中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

中津川宿(旧中山道を歩く 214)

2010年10月25日 11時09分26秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(木曽海道69次之内 「雨の中津川」)


(中津川宿の高札場)


(高札場の先、市街地の道路)

(中津川宿)
中津川の高札場を背にして、旧中山道の道路は右にカーブする。
市街地の歩道の無い道の端を、自転車や車を避けながら歩くと、
広い道路と交差する(新町)の信号に出る。
右に行くとJR中津川駅である。
この信号を渡ると、ここからが中津川宿の中心地に入っていくのであろう、
中山道らしく歩道が色レンガ舗装で整備されている。

「すべて山の中である」と書いた「夜明け前」の木曽路を抜けて、
薄暗い中山道から、塩尻以来、久しぶりの明るい市街地で、
よく整備されていると感心する。

島崎藤村の「夜明け前」の中で、
主人公の青山半蔵が、
「共の鶴松を顧みて、『あの山の向うが中津川だよ。
美濃は好い国だねえ』と言って見せた。」とあるように、
市街地として開けた中津川を羨ましく思う青山半蔵の思いが、
この一行にみごとに表現されているように、
開けた町としての中津川市を今でも感じ取ることが出来るのは不思議である。
それはやはり木曽路のうっそうとした山間の林を抜けてきたからであろうか。


(「新町」の交差点)


(歩道が色レンガで舗装されている)

話を戻す。
中山道は(新町)の信号を渡るとすぐ左手に、
中津川名物「栗きんとん」の老舗「すや」がある。
秋の栗の季節にはこの「栗きんとん」を購入できるが、
残念ながら栗の季節外れに通過するボクには
「季節外れでただ今販売しておりません。
秋には是非お越しをお待ちしてます。」と丁重に断られた。(残念!)

すぐ右手に日本画の大家「前田青頓画伯生誕の地」の石碑がある。
さらに進むと今度は左手に、
「桂小五郎隠れ家跡」の案内を発見。
狭い道を左折すると、古びた二階家の家があり、
ここが料亭「やけ山」跡。

中津川観光協会によれば、
(この辺りに昔料亭「やけ山」があった。
文久二年(1862)六月、
長州藩士桂小五郎(木戸孝允)は、
江戸から京都へ向う藩主毛利慶親公の行列を待つ間、
幕吏の目をのがれて
中津川の平田門人 間秀矩(はざまひでのり)や
市岡殷政(いちおかしげまさ)の好意によって、
密かに「やけ山」に隠れ、待機した。
やがて三日間の「中津川会談」結果、
桂の主張によって長州藩は、
尊王倒幕へと決断した。
明治変革の秘史を物語る場所である。)


(日本画家 前田青頓生誕地跡の碑)


(桂小五郎の隠れ家跡の案内)


(狭い道をたどると)


(隠れ家料亭「やけ山」)


(料亭「やけ山」の入口)

中山道に戻り西へ進むと、左手に「間家大正の蔵」がある。
この蔵については、
(広大な屋敷を構え、東濃随一の豪商とまで言われた、
間家の敷地内にあった倉庫の一つで、
大正6年(1917)3月に建てられ、
従来の土蔵造りに明治以降の近代的工法が取り入れられた、
当時のコンクリート工法の過渡期の状況がわかるもので、
中津川市の有形文化財に指定されている。
現在、間家から市に寄贈されたこの蔵は、
中津川商人の資料や宿場関係の資料が展示され、
一般に無料で開放されている。
蔵前の庭には、織部灯篭(市指定文化財)や
中津高等女学校の創立者間杢右衛門道矩(9代)の
胸像が建てられている。)(中津川市観光協会)


(間家大正の蔵)


(間家大正の蔵2)






小野の石造物群と芭蕉句碑(旧中山道を歩く 213)

2010年10月19日 10時22分12秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(しだれ桜の木)

(落合宿 4)
左手に「中山道」の案内を見て、さらに坂を下り進むと左手に、
見事な(しだれ桜)に覆われた一里塚と見まちがえる塚が見える。
小野の地蔵堂石仏群のある場所である。
中津川市教育委員会に寄れば、
(昔、この辺りに地蔵堂があったといわれていますが、
所在は明らかになっていません。
中山道を通る旅人の心を和ませたといわれる枝垂れ桜が境内にあり、
街道まで枝が延びて趣があります。
ここは無縁の石仏を集めた所とも伝えられ、
元禄七年(1694)の庚申塔や地蔵、観音像など数多く祀られています。
また、文政五年(1822)の「南無阿弥陀仏」と独特な文字で書かれた
高さ約2mの徳本行者の名合石があり、
生き仏といわれた彼が、
文化年間(十九世紀はじめの頃)にこの地に逗留して、
「称名念仏」を布教したことを偲ばせます。)とある。

石仏群を後に進むと変則十字路に出るが、
突き当たりに「中山道」の案内があり、
道路にある黄土色と白の石が入ったアスファルトが
進む道を案内してくれる。


(しだれ桜の下にある石仏群)


(変則十字路、道路の黄土色と白色の石が入った中山道)

国道19号線にぶつかるが、右手に地下横断歩道があるのが見え、
入口に中山道と書かれているので、地下道で国道を渡る。

地下道の中には、地元の中学生が調べて作成したと思われる案内があった。
「歴史の道中山道」と題して次のように書かれている。
大切なことであるので、確認の意味で書き記しておきたい。
(中山道は江戸時代の主要な交通路で、
東海道、日光道中、奥州道中、甲州道中と並ぶ五街道の一つであった。
宿駅は武州(埼玉県・東京都)に十ヶ宿、上州(群馬県)に七宿、
信州(長野県)に十五ヶ宿、木曽(木曽谷)に十一ヶ宿、
美濃(岐阜県)に十六ヶ宿、近江(滋賀県)に八ヶ宿の67ヶ宿が
中山道の宿駅である。
京都までは東海道の草津と大津の二宿を加えて江戸から京都まで69宿となる。
その距離は江戸日本橋から京都三条大橋まで532kmと、
135里24町8間あった。
古文書(御触書廿二)に
「東山道、山陰道、山陽道いずれも「山」の字を「セン」とよみ申し候。
東山道の内の中筋の道に候故に古来より中山道(ナカセンドウ)と申事に候。」
享保元年(1716)と説明している。)とある。

その他、このトンネルを出て、尾州白木改番所まで○○mなど、
史跡までの道程がたどたどしい文字で書かれていてほほ笑ましく感じた。
地下道を出ると、西の出口に地下道を造った時、
記念にでも作ったのか真新しい双体道祖神が置かれており、
少し興ざめである。


(国道19号の地下道)


(真新しい道祖神)

さらに道路を西に進むと、左手に道祖神など石仏群を見て、
右手に「尾州白木改番所跡」があり、尾張徳川家の管理下にあったことが解る。
木曽11宿は尾張徳川家の管理下にあり、
徳川幕府は木曾の材木を幕府の手中に納めていたことがよく解る。
それだけでなく最も信頼が置ける者に管理させて、
裏切りは絶対無いと安心するために親族に管理させていたのである。


(道祖神、常夜灯の石仏群)


(「尾州白木改番所跡」の碑)

左手に旭が丘公園を見て坂を下る途中左手に、
二基の庚申塔と共に芭蕉の句碑があるのが見える。

・山路来て なにやらゆかし すみれ草  はせを

説明では、
(松尾芭蕉の句は、貞享2年(1685)の3月27日頃の吟で、
前書きに「京都より大津に出る道、山路をこえて」と
「甲子吟行 別名 野ざらし紀行」にある句で、
碑は大津出身の菅井家先祖が、ここから見た宿場のたたずまいが
(京都から大津に出る山道)近似していることから、
常に、その情景を孫子(まごこ)に語り伝えてきました。
三代 菅井嘉兵衛孝伯のとき郷愁にふさわしい この秀句を選び、
安永2年(1772)芭蕉八十回忌に父祖の慰霊を兼ね、
中山道に面して建てられましたが、
30年前に保護するため、道筋から外し、
昭和53年(1978)3月、
昔の面影を残すため、この場所に移した。)とある。


(庚申塔)


(芭蕉句碑)

落合宿は中津川と比べると、60mほど高台にあり、
街道はすでに下ってきているが、この先もジグザグに石畳を下って行く。
途中で周りを見渡すと、
確かに中津川市街を見渡すことが出来る高さにあることが解る。
この坂を茶屋坂といい、途中市道を歩道橋で渡ります。
歩道橋を下りた階段手すりに中山道こちらの案内があり、
なお、下ると左手にまた階段があり「茶屋坂周辺中山道」の案内がある。

案内に沿って階段を下りると右手に、二十三夜塔、庚申塔、常夜灯があり、
左手に高札場が復元されている。
中津川市によれば、
(高札場は、元の位置は復元されている高札場より、
10mほど坂を登った北側の街道に面して建てられていた。)と言うから、
今降りてきた階段の上の道路上にあったものと思われる。

復元された高札場を見て、背にしている道路が旧中山道で、
道路はすぐ右に大きく曲がっている。

ここから中津川宿に入って行く。


(茶屋坂を下る石畳)


(市道をまたぐ歩道橋が中央に見える)


(歩道橋からは中津川市が見渡せる)


(歩道橋を降りたところにある案内図)


(坂の途中にある階段と中山道の案内図)


(階段下の二十三夜塔や庚申塔)





「おがらん」と「子野の一里塚跡」(旧中山道を歩く 212)

2010年10月11日 14時11分04秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(おがらん橋)

(落合宿 3)
善昌寺を左折して道なりに歩くと、
国道19号線をまたぐ橋にでる。
「おがらん橋」である。

橋を渡り終えた右側に数段の石段があり、
その上に石造りの鳥居がみえる。

「おがらん神社」といい、
鳥居脇に「落合五郎兼行之城跡」の石碑が建っている。

中津川市の説明では、
(落合五郎城跡(おがらん様)について、
木曽義仲の家臣で、四天王の一人といわれた落合五郎兼行が、
美濃の勢力に備えてこの地に館を構えたとされる。
地元では「おがらん様」の名で親しまれている。
ここからは、縄文土器をはじめ八世紀から
九世紀のものと思われる幣(ぬさ)の石製模造品、
古代掘立柱建築遺構などが発見され、
東山道の深いかかわりがあった場所であると推定される。)とあり、
「おがらん」については説明が無かった。


(おがらん神社)


(落合五郎兼行の城跡の碑と移設された常夜灯)

また、おがらん四社には次のように説明がある。
(館跡とされている場所は「おがらん」と呼ばれ、
「伽藍(がらん)」(大きな寺院)という言葉から来たと推定される。
四社とは愛宕神社、山の神神社、天神社、落合五郎兼行神社である。)と。

そして中山道を歩く案内書には、
(「おがらん」とは小高い所を指す語である。)とあるが、
確かにこの神社は少し高い位置にあり、さらに階段を登らなければならない。
しかし、どの解釈が正しいのかよく解らない。

話を戻す。
おがらん様を出て、国道19号線に沿って坂を下り、
道なりに右折して進むと横手橋に出る。
ここで気付いたことであるが、
旧中山道は黄土色と白色の硬い石が混合されたアスファルトが舗装してある。
同じ舗装の道を辿って行けば、旧中山道を進むことがわかった。


(おがらん橋から坂を下る)


(中山道には黄土色と白色の石を交えた道路になっている、上の写真の道路も同じ)

横手橋の橋脚には、右木曾(東京方面)左美濃(京都方面)と書かれている。
道路を進むと国道19号線にぶつかるが、自動車道で横断できず、
立体交差している道路を行かなければならない。

国道19号線への進入路を逆に右に下ると、
左手に19号線をくぐるトンネルが見えるので、
ここをくぐり反対側に出る。
出た所の右手に、バス停「与坂」があるので、
バス停を右に急カーブして坂を登る。
坂はかなり急で、途中で一度休憩が必要なほどである。
坂の前方に見える電波塔を目指して上る。
周りを山で囲まれた地域にある電波塔は、
遮られる山より高く電波を飛ばす必要から、
塔そのものを高い場所に設置しなければならないことは理解出来る。
中津川市でも小高い場所を選んで設置されている塔を目指して登るのは、
今まで歩いてきた距離から考えかなり厳しい歩行になる。


(横手橋の案内)


(国道19号にある「与坂」バス停、この後ろにある道路をくだり立体交差で対岸に出る)


(左で立体交差する。「中山道」の案内)


(国道19号をくぐり抜けた所)


(反対側にある「与坂」のバス停)


(急坂の上にある電波塔)

やがて与坂立場跡の碑があり、目の前に、立派な建物がある。
立場茶屋の跡であろう。
道路反対側に弘法大師三十六番札所の地蔵堂が安置されている。
この二つの建物の間を抜けて、道路を下っていくと、


(与坂立場茶屋跡)


(弘法大師三十六番札所)


(子野の一里塚跡)


(子野の一里塚跡の碑)

やだて、左に一里塚が見えてくる。
「子野の一里塚跡」(江戸から84番目)である。
道路はアップダウンがあってかなりきつい。
坂を登り切った所に神社がある。

覺明神社という。
覺明とは御嶽山を開山したことで知られる。
覺明については、
(御嶽山を開いた覚明行者は、
享保四年(1719)現在の春日井市牛山町皿屋敷の
百姓丹羽清兵衛(清右衛門)の子として生まれ、
長じて修験として修行のち、四国の霊場を九回巡歴し、
明和三年(1766)に高知県の山中で法力を得て、
覚明の名と鉦鼓石を授かって郷里に帰った。
翌四年に岐阜県の恵那山に入り、その参道を開いた。
ついで、「信濃国の御嶽山を開け」との御神告を受け
黒沢村に行ったが、
庄屋田中新左衛門らの大反対のみならず迫害まで加えられた。
行者はこれに屈せずひそかに強力を雇い、
参道の開さくに着手したが中途、
訴人のために福島番所に拘引二十一日に及ぶ憂き目にもあった。
その後数年間は苦難の日々であったが、
天明五年ようやく大願を成就し、
従来百日の重潔斎しか登拝を許されなかったものを、
七日の精進でよいとし、参道の開さくも完成した。)という。
(春日井市教育委員会)

覺明神社を過ぎて坂を下ると、左側に休憩所とWCがある。
石碑に、(子野の里 中山道に いこいの場)とある。
気兼ねなく休憩していただきたい。


(覺明神社)


(覺明神社2)


(休憩所とWC)


(石碑に、「子野の里 中山道に いこいの場」とある)








関所の女改め(旧中山道番外記 22)

2010年10月04日 09時53分09秒 | 中山道番外記

022
(東門から見た木曽福島の関所跡)
0019
(木曽福島の関所跡2)
045
(西の関所入口門)

(「皇女和宮御下向御用日記留」を読んで)

中山道の木曽福島宿に関所があったのは良く知られている。
木曽福島を描いた広重の浮世絵には、
広重美術館の説明に次のように記してある。

(江戸と京のほぼ中間にあるこの木曽福島には、
東海道の箱根、荒井、中山道の碓氷、
と共に四大関所の一つに数えられている関所があった。
両側から山が迫る木曽川の断崖の上、
江戸方向から歩いて急坂を上り詰めた所にこの関所はある。
検問を終えて出てきた武家と飛脚が
これから向かう旅人とすれ違う場面が描かれている。
画面奥には、土下座をして今まさに検問を受けている旅人がいる。――下略)

Kiso161
(木曽海道69次之内 広重画「福し満」)

関所の通行は、男性は比較的簡単で手形があり、
発行者の確認が取れればOKであるが、
女性の場合は厄介である。
「入り鉄砲に出女」が取締りの最重要課題であるからだ。

そもそも昔は女性が旅をするのは珍しく、
せいぜい嫁に行くか
嫁ぎ先で親の危篤で実家に帰るときくらいなものであった。
それでも女の一人旅は無く、必ず男性が付き添っており、
先に付き添いの男性が関所にお伺いを立てて通行の許可を取ってから、
女性を伴って通行したものらしい。
それでもチェックはそれほど厳しくなく、
独身と言う触れ込みなのに「鉄漿(おはぐろ)」があるとか、
眉毛が無いとか、結婚しているのに振袖を着ているとか、
不審な点があるとチェックは厳しくなる。
また、女性が男装している疑いがあるときも厳しい。

027
(嫁入りの女手形)

関所には上番所と下番所があり、
審査は下番所で行われるが、
下番所の奥に窓なしの部屋があり、
疑わしき女性の場合は、
窓なしの部屋で下番所役人の妻か母親が、
役人に代わって身体検査を手探りで行う。

その窓の無い部屋にカミサンと入ってみたが、
異様な感じがした。

どのように手探りで検査したのか知らないが、
女性が男装してくるのをチェックするには、
胸元に手を差し入れるのか、
あるいは股間に手を差し入れて、
あるべきものがあるかないか探るのであろうか・・・

女性だと思って手を差し入れ男性のものが有ったとしたら・・・
チェック役が母親の場合はまだしも、
妻の場合はつい悲鳴が起こってしまうに違いない。
役柄とは言え、ご苦労なことである。(笑)

話は変わるが、
木曽福島の関所に女一人旅の手形が展示してあった。

「文久元年皇女和宮様の御通行に際し
人足に出ていた父親が藪原宿で病気になったので
娘が看病のため関所を通して欲しいという手形」である。

なんとも気の毒な話であるが、
最近読んだ「皇女和宮御下向御用日記留」
蕨宿本陣 岡田加兵衛が書き残した膨大な冊子には、

和宮通行に際し、
物を運ぶ人足に駆り出された百姓たちの中には、
食い物をろくに与えられず、
具合の悪くなった者たちがいることを書き残している。
手伝いをさせるのだから飯ぐらい食べさせたであろうに・・・

034
(和宮お供の父親見舞の「女一人旅の手形」)

そんな一面があるのに、
食べ物については、
人足に与えるために炊き出した大量の赤飯が、
10日も経って酸っぱくなってきて、
糸を引くようになってきており(心配している)
などと他人事のように書いている。

こんなものを食べさせられているのだから堪ったものではない。
この頃の農民は荷物を運ぶ牛馬と同じように扱われていたのであろうか?

話がとんだ方向に行ってしまったが、

(皇女和宮の御通行は人数も多く警備もさることながら、
荷物運搬にも随分人手がかかったようである。
また建物の修復にも、細かな所まで指示して修復させておきながら、
大工の手間賃や材料費をなかなか支払わず、
皇女和宮通行の一年後に、業を煮やした名主たちが幕府に請求しているが、
一年も支払いを延ばしておいて、
事もあろうに、
支払い遅延で利息を付けると言うのなら理解できるが、
千両に付き五十両値切り倒している。)

こんなことが蕨宿本陣家 岡田加兵衛が書き残した
「皇女和宮御下向御用日記留」に記載されている。

幕府には、余ほどお金が無かったのであろうか・・・

江戸城明け渡しの折、金蔵(かねぐら)には一両も無かったという。
確かめたわけではないが、もっぱらの噂である。