(収容所入り口の有名な看板「働けば自由になる」Bの字が逆さまになっている)
(アウシュビッツ2)
アウシュビッツに到着して、
まずガイドの中谷さんをお待ちする数分の時間に、
アウシュビッツ博物館と言う看板を見つけました。
ここが世界に名高い唯一「負の世界遺産」として
登録されている場所であることが分かりました。
第一収容所の入り口に
「働けば自由になれる」鉄製の文字が見える。
この文字も収容所も全て収容され強制労働を強いられた
ポーランド人やユダヤ人によって作られたという。
その文字の「ARBEIT」の内「B」の字だけ
逆さまにしたのが収容された人達の
僅かな抵抗を物語ると言う。
(イスラエルの旗をかざした少年少女たち)
修学旅行なのか、イスラエルの国旗を持った
ユダヤ人の少年少女の団体を、
あちらこちらで見かけた。
収容者が銃殺刑になった場所で、
イスラエルの旗を手にした一団の
ユダヤ人の少年少女がうずくまっていました。
ガイドの話に聞き入り、
その子供たちの目が涙に潤んでいたのは、
とても印象的でした。
彼らの身内の祖父母がこの強制収容所で
虐殺されたことに想いを馳せてのことと思われます。
これらユダヤ人の一団とすれ違うときは、
緊張しました。
見学している内に、彼らの気持ちが高揚し
「何時暴発してもおかしくない」
そんな雰囲気を感じたのは私だけでは無かったでしょう。
収容所の中は、蚕棚とも思われるような三段ベッドが
びっしり置かれており、
一人で寝るのにはやや大きいベッドでしたが、
説明によれば、
そこに三人で寝たということです。
強制収容所から一人脱走すれば、
残った人が10人処刑されるという仕組み。
しかもその処刑は、食べ物を与えない刑だったといいます。
(銃殺刑の場所)
(観にくいがユダヤ人銃殺刑場面の写真)
インドのマハトマ・ガンジーは絶食して
インドの独立を勝ち取りました。
しかし、水は飲んだのです。
アウシュビッツの刑は水も与えられなかったのです。
朽木のように一人また一人と倒れていくと言う、
終戦でかろうじて生きながらえた
「聖母の騎士」コルベ神父の記述です。
コルベ神父は、選ばれた10人の処刑者の中に、
「妻や子ともう一度会ってから死にたい」
と叫んだ一人と身代わりになったのです。
一人また一人死んでいく様を観ながら、
そして自分の意識がなくなり始めたとき、
終戦で救われた神父です。
後年長崎に「聖母の騎士」学校を設立しています。
(見渡す限り捕虜収容所がある)
(戦争に敗れたドイツが収容所の証拠を隠すために焼いた収容所の跡)
(作業に出かける前に座らせたトイレ、ボクなら出すことが出来ない)
アウシュビッツの有名なガス室では、
シャワーを浴びさせるといって、
部屋に誘導し、一日に千人を殺し、
オートメーションさながら、遺体を火葬する。
その設備を、収容された人たちが
作っていた事に思いを馳せると、
いたたまれない気持ちになります。
作業に携わった人たちの心境はどうだったのでしょうか?
想像すら出来ません。
一方で私たちの先輩日本人が、
アジアで同じように行った、
忌むべき出来事を思いおこせば、
私たちは彼らに、どう償っていけばよいのか、
回答を見つけることが出来ません。
さらに、アメリカ人が広島、
長崎に落とした原子爆弾の償いを、
今後、どのように国際社会に広げていけば良いのか?
また、イラク攻撃やイラクへの
自衛隊派遣が果たして正しいのか?
憲法改正の動きがあるが、
戦争を放棄した第九条をどう扱うのか?
私たちに残された課題は大きい。
終戦後、アウシュビッツで虐殺された人
150万人の約一割が処刑されないで
生き残った人がいたことで、
全貌が明らかになりました。
同じ人間がどうしてこんな酷いことが
出来たのでしょうか?
組織の中にいると善いことも、
悪いことも麻痺してしまうのでしょうか?
いろいろ考えさせられる今回の旅でしたが、
豊かで平和な日本にいて、忘れかけていた
「どんな理由があろうとも、戦争は避けるべき」
の認識を新たにした旅でした。
(満員の列車でここまで来て降ろされた。)
(降りた人々)
(持っていた荷物の鞄にはいろいろなことが書かれている)
(剥奪された義足の山)
(おわり)