中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

芦田宿(旧中山道を歩く 128)

2007年11月28日 08時33分36秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

(芦田宿入り口の常夜灯の看板)

(芦田宿)
間の宿 茂田井を出てバス通りと合流する地点から、
少し登って道路がくだりに入る地点に(中居)の信号があり、
信号手前の左側に中山道芦田宿を示す常夜灯の看板がある。
右側には(笠取峠3,7km)の標柱が建っている。

(中居の信号)

(笠取峠への案内標柱)

信号を渡ると道路はくだり坂になり、芦田宿の町並みが一望できる。
芦田宿の文字を上に乗せた街路灯が芦田宿を通り過ぎるまで道路の左右に点在する。
他に自慢するものが無いと思われるくらい、旧中山道の案内が懇切丁寧に表示してあるのには恐縮する。

(町を一望できる坂道)

(芦田宿が終わるまで点在する「芦田宿」の看板を乗せた街路灯)

道路は上り下りが連続し町の中に進んでいく。
やがて左側に神社かお寺の参道を思わせる、
よく整備された広い道路が見えてくる。
道路の左右には中山道芦田宿の新しい常夜灯があり、
正面奥には神社ならぬ立派なビルが建っている。
田舎町に不似合いなビルは立科町役場である。
今、地方自治体は財政難に四苦八苦しているはずであるが、
この町は潤沢に潤っているように見える役場の建造物である。
役場には用が無いので少し立ち止まって、
どこから税金が入ってくるのであろうかと考えたが思い当たるものが無い。

(立派な立科町役場)

(参道でもあるまいに役場まで道路の両側に並ぶ芦田宿の常夜灯)

(脇本陣跡の標柱、山浦家はこの家の後ろ側にある)

(芦田宿もう一つの脇本陣跡山浦家、今は蕎麦やお土産を売っている)

その少し先左側のやや奥まった家の前に(芦田宿脇本陣)の標柱がある。
当の山浦家はこの家の裏手にあるようだ。
さらに進むと(芦田中央)の信号があり、信号手前の右側に
本陣跡土屋家があり、信号の先左側にもう一つの脇本陣山浦家がある。

(土屋家本陣跡の門構え)

(門の中の立派な庭)

(本陣客殿前の石柱、旧中仙道芦田宿本陣跡とある)

本陣の説明には、
(本陣土屋家は、問屋を兼ね芦田宿の開祖でもあった。
本陣御殿(客室)は寛政十二年(1800)に再建されたもので、
イチイの木を使った京風上段の間があり、大名の宿泊を今に伝える「宿札」も残され、
明治維新まで大名・公家の宿泊や休憩に使用され、
往時をそのまま伝える建物は中山道唯一といわれている。

客殿は間口5間、奥行き11間の切妻造り、妻入り、
桟瓦葺で屋根の前後に鯱(シャチ)を、玄関には懸魚(けぎょ)、
蟇股(かえるまた)、頭貫(かしらぬき)、肘木(ひじき)など構築され、
江戸後期の様式をよくあらわしている。――後半省略。)とある。(立科町・長野県教育委員会)
建築用語が多くてよく理解できないが、本陣客殿前に建築用語説明図があり大いに理解できた。

(屋根に鯱と懸魚が見える)

(客殿の蟇股(かえるまた)、頭貫(かしらぬき)、肘木(ひじき)が見える)

(建築用語の解説図)

(屋根の上の立派な鯱)

(外側から見た本陣客殿と鯱)

信号の先左側に、旅籠、金丸土屋旅館があり今も営業を続けている。
二階が出梁り形式になっており、二階軒下から「土屋」の看板がぶら下がっている。
その斜め前に歴史のありそうな「酢屋茂」味噌醤油醸造所がある。
いずれも連子格子の建物は古きよき時代の様子を伝えている。

(旅籠 土屋旅館)

(土屋の看板も旧い)

(酢屋茂)

少し先の左側にある正明寺が芦田宿のはずれである。
町を出たところに「中山道芦田宿入り口」の標柱があり、
京都側から来た旅人を迎えている。

(正明寺入り口)

(本堂と南無阿弥陀仏の石碑とお地蔵様)

(境内にあった見事な枝振りの松、紫雲の松)

(芦田宿入り口の標柱、京都側の入り口)

その先で国道142号線に出て、これを横断すると道路正面に254号線右の案内があるが、
右には行かず、一方通行出口の道路へ入って行く。
道路正面を見ると道は中央分離帯のようになっており、
「笠取峠の松並木」の石碑がある。

(右254号線を行かない)

(道路中央に分離帯がある道路、車進入禁止の標識があるほうへ入る)

(中央にある松並木の石標)

(二人の男女が寄り添う微笑ましい道祖神)

このあたり左側にもう松並木が始まっているのに気が付く。
松並木の手前に旅姿の若い男女が寄り添う双体道祖神がある。
今までに見た最もかわいらしい道祖神である。
中央分離帯のある道路を進むと松並木は本格的になってきて、
旧中山道の往時の姿を髣髴(ほうふつ)とさせてくれる景観である。

(松並木)

今まで旧中山道で並木のあったところは、安中原市の杉並木
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2007/05/post_5636.html旧中山道を歩く97参照)があるが、
これは周りが人家に囲まれているので、並木の感触が伝わらないが、
笠取峠の松並木は周りを山に囲まれているので、
往時の街道を連想させるに十分な景観となっている。
今まで旧中山道を歩いてきて、この松並木をしのぐ景観はなかった。
時まさに紅葉の時期に入っており、松並木の景観はすばらしい。

(紅葉が美しい)

(それでも昔と比べると松ノ木は当初数百本あったものが、
大正十三年(1924)には二百二十九本となり、
現在は百本程度を立科町が笠取峠の旧街道と松並木の保護に努め
往時の姿をとどめている。)(立科町教育委員会)

(蕨宿にある芦田宿の浮世絵タイル)

(蓼科山の北側を進むこのあたりは、峠が連続する。
広重描く浮世絵、木曽海道「あし田」は芦田宿を出て、長久保宿への間にある笠取峠を描いている。
峠からは浅間山の眺めがよく、茶屋が設けられていたと言うが、
この絵にも、荷物を置いて一休みする旅人とともに小さく茶屋が描かれている。
人物を小さく描くことによって大自然の雄大さを強調しているように思える。)
(中山道広重美術館「木曽海道六拾九次之内」より)

(広重描く、木曽海道69次之内 あし田)


茂田井の造り酒屋(旧中山道を歩く 127)

2007年11月23日 08時50分17秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(白壁の大沢酒造の杉玉が見える)

(間(あい)の宿 茂田井)
茂田井の造り酒屋前の若山牧水の歌碑を後に、
少し勾配のある坂道を登ると右手に大沢酒造がある。
白壁の西のはずれに高札場跡の案内がある。


(高札場跡)

説明によれば
(江戸時代、庶民に法令を徹底させるため、此処に高札を掲げた。
高札場は名主宅前に設けられることが多い。大沢家は元文二年
(1737)明治四年(1871)に至るまでも茂田井村の名主を
勤め、元治元年(1864)十一月十九日水戸浪士(天狗党)中山道通過の際、
それを追ってきた小諸藩2500人の本陣となった。)
(望月町教育委員会)


(手入れの行き届いた家並み)


(大きな馬頭観音の碑)

大沢酒造は一部が民族資料館になっており、しなの山林美術館も
併設されている。旧中山道はせまいみちである。
しかし、道路わきの家々は手入れがよく行き届いており、町全体が裕福な印象を受ける。
大沢酒造を後に上り坂の道路を進むと、左側に高さ2mもあろうかという馬頭観世音の石碑があり、
さらに進んで坂道の頂上付近の
左側に、立科町文化財として茂田井の一里塚が残っている。

立科町教育委員会の説明によれば、
(一里塚は、信長の時代に設けられ、
徳川家康・秀忠が引き継いで慶長九年(1604)に完成した。(慶長見聞集)
中国で道のそばに一里毎に土を盛り、その崩れ去るのを防いで
エンジュの木を植え旅人に木陰を与えたという例に倣って
榎(えのき)が植えられたといわれている。

また、三大将軍家光が「一里塚には『余(よ)の木』を植えよ」といったことから、
老臣が榎(えのき)と聞き違えて国中の塚に植えたという(現代教養文庫中山道より)が、
この頃一里を36町と決定され、五畿七道のこるところ無く一里塚が築かれたとされている。

天保年間の、茂田井村差出帳には、当時この両側に土塚があり、
榎の根本が残っていたとある。)(立科町教育委員会)
当時の一里塚には榎を植えてあった。真偽のほどはともかく、
榎を選んだ由来が記されており面白い。


(一里塚跡の案内看板)

このたて看板がある場所に一里塚はあったようであるが、
両側ともに榎は勿論のこと土塚も見ることができない。
日本橋より46里184kmの地点である。

道路を少し登ると、広いバス通りと合流する。合流地点には
(茂田井間の宿入り口)(笠取峠まで4,4km)の案内看板がある。

まもなく芦田宿に入る。

(茂田井宿入り口の案内)




間の宿 茂田井(旧中山道を歩く 126)

2007年11月17日 08時42分34秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(立派なお屋敷が続く間の宿 茂田井)

(間(あい)の宿 茂田井)
大伴神社を過ぎると道路は長い登り道となる。
少し登ると道は左に曲がり、その先で国道の下をくぐると、
道は右にカーブして、国道と平行になる。
左手上のほうに先に向かう矢印と茂田井の文字看板が見える。


(長い坂道を登りきる頃国道の高架をくぐる)


(道路の左上に茂田井の看板あり、ここは直進する)

さらに歩くと馬頭観音像と双体道祖神を左に見て、
その先坂の上の前方右側に武重歯科医院の看板が見える。
間(あい)の宿茂田井はさらにその先にある。
案内によれば、ずいぶん近くに茂田井はあるように書いてあるが、
上り坂で苦しいためか遠くに感ずる。


(馬頭観音と道祖神)


(右の細い道路が旧中山道)

広い道路は左に曲がっていくが、曲がらずに直進する細い下り坂の道がある。
手前に諏訪湖・白樺湖直進の案内標識がある。
これが旧中山道で、入り口に「中山道茂田井入り口」の案内が道路の左手に立っているが、
道路と平行に立っていて分かりにくい。
東京方面から行くと、この看板が右手にあればわかりやすいと思う。
今ある案内看板は、京都側から来たほうが判り易い。


(諏訪湖・白樺湖直進の方向に行く)

案内看板によれば、
(茂田井は東の望月宿と西の芦田宿の間にある村で、
現在は間に宿(あいのしゅく)とも呼ばれている。ここは茂田井への入り口で
坂を下り始めると江戸時代の面影残る民家や造り酒屋が軒を連ねている。
――以下省略。佐久市教育委員会)とある。

道は坂道を下り右にカーブすると向こう側に茂田井の家の屋根が見えてくる。
町というか村というか、家並みが始まるところからは、
道路は上り坂になっており少し登ると、右側に長い白壁の家が見えてくる。
造り酒屋の土蔵や塀である。道路左側は用水が流れており、
人通りも無く、せせらぎの音が聞こえる静かな道である。


(白壁の家)


(武重酒造)


(武重酒造入り口の「さかばやし」)

手前の酒屋が武重酒造で門の屋根の下に杉玉がぶら下がっている。
杉玉は「さかばやし」というらしいが、その横に次のように、

「さかばやし」についての看板がある。
「酒は飲みたし銭はなし酒に林を見て通る。さかばやしは造り酒屋の看板であり、
杉の葉を集めて丸く刈り込んで作られたもので、
昔は毎年新酒ができる春になると青い杉の葉で作った「さかばやし」を軒下につるしたものです。
古来酒壷のことを「みわ」と呼び
酒の神を祭る大和の国の三輪山の杉を標(しる)しの神木とし、
特に尊崇なるようになった。
古来由縁あるものとも云われています。
俳諧寺入道 一茶坊の句に

杉の葉の つるしてみるや 濁酒
杉の葉の ピンと戦(そよ)ぐや 新酒樽」


(集められた酒器の数々)


(昔使った酒造道具)


(奥の酒造り棟)

武重酒造の門が開いていたので中に入る。
いろいろな酒器、昔使用していた酒造道具が陳列してあり、
その奥が酒造りの棟になっている。

「さかばやし」のあった門前には、お酒をこよなく愛した若山牧水の記念碑があり、

有名な短歌
(しらたまの 歯にしみとおる 秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりけり)

他二首が刻んである。若山牧水は本当の酒好きであったようである。

牧水は肝硬変が原因で亡くなっている。


(牧水の記念碑)




望月宿(旧中山道を歩く 125)

2007年11月12日 08時20分24秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(美しい佐久平駅)

(望月宿)
2007年10月24日(水)
日本橋をスタートして22日目。
望月宿は日本橋より25番目の宿場、距離にして177km。
本日は快晴。最高気温予想18℃。

とても美しい上越新幹線佐久平駅。駅前広場の千曲バス、
バス停2番から芦田行きに乗る。約20分で望月停留所に到着。
望月宿の旧中山道は、バスを降りたところを西に向かう。
連子格子の民家が昔の屋号をぶら下げており、
町の古い伝統が偲ばれる。


(旧い家々が建ち並ぶ)

望月宿の呼び名の由来は、
(かって望月には、朝廷が所用する馬を育てる
牧場(勅旨牧)があり、育てた馬を朝廷に貢進(献上)する
「駒牽(こまひき)」の儀式が行われていました。その駒牽が
8月15日の満月の日に行われていたことから「望月」の呼称が生まれた。
奈良時代末には朝廷に献上する馬として有名になった
「望月の駒」。
朝廷には望月のほかにも、諸国から馬が集められましたが、
鎌倉時代より望月の馬だけが献上されるようになり、
勅旨牧としての役目は南北朝の終わりまで続きました。
その歴史にちなんで、望月では11月3日に草競馬が行われています。)
(望月町歴史民族資料館)

道路わきに、旧家らしい如何にもひなびた家が所々に見える。
あらためて見渡すと、町並みは往時の面影を残すべく、
古いものは古いままに残されているように見える。
商家の看板も江戸時代にタイムスリップしたような錯覚を思わせる。
たとえば、モーターバイク屋さん「倍駆商所 清水」(ばいくあきないどころ清水)、
質屋兼染物屋であろうか「しちや こうや 清水屋」、
旅館や電気屋さん、目に付くものがみんな昔風である。


(倍駆商所 清水)


(しちや こうや清水、先に見えるのが望月のバス停)


(何屋さんかな?両沢)


(電気屋さん)

こんな中を西に進むと、左手に古臭く見せた新しい建物に出会う。
建物入り口のシャッターに、消防団とあるのは、その奥に消防車が入っているに違いない。
望月町の消防署であろうか。
その先の両側には旅籠屋がある。右側が山城屋喜左衛門、
左側に井出野屋旅館がある。


(消防団本部?)


(旅館山城屋)


(旅館井出野屋)


(旧家の入り口にはどこも短歌が打ち付けてある)


(本陣跡、現在は歴史民族資料館)

さらに進むと、昔の本陣跡に立派な門があり、今は望月歴史民族資料館になっている。
冒頭に述べた「望月」の呼び名の由来も、この歴史民族資料館から戴いた資料による。
資料館に入ると佐久の中山道宿場展が催されており、
小田井宿、岩村田宿、塩名田宿、八幡宿、望月宿の宿場の様子が古文書を元に展示してあった。


(皇女和宮が使用した湯のみ茶碗)

宿場は、通信や荷物の輸送および旅行者の休憩・宿泊する場所の提供することを主な任務とした。
このうち通信や荷物の輸送を担当したのが「問屋」で、休憩や宿泊の担当が本陣・脇本陣・旅籠やであった。
中でも荷物輸送を円滑に行うため、人足と馬を常時用意しておくこととされた。
中山道では、人足50人、馬50匹を常備していて、宿から宿へと荷物は受け継がれていく。
荷物が多くて常備の人馬だけで不足するときは、近隣の村から馬と百姓が借り出される、
これを助郷といった。荷役を助ける村(郷)とでもいう意味であろうか。

参勤交代などで荷役が多忙のときは、絶えず人馬が借り出され、
百姓本来のの仕事ができなくなり、一家離散の憂き目に会うことも多かったようである。

望月歴史民族資料館の入り口には、双体道祖神の石碑が、コスモスの花の後ろで微笑んでいた。
お地蔵さんや道祖神は野の花に囲まれている姿が旅人の心を癒してくれる。


(コスモスに囲まれた双体道祖神)

民族資料館の裏側の急な階段を上ったところに、
佐久市天来記念館があるので覗いてみよう。
天来とは比田井天来を指し、佐久市望月出身の書家。
書は東洋独自の芸術であるという考えの下に、古典を基本にすえた書法を追求し、
生涯を書の研究にささげた近代書道の父といわれる。


(佐久市天来記念館)


(鴎閒・鶴散 辛酉晩秋 天来象之とある。)

沢山の書が展示されているが、代表作として、
「鴎閒・鶴散 辛酉晩秋 天来象之」が展示されている。
{鴎閒・(しず)かに 鶴散(さん)ず 、(かのととり年の晩秋に
天来これをうつす)}と読むのであろうか?

天来記念館を後に中山道を進む。
右側に重要文化財に指定されている問屋と旅籠を兼ね
一時は名主も務めた真山家(さなやまけ)が見える。


(問屋兼旅籠の真山家)

説明によれば、
(真山家は明和三年(1766)に完成し、土蔵は天明五年(1785)に増築されたもの。
建築時が明らかで、当時の様子もほとんど残されている。
くぐり戸の脇が板の間になっており、問屋として荷が置かれた作りが良くわかる。)とあるが、
あいにく扉は堅く閉められたままで外から想像するより仕方なかった。


(脇本陣家跡)

さらに進むと左側に大伴神社がある。
神社入り口左側にある大伴神社の石碑の文字は、
比田井天来の揮毫によるものと言う。鳥居をくぐり50段ほどの階段を登ると神殿がある。
入り口右側の石碑には中山道望月宿とあり、この神社が望月宿のはずれになる。


(大伴神社、文字は比田井天来の揮毫による)


(大伴神社から振り返ってみた望月宿)



瓜生坂(旧中山道を歩く 124)

2007年11月06日 08時36分41秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(この信号が重要になる)

(望月宿)

火の見櫓下の双体道祖神の前を通り過ぎると、右からくる広い道路に合流し、
左手に(布施温泉入り口)の信号が見える。
旧中山道は信号を渡り、右にカーブするくだりの道路(150号線)を行き、
しばらくすると、右側に「中山道牧布施道標」の標柱があり、
旧中山道元禄の道標「右中山道布施谷」とあり、昔はここから望月宿に通じていたとあるが、
道は草が生え、先が無くなっているように見えるので、進むのを止めることにした。


(信号を渡ると矢印にあるように道路は右カーブする)


(中山道牧布施の道標と元禄の道標)


(先の見えない草の道のため進むのを止める。推測では142号線の横断歩道のある場所に出るように思われる)

先の(布施温泉入り口)の信号、火の見櫓から出てきた場所にに戻る。
国道142号線の道路は上り坂になっているが、
少し上って、最初に横断歩道がある場所で、さらに右折する。
横断歩道はあるが、信号が無いので、
横断歩道をわたる場合は左右の車には十分注意する必要がある。

交通量がかなりあるからだ。


(横断歩道を右折)

横断歩道を渡った先の右側に「茂田井宿4,7km。笠取峠10,5km」の
案内標柱があるので案内にそって進む。


(案内標柱)

これから瓜生坂の一里塚に向かう。
道路は上り坂で、瓜生坂というが、やがて道は左右に分かれる地点に来る。
突き当たりに民家があり、垣根の外側に左中山道の案内がある。
上り坂を左に進むと道は右にカーブするが、カーブの地点に右中山道の案内があり、
すぐ先に「中山道瓜生坂の一里塚」の碑がある。

江戸から45里、180kmの地点である。


(二股地点、中央に左矢印で中山道の看板がある)


(カーブ地点の案内看板)


(瓜生坂の一里塚の碑)

薄暗い山の中の道路を少し進むと、前方が開けてきて、
左側に「史跡案内中山道」とあって右矢印が書かれている。
そして(道はここから土手を斜めに下っていた)と書き添えてある。
案内看板の後ろ側をのぞくと、熊笹が生えており、人が斜めに入った形跡があるように見えるが、
此処で中に入ってはいけない。


(案内看板があるがここから入ってはいけない)

この案内看板の先10mほどのところに、百万遍念仏塔、
中山道瓜生坂の石碑があるが、その後ろを斜め下る道がある。

そこが旧中山道である。


(百万遍念仏供養塔)


(中山道瓜生坂の石碑)


(分かり難いが、下に矢印で中山道の看板が左を向いている。後ろに左へ折れる道が見える)


(草の繁った道)


(草の繁る道の出口)

草の茂った大八車かリヤカーが通れるほどの道である。
草の道はほんの僅かであるが、400年前の中山道を思わせる道である。
すぐ舗装された広い道にでて、下り坂の道路を半円ほどカーブした先に中山道の案内看板がある。
旧街道はここで右わき道のほうに進む。下り坂はすぐ
直角に右に曲がり、急なコンクリートの坂道を下っていくと右側に、
①長坂の道祖神 ②長坂の馬頭観音 6基の石造群がある。
「中山道長坂の石仏群」と案内標柱も見つかる。


(カーブの後にある案内看板で右側の狭い道を下る)


(旧街道にふさわしい下り道。向こうに望月の町が見える。家の手前右側に長坂の石仏群がある。)


(長坂の石仏群の①3基の道祖神)


(長坂の石仏群②3基の馬頭観音)

道路の突き当りが鹿曲川で、左手に橋が見え、案内看板には橋を渡るとある。

橋は長坂橋という。江戸時代と同じではないが、江戸時代にも橋はあった。


(橋を渡ると記した案内)

橋を渡って少し登り道を行くと、道路は丁字路で突き当たる。
望月宿の街の中に入ってきた。

望月発PM15:22のバスに乗りたいのであるが、
初めての町で、バス停はどこにあるかわからない。
望月の町を道路に沿って歩き出す。古い家並みが沢山あるが、
これは次の機会にゆっくり見ることにしよう、と考えながら歩くと、すぐ目の前にバスがやって来て止まった。
しめたこのバスとばかり、走って乗ろうとしたが、そそっかしいボクにしては、よく気が付いたと思う。
ワンマンバスのドアーをたたいて「佐久平駅に行きますか?」と訊ねた。
「このバスは行きません。岩村田行きに乗ってください」と返事。

時計を見ると、まだPM15:00で早すぎた。
しかしバス停が分からないからこのくらいの時間で正解であったはずである。
無事佐久平駅まで行き。新幹線で東京に帰ったのが19:00であった。

日本橋を出発して21日目。歩行数4.8万歩。
キロ数にして約28kmであった。

いつものことであるが、大体歩く距離は28kmほどと決まっている。
御代田からまっすぐ歩いてきたら、16kmであった。
道を間違えたり、余計な史跡を見たりしていると10kmほど余分に歩くことになるようである。

次は望月宿―茂田井―芦田宿―長久保宿で、寄り道しなければ11kmなのだが、
途中笠取峠があるのでどうなることやら・・・


八幡神社(旧中山道を歩く 123)

2007年11月01日 09時23分06秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(古い建物が続く上り坂)

(八幡宿)
千曲川を中津川橋の歩道橋で渡ると、中山道は長い上り坂になる。
街道筋の民家は古い建物が並んで、人通りは無くさびしい感じがする。
坂を上りきった右手の上のほうにとぼけた顔の大日尊が白い腹巻と白い帽子(?)姿で鎮座している。
回りは田んぼで稲が風でうねっていた。


(おとぼけ顔の大日如来尊)


(周りは田んぼ)

同じ場所に芭蕉の句碑がある。

(涼しさや すくに野松の 枝のなり)とかいてあるらしい。

変体仮名の文字を判読するのは難しい。
帰ってから芭蕉句集を調べたら

「涼しさや 直に野松の 枝の形」があった。
(この日本語のほうが意味が伝わりにくい。)
「直」を(すぐに)と読んで、「形」を(なり)と読ませるほうが、変体仮名を読むより難しい。
結局、芭蕉句集と変体仮名とを見比べて、やっと
(涼しさや すぐに野松の 枝のなり)であることが判明した。

さて、その意味であるが、
普通庭にある松は枝振りなどが、美しく曲げられているが、
(この松は真っ直ぐに伸びた枝が自然でとても良い、それが涼しげである)と読んだのであろう。
そう思うと、なにやら良い句に思えてくるのは不思議だ。

涼しさや すくに野松の 枝のなり  (芭蕉)


(チャレンジして変体仮名を読んでみてください)

中山道に戻り進むと、すぐ先の右手に草が伸び放題の、
手入れの無い一里塚跡の碑がある。江戸より44里、176kmである。
一里塚を過ぎると、道は下り坂となり、八幡宿の家並みが一望できる。
町に入るとすぐ右側に、八幡宿の呼び名の基になった八幡神社がある。


(一里塚跡)


(八幡宿の家々が一望できる)


(八幡神社)

石の鳥居といい、門構えといい、神殿といい、大きなケヤキといい、
古い歴史を思わせる神社である。

まず最初に随神門をくぐるが、この門は楼門となっている。
説明では、
(楼門とは、楼造りのことで二階建ての門のことを言う。
一階と二階の境は親柱に擬宝珠をつけた高欄の縁側を巡らせている。
頭貫木鼻(かしらすききばな)の唐獅子、各所に施されている彫刻など江戸時代末の特色を示す。
門の両脇の間には衣冠束帯に剣と弓矢を持った武官神象の随神をおく。
建立は 天保14年(1843)6月、今から150年前。
小諸藩主 牧野遠江守康哉が大願主となり数百本の材木を、
またケヤキ材は川西地方村々の寄進により造営された。
楼門高く懸かっている額は明治時代奉納されたもので、
「戈(ほこ)を止めて武を為す」(右書で止戈為武とある)と横書きされている。)


(隋神門、扁額に右より「止戈為武」と読める)

その奥に重要文化財の八幡神社高良社本殿がある。
「建立は延徳三年(1491)祭神は武内宿禰の神号である
高良玉垂命に由来する。室町時代の遺構を良く残している」と言う。


(高良社本殿)


(八幡神社)

高良社本殿の右横には、八幡神社の本殿と拝殿がある。
本殿の壁三方には美しい木彫りがあり、何か物語の一場面であろうが、
おきな、おうな、そして稚児の笑顔が表情豊かに刻まれている。


(八幡神社の木彫、豊かな表情をご覧ください)

八幡神社を出て中山道を西に進むと、すぐ右手に「中山道八幡宿本陣跡」の石碑があり、
往時のままと思われる本陣の門が建っている。


(八幡宿本陣跡の門)

その向かい側に脇本陣があったと言うが、今は見当たらない。
さらに進むと、上町公会場前の(八幡入り口)のバス停を右斜めにわき道へ入るのが旧中山道である。
道路はやっと車が二台すれ違うことができる広さである。
やがて右側に高さ2mもあろうと思われる馬頭観世音の石碑がある。
道路わきに建つ家は人が住んでいるのか、分からないほどひっそりして、寂れた田舎町の感じがする。
わき道はやがてもとのバス通りに合流するが、
合流すると左にカーブして(八幡西)の信号にぶつかる。


(右わき道に入る。「輪を広げよう」の右側が屋根の付いたバス停)


(馬頭観世音の石碑高さがある)

左右の道路は国道142号線であるが、
この信号で右折し、しばらく田んぼの中の道を歩くと、
やがて(百沢東)の交差点に出る。
交差点手前左側はガソリンスタンドで、車道は逆Y字路になる。
ガソリンスタンドの前で、右斜め前方を見ると、
旧中山道らしい狭い道が見える。
道路はガードレールでさえぎられて、車は入ることができない。
向こう側から車が来れば通行止めになる。
生活道路として、人は通行可能である。
旧街道の両側には人家が並んでいるが、人の気配を感じないくらい寂れている。
そのまま旧中山道を行くと、火の見櫓が見え、その先は広い道路らしく車の通行が見える。
火の見櫓の下、1mほどの土手の上に3基の道祖神の石碑がある。
信濃に多いと言う双体道祖神であるが、
1基は高さ70cm、横幅40cmもあろう大きなもので、この大きさのものは始めて見る。


(火の見櫓の下)


(祝言道祖神)

説明では、
(祝言道祖神は長野県安曇地方で発生した道祖神で、
宮廷貴族の装いをした男女が酒を酌み交わす華麗な祝言像である。
安曇系は主尊が日本神話の神々で、着衣も神々の装束で像造されるのが通例であるが、
この道祖神は宮廷貴族風の精緻な造像である。
発祥地安曇地方にも類例の無い貴重な遺産である。)と望月町教育委員会の説明がある。

もう望月宿に入っている。