中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

野尻宿と柿其橋(かきぞればし)(旧中山道を歩く 192)

2009年12月12日 11時26分10秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(ススキが晩秋を)

(野尻宿 2)
高札場を過ぎてすこし進むと、左手に本陣跡の標柱があるが、
雨風に洗われて、かろうじて判読が出来る程度で、
その横に明治天皇御小休所の石碑が無かったら、
本陣跡とはとても読みにくい。

野尻宿の特徴として、外的を防ぐため道筋が曲げられており、
「七曲り」として知られていると言う。
そのため宿場を右に左にとカーブして進み、
やがて左手に「はずれ」と称する屋号の家が見える。
これが西のはずれというから、きっと東の「はずれ」もあったに違いないが、
見落としてきた。野尻宿はこの「西のはずれ」で終わる。


(本陣跡の案内?)


(明治天皇小休所の石碑)


(左へ右へ道は曲がる)


(西の「はずれ」の家)


(その先の右折道路)

その先で右折道路に出会うが、右折せず直進する。
やがて「上在郷橋」に出るが、注意を怠っていると見落としてしまう。
ボクはその見落としをしたそのオッチョコチョイの一人であるが、
案内書では、橋の手前右手に消防団が、
橋を渡った先の左手にカーブミラーがあるとあるが、
消防団の建物は、物置小屋のようであり、
橋の先のカーブミラーは、
どこを向いているのか「あらぬ方向」を向いており見落としてしまった。

行過ぎて、かなり歩いてから、地元の人に会うことが出来たので、
橋の場所を聞くと、
相当来てしまったらしい。
「戻るのも大変だから、目の前の道を降りていけば
中山道に出るから、その道に沿って左に行くと良い」というが、
途中で出会う中山道が、ドレかわからないので、
丁重にお礼の挨拶して、元来た道を戻ることにした。

消防団の小屋を見つけ、振り返るとなるほど橋らしきものが見える。
これが「上在郷橋」である。
解りにくい「上在郷橋」を見つけ、橋の先を右折する。
坂道を下り、線路沿いを歩くと、右へガードをくぐるか、直進するか、
この先「蛇抜け沢」の案内があるところに出る。
線路沿いに進んだほうが良さそうな道が先に伸びているが、
ここはぐっとこらえて右へガードをくぐる。


(消防団の小屋)


(解りにくい「上在郷橋」の先を折れる)

道路はすぐ右へ大きくカーブしている道と
直進は民家にぶつかり左へ折れる道になる。
真ん中にカーブミラーがある。

左へ折れる道はどう見ても、民家の庭先のように思えるが、
案内書では、その庭先のほうへ行くようになっているので左折。
間違いなく庭先で、とても写真を撮る余裕が無く、
そそくさと庭を通り抜ける。


(右に行きたくなる道路。ここは左へ)


(民家の庭先へ)

何軒かの間を通り抜けて、広い通りに出るが、厄介なことに、
「右に行くべきか、左にすべきか、それが問題」と
ハムレットの悩みで頭を抱える。
まさに判断しかねる所へ出る。

右は道路が下りに、左手を見れば、
どうやらJR中央本線のように見える。
踏切に出ると「旧第3仲仙道踏切」とあるので安心する。
踏切を渡ると道路は左へカーブしていくが、
右手に案内があり、「線路沿いに簡易舗装の足場の悪い道を進むように」とある。


(右か左か悩む道)


(旧第3仲仙道踏切)


(踏切を渡ったらすぐ右へ)

線路沿いの簡易舗装の道は、やがて踏み切りに出て、
渡るとすぐ左折する。
第13仲仙道踏切と書かれている。
線路と道路は山に囲まれ、先にも山がある。
続いて線路沿いを行くと、
道路わきはススキが穂をたれている景色が続く。
第14仲仙道踏切を渡り進むと国道19号線に合流する。

国道に出たら、歩道に沿って橋を渡り、
ガードレールの切れ目から道路を横断する。
横断歩道もなく、車の行き来が激しいので、
横断には十分注意が必要である。


(簡易舗装で線路脇の道路)


(踏み切りは「第13仲仙道踏切」とある)


(さらに線路脇を歩く)


(次の踏み切り「第14仲仙道踏切」)


(「南木曽町」の看板下を横断し奥に見えるつづら折れの坂道を登る)

南木曽町の案内看板下で道路を横断し終えると、
道路はつづら折れに登り坂になる。
十二兼の村に入り、少しして道はY字路になる。
右は民家の庭先のようで、進むのに躊躇するが、右に入る左隅に、
小さく「右中山道」の案内がありホッとする。
民家の玄関先を抜ける感じで、下り坂を行くと先に石造りの鳥居が見える。
熊野神社である。


(ここは民家の庭先へ行く)


(熊野神社の鳥居)


(国道19号線で(十二兼北)の信号)

坂を折りきると国道19号線で(十二兼北/じゅうにかねきた)の信号に出る。
本来は道路を少し戻り、迂回路の案内に従って、
地下道をくぐるのが正しいようであるが、
疲れた足には、面倒に思えたので我がままを押し通し、
信号で道路の反対側に進み、右手の「JR十二兼」駅に出る。
無人駅で柵の間からホームに出て、歩道橋を渡って駅の改札口へ出るが、
駅舎は二階にあるような高さで、
道路に出るには高い階段を下りなければならない構造になっている。


(「JR十二兼」駅の柵で入り口ではない)


(反対側道路から見た「JR十二兼」駅駅舎は二階)

利用しようと思っている登り電車の到着まで、小一時間ある。
たまたま地元の方が下り電車を待っておられたので、
近くに在るはずの柿其橋までどのくらいあるか訊ねると、
「今そちらから来たが15分ほどですよ」という。
お礼を言って、電車が来る時間までを有効利用しようと、
柿其橋に向かう。

疲れて居るはずなのに、下り道を軽快に歩く。
しかし、なかなか柿其橋を見つけることが出来ない。それどころか、
木曽川そのものさえ見つからなくて、だんだん不安になってくる。
田舎の人は健脚で、15分はボクの足よりはるかに早いらしく、
相当下ってからやっと木曽川と川の向こう側の橋の袂が見えてきた。
さらに坂を下ってやっと目当ての柿其橋に到着する。
この先三留野宿まで3kmほど木曽川べりの国道19号線を歩くことになる。
「寝覚ノ床」に似た美しい川の景色が見える。


(柿其橋に向かう下り坂、柿其橋が奥に見える)


(柿其橋)


(柿其橋2)


(柿其橋から望む南「寝覚ノ床」と言われる木曽川の景色)

島崎藤村が「夜明け前」の序の章で書いた、
「木曾路はすべて山の中である。
あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、
あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、
あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。・・・後略」
の中の崖の道が続いているところである。

確かに今見る、木曽川の向こう側は深山幽谷で、
欝蒼とした深い森の中で枯葉か粗朶を焚いているのか、
立ち上る一条の煙を見ると、
山の中の木曽路の雰囲気が良く理解できる。


(柿其橋の向こう側の森の煙)






天長院と消えた高札場跡(旧中山道を歩く 191)

2009年12月05日 09時00分50秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(左にカーブする田舎道)


(振り返って見た山々、青空の中で美しい)

(野尻宿)
伊奈川橋を過ぎると、道路は左へカーブして村落へ入った感じがして、
建物が多くなり道路は登りになる。
振り返ってみると山が陽に映えて美しい。

すぐに道は下りになり、先に橋が見たら手前で左折の道をとる。
左手前角に水舟があり、小さく中山道の案内が行く手を指している。
右手にも案内看板があり、道路を左折するように案内はある。


(先に橋が見える手前を左折)


(水舟横の中山道の小さな案内)

道路は家並みが続く中を歩くが、
庄屋さんの家と見間違うほどの立派な家が続き、右折道路が見えてくるが、
ここには案内看板があり、直進する。
長い田舎道は人にも会わず、本当にこの道で正しいのか不安になる。
やがて左側に「水害記念碑」の大きな石塔に出会うが、
この山の中にどうして水害の記念碑があるのか不思議である。
木曽川ははるか下を流れているのに、その氾濫で洪水に遭ったとなると、
下流で川をせき止める膨大な土砂崩れでも出来て、
見上げるような高い高いダムでも出来ない限り、
水害に遭いそうもない場所である。


(庄屋と思しき立派な家)


(右への道路先にある案内で左へ)


(水害記念碑)


(水害記念碑の先は突き当たりを右へ)

今話題の建造中の「八つ場ダム」のようなダムでも下流に出来れば、
この地域も水没するのかもしれない。
昔、そんなことがあったのであろうか。

水害記念碑を過ぎて道路は突き当たりになる。
ここで右折して、
道路はぐるりと半円を描くように右にカーブすると、
はるか先の、左手の下のほうにお寺の屋根が見える。

重い足を運んで下りていく。
田舎のお寺はどこも立派である。
山門、本堂と砂利を踏んで歩くと自然に心が洗われるように感ずる。
これこそ寺院がもつ荘重さであろうか?
地久山天長禅院という臨済宗妙心寺派の禅宗のお寺である。

「室町時代木曽家祈願所として真言宗に属し、
木曽東古道沿いの伊奈川大野の地に菊名山広徳寺としてありましたが、
天文年間(1540~)武田軍や山賊の焼き討ちにより廃絶してしまったと言われています。
その後文禄年間(1594~)定勝寺七代天心和尚を開山として旧地に禅宗地久山
天長院として開かれ――後略」とある。


(お寺の屋根が見えてくる)


(地久山天長禅院)


(天長院山門入り口)


(山門と本堂)

地久山天長禅院で、持ってきたおにぎりをほうばり、歩きながら水を飲む。
やや下りののどかな田舎道はやがて「ながのじゅくばし」を渡り、
十字路を過ぎると、先に郵便局が見える。
案内書に寄れば、この右手が「JR大桑駅」の筈である。
午前中、全く人に会わなかったが、珍しくご婦人に出くわしたので訊いた。
「この右手が大桑駅ですか?」
「はい、そうですよ。どちらへお出でになるのですか?」
「ありがとうございました。今日は南木曽(なぎそ)まで行きたいと思っています。」
「ごくろうさまです。気を付けて!」でご婦人は駅のほうへ行ってしまった。


(大桑駅前の郵便局)


(振り返った山が美しい)

しばらくして中央本線の踏み切りに出る。
右手を見るとうっすらと雪をかぶった山が綺麗だが、
なんて山なのか名前を知らない。

踏切を渡り、国道19号線を歩く。
しばらくすると左手に「道の駅 大桑」がある。
お手洗いの御用は此処で済ましておくと良い。
さらに進んで、
「のぞきど森林公園 この先2km左」の案内看板があったら、右折する。
道路は上り、そして下ってJRの踏み切りに出るので渡ると、
道路は二股になる。Y字道路の間に野尻左の案内看板がある。
進むとすぐ踏み切りに出会い、踏切を過ぎると下り坂になる。
民家が増えて、道路は登り坂になり、先方右手に赤いレンガの家が見え、
中央に立派な日本家屋の塀があるところを、鋭角に左に折れる。
登り坂を行くとすぐまた右へ行く道があり、右に行く。

上り詰めた所、突き当りの感じで左側に「南無妙法蓮華経」の石碑があり、
消えてしまった道案内と、説明看板がある。


(「のぞきど森林公園 この先2km左」の案内看板)


(道路を下り踏切を渡る)


(二股を左へ)


(右に赤レンガの家、中央に立派な日本家屋の塀)


(左に折れたらすぐ右へ)


(南無阿弥陀仏の石碑)


(見えない案内看板)

案内書に寄れば、ここに高札場があったところと言うから、
この案内板は高札場跡の案内があったに違いない。
後から歩いてくる方達のためにも、早く作り直して欲しいものである。
昨今の財政不足では、
地方自治体も簡単には作り直すことが出来ないかもしれないが、
是非お願いをしたいものである。

高札場はもともと宿場の入り口や村の入り口に設置してあり、
庄屋(関東では名主)が管理していた。
領主が出す御触れを掲示して、村人や旅人に決まりを厳しく守らせ、
高札場付近の手入れ、掃除もさせた。
高札場の前では、旅人は笠を取って読んだと言う。
文字の読めない人には、読み聞かせるのも庄屋など村役人の仕事であった。

高札場には、五つの札が下がっているのが通例であった。
1.人として「五輪の道」正しくすること
(儒教における五つの基本的な人間関係)や殺人・放火・盗みの禁止。
2.徒党・強訴・逃散の禁止、
つまり集団の力を利用して事を起こすことの禁止。
3.キリスト教の禁止。
4.万国公報に従うこと、外国人への危害の禁止。
5.郷村脱走(浮浪)の禁止。
などです。
今までに見た高札場には、他に「隣宿までの人馬の駄賃」の掲載があります。
野尻宿の高札場跡があるということは、

この先が野尻宿に入る、と言うことになります。


(奈良井宿の京都側はずれにあった高札場、高札は八枚掛かっている。)