあるので、電車を降り、
プラットホームからお手洗いと待合室の横を通り抜け、
階段を十数段下り立って道路にでる。
これがそのまま旧中山道である。


(階段の上のJR十二兼駅)

「十二兼駅」を出て、中央線に沿って、名古屋方面に戻るように歩き出す。
駅前にお店があるわけでなく、ぽつんぽつんと民家はあるが、
何時から無人になっているのか、玄関や壁伝いに草が伸び放題になっている。
道を下ると左側に石垣があり、その上に竹薮がある。
このあたりに一里塚があったと案内書にあるが、見当たらない。
ただ地蔵様か道祖神か、石造物が二体あり、近隣の方が管理されているのか、
花生けが前に置かれ、生けられた花があったが残念ながら枯れていた。


(竹薮の石垣手前にある石造物)


(道祖神?お地蔵様?)

十五分も歩くと右手の木曽川に架かる柿其橋が見えてくる。
「南寝覚」と地元の方が自慢の景色が目に映る。
川床にある白い大小の石の姿と水の流れが織り成す景色は美しい。
別名河原峡と呼ぶそうである。


(柿其橋)


(南寝覚とも言う美しい木曽川)

橋を右に見て木曽川に沿って進むと、200mほど先右側に小公園があり、
そこに「中川原明治天皇御小休所」と「御膳水」の碑が建っている。
小公園のある場所が南木曽町中川原という地名である。

南木曽町の説明によれば、
「明治天皇は各地を御巡幸されたが、
木曾へは明治十三年(1880)山梨から木曽路に入り、
6月26日は福島泊、翌27日は」寝覚で御小休み、
須原 定勝寺でご昼食、中川原で御小休み、
その日の行在所(あんざいしょ)は三留野本陣であった。
ここ中川原には夕方にお着きになり、
羅天(らてん)の難所を前にして、
桜井太郎宅においてしばしの休憩を取られたという。――後略」

ここで言う「福島泊」とは「木曽福島」を、
「寝覚」とは「寝覚ノ床」を、「須原」は「須原宿」を指している。


(小公園)


(明治天皇御小休所の碑)


(合流した国道19号線、地名は羅天と書かれている)

旧中山道は少し先の信号で国道19号線に合流する。
信号で右折して国道19号線右脇の歩道は、
左側の山肌に中央本線、その下に19号線があり、
その右側は深い木曽川が流れている。
歩道は木曾の桟(かけはし)といわれる長い懸崖の造りになっている。
これが南木曽町の説明にあった「羅天の難所」を指している。


(木曽川にせり出している歩道(桟)


(木曽川に沿って懸けられた羅天橋)

橋はもともと川を跨いでいるが、桟(かけはし)は川に沿って懸かっている。
その歩道のおよそ3kmの桟を「羅天(らてん)の桟」とも言い、
実際には「羅天橋」と名付けられている。
左右を山に囲まれた渓谷は新緑の中、好天に恵まれ、
この上なく美しく感じられた。
百聞は一見にしかずといいますが、
つたない描写力の写真を掲載しますが、
その感激をお伝えすることが出来たでしょうか。


(山にはさまれた木曽川は美しい)

また文章では、この「羅天の難所」を
島崎藤村がその作品「夜明け前」の冒頭に
次のように書いている。

「木曾路はすべて山の中である。
あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、
あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、
あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。
一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、
木曾十一宿はこの街道に添うて、
二十二里余にわたる長い谿谷(けいこく)の間に散在していた。
道路の位置も幾たびか改まったもので、
古道はいつのまにか深い山間(やまあい)に埋(うず)もれた。」と書いている。

ここに記されているように、
当時の木曾十一宿は贄川宿の桜沢から、馬籠宿の先、
現在の十曲峠「落合の石畳」が終わる所までを言ったようである。

現実に戻って、今歩いている道路――
山間(やまあい)を行く国道19号線――は交通量も多いが、
自動車の運転手には単調な道路で眠気を誘うらしく、
僅か3kmの間に居眠り防止装置が付けた信号機が、
目覚まし音を響かせているのが、
昔を想い歩く旅人には無粋に思えた。


(目覚まし音を響かせる信号機)

やがて左手に別れる道路が口を開けているのが見える。
案内に(与川入り口)とあり、
与川村へ通じる道路の入り口である。
木曽川沿いの中山道が水害で通行止めになった時、
迂回路として三留野宿から野尻宿へ峠越えをする道の、
途中にある与川村へ抜ける道路への入り口である。


(与川村入り口)

与川には「木曾八景」の一つ「与川の秋月」が見られるという。
この地で眺める仲秋の名月は、周囲の地形とあいまって、
とても大きく観えると言います。
現在では、「歴史の道中山道(野尻~落合)」として、
与川道は南木曾散策モデルコースに指定されています。
仲秋の名月を見計らって、一度木曾八景の名月を観てみたいものです。

さらに進むと右手に数件の民家がある所に出るが、
そこから約300m先に県道264号線左の案内看板が歩道上にある。
道路の反対側を見ると左脇に登り坂を行く道が見えるが、
これが旧中山道である。


(県道264号の案内と名古屋から104k2の標識、道路の向こう側に脇道が見えこれが旧中山道)


(左脇の路を進むと剣道264号線の標識があり安堵する、左側にJRガードがあるように見えるが、ガードはかなり先にある。)

左脇に行く道路が少し分り難い。
国道19号線のガードレール上に104K2の標識がある所で道路を横断する。
大変交通量が多いので、横断する時は左右に十分注意をしてもらいたい。

左脇の道は登り坂になっており、これを約300mも行くと、
左側を走る中央本線のガードに出るので左折してガードをくぐる。
道は急なのぼり坂になり、すぐ牧ヶ沢川に架かる橋を渡る。

これを進めば三留野宿に入る。

(牧ヶ沢川の橋)




姫路城

2010年05月20日 15時07分52秒 | 姫路城と小豆島を旅して
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(姫路城)
今回ツアーのメインは姫路城。

名古屋城、熊本城、大阪城の三大名城と記憶で比べながら観光。
こちらはさすが世界遺産。
城内の管理も行き届いている。外国人には丁寧なガイドさんが、
日本の「おもてなしの心」を伝えているようであった。
外国へ行くとガイドさんの有難さが身に沁みてよくわかる。
日本での旅で、良い印象を持ってお帰りいただきたいものである。
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(白鷺城)

姫路城は五年かけて修復するため、
お城の姿を見ることができなくなる。
世界的に有名な姫路城、別名―白鷺城。
五年先は命があるかないか解らない、
そう考える熟年者がお城を一目見たさに、
姫路に殺到していると言う。

話がどのように伝わったかは知らないが、
この話が「姫路城は無くなってしまう」と伝わって、
姫路城では、日曜祭日はおろか、ウイークデイも人であふれて、
土産物屋さんが心配している。
「こんなに沢山の人が来て、修復が終わったら、
観光地がひっそりしてしまうのではないか」と。
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(別の角度からみた姫路城)

人のうわさは恐ろしい。
例えば昭和48年頃の石油ショックの時、
トイレットペーパーが無くなるというので、
人が買いあさって品切れが続出した。

特に日本人は、
隣の人がこうした、
お友達がこうした、と言うと
私も負けずに同じようにするのが当たり前で、
私が同じようにしないのは異常だ、
と言う心理に駆られるらしい。

それでとにかく,
姫路へ,
姫路へと人が集まり、
姫路城は毎日超満員であるとのことである。
この不景気のご時世に沢山の観光客が訪れると言うのは、
なんとも羨ましい限りである。
お土産物屋さんは溢れるばかりの人で、
バーゲンセールで鍛えた腕で、
おみやげ物の取り合いになる図は、
日本人ならではの光景であるに違いない。

お城を見学するには、
大手門から天守閣に向かうのがオーソドックスな順路であるが、
観光客の全部が全部、
同じ行動をとるから混雑極まりなく渋滞が起きる。
特に昔の城は、敵から襲撃にあったときに、
簡単に城内に攻め込まれないようにいろいろ工夫してある。
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(姫路城のお濠)
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(お濠に渡した橋、向こうに見える心配顔のみやげ物屋さんの店)

城の周りを囲むお濠。その濠をまたぐ橋があって、
城を攻める時は橋を渡らなければならない。
つまり攻撃の軍隊を一箇所に集めることで、
容易に包囲網を縮め一網打尽にすることが出来る。
それでも包囲網を突破して攻撃してきた敵集団が、
城に入り天守閣に登る階段は一段一段が高く、
登るのは容易ではない。

後期高齢者に入ったボクがこの階段を登るには、
両手で手すりに縋りつきやっとの思いである。
止めたいのは山々なれど、
止めれば入場料が無駄になる、
口惜しいがもったいないから登ることになる。

名古屋城など鉄筋コンクリート造りでエレベーターまである。
外観は昔のお城を復元し、
有名な名古屋人の誇り、金の鯱は純金である。
その昔、このシャチの金の鱗を一枚頂戴しようとした盗人がいたらしいが、
鱗一枚でもそうとうな財産に匹敵するらしく、
哀れにも盗人は、優秀な愛知県警に御用になったという。
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(天守閣から見た姫路城1)
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(天守閣から見た姫路城2)
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(天守閣から見た姫路城の敷地。)
前方に見える白い長屋は西の丸百間廊下と言い、
江戸城で言えば大奥に当る場所。
廊下が200mほど伸びており、
廊下の脇に8畳間、十畳間ほどの部屋が繋がっている。
部屋にはそれぞれ大奥の女性が生活したらしい。
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(再現された大奥?)

世界遺産の姫路城。
実は日本の三大名城の中に入っていない。
???と思われる方が多いに違いない。
世界が観る価値観と日本人が持つ価値観は違っているのだ。
それで世界の人々は、
姫路城を日本に残された世界遺産に指定しているのである。
これはボクの勝手な解釈。

姫路城を造るとき、城壁にする石が無く困ったと言う話が庶民にまで届いて、
老婆が石臼を寄付した。
それが「姥が石」と名づけられて城壁の一部に金網で囲って見世物になっている。
なるほど余ほど石に困ったのか、日本三大名城と比較すると、
重要な角の部分は大きな石であるが、
その他の石がこまごまとしているのが分る。
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(石垣の石が本当に細かい石が多い)
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(老婆が寄付した石臼「姥が石」)

隣を見学していた老姉妹が、
こんな大きな石をどうやって運んだのかしら?と会話しているので、
少し物知りなボクが口を挟んで、
「船で運んだのですよ」と言うと、
「船までが大変だったでしょうね」という。
昔、江戸城を見学した時、
江戸城の城壁で一番大きな石は35トンあり、
伊豆から切り出して、水の浮力を利用するために、
石を海の中につるして船で運んだ、と聞いています。

物知り顔に、余計な口利きしてご迷惑ではなかっただろうか。
老姉妹は、フェリーの中の同じテーブルで昼弁当を食べただけの知り合い。
姉のほうか妹のほうか、
一人が弁当を食べあぐねてあとで食べようと残した。
その弁当箱を丁寧に包み直してバッグにしまいこむのを見て、
戦時中食べ物の苦労をされた方だと思った。
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(大手門の大きな石)
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(展示されていた甲冑)
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(火縄銃)








金毘羅さんと小豆島

2010年05月10日 05時45分06秒 | 姫路城と小豆島を旅して
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(金毘羅さんの鳥居)
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(金毘羅さんの石段上り口)
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(石段が続く)

(金毘羅さん)
雨の予定が、下車観光の時だけ降らず、
傘のお世話にならなかった楽しい2日間であった。

初日の金毘羅さん詣では、話には聞いていた780段に及ぶ石段、
これも気を逸らすためのガイドさんの軽妙な話に釣られて、
苦も無く登ってしまった。
荘重な神殿に2拍手2礼して、眼下の景色を眺めると、足の疲れも忘れる。
讃岐富士をカメラに収め、山を下って昼食。
初めての讃岐うどんをたべる。
好き好きで感じ方が違うのかもしれないが、隣の席で食べている人は、
美味しい美味しいとお代わりまでしていたが、
ボクには決して美味しいといえる味ではなかった。
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(金毘羅さんの石段が続く)
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(金毘羅さん最後の石段と思ったら、奥の院まではまだ階段が残っているそうです。)
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(神殿、2礼2拍手して)
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(かすかに見えた讃岐富士)
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(ホテルのウエルカムドリンクはよくあるが、ウエルカム讃岐うどんは初体験)
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(小豆島へのフェリー乗り場)

フェリーに乗り小豆島へ。
小豆島で有名なのがオリーブと「二十四の瞳」。
「オリーブ公園」で
オリーブ移植の歴史など聞きながら、パンにオリーブオイルを付けて試食。
パンが美味しいのか、オリーブが美味しいのか、
あるいは両方とも美味しかったのか、おなかが空いていたのか、
試食品を随分頂いた。
気持ちよく試食できたお礼に
「オリーブオイル」をお土産に沢山買ってしまった。

宿の夕食は「讃岐うどん」のように期待はずれになるかと思ったが、
鯛づくし会席は期待どおり大変美味しかった。
驚いたことに、宿に到着するや「ウエルカム讃岐うどん」があった。
ウエルカムドリンクやウエルカム花束などいろいろ経験しているが、
「ウエルカム讃岐うどん」はサプライズの中でも、一番である。

今まで旅をして一番驚いたウエルカムは、
ハンガリーでの「ウエルカムドリンク」。
ホテルのロビーで、振舞われたショットグラスのお酒。
お酒の種類は分らないが、たぶん食前酒。
到着客に一杯ずつ渡すのであるが、
一気に飲んだら喉が焼け付くほどのアルコール度数であった。

次がインドのリゾートホテルで頂いた「ウエルカムワイン」
赤ワインが程よく冷やされており、
ホテルのロビーで頂いたが、口当たりと言い、香りと言い、
言うことなしの赤ワインで、
赤ワインが苦手なカミサンは、普段は一口そっと嘗めて、
残りはボクに渡してくれるのであるが、
この時ばかりは全部飲んで、御代わりまでしたほど美味しかった。

今回の旅に戻る。
夕食後、宿で特別イベント「餅つき大会」が開催され、
お客さんがほろ酔い機嫌で餅をつき、
最後は宿の主人が代わって仕上げを済まし、
黄な粉をまぶして食べたつきたての餅。
ボクは糖尿病持ちでカロリー制限があるのに、
美味しさに負けて二皿食べてしまった。
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(「二十四の瞳」に出てくる「岬の分教場)
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(懐かしい始業の鐘)
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(校舎の全貌で3教室があった)

翌日は、昔観た映画の高峰秀子を思い浮かべながら
「二十四の瞳」の「岬の分教場」見学。
往時のままの姿で残されていた。
子供が座る小さな椅子と男女が席を同じくした机。
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(校社内の廊下、床は勿論板敷)
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(教室内木の椅子と机が並んでいる)
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(先生が使った三角定規、分度器など)
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(教壇のソロバンと校庭が見える窓)

想いは自分の子供時代に・・・
疎開先の山間部の小学校でろくに勉強もせず、叱られた記憶。

遠足には隣の席の女の子と手を繋いで歩いた。
遠足で食べるお弁当が余ほど美味しかったのか、
食べ過ぎてお腹を壊した記憶がよみがえる。
どうも食べ物の話が多くなってしまう。
食事制限をしているせいであろうか・・・
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(著者 壺井栄が残した色紙)

感傷に浸っている場合ではない。
ツアーは時間通り進んでいく。
お客の感傷など気にしていたら、帰りの飛行機の時間に間に合わない。

次の寒霞渓はその美しさにほれぼれしていると、
ロープウエイはあっという間の5分間で終わる。

フェリーで姫路へ。
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(ロープウエイから見た美しい寒霞渓)
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(寒霞渓のバス停?)
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(ロープウエイの終点)






インドシナ3国の旅の終わりに(タイー東南アジアの旅 最終章)

2010年05月02日 11時21分12秒 | 東南アジア紀行
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(山田長政も見たであろうタイの寺院)


(旅の終わりに)
今回の旅の最後はタイで、
メインはアユタヤ遺跡とトムヤンクンであった。
タイに飛行機で着陸したのが、夜の8:00頃であった。
その日の内に、計画ではトムヤンクンを食べるというか、
スープであるから飲むというか、戴く予定であった。

航空で荷物がなかなか出てこなかった関係で、
時間が遅れガイドさんがすこぶるあせっていたが、
観光客は、機内で夕食をたらふく食べた後であったので、
もうこれ以上お腹に入らない状態であった。

しかし、旅行社としては、観光予定にある以上、
どうしてもトムヤンクンを食べさせなければならない。
やっとの思いで、時間に間に合うレストランへ案内したが、
世界でも有数のこの美味しいトムヤンクンも、
この時ばかりは、お世辞にも美味しいと思えなかった。

人間の舌なんていい加減なものである。
おなかが空いていれば、どんな嫌いなものを頂いても美味しく感じるのに、
おなかが満ち足りているときに、世界三大スープのご馳走を頂いても、
決して美味しいとは思えないものだ。
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(寺院の壁に刻まれたレリーフ)
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(タイの民族衣装を身につけた女性)

日本を夜遅く出発するハワイ行きの飛行機と同じで、
夜9:00過ぎの出発では、
夕方6:00頃夕食をとり飛行機に搭乗するが、
飛行機が軌道に乗るや、夜食が出てくる。
出たものは食べなければ行儀が悪いと教わっている日本人は、
めでたく全部食べてしまう。

しばらくして、日付変更線を抜けるや、
朝食が出てきて、先ほど食べたにもかかわらず、無理やりお腹へいれる。
飛行機が着陸してホテルへ案内されると、
お昼ご飯。
ハワイでは歓迎をこめて、
アメリカンビーフのこってりした料理を出してくるに及んでは、
もはやギブアップせざるを得ない。
何と言っても12時間の間に四回も食事を取ることになり、
しかも睡眠はごく僅かしかしていない。
如何に大食漢といえども、すべてを食べこなしては、
お腹を壊す。

そんな感じで、トムヤンクンが出てきたから、
決して美味しくは感じなかった。
それでも出されたものを、食べ残しては行儀が悪い。
無理やり押し込んでしまった。

翌朝、約70キロも自動車を走らせて、アユタヤ遺跡についた。
この遺跡は、お釈迦様のお墓であるという。
エジプトのピラミッドには及ばないが、
それでも二百人は埋葬できるのではないかと思われる、
小山ほどの大きさのお墓であった。
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(タイのアユタヤ遺跡の美しい夜景)

夕陽が沈むアユタヤの遺跡は、黄金に輝き荘厳な美しさであった。
ガイドさんは見るからに若々しい女性であった。
聞くところによれば、昨年(2001年)観光に来た日本人青年に見初められ、
昨年10月に結婚したという。
その結婚式の写真を見せてくれた。

日本人の青年は富山県の出身で28歳ということであったが、
彼女いわく「私は41歳」という。
どう見ても40歳には見えない若さだ。
年齢のことは、日本人の青年も、そのご両親も御存知というから問題はなさそう。

その時思い出した歌がある。

♪お月様いくつ?十三、七つ。まだ歳 若い♪
そこで考えた、替え歌。
♪お嬢さんいくつ?三十三、七つ。まだ歳 若い♪

しかし、彼女は今までタイ以外の外国には、
カンボジアにしか行ったことはない。
いつも暑いタイの気候には慣れているが、
日本の冬を知らないし、
第一、雪なんて映画でしか見たことがない。
日本人の青年の実家には8月に訪ねて、両親にも会ってきた。
この12月12日に富山へ移り住むことになっているが、
富山の気候はどうでしょうか? と訊かれた。

その時、次の歌が思い浮かんだ。

♪金襴緞子の帯締めながら、
花嫁御陵は何故泣くのだろ♪
そこで考えた替え歌。
 ♪セーター、コートにババシャツつけて、
タイ女(じょ)はお嫁に何故行くのだろう♪

私たちは11月末にタイを訪ねているが、
半袖姿で、汗を拭き拭き観光している。
東京は暖冬とはいえ、半袖では歩けない。
セーターに、コートが必要です。まして富山は東京より寒い。
雪もたくさん降る。
タイのように暑い季節は、一年で3ヶ月しかありません。と話した。

彼女は寒さを考え、先月セーターを一枚購入したらしい。
衣服といえば他に持っているのは、夏服ばかり。
しかもノースリーブのような衣服しか持っていないと、言っていた。
寒くて我慢できないような時は、
タイに逃げ帰るんだと語っていたが、
日本人の青年の愛情につつまれて、
暖かい新婚生活を楽しんでいるのだろうか?

別れ際に、日本へのお出でを心よりお待ちしています。
そしてお幸せに!と話した。

その後、もう10年も経過したが、彼女の消息をボクは知らない。

きっと、可愛い子供に恵まれて、
元気で幸せに暮らしていらっしゃるだろう。
そう願わずにいられない、素敵なガイドさんであった。

こうして、東南アジア三カ国の旅は終わりました。

東京の池袋で、タイを旅したとき食べたものとは違ったトムヤンクンを味わいながら、
6回にも亘り、過ぎ去った外国旅行を思い出していました。
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(埼玉県にある古墳の一つ、やはり日本の風景のほうが美しい)