中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

あとがき(旧中山道を歩く 335)

2012年07月07日 10時30分52秒 | 8.山城(京都府)の旧中山道を歩く(333~33
2004年3月27日、日本橋をスタートして、中山道を歩き始めた。
後になって気が付いたが、
3月27日は松尾芭蕉が「奥の細道」へ出立した日であった。
もっとも、芭蕉は旧暦で、ボクは新暦である。

どんな事でも、やるぞ!と決めたらとことんやりのけるのが、
たった一つのボクの長所。
普通は、雨が降ろうと、雪が降ろうと、風が吹こうと、
関係なく、がむしゃらに、実行するのだが、
歳をとった所為か、
今回は天気予報で気温や降雨について確認してから出かけた。

東京から埼玉に入るのに4日を要し、
埼玉を通過するのに7日、群馬を通り抜けるのに6日、
長野県は信濃が7日と木曾が8日で、
都合木曾11宿は15日必要であった。

軽井沢を過ぎてからは、それまで日帰りで歩いたのを、
一泊二日で進めるようになってからは、
連続する二日間、良い天気に恵まれる予報がなければ出かけなかった。
他に暑い日は避け、冬の雪の日も止めて、勿論風が強い台風も避けた。
孫の運動会、文化祭も避け、親せきのお祝いごとなどや、
友人の訃報にも配慮して、歩くのを中止した。

それから土曜日日曜日祭日は、乗り物の混雑、宿泊場所の混雑があって避け、
月曜日は歴史民族資料館、美術館、博物館が,
お休みの所が多いのでこれも避けた。
こうすると、一年に出かけられる日は限られてきて、
年に5~6日しか出かけることが出来ず、
京都三条大橋に到着するのに時間が掛かり、
足掛け9年の2012年4月24日まで、通算49日間必要であった。

平均25km/日歩き、中山道の付近にある史跡名所は、できるだけ訪ねた。
旧中山道は、今では国道に合流してしまった所、
国道から離れて山の中へ入っていく道路など、
さまざまで、道に迷い山深いところへ入り込んで、
背丈もある笹叢の中へ入って、
どちらへ出れば抜け出る事が出来るか、
遭難して命落とすのではと、不安な所もあった。

草むらは人の足跡があるようなという程度の道は、
道でなかったことを知った。
旧中山道とは言いながら、中山道は中山道で草道なら、
ちゃんとした草道があり、
道の形をなしている。

元大学の山岳部にいた人に、
山登りのコツを聞いて、
間違いと思ったらすぐ引き返す。
(下り山道で足を滑らし、
千尋の谷へ落ちるなんてことは幾らでもあります。
山が低いからと言って侮らないこと、
全体として上っているのに、下り道になっている、
あるいは、下りなのに上り道になっている、
というような時は気をつけ慎重に行動する。)
など注意事項を聞いておいて、
道に迷い込む事を避けられたこともあった。

江戸から数えて57番目の一里塚が52番目の一里塚と表示されている所、
案内板に、江戸日本橋から57番目の宿場なのに、
58番目と書いてあった垂井宿、
地方自治体の教育委員会に連絡して、
訂正をお願いする事もあった。

中山道は67次であるが、
通常 東海道の2宿を加えて、
中山道69次と言っている。
最後京都に入って、
三条大橋が江戸から言えば終点になる。

長い道のりであった。

大津から京都へ入るのに、
峠を二つ越えなければならない。
一つは、逢坂山、
芸道の神さまで百人一首の坊主としてしかボクは知らない
「蝉丸」の神社が二つも三つもある逢坂の峠、
もう一つは、日ノ岡峠で、
大津からこの峠を越えるのに花崗岩の「車石」を並べた。
荷車が峠のぬかるみに足を取られて難渋しないように、
荷車の車輪の幅に花崗岩を並べて、車を挽き易くした峠。

この峠に木喰上人(もくじきしょうにん)が、
井戸を掘りその水を、
旅人と荷を引く牛に振舞った。
中山道では、荷を運ぶのに馬50匹、
人足50人を各宿場に用意させたが、
京都には、馬に替わって牛に荷を挽かせた。

この日ノ岡峠の水場を「亀の水不動」といい、
旅人に振舞ったと言う井戸水が,
亀の口から今も流れ出ている。

この亀の水を受ける水鉢が、
なぜか東京の「椿山荘」の庭に置いてあった。
名前を「量救水(りょうぐすい)」といい、
石鉢の縁には、
「木喰上人 養阿 日ノ岡峠」と書いてあるように見える。
鉢の内側には、般若心経の262文字が刻んである,
というが確認できなかった。

京都に入って、平清盛に関係する六波羅蜜寺に立ち寄った。
平宗盛と清宗の墓を見て、哀れに思ったからであろうか。
六波羅蜜寺で、清盛の木像らしいと言うものを見て、
感激し平家物語を読もうとしているが、
未だ暇を見つけることが出来ないでいる。

三条大橋で首を曝された人は多いが、
現在では陽気な日当たりの人出が多い橋でしかない。
高山 彦九郎像が大津側にあり、
東海道中膝栗毛の「弥次郎兵衛と喜多八」像が,
京都側に建っている。

愉快な二人の珍道中を瞼に描きながら、
「中山道ひとり歩る記」の旅を終わりにしたい。
拙い文章のブログに、
長らくお訪ね頂いた皆さんに感謝申し上げると共に、
今後、中山道を歩こうとしている方々の,
参考になることを願っています。

2014年3月27日      hide-san


左右にある一里塚と宿場の本陣(旧中山道番外記 27)

2012年07月06日 10時20分03秒 | 中山道番外記
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(志村の一里塚、左右一対の一里塚①番目)

(左右一対の一里塚)
徳川幕府は、五街道を制定すると、その街道の一里ごとに塚を造らせた。
街道の両側に造った一里塚は、中山道69次の中でも、
現在(2012.4.24.)一対で残っているのは、僅かに15個しかない。
全部で135個在ったうちの15個である。
左右の開きでは、地形の関係で道幅が異なり千差万別であるが、
左右で前後にずれているもので、16mもずれているものがある。

国の指定史跡になっているのは、中山道上では二つあるが、
一つは板橋区の志村の一里塚であり、もう一つは垂井の一里塚である。
しかし、道路左右に残っているのは「志村の一里塚」で、
ほぼ原形をとどめており、頂上に榎が植えられている。

当初一里塚が造られた時、「植える木は余の木にせよ」、
あるいは「ええ木にせよ」と、名古屋弁で「良い木にせよ」と家康が言ったらしいが、
良く聞こえなくて、聞きなおすのもはばかられ、
榎の木ということにした。

榎も初代のものでは無さそうであるが、現在残っている木は、
しだれ桜、松、ケヤキだったりする。
明治になって伝馬制度がなくなり、参勤交代もなくなり、
鉄道が敷かれてからは、まさに無用になった。
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(平出の一里塚、松の木が植えられている)

勿論、本陣も脇本陣も無用になり、
不要になった大きな建物は、郵便局や警察署、学校に当てられた。
もともと本業で酒造業であった所はそのまま酒造を続けたが、
旅館業に変ったものもある。

ボクの記憶に新しいのが、新宿にあった「ホテル本陣」。
もう50年も昔の話で、今はどうなったか知らない。
木曾の「細久手宿」では、今でも旅館業を営んでいる。
もっとも本来の本陣でなく、尾張藩領指定の本陣であったらしいが。

尾張藩領と言えば、木曾福島も尾張藩であったらしいが、
尾張徳川家が中山道の長い道のり(名古屋から木曾福島にいたる)を、
管理していたのは、徳川家康が敵の攻撃を事前に察知するためであったに違いない。
碓氷峠の関所も信用できる家来に守らせている。
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(馬籠本陣跡の門、藤村記念館になっている)
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(「夜明け前」に出てくる馬籠本陣裏手の土蔵の隠居所)

本陣を紹介した本が島崎藤村の小説にある。
「夜明け前」である。
ここで本陣の条件なるものが述べられていたが、
その中でボクにとって衝撃的であったのは、
緊急の場合逃げ延びる事ができる裏口が必須条件であったことだ。

本陣とは、武士たちにとっては戦場の中の本部であり、
敵に襲われた場合に、逃げ出す事が出来る街道につながる裏口が
必要条件である事だ。

このときすぐに思い出したのが、桶狭間の合戦である。
信長は、休憩中の今川義元の本陣へ攻撃をかけ、
見事これを討ち取るが、
このときとっさに逃れる事が出来る裏口があったら、
今川義元は逃げおおせたに相違ない。
すると歴史は変わってくる。

これは偽らぬボクの気持ちだ。そうすると秀吉もなく、
家康もなかったかもしれない。
家康が無ければ、中山道もなく、
ボクのこの一文も無かったであろうに・・・。
と考えると、歴史はとても面白い。
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(下諏訪宿本陣・岩波家の門構えと、左に見える明治天皇の石碑)