中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

アウシュビッツ(ポーランドを旅して 3)

2009年10月04日 08時58分25秒 | ポーランドを旅して

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(収容所入り口の有名な看板「働けば自由になる」Bの字が逆さまになっている)

(アウシュビッツ2)

アウシュビッツに到着して、
まずガイドの中谷さんをお待ちする数分の時間に、
アウシュビッツ博物館と言う看板を見つけました。
ここが世界に名高い唯一「負の世界遺産」として
登録されている場所であることが分かりました。

第一収容所の入り口に
「働けば自由になれる」鉄製の文字が見える。
この文字も収容所も全て収容され強制労働を強いられた
ポーランド人やユダヤ人によって作られたという。
その文字の「ARBEIT」の内「B」の字だけ
逆さまにしたのが収容された人達の
僅かな抵抗を物語ると言う。
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(イスラエルの旗をかざした少年少女たち)

修学旅行なのか、イスラエルの国旗を持った
ユダヤ人の少年少女の団体を、
あちらこちらで見かけた。

収容者が銃殺刑になった場所で、
イスラエルの旗を手にした一団の
ユダヤ人の少年少女がうずくまっていました。
ガイドの話に聞き入り、
その子供たちの目が涙に潤んでいたのは、
とても印象的でした。
彼らの身内の祖父母がこの強制収容所で
虐殺されたことに想いを馳せてのことと思われます。
これらユダヤ人の一団とすれ違うときは、
緊張しました。
見学している内に、彼らの気持ちが高揚し
「何時暴発してもおかしくない」
そんな雰囲気を感じたのは私だけでは無かったでしょう。

収容所の中は、蚕棚とも思われるような三段ベッドが
びっしり置かれており、
一人で寝るのにはやや大きいベッドでしたが、

説明によれば、
そこに三人で寝たということです。
強制収容所から一人脱走すれば、
残った人が10人処刑されるという仕組み。
しかもその処刑は、食べ物を与えない刑だったといいます。
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(銃殺刑の場所)
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(観にくいがユダヤ人銃殺刑場面の写真)

インドのマハトマ・ガンジーは絶食して
インドの独立を勝ち取りました。
しかし、水は飲んだのです。

アウシュビッツの刑は水も与えられなかったのです。

朽木のように一人また一人と倒れていくと言う、
終戦でかろうじて生きながらえた
「聖母の騎士」コルベ神父の記述です。

コルベ神父は、選ばれた10人の処刑者の中に、

「妻や子ともう一度会ってから死にたい」

と叫んだ一人と身代わりになったのです。

一人また一人死んでいく様を観ながら、
そして自分の意識がなくなり始めたとき、
終戦で救われた神父です。
後年長崎に「聖母の騎士」学校を設立しています。
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(見渡す限り捕虜収容所がある)
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(戦争に敗れたドイツが収容所の証拠を隠すために焼いた収容所の跡)
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(作業に出かける前に座らせたトイレ、ボクなら出すことが出来ない)

アウシュビッツの有名なガス室では、
シャワーを浴びさせるといって、
部屋に誘導し、一日に千人を殺し、
オートメーションさながら、遺体を火葬する。
その設備を、収容された人たちが
作っていた事に思いを馳せると、
いたたまれない気持ちになります。
作業に携わった人たちの心境はどうだったのでしょうか?
想像すら出来ません。

一方で私たちの先輩日本人が、
アジアで同じように行った、
忌むべき出来事を思いおこせば、
私たちは彼らに、どう償っていけばよいのか、
回答を見つけることが出来ません。

さらに、アメリカ人が広島、
長崎に落とした原子爆弾の償いを、
今後、どのように国際社会に広げていけば良いのか?

また、イラク攻撃やイラクへの
自衛隊派遣が果たして正しいのか?

憲法改正の動きがあるが、
戦争を放棄した第九条をどう扱うのか?
私たちに残された課題は大きい。

終戦後、アウシュビッツで虐殺された人
150万人の約一割が処刑されないで
生き残った人がいたことで、
全貌が明らかになりました。

同じ人間がどうしてこんな酷いことが
出来たのでしょうか?
組織の中にいると善いことも、
悪いことも麻痺してしまうのでしょうか?

いろいろ考えさせられる今回の旅でしたが、
豊かで平和な日本にいて、忘れかけていた

「どんな理由があろうとも、戦争は避けるべき」
の認識を新たにした旅でした。
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(満員の列車でここまで来て降ろされた。)
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(降りた人々)
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(持っていた荷物の鞄にはいろいろなことが書かれている)
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(剥奪された義足の山)

(おわり)








ワルシャワ(ポーランドを旅して 2)

2009年09月26日 08時53分02秒 | ポーランドを旅して

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(爆撃で瓦礫の山と化したスタレミャストを以前に復元させたポーランド人の心意気)
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(スタレ・ミャストの旧市街)
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(旧市街2)


(アウシュビッツ1)
ポーランドからチェコ、スロバキア、
ハンガリーと約二週間の旅をして、
印象に残ったのは、ポーランドのワルシャワの街並み、
それにショパンの曲とアウシュビッツ。
映画「戦場のピアニスト」に出てくる廃墟のシーンは、
第二次世界大戦で、全くの廃墟となったワルシャワそのもの。
しかし、その廃墟を全く同じ街に復元したのが
ワルシャワっ子の心意気という。
旧市街のスタレ・ミャストの美しい町並みが続く。
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(ショパンを記念した公園)
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(公園2)

国土は日本の五分の四の広さに、
約4000万人が居住する農業国。
従って、観光するには、
広々とした田園風景の丘陵地帯が延々と続く中を、
バスで走っていく。
ツアー人数は14名。大型50人乗りのバスに、
ゆったり座り観光を続ける。

美しいショパンのピアノ曲に魅せられ
訪れることになったポーランド。
ワルシャワからバスに揺られて一時間。
その田園風景の中をショパンの故郷ジェラゾーバ・ポーラへ。
ショパンの生家でショパンの曲のミニコンサートを
楽しむために出かけた。

ショパンの生家は、広大な森のある庭の中に、
こじんまりと佇んでいた。
生家の中を案内される。
食堂が、居間だ、客間だ、ピアノを練習した部屋だ、と。
家の中から外を見ると、朝日を通して黄葉が美しい。
栗のような形のマロニエ(日本名トチノキ)の実が、
落ち葉の上に落ちてくる音だけが響く静けさ。
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(ショパン生家の庭)
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(ショパンの生家)
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(庭のマロニエの黄葉)
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(ショパンの奏者アンナ・ヤストルジェブスカーキンさん)

ショパンの曲のミニコンサートが始まる。
ピアノ奏者は、アンナ・ヤストルジェブスカーキンさん。
第一回ショパン国際ピアノコンクールの優勝者。
今はワルシャワのショパン音楽アカデミーでピアノを教えている。
かなり年配の女性が美しいショパンの曲を7曲弾いてくれた。
音痴の私の心にも、これらの曲は十分快く響いた。

こうして一日は終わった。
二日目もクラクフの旧市街地を観光し、
古き良き市街地―世界遺産―を観て回った。
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(クラクフの街角)
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(岩塩抗内の岩塩製のシャンデリア)
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(岩塩製のシャンデリア2)

翌日、ヴェリチカの地下岩塩坑見学の後、ポーランド語で
オシフィエンチム、ドイツ語でアウシュビッツに出かけた。

アウシュビッツ強制収容所は、
現在「負の世界遺産」
「アウシュビッツ博物館」として残っている。

アウシュビッツを見学して、
印象が強烈過ぎて、頭が混乱し、
チェコも、スロバキアも、ハンガリーも何を観てきたか、
何も残っていません。

まず、アウシュビッツのガイドは、
中谷 剛さん。ポーランド語を勉強し、
ポーランド語でポーランドのガイド試験に合格した、
アウシュビッツで唯一の日本人ガイド。
日本の総理大臣にも、議員さんにも、われわれ観光客にも、
「私は同じ説明をします」と言う。

とつとつと話す内容は、
詳しい勉強の痕(あと)を物語っている。
戦争とは?
人間とは?
生きるとは?
問題を投げかける説明をする。
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(収容所にやってきた人たち当時の写真から)
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(当時の写真から②)

虐殺された数150万人。遺品をリサイクルするため、
品物ごとに展示してある。
ドイツ・ナチスが敗戦と共に、証拠隠滅を図ったが、
それでも残った膨大な展示物の数々...

髪の毛、義足など、子供の靴、女性の靴、男性の靴、
未知の土地に希望を託して、
持ち込んだ全財産を入れた鞄、鞄、鞄、...

時間の経過と共に風化して触れば粉になるのではないか、と言われる
その展示物を今後どのように保存するか...
問題は山積する。

ポーランド人をはじめユダヤ人が強制収用されてやってきたが、
その人達が薄々には、感じていたと思われる処刑への旅。

列車から降りると、軍医が収容者の顔色を見て、
強制労働に耐えうるかどうかを決め、
右左(みぎ、ひだり)に人を振り分ける。
右へ行けば過酷な強制労働が待っており、
左に行けば、ガス室での虐殺が待っている。    

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(自分の名前を書き記した鞄の数々。展示物をガラス越しに撮影)
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(義足、義足、義足・・・実物をガラス越しに撮影)
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(右側の赤レンガの建物がガス室)

つづく









音痴で困った(ポーランドを旅して1)

2009年08月29日 06時21分36秒 | ポーランドを旅して

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(ワルシャワの朝日)

(音痴で困った)

何時のことっだたか忘れてしまったが、
もう何年も前のことである。
あるホーム・ページの掲示板を訪ねたところ、
ショパンのピアノ曲が添付してあり、その美しさに聞きほれて
掲示板に次のように記入しました。

「今夏、(戦場のピアニスト)を見て、
さらにCHopin(ショパンと読む)が好きになりました。
そこでポーランド大使館を訪ね、
ポーランドはどんな国か、調べる資料を探しに行きました。
話しをするうちに、ショパンのピアノ曲「エチュード」
(何番か知りませんが)を弾いていただき、
聞かせてもらいました。
大使館員の妻(桐朋大学ピアノ科卒の)が
たまたま いらっしゃったので。

学生時代に、英文で出てきた「Chopin」が読めず、
恥ずかしい思い出があります。
この10月、ショパンを訪ねてポーランドを旅します。
添付のショパンの曲 素敵ですね!」
そうしたら、返信に

「来て下さってどうもありがとう(ペコ)
私は・・・クラシックの事は、ほとんどわかりません・・・」

とあった。

とんでもない!ボクは音楽なんて何も知らない。
文字は恐ろしいものです。
ボクの書き込みで、読まれた方はきっと
ボクがショパン、いえクラシックに詳しいとお思いになったようです。

生来、音痴で音とか音楽とかに全く無縁のボクには、
音楽にまつわる苦い思い出がある。

掲示板に書いた、学生時代、英文に出てきた「Chopin」が
人の名前ということは前後の脈絡で分かったものの、
まさかこれが有名なショパンとは知らず、
「チョピン」と読んでしまった。
周りの同級生がドッと笑った。苦い思い出。
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(ワルシャワの夜景)

その次が社会人になってから。
「カラオケ」全盛の時代の苦い思い出。

仕事の都合でバーだったかクラブだったか忘れたが、
沢山の人の前で歌う破目になった。
音痴なことは自分が一番良く知っているので、
固くお断りしたが、しきりに勧めるので、
止む無く唄うことにした。
よせば良いのに、
聴くのは好きな歌だった「抱擁」を選んだ。

唄い始めると、
お客さんの態度の異様さが目に映った。
ボクの歌が下手だからと思ったが、
笑いを堪え切れなかったのか、

次の瞬間、
誰かが噴出すとドッと爆笑の渦が巻いた。
面白い落語や漫才を聞いてお腹を抱えて笑う、

そんな光景。

普通、下手な人が歌うと、周りは静かになり、
うつむいて「お気の毒さま」と言う態度をとるものであるが、
ボクの場合、はそれをはるかに通り越したに違いない。
悔しかったので、この一曲だけ教わることにした。
教師は、「覚えるよりは、
歌うことを諦めるほうが良い」と言ったが
まがりなりにも唄えるようにはしてくれた。

ところが、歌が下手なことを知っている私は、
恥ずかしいから相当酔ってからでないと唄えない。
いえ 唄う度胸がつかない。
酔ってしまうと 
シラフの時覚えたメロディ、テンポ、リズムは
すべて忘れてしまい何処かへ行ってしまう。
「抱擁」を「佐渡おけさ」のメロディで唄うようなものである。
想像してみてください。(苦笑)

それでも音楽の美しさに惹かれることがある。
それは映画の中でおきる。

最近では、
「千と千尋の神隠し」のラストシーンで歌われた歌。
「戦場のピアニスト」が弾くショパンの曲。
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(ショパンの生家)

さすがに美しい。
感動するととことん好きになる。
好きになると、熱くなるのがボクの悪い所であり良い所である。
そしてすぐ行動に移す。

ポーランドとはどんな処?
アウシュビッツ以外に何も知らない。
ショパンが生まれたポーランドへ、
戦場のピアニストのシュピルマンの故郷
ポーランドへ行きたくなる。
その国を知りたくなってポーランド大使館を訪れる。

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(紅葉の森)

そして知る。

♪森へ行きましょう! 娘さん!ハッハ!♪ 

これがポーランド民謡だということを。

そんな ボク。

ポーランド大使館員(ポーランド人)が
日本語とポーランド語で歌ってくれた。
どうして外国人はこんなに表情豊かに歌えるのだろう。
日本人がこんな場合、
踊ったり歌ったりしてくれるだろうか?
歌うことが出来ないボクには、無理な相談だが...

ポーランド民謡 の全文は以下の通り

1.森へ行きましょう 娘さん(ハハ)
  鳥が鳴く(ハハ)あの森へ(ララ ラララ)
  僕らは木を切る君たちは(ハハ)
  草刈の(ハハ)仕事しに
    ランラララ ランラララ ランラララ.....
2.お昼の休みに娘さん(ハハ)
  まんまるい(ハハ)輪を作り(ララ ラララ)
  話をしながら面白く(ハハ)
  お弁当(ハハ)食べましょう
   (以下同じ)
3.仕事が済んだら娘さん(ハハ)
  花の咲く(ハハ)草原で(ララ ラララ)
  みんなで手を組み元気よく(ハハ)
  歌いましょう(ハハ)踊りましょう
   (以下同じ)

カミさんにいたっては、下手か音痴か知らないが、
結婚以来、唄を歌ったのを一度も聴いたことがない。
にもかかわらず、ボクが少しでも歌うと妙な顔をして
ボクを見る。
(やめた方が良いのでは...)と言わんばかり。

そこで、子供たちには、
恥ずかしい思いをさせてはならないと
自分では苦手の音楽と水泳を習わせた。
3歳ころからピアノを習わせ、
音感教育(?)に努め、
同じ頃、近くのスイミング・クラブにいれた。
甲斐あって二人の子供たちが歌う唄は、
曲がりなりにも聞いていて恥ずかしくないし、
水泳にいたっては、クロールから
バタフライまで何でもできるし、
見ていて美しい泳ぎをする。

60歳定年を過ぎて、
この後の人生やりたいことは沢山あるが、
子供たちが残していったピアノを弾けるようにならないか、
スイミング・クラブへ行って泳げるようにならないか、
懸命になって何年も経っているが、
どうやらものになりそうも無い。
水泳では、泳ぎながら呼吸が出来ないし、
ピアノはテンポが取れないままである。

そんな ボク。

すぐに旅行手配をして、
カミさんを無理やり連れてポーランドに行く。
その実行力がボクの魅力。

ポーランドでショパンの生家を見て、
ショパンのミニコンサートを聴いて、
アウシュビッツを観て来ました。

(つづく)
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(ショパンの生家の庭の木)