中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

ジャカランダ(南部アフリカ紀行 最終章)

2008年03月16日 11時07分00秒 | 南部アフリカ紀行
(満開のジャカランダ)

(ジャカランダ)
旅行社のパンフレットを見ると、
紫色の花が満開になった写真が私たちの目を引く。
南部アフリカ旅行のハイライトとしてジャカランダが一役買っている。
ジャカランダといえばプレトリアが有名で、
此処では街の街路樹にジャカランダを植えてある。
日本の桜のように春先にいっせいに花が咲き、
これまた日本と同じように花見が行われると言う。
南半球は北半球と気候がまったく逆になるため、
春先は10~11月になる。
また、赤道が北にあり、北へ行くほど温暖になる。
北半球とは逆である。
太陽の陽射しは北から差し込み、
日当たりのよい家とは北向きの家ということになる。

プレトリアは南アフリカの北のほうにあり、
桜前線ならぬジャカランダ前線は、
北から南へと移っていく。
プレトリアではジャカランダの花を楽しむ時期は、
10月頃であるが、
プレトリアより南に位置するヨハネスブルグでは
11月になって満開になる。

(ジャカランダ2)

この木は水を良く吸う木で、
これが街路樹として沢山あることは、
乾季に水不足となるアフリカでは問題になっている。
しかしその美しさは、
桜と同じように人々を魅了している。
桜は花びらが一枚ずつはらはらと落ちていくが、
ジャカランダの花の形は筒状になっており、
(ちょうどギボシやハナトラノオ、桐の花、
サルビアのような形の花を想像していただければよい)
一つずつポトンという感じで落ちてくる。
緑の芝生に落ちたこの紫色の花は、とても美しい。

(少し分かりにくいが花の拡大部分)

ジャカランダの実は、カスタネットのよう形で
硬い殻の間に種が沢山入っている。
木の上で乾燥によりカスネットが開き、
中なら種が空中にばら撒かれる。
種は、直径1センチほどの薄い柔らかいグレーの和紙のようなもので、
その数は計り知れないほど入っている。
種を撒き散らすと、カスタネット状の実は枝から落ちるが、
時には中の種がまきちら無いまま落ちてくるものがある。

面白いかっこうの実を、孫たちのお土産にと幾つか拾ってきた中に、
まだ種が入っているものがあった。
種は先ほど述べたが、
大きさ1センチほどの軽い柔らかなグレーの和紙のようで、
長年着た洋服のポケットの隅に溜まった綿埃を思い起こしてもらえればよい。
それを1センチほどの大きさに平らにしたものが種だ。

早速、種を鉢に播いてみると、10日ほどで芽が出てきた。
10本くらいを株分けして、一鉢に2本宛て植えたらぐんぐん伸びて、
さらに株分けの必要が生じた。
成長の早い木で、昨年一年で、120センチほどに背が伸びた。
一株を一鉢に植え替えたが、残り5株の始末に困った。
一株を娘にプレゼント一株は近所のハナ好きの方に、
残り3本は育つかどうか分からないが庭に植えた。

(カミサンが育てたジャカランダ。左に置いたブロックで大きさを想像してください)

それでもまだ五株残っており、3株はカミサンが育て、
2株はボクが花を咲かせるための実験用に育てている。
聞くところによると開花まで7~8年かかると言う。
早く咲かせるために、肥料の与え方、
水のやり方など少し試行錯誤して
育ててみようと言う算段である。

先日、住所の自治体が運営する植物園へ行ったら、
ジャカランダの木がないので、
事務所によって差し上げたい旨話をすると、
お役人らしい回答が返ってきた。
「木はしかるべきところからキチンとした苗を
購入しますので頂戴は出来ません」という。
なんだかボクのジャカランダがまがい物で、
病気でも持っているようなことをいうので、
アフリカ旅行をして種を蒔き育てた事情を話すと、
「東京は寒いので育たないのではないか」とか、
「大きくなる木は無理です」とか言う。
つまり購入の権限が無いのだ。

一般にアフリカと言うと日本人は、
熱いところというイメージしか持っていないのが普通である。
「アフリカと言っても、北半球と南半球の違いはあるが、
春夏秋冬があり日本と変わりないですよ。
東京では寒いと言いますが、
西馬込には街路樹として生えていますよ。
木が大きくなると言っても、この植物園には杉やヒノキ、
しいの木やケヤキ、榎だってありますよ。
大きくなる木がダメなら、
秋に枝を切り落とすぐらいのこと考えたらどうです?」
回答があまりにもいい加減であったので、
つい言い過ぎたが
「つまりいらないと言うことですね」と
言って帰ってきた。

それにしても、早く花が咲かないものだろうか、
7~8年かかるでは、
残念だが命と競争になってしまう・・・

(美しかったブーゲンビリア)




テーブルマウンテン(南部アフリカ紀行 8)

2008年03月08日 09時26分24秒 | 南部アフリカ紀行

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(ケープタウンから見たテーブルマウンテン)

(ケープタウンとテーブルマウンテン)
南アフリカのケープタウンは近代化された町である。
東京にもニューヨークにもロンドンにもある施設が完備しており、
トイレもショッピングも、
ホテルもレストランも近代的に整備されている。
そして街の背後にあるテーブルマウンテンがとても美しい。

そして逆にテーブルマウンテンから見たケープタウンも美しい。
海岸からテーブルマウンテンに広がる街は、
清潔で明るい太陽の下に輝いて見える。

そのテーブルマウンテンにはケーブルカーで登ることが出来る。
何人乗りか知らないが、相当の人数が乗れることは間違いない。
そのケーブルカーのゴンドラはテーブルマウンテンの降車駅に突くまでに、
360度1回転して、ケープタウンを、
ライオンが座り込んだ形を作っている山を、
地面に生える赤い花の群生を、
一望できる仕組みになっている。
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(ケーブルカーから見たケープタウン)
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(ライオンが座っているように見える山)

ケーブルカーを下りた山は、
その名の通りテーブルのように平らで、
海から吹き上げる風が強く、
吹き飛ばされそうになる。
高所恐怖症のボクには、
テーブルの端にあたる場所には恐ろしくて近づけない。
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(テーブルマウンテンから見た下界)
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(カーブルカーの下に咲き乱れる赤い花の群生)

テーブルの上、つまり山の頂には、
いろいろな花が咲き乱れていたそうであるが、
高いところから下界を見るのは、
足元が振るえる高所恐怖症のボクには、
見下ろすことにだけ集中していて、
周りの花には何も気づかなかった。

テーブルの上を渡る冷たい風が、
海から吹き上げる湿って暖かい空気を冷やして雲を作るが、
その雲が山の上から流れ落ちていく様を、
テーブルクロスと名づけているのも頷ける。
その純白なテーブルクロスと言われる
雲の眺めを間近で見るのもまた美しい。
そのテーブルクロスの雲の様子をビデオに撮っていたら、
ボク一人ゴンドラに乗り遅れて
ツアー客の皆さんに迷惑をかけてしまった。
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(テーブルの端からテーブルクロスが垂れ下がっているように見える雲)





南アフリカ大統領(南部アフリカ紀行 7)

2008年03月02日 22時21分59秒 | 南部アフリカ紀行

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(左側がマンデラ氏の住居入り口)

(アパルトヘイトとマンデラ大統領)
ノーベル平和賞を授与されたマンデラ大統領は、
アパルトヘイト(人種隔離政策)から
黒人を救った偉大なる指導者である。
だから、南アフリカの観光地として、
マンデラ氏が生活した住居が、
観光名所として残されており、
教育の一環としてアフリカの子供たちが毎日のように見学に来ている。

ガイドさんから、その住居を訪問する際の注意があった。
「バスを降りて、物売りの子供にお金をせびられても、
絶対買わないで欲しい。
子供たちは楽にお金を稼ぐ方へ流れて、
働いてお金を稼ぐことをしなくなるからです。」と。

しかし幸いなことに、マンデラ氏の住居に行く途中で
そうした子供たちに出くわすことは無かった。
よほど注意が徹底されているのであろう。

ネルソン・マンデラ氏は、1918年アフリカに生まれる。
その自伝によれば、
「アフリカ人は、アフリカ人専用病院で生まれ、
アフリカ人専用バスで自宅に連れ帰られ、
アフリカ人専用地域で育ち、アフリカ人専用学校に通う。
就職も、居住区も、汽車やバスも「専用」の差別――
アフリカ人の人生は、成長をむしばみ、
可能性を狭め、生活を妨げる差別的な法律や規則で
がんじがらめになっている。」と述べている。

白人優先黒人差別のアパルトヘイト(人種隔離政策)と
戦い続けたアフリカ人の指導者、
ネルソン・マンデラは、今では世界遺産に指定されているロペン島で、
27年に及ぶ投獄生活を経て、
アフリカ民族の人種・階級の差別を撤廃し、
アフリカ人に希望と勇気を与えた大功労者である。
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(マンデラ氏の食堂)
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(リビング)
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(寝室、ダブルベッドであった)

マンデラ氏の住んでいた家は、大変質素なもので、
居間、食堂、寝室ともに狭く、
日本人のウサギ小屋と大差なかった。
それでも偉大な指導者の住いには、
子供たちが引率されて大挙して見学に来ていたのを目の当たりにして、
マンデラ氏の偉業を肌で感じることが出来た。
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(見学に来ている子供たち)

しかし一方で黒人指導者の現在の施政について、
ガイドさんの話によれば、
「雇用主は必ず何%かの黒人を雇わなければならないとされ、
黒人であれば、誰もが無償で家を支給される」のは、
黒人優位のゆがんだものという。
それにしても、バスが走る沿道には、
木の柱に石を載せたトタン屋根の、
腰をかがめなければ住まいに入ることが出来ない家が
びっしり並んだスラム街が
延々と続いているのはどういうことなのだろう。
一度この生活に慣れると、その自由さに、
あるいは近隣の人情の機微に出会って、
離れることが出来なくなるのであろうか。

ガイドさんの話は続く、
「マンデラ氏は三回離婚して四度目の結婚をしているが、
その四度目の結婚相手は、
アフリカの大統領と四度目の結婚を果たした女性」であると言う。

話が変わるが、アメリカ人は白人であれ、黒人であれ、
とても動物的であるように思う。
例えば映画。
アメリカ映画の中には、
必ずと言っていいほどセックスシーンが出てくる。
日本で有名になった映画「マジソン群の橋」の初老の男女。
「プライベートライアン」における女性新聞記者と将校。
戦争映画の中にもセックスが出てくる必要はなさそうなのに・・・
「プリティウーマン」社会的地位の高いインテリ弁護士と
街の女の関係などなど。
その他数えだしたらきりが無い。
映画の中に必ずこのシーンが出てくると言うことは、
このシーンが出てこないと
映画を見に来る人がいなくなることを恐れての
製作と思えてならないのである。
もちろん人の営みとして、必要なことであり、
開けっぴろげに出来ないことであるから、
余計興味をそそるのであろうが、
「それにしても恥知らずな」と思うのは、
儒家思想の日本人だからであろうか?
人間とは、「知恵、意志、感情を持った動物」と定義されるが、
その中の動物部分が拡大された人種のように思えてならない。

話を戻す。
ノーベル平和賞を貰ったネルソン・マンデラ氏は、
アフリカ人を守った偉大な指導者であることは認める。
しかし人として四度の結婚はどう見るべきなのだろうか。
相手の見極めが出来なかっただけでは片付けられない。
結婚するとき男女は、まったく別々の環境、
別々の両親、別々の考えで育っている。
従って二人の間には、一部は共感できるところはあっても、
共感できないところのほうが多いはずだ。
その共感できないところを、お互い補完しあいながら、
あるところでは一方が我慢・妥協し、
あるところでは他方が我慢・妥協して
生活が成り立っていき、新しい家庭が築かれていく。
どの家庭をとっても、一つとして同じものは無い。
一つ一つまったく違う家庭で育つ男女の結婚であるから、
どこかに違和感があるのはごく当たり前である。

それを我慢できずに四回結婚をするとなると、
ボクに言わせれば
「これはもう人としては0点である。動物でしかない。」
27年間の投獄生活での抑圧された生活からの開放感が影響しているのか。
あるいは投獄生活で抑えに抑えられた闘争心が
姿を変えて現れてきたものだろうか。

マンデラ氏について、ガイドさんの説明を聞き、
住居を見学しながらそう思った。
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(ストリート・ミュージシャンたち)