中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

常念寺・明王寺・玉藻稲荷神社(芭蕉の道を歩く 27)

2012年11月28日 10時20分20秒 | 芭蕉の道を歩く
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(常念寺)
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(那須・黒羽3)
那須神社より国道461号線を東へ約4km、
国道294号線との交差点を左折。
左側に常念寺がある。

この参道左手に芭蕉句碑があり、

・野を横に馬牽きむけよほととぎす  はせを

が刻まれている。

この句は芭蕉が黒羽から殺生石に向かうとき、
馬子から「短冊得させよ」と乞われて、作った句である。
まさか馬子から、俳句の短冊が欲しいなど乞われるはずも無いと、
思いがけない頼みに感じ入って作った句である。
馬子の教養がしのばれる。

(参道左の芭蕉句碑)
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(「野を横に」の句碑)
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常念寺を出て道を左へとると、ややあって右側に明王寺があり、
手前左手に明王寺の駐車場がある。
その境内の右手手水鉢の奥に、芭蕉句碑がある。

句碑横の説明によれば、

芭蕉が黒羽に滞在中、歌仙の興行があった。
その36句の中から明王寺に相応しい句として、

・今日もまた朝日を拝む石の上   歌仙・芭蕉

をとり、句碑とした、とある。

(門前の小僧,習はぬ経は読まない)
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(明王寺山門)
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(本堂)
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(手水鉢横に句碑が見える)
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(本堂脇の句碑)
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明王寺を出て、国道294号線に沿って、
くらしの館・ふるさと物産センターが左にある交差点を左折。
いくつか信号を越え、左右に道が別れ、
判りにくいが大田原市役所方面へ向うと、
道路左手に「玉藻稲荷神社」右の案内があるところを右折すると、
玉藻稲荷神社に到着する。
このあたりが那須の篠原という。

(玉藻稲荷神社の案内)
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(稲荷神社の赤い鳥居)
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お稲荷さんの赤い鳥居をくぐると、先に石の鳥居が見え、
左手に石碑が見えるが、
これは歌碑で鎌倉第三代征夷大将軍の
源実朝の歌、

・ もののふの 矢並つくろふ 小手の上に
            霰たばしる 那須の篠原


が刻んである。
これは歌枕「那須の篠原」を詠んだ歌である。

(実朝の歌碑)
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この那須の篠原は、九尾の狐―玉藻の前―が、狐である事が露見して、
逃げ込んだ場所である。
この石の鳥居には左右に「玉藻の狐塚が出来た縁起」が、
漢文で刻んであり、読み方も意味も不明の文字があって、
調べるのに時間が掛かった。

縁起の概要は、

(この玉藻大明神は、三国(インド、中国、日本)から伝わる狐である。
その昔、人皇76代近衛院(近衛天皇)の時代、
九尾の狐が美女に化けて名を玉藻といった。
大変博識で艶かしく絶世の美女であった玉藻は帝(みかど)に仕え、
帝も玉藻を深く寵愛された。
ある時、天子は病床につかれたが、医薬の効き目なく、
陰陽師の安部泰成を殿中に召して、祈祷させた所、
玉藻の前は九尾の白狐に変身し、那須の篠原に逃げた。

ここに久寿二年(1155)三浦介平義継、上総介平広常の両人は、
勅命によりこれを狩り、この地に埋めた。

後に、建久四年(1193)源頼朝公、狩をして、
この那須野に至り、この話を聞かれた。
そしてここに祠を建て、玉藻稲荷神社と名づけた。

そこで大豆田村住人 磯忠陸が、
大清浄の願をたて(観世音菩薩のように苦しみの一切を引き受ける願い)、
一基の鳥居を造り、永く神前にお供えする。

銘にいわく、玉藻狐、身は天竺にいたるも、霊魂はここにとどまり、
稲荷神社になると。

成就院即成山光明験寺 十一世権律師 法橋源珍 謹んでこれを記す。
華表(鳥居)寄進 大豆田村    磯又右衛門忠陸
   石工      田町   伊藤新五郎 藤原鈴雄)


とある。

鳥居の右側に芭蕉句碑、

・秣負ふ 人を枝折の 夏野哉  芭蕉 

がある。

(芭蕉句碑)
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(「秣負ふ・・・」の句碑)
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さらに、右のほうを見ると池があり、これが「鏡が池」で、
三浦介義継が玉藻狐を篠原に追い込んで見失ったところ、
この池の面近くに伸びた桜の枝に蝉に化けた狐の正体が、
池に映っているのを見つけ、難なく九尾の狐を狩ったので、
この池を「鏡が池」というようになった。

その桜の切り株(?)が池の端に残っている。
また、池の横に小さな鳥居があるが、その奥が小高くなっており、
「狐塚」と呼んでいる。
なお、写真では木の蔭になって見えないが祠もある。

(鏡が池とその右にある鳥居の奥が「狐塚」になっている)
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(池の向こう側にある切り株が桜の木?)
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・狐化け 玉藻を映す 池に月    hide-san




那須神社(芭蕉の道を歩く 26)

2012年11月23日 09時33分25秒 | 芭蕉の道を歩く
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(那須神社の長い参道と一の鳥居)
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(那須・黒羽2)
与一伝承館を出て、裏手の森へ行く。
那須神社である。
神社の参道は細長くて、神社入り口から一の鳥居、二の鳥居まで、
かなりの距離があると思ったら、毎年敬老の日の例大祭に催される
流鏑馬(やぶさめ)の馬場になるからであった。

また一の鳥居、二の鳥居に掛かっている注連縄(しめなわ)が、
弛んでいると言うか、垂れているのは何故だろうか、
聞きそびれてしまったが、弓の弦のように思えてならなかった。
(垂れ下がったしめ縄)
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(樹齢250年の大きなサワラの木)
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参道の途中に「与一の里おおたわらの名木」がある。
樹齢250年の古木で樹高31mあるサワラの木である。
そして二の鳥居脇には、天然記念物の桜の大木があり、
鳥居をくぐった左手には、重要文化財の「手水舟」があり、
その奥に、黒羽藩主大関高増が寛永19年(1642)建立した楼門がある。
(桜の木)
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(手水舟)
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(楼門)
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(楼門2)
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楼門をくぐると、本殿前に一対の石灯篭があるが、
(これも黒羽藩主大関高増が奉納したものといわれています。
石材は芦野石と思われ、基礎、中台、大袋、笠、は共に六角形で、
笠の端は大きく渦巻き模様で、円筒形の竿の中間に節があり、
ここに大関土佐守高増の銘文が刻まれている。)(大田原市教育委員会)

このように、那須神社は古色蒼然とした神社であった。
二礼 二拍手 一礼の規則にのった神社の参拝を済ませた。

(本殿前の石灯篭)
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(楼門から見た神社本殿)
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(本殿)
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那須の与一は扇の的を射るとき、この八幡宮にお祈りをすると、
不思議や、今まで波打っていた海がおさまり、
扇を射てくれとばかり静かになった。
与一は矢をつがえ、弦を引いて、ひょうっと放すと、
矢は扇の的に吸い込まれるように当った。
平家の人たちは船べりをたたき、
源氏の兵士は箙(えびら)を叩いて喝采した、と言う。


・的を射る 与一の願い 那須の月   hide-san






黒羽の那須与一伝承館(芭蕉の道を歩く 25)

2012年11月19日 16時01分09秒 | 芭蕉の道を歩く
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(大田原市の案内地図)
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(那須・黒羽)
日光山参拝を終えた芭蕉は、翌3日(陽暦5月21日)矢板→大田原と、
那須野を進み黒羽(栃木県大田原市)の郊外余瀬村の翠桃宅に身を寄せた。
と簡単に書いたが、途中雨に降られて、農家に一泊している。

おくのほそ道を要約すると、
(その先、黒羽までは道が縦横に別れていて、
初めての旅人は道を間違えやすい。農夫が言うには、
「馬を一頭貸すから、馬の背に揺られて、
馬が行くところまで行きなさい。
馬が止ったら、返してくだされば結構です。」
馬は道順を覚えているから黒羽まで行ったら、
一人で帰って来ることを農夫は知っていた。

馬の背にまたがった芭蕉のあとを、
二人の子供が追いかけてくる。
一人は女の子で「かさね」と言う。
この田舎に珍しく可愛い名であったので、
曾良が俳句を次のように作った。

「かさねとは 八重なでしこの 名なるべし  曾良」)とある。

おくのほそ道では、このくだりがとても優しくて、
ボクは大好きである。

さて、2012年10月24日快晴の中、東北道西那須野塩原ICを下りて、
401号線に沿って大田原市役所に行き、
まず、芭蕉が訪ねた那須神社へ向う地図を手に入れる。

401号線から400号線に入り、
真新しい道路を行くと左側に、道の駅があり、
道路に面して那須与一の騎馬銅像とその奥に与一伝承館が見える。
その建物の奥に、こんもりとした森が見える。
那須神社である。

(那須与一伝承館ののぼり)
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(那須与一の騎馬銅像)
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(与一伝承館)
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那須神社は、源氏の那須与一が屋島の合戦で、扇の的を射抜いたとき、
「何とぞ、あの扇の的を射落とさせてください」と祈った八幡宮である。

すくなくも芭蕉はそう考えて、この八幡宮を訪ねている。
しかし本当の八幡宮は那須温泉の殺生石の近くにある、
「温泉(ゆせん)神社」である。

往時、芭蕉の時代はこの那須神社が、
与一が願いを込めた八幡宮であると伝えられていた。
芭蕉が間違っていたわけではない。

「おくのほそ道」(原文)に、

「それより八幡宮に詣(もうず)。与一扇の的を射し時、
別しては我が国氏神正八まんとちかひしも、
此神社にて侍ると聞けば、感応殊(ことに)しきりに覚えらる。」


とある。

(那須神社の鳥居)
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芭蕉は、与一が祈願した八幡宮だと思えば、
心打たれる想いであった、と記している。
相当感じ入っていたように思われる。

「道の駅」の駐車場に車を止めて、先ずは腹ごしらえの食堂、
田舎ではレストランと言うが、鴨そばを戴く。
那須の新そばは、香りもよく美味しくいただく。

その日は、デイサービスのお年寄りが30人ほど、
新そばを食べる会らしく、6人ほどの付き添いと一緒に、
テーブルに陣取って、美味しそうに天ぷらそばを食べていた。
いずれ我が身と、注意していると、ある「ばあちゃん」が、
「お代はいくらですか?」と大きな声で聞いている。
付き添いの人が、
「お代はお嫁さんから頂いているので、必要ありませんよ。」と、
答えているのに、しばらくすると又同じ事を聞いている。
ある人は、目の前の天ぷらを手で掴んで、口に運んでいる。
後から、天つゆを配っている人がいるし、
天ぷらを一口で食べられるよう、
ハサミでチョキチョキ細かく切っている人がいる。
レストランはテンヤワンヤの大騒ぎ。
その中をボクとカミサンは、早く食べて皆さんの邪魔にならぬよう、
レストランを出る。

レストランのならびにある、与一伝承館に入る。
秀吉により、那須与一郎に与えられた所領の朱印状、
戦国時代に送られた上杉謙信の書状などの展示。
屋島合戦絵図、那須与一が扇の的を射たとき、
身につけていたとされる「太刀銘成高(しげたか)」、
ならびに「綾包太刀拵(あやづつみたちこしらえ)」、
源氏の白旗、甲冑などが展示してある。

(源氏の白旗、甲冑、弓など)
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ボクがイメージする白旗は、いつも敵に破れて降参する時の白旗であるが、
源氏の白旗は、すそ長く尾を引くような長い白旗である。
その他、「扇の的」のシーンをカラクリ人形風のロボットと
ワイドスクリーンによる映画が見られるのですが、
残念ながら時間に迫られていて、次の機会にと先を急いだ。

入場料は300円でした。

・那須の原 弓引く先に すすき揺れ  hide-san




芭蕉句碑と石の唐門(芭蕉の道を歩く 24)

2012年11月14日 10時19分31秒 | 芭蕉の道を歩く
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(宝物館の鳥居)
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(日光の芭蕉句碑)
日光の二社一寺を巡って、駐車場に戻る道の中ほどに、
東照宮宝物館がある。

その宝物館の左方に鳥居があり、脇に句碑がある。
その句碑には、

「・あらたふと 青葉わか葉の 日の光
芭蕉翁おくの細みち日光山吟」


と彫ってあるらしいが、句碑が古くて読み取れない。

(芭蕉句碑)
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(芭蕉句碑2-字が読み取れない)
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石の鳥居の後ろに、葵のご紋がついたいかめしい門があるが、
これについて説明板があるので、記載して置きたい。

「重要文化財 石唐門 石鳥居
これは寛永十八年(1641)東照宮奥社に建てられたが、
天和三年(1683)震災により破損したので、
奥社裏山深く埋められて二百数十年に及んだが、
当宮三百五十年祭記念として、ここに移し建てた。
幕府の作業方 大棟梁 平内氏の設計により巨石から切り出されたもので、
江戸時代における代表的石造り美術である。」とある。(東照宮社務所)


(石唐門)
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つまり、東照宮350年祭記念して、
震災で破損し山深く二百数十年も埋もれていた石造りの唐門を、
ここ日光東照宮宝物館の庭に移築した。
この石の唐門は、一つの巨石からできており、
製作者は幕府の作業方の大棟梁 平内氏の設計によるもので、
江戸時代の石造美術である。

芭蕉句碑を見に行って、
なんか、とてつもなく貴重な「石の唐門」を見たような気がした。
大収穫であった。

(石唐門の徳川家葵のご紋)
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・苔むして 石の唐門 虫の声  hide-san



憾満ヶ淵(芭蕉の道を歩く 23)

2012年11月10日 09時48分39秒 | 芭蕉の道を歩く
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(憾満ヶ淵)
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(憾満ヶ淵)
裏見の滝から戻り120号線を日光東照宮方面に進むと、
右手に「日光田茂澤御用邸記念公園」があるので、
御用邸公園を過ぎた所の信号を右折する。

(旧田茂沢御用邸記念公園の門)
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御用邸記念公園については、
(この御用邸は大正天皇のご静養のため明治32年(1899)に造営された。
その後大正天皇のご即位に伴い、大正7年から9年にかけて、
大規模な増改築がなされ現在の姿となりました。
また、昭和19年には、現在の平成天皇が疎開のため、
約一年間滞在されている。
栃木県では、平成10年から修復整備して、
広く県民が利用できる公園として公開された。)
要約すると以上のように、
旧田茂沢御用邸の概略が記されている。

(田茂沢公園)
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話がそれてしまったが、
旧田茂沢御用邸記念公園の信号を右折したら、
突き当りを左折して、出た十字路を右折する。
十字路の右手向こう側に庚申塚の石碑が三基あります。
その十字路を右折してT字路に出たら、
さらに右折するとお寺があり門前に石碑があるので、
これを目当てに左折すると、大谷川に架かる橋があるので渡る。
橋を渡り終えた左に駐車場があるが、
この駐車場を左に見て道なりに右へ行くと、
突き当たりに公園風の駐車場があり、
右手にお手洗いがあり、
左手は少し高い所に飲食店がある。

(公園風の憾満ヶ淵の駐車場この右手にお手洗いがある)
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(右手の建物がお手洗い)
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(左手の高台にある飲食店)
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駐車場と左の飲食店との間に通路があり、
「憾満ヶ淵」直進矢印の看板が見える。
直線の道路の奥に山門が見え、
左右は樹木が栽培されているような、
石を配置した公園になっている。

(通路と憾満ヶ淵の案内看板)
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(憾満ヶ淵の案内)
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(石を配置した公園)
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(奥に見える山門)
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進むと右手に大正天皇の歌碑があり、

(水辺夏月
・衣手もしぶきにぬれて大谷川
          月夜涼しく岸つたいせり)

と彫られている。

その先の慈雲寺の扁額のある山門をくぐると、
右手は大谷川が音を立てて流れており、
すぐ左手に慈雲寺の説明板があって、
白壁のお堂が建っている。
説明板には、
(承応3年(1654)に、憾満ヶ淵を開いた晃海大僧正が創建し、
阿弥陀如来と師の慈眼大師天海の像を祀った。
当時の建物は明治35年(1903)9月の洪水で流失し、
 現在の本堂は昭和48年になって復元された。以下省略)
とある。

(慈雲寺の扁額)
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(白壁のお堂が見える、復元された本道)
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このお堂の先に、地蔵様が何基あるのか、山際にずらりと並んでいる。
誰が数えたのかわからないが、全部で84基あるそうであるが、
行きに数えた地蔵様と、帰り際に数えた地蔵様の数が合わず、
お化け地蔵の異名を貰っている。

並ぶ地蔵様に沿って進むと、
右手大谷川の流れが激しく渦巻いて進んでいるのがわかり、
崖っぷちに「霊屁閣(れいひかく)」と名づけられた、護摩壇がある。

(地蔵様が川に向って並ぶ様は壮観)
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(護摩壇の川向こうに見える大岩に「憾満」の梵字があると言う)
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この護摩壇の対岸の岩に、
晃海大僧正が筆を投げたところ「憾満」の梵字が現れたと言う。
この霊屁閣の対岸までの大谷川を、「憾満ヶ淵」という。

憾満ヶ淵について、
(男体山から噴出した溶岩によって造られた奇勝で、
古くから不動明王が現れる霊地と言われる。
川の流れが不動明王の真言を唱えるように響くので、
晃海大僧正が真言の最後の句の「かんまん」を取り、
 憾満ヶ淵と名づけたと言う。-後略)
とある。(日光市)

(憾満ヶ淵の流れ)
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(憾満ヶ淵2)
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この辺りまで川に向って、石の地蔵が並んでいるが、
憾満ヶ淵の辺りは恰好の散歩道で、
外国人の方もよくお出でになり、
閑静な境地である。

(ずらりと並ぶお地蔵様)
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(お地蔵様)
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・かんまんの 淵青みたり 蝉しぐれ    hide-san

(この俳句、気に入っています、自画自賛)




裏見の滝(芭蕉の道を歩く 22)

2012年11月05日 09時57分16秒 | 芭蕉の道を歩く
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(裏見の滝案内図)
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(裏見の滝)
日光へ寄った芭蕉は、
翌日裏見の滝と憾満ヶ淵へ行っている。
それに倣(なら)って、ボクも訪ねた。

奥の細道で芭蕉は、(以下「奥の細道」原文による)
「二十余丁山を下って滝あり。
岩頭の頂(いただき)より飛流して百尺、
千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめ入りて、
滝の裏側より見れば、うらみの滝と申し侍るなり。

・ 暫時は(しばらくは)滝に籠るや夏(げ)の初」
と記している。

120号線安良沢郵便局前バス停を右折する場所に
「裏見の滝右」の案内看板がある。。
しばらく上り道を行くと、
突き当たり状態になるところの右側に駐車場がある。
ご丁寧に立派なお手洗いも付いている。

裏見の滝への案内図を見ていると、
初老の男性が奥様とお嬢さんと三人で来た。
男性が同じように地図を覗き込んだので、
「どうしてここにお出でになったのですか?」と
お訊ねすると、この近くに住んでいる方であった。
いつも「裏見の滝右」方向とかいた案内を見て、
120号線を通っているので、
覗く気になったのです。あなたは?」と逆襲された。
「奥の細道で芭蕉が日光の翌日訪ねたとあったので、
見学にきました。」と答える。

芭蕉は埼玉の草加から栃木に入って、
室の八嶋こと野州一ノ宮 大神神社へ寄って、
次の日に鹿沼で一泊して、日光に来ている。
初日は日光東照宮に参詣し、
曾良の旅日記によれば、翌日、裏見の滝と憾満ヶ淵を訪ねている。

案内図にある裏見の滝への道順を参考にして、
駐車場反対側の道を山の中へ進む。
(滝への道)
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(裏見の滝への上り階段)
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遊歩道が設置されているので、山肌にある上り下りの階段を進み、
左手に大谷川(だいやがわ)の流れを見ながら進むと
突き当りが滝である。

芭蕉の説明では、滝を裏側から見て、
これを「うらみの滝」といっているが、
今は木道と観瀑台が設置されており裏側から見ることはできない。
高さ40mほど、立派な滝である。

(芭蕉が裏側から見た滝はこのように見えただろうか)
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(作られた誘導路)
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(山道左手の大谷川)
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(山肌に沿った道)
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(裏見の滝)
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先客が数人観瀑台から写真を撮っている。
しっかりした三脚にカメラを構えているプロのような方もいる。、
観瀑台は滝の飛沫が飛んで、涼しく感じられ、
今まで昇ってきた道で吹き出した汗が、
嘘のように引いていく。
(千岩の碧潭に落ちるさま)
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滝の落ちた所は、芭蕉が「千岩の碧潭に落たり」と言っているが、
なるほど滝つぼは、碧(みどり)に澄んでいた。
絶え間なく流れ落ちる滝の、大きな音を後ろに聞きながら、
芭蕉の見た滝と同じだろうかと考えながら帰途に着いた。

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・やまもみじ 色さわやかに 滝の音   hide-san




世界遺産 大猷院―徳川家光のお墓(芭蕉の道を歩く 21)

2012年11月01日 10時08分54秒 | 芭蕉の道を歩く
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(大猷院入り口)
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(世界遺産―大猷院)
日光の世界遺産にはこの大猷院も入っている。
階段を登って仁王門を通過する時には、
左右の仁王像に睨まれながら通過する。
次の階段を登った所にある二天門は覆いが掛かったままであった。
ここでも平成の大修復が行われており、
覆いはあるものの、中の持国天と広目天は見ることができる。
ふう~ふう~云いながら次の階段を登ると夜叉門。
夜叉門の前に立派な鼓楼が左右に二基ある。
次が唐門で左右に銅製の灯籠が葵のご紋をつけて立ち並んでいる。

(仁王門)
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(二天門)
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(二天門には大猷院の扁額が)
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(夜叉門)
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(夜叉門前にある二基の鼓楼のうち左側)
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(唐門)
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(唐門2)
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(銅製の灯籠)
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その先が拝殿で、奥に本殿があるが、観光客が入れるのは拝殿まで。
拝殿には先客があり、説明の案内係が人の集まるのを待っている。
ある程度人が集まると、説明が始まる。

(この建物は、仁王門から始まり、拝殿本殿にいたるまで、
世界遺産に登録されており国宝になっています。
奥に見ますのが本殿で、位牌が並んでいます。
家光公、小江の方のものです。
拝殿、本殿とも金箔が施されており、日本三大金堂です。
この大猷院、京都の金閣寺、平泉の中尊寺金色堂の三つを言います。
家光公廟所は、この建物の右手の小高い位置にあります。
廟所入り口を皇嘉門と言い、その奥にお墓がありますが、
入る事はできません。)
説明は流暢に流れる水のようであった。

(皇嘉門)
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(皇嘉門の葵のご紋)
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徳川家康のお墓は観光客に見せているのに、
どうして家光公のお墓は公開されていないのか、
不思議に思った。
いつもなら手を挙げてどうしてなのか問いただすのに、
どういう訳か、このときは質問しそこなった。
よほど疲れていたに違いない。
あるいは人のお墓に踏み入るのが憚られたのかも知れない。

いずれにせよ大猷院 徳川家光の廟所は、
全て世界遺産に登録されている。

貴重なものである。

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(際立つ葵のご紋)

・ひぐらしの 鳴く夕焼けや ものかなし  hide-san