中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

宿泊と行列(旧中山道番外記 12)

2008年09月29日 08時53分30秒 | 中山道番外記
0100
(和田宿本陣のご入門)

(夜明け前と各宿場の記録から)
木曽街道を歩くに及んで、
藤村の「夜明け前」を読んで、
今まで気にかかっていたことが、
いくつか分かるようになった。

その一つに各宿場を通行する大名、
公家が宿泊するときの大人数の食糧のことである。
どうやって調達していたのか不思議に思っていたが、
大名や公家たちは食料や食器、寝具はそれぞれが持参したと、
「夜明け前」に書かれている。通行するときの先触れとともに、
米47俵が届けられたと記されている。

もっとも大々的な通行は、皇女和宮のときであろう。
宿泊された本陣の一部(上段の間)が、
上州の板鼻宿に残されているが、そのときの人数が京都側から一万人、
江戸側からのお迎えが一万五千人、和宮御付の人が京都から通しで四千人、
合計二万九千人と膨大な人数である、と記録されている。
食事と排泄はどのようにされたか興味のあるところであった。
《板鼻本陣と皇女和宮(旧中山道を歩く 87)参照
http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2007/03/post_0a09.html》

板鼻宿はもちろんのこと、高崎、倉賀野、新町の四宿だけでは、
足りず近隣の村からも総出で協力して炊き出しを行ったとある。

板鼻宿で頂いた本陣の間取図を見ると、部屋数20室、湯殿4箇所。
御上段の間の近くにお湯殿があり、
その脇に御用所2畳とあり四角のマークのあるところがトイレと思われる。
そのトイレのマークがある部屋がそれぞれ4つの湯殿脇にあり、
トイレの四角のマークは二個の部屋と4個の部屋(仕切りはある)があるが、
一度に用を足すことができるのは二人、四人ということのように思われる。

「夜明け前」によれば、本陣に寝泊りできる家来は、
30人程度とかかれており、その他、人数が多い時には近所のお寺、
時には本陣の家庭内にも、問屋にも、一般民家にも泊まったように書かれている。
宿泊客が多いときは、隠居所にあてがってあった土蔵の二階までも、
宿泊場所にしたと記録されている。
(馬篭宿にはこの隠居所が残っていると言うので是非見てみたい)
0007
(馬篭本陣の隠居所)

しかし、板鼻宿のように小さな宿場では、
2万九千人ともなると民家の玄関先は当然のこと、
雨露をしのぐ事ができれば、ひさしの下にも寝泊りし、
野宿もやむを得ず、であったに違いない。

当時の記録によると(和田宿のガイドさん談)
畑の道の四隅に柱を立て、
その上に筵をテントのように張って屋根として眠り、
15人に一つ焚き火が許されたと言う。
トイレは当然のこととして、青空トイレであったと推測される。

行列については「夜明け前」に書かれていないが、
二万九千人の行列では、前の人との間隔が1mとして、
二列で歩いたとすると、行列の長さは14500m。約15kmになる。

旧暦10月20日(新暦では11月22日)に京都を出発、
江戸到着が新暦12月16日であるから、
野宿の人は寒かったに違いない。
中山道を踏破するのに24日間掛かった。

一日あたり平均で約22km進んでいることになる。
朝8時に出発、お昼と休憩で一時間半は必要とすると、
この時期では夕方5時には暗くなるから、
少なくも4時半には宿舎に着いたとして、
実際の移動時間は7時間、時速約3kmとすると、
長さ15kmの行列が通過するのに、5時間必要になる。
「下に~下に~」の掛け声が聞こえて土下座をすると、
5時間座ったままでいなければならない。
(もっとも「下に~下に~」と言いながら通った行列は、
徳川御三家のみであったとされる。)

その間土下座していたら、食事も出来ないし、トイレにもいけない。
行列が近づいたら、一般庶民は裏道に非難したに違いない。
あるいは、和宮のお駕籠が通過する寸前に土下座し、
駕籠が目の前を通り過ぎたら普段の生活に戻ったのであろう。

話が変わるが、
和宮についての記録によれば、先頭が取りすぎてから、
行列の最後尾が通過すのに、3日~4日掛かったとあるそうだ。

行列が長くても、せいぜい5時間くらいと思われるのに、
どうして3~4日かかったと書かれているのか長い間気になっていた。

先日和田宿を訪ね、その疑問が解けた。

和宮の行列の前に、先ず
酒井隠岐守(道中奉行の一行が通り、街道筋の不具合を点検していく。)
前前日 菊亭中納言 千種少将ほか
前日  中山大納言 小倉侍従ほか
当日  和宮・勧行院橋本中将ほか
翌日  坊城中納言・岩倉少将ほか
の順で通行したと和田宿脇本陣の記録にあると言う。

P1090465
(和田宿にあった記録)

これでは、三日間掛かるどころか、和宮の下向の際、
最初の道中奉行から勘定すると、
その行列は実に5日間掛かって宿場を通り抜けている。

これに荷物が入れば、もっと日数が必要であったが、
和宮様荷物は東海道経由で送られたとある。

中山道は、警備の各藩1万人、助郷人足1万三千人、
遠国雇い人足七千人、馬方二千人、馬二千頭など。
総人数八万人の手を煩わせた大行列になったと言う。

旧中山道では、この大行列の後、間もなく明治時代に突入し、
宿場制度も衰退したことから、
今ではどの宿場でも和宮の行列は語り草となっている。

しかし、微細については公の記録があるわけではないので、
宿場宿場に残された記録を元に想像することになる。

蛇足であるが、中山道を通った大名の数も、ある宿場では30家、
またある宿場では34家、ほかの宿場では39家と記録が異なる。
記録した人が数えた数え方と数えた年代の違いかもしれない。
自分の宿場を通過すればカウントしない、ある人はカウントした。
例えば加賀藩などは参勤交代のルートが時に異なる場合がある。
したがってある宿場では通り、ある宿場では通らない時があった。
記録者の中には、大名の石高が一定の石高以上でないと、
大名と思っていない人もいたかもしれない。

森の石松ではないが、一里過ぎれば旅の空、
いくら親分でも自分を見張っているわけではない、
言い渡された禁酒を破っても解らないだろうと酒を飲んだ。

これと同じように、幕府から経路を言い渡されていたとしても、
決まりを守らなかった大名もいたに違いない。
そんな風に勝手に想像できるのも記録のあいまいな歴史だからこそである。
0097
(和田宿本陣の冠木門(かぶきもん)






塩尻宿(旧中山道を歩く152)

2008年09月24日 06時56分01秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(高札場の跡)

(塩尻宿2)
「スズメオドシ」の家に別れを告げ門を出ると向かい側に高札場の名残がある。
高札は法律を守らせるためのもので、それを名主が管理に当たった。
そのように考えると、スズメオドシが屋根の上にあるのも頷ける。

(永福寺入り口)


(永福寺の美しい山門)

旧中山道は火の見櫓のあるところで、二手に分かれる。
右を行く道といずれまた合流するのであるが、旧中山道は左の道をとる。
歩きながら右のほうを見ると、右側の道を行った先に立派なお寺が見える。
これは永福寺と言い、観音堂がある。

(永福寺観音堂)


(自ずと合掌する気になる観音堂の荘厳な正面)

慈眼山永福寺は木曽義仲ゆかりの地で、元禄十五年(1702)
現在地に伽藍と馬頭観世音が本尊とする朝日観音を建立したが焼失、
安政二年(1855)再建された。姿の美しいお堂で、馬頭観世音の赤い旗が石段の脇にゆれていた。


(「是より西 塩尻宿」の碑)

二手に分かれた道路は先で合流し、信号の右角に

「是より西 塩尻宿」の石碑がある。

左角には、大きな道祖神と南無妙法蓮華経の二つの石碑が並んでいる。
さらに進むと左側に三州街道と刻まれた石碑がある。
右側には庚申塔が何基も並んでいる。

(道祖神と南無妙法蓮華経の石碑)


(三州街道の碑)


(沢山並ぶ庚申塔、道祖神などの石造群)

塩尻とは、富山から運ばれてきた塩も三州街道から運ばれてきた
三河・尾張の塩もここで終り(塩尻)になったという、塩の道の終りを意味した。
地名の由来には、いろいろないわれがあるものと解った。

その三州街道の塩尻側の入り口である。
当然近くには塩を扱う問屋、本陣、脇本陣、旅籠等が集まっている。

右側にまず旅籠の小野家住宅が、向かい側に上問屋跡の碑が、
その先に中山道塩尻宿本陣跡、その隣に脇本陣跡と並んでおり、
最後に造り酒屋の立派な杉玉がぶら下がっている武井酒造店がある。

(小野家住宅)


(上問屋跡の石碑)


(本陣跡)


(脇本陣跡)


(酒造店)

道路を進むと右に折れる道があり、角に中山道
「鉤(かぎ)の手跡」の碑がある。

宿場町防衛のため、敵がまっすぐに侵入できないよう、
宿場の入り口と出口を「鉤(かぎ)の手」に曲げた。その跡である。
京都側から宿場への入り口に当たり、ここから東に向けて本来の塩尻宿があった。

(鉤の手の碑)

旧中山道は「鉤(かぎ)の手跡」の碑を右に曲がり進むと、
右手に阿礼神社の森が鬱蒼としている。左隣には塩尻東小学校があり、
道路には「是より東塩尻宿」の石碑がある。
男女が手を取り合った微笑ましい双体道祖神もある。
さらに進むと、同じく右側に堀内家住宅が残っている。

(阿礼神社の森)


(阿礼神社)


(堀内家住宅)

説明によれば、
(堀内家は江戸時代、旧堀ノ内村の名主を勤めた豪農である。
建築の年代については十九世紀初頭、
下西条の川上家(当時は造酒家)からの家を移築したとの言い伝えがある。

また構造手法から十八世紀後半頃(約二百年前)の建築と見られる。
建物は南に面し桁行、梁間共に十間で、切妻造、板葺になり、妻を正面に見せる。
現状における間取りの大略は表、中、裏の三列に区切り、
表の列は上手(東から二室続きの座敷「上座敷」「げんかん」と土間、
中列は三間に四間の「おえ」(=戸口脇の部屋)と土間、
裏列は「裏座敷」ほか数室からなる。
数人にわたる改造の結果、当初の姿が不明なところも多いが、
「おえ」まわりは縦横にかかる梁組を現し軸部をよく残している。
堀内家住宅はいわゆる「本棟造り」の中で、
大形上質の家であり改造の結果であるが、
正面の概観意匠は力強くこの系統民家の一頂点を示すものとして価値が高い。)
(塩尻市教育委員会)

(スズメオドリのある堀内家住宅)

道路はこの先で国道に合流し、さらに先の信号「下大門」で三っつに分かれる。
交差点で旧中山道は左の道をとり「平出の一里塚」を目指す。

今日はここ塩尻宿で終わりにする。

塩尻駅から特急「あずさ」で帰る。
下諏訪宿から一日で歩いた距離約24.2kmであった。(2008年5月26日)

(双体道祖神)




夜通道(よとうみち)と「スズメオドシ」(旧中山道を歩く151)

2008年09月17日 08時35分33秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1
(英泉画く浮世絵「木曽街道塩尻嶺諏訪湖水眺望」蕨宿にあったタイル)

(塩尻宿)
歌川広重、渓斉英泉画く浮世絵集「木曽海道六拾九次之内」の
「塩尻嶺諏訪湖水眺望」解説には、
(季節は厳冬、下諏訪を出て塩尻峠を登り行くと、
眼下には諏訪湖、はるかに富士山を望むことが出来た。
左は八ヶ岳連邦、湖に向かって立つ城は高島城。
馬上の旅人も馬子も、足を止めてすばらしい景色に見とれているようだ。
湖面に見えるひびは「御神渡り(おみわたり)」であろう。)とある。
(ボクの撮った写真には残念ながら富士山は見えない)

塩尻峠を越えれば、もう塩尻宿に入ったようなもの。
登りと対照的に急な下りの坂道を、転げるように下る。
下って行くとすぐ左に山の中にしては立派な家がある。
案内書では、茶屋本陣であったというが、
山中で営業しているのか人が住んでいるのかさえ分からない。
(親子の地蔵?)

急ぎ足で通り過ぎると右手に二基の地蔵様が並んでおり、
左側の地蔵様が少し小さい。
両方とも赤いエプロンを書け、どう見てもこれは親子に見える。
地蔵様の後ろにはせせらぎが音を立てて流れ、
喉を潤せそうな清らかな澄んだ水のようだ。

この地蔵様の横に白い標柱が建っており、
伝説「夜通道」とかかれ、その伝説の内容が簡単に書かれている。
(「よとうみち」標柱)

「夜通道」なんてどんな辞書を引いても掲載されていないし、
まして「よとうみち」とはとても読めない。
伝説「夜通道」の標柱が塩尻峠を下る途中の林の中にある。

(いつの頃か、片丘(地名)あたりの美しい娘が岡谷の男と親しくなり、
男に会うために毎夜この道を通ったので「夜通道」という。)とある。
(昼間は緑も美しい山道)

周りの林は昼間明るくて、
緑が美しいが毎夜娘が通うには淋しい場所に思われる。
もっとも淋しくも恐ろしくても好きな男を慕う乙女には、
恋は盲目の喩え通り、
周りも見えず怖いと思う余裕さえなかったかもしれない。
夜通し歩いた乙女の心を思うと、せつない。

「夜通道」の先は開け、すぐに先に「東山一里塚」がある。
日本橋から57番目の一里塚で南側だけが残っている。
(一里塚57番目のはずが52番目と書かれている)

(一里塚横の案内板、書かれた歌:
 「大名行列も 皇女降嫁も 野仏は
        黙し(もだし)迎へむ 中山道に」が面白い)

説明によれば、
(東山一里塚は古図には道を挟んで二基描かれているが南側のみが現存する。
元和2年(1616)に塩尻峠が開通したことから、
中山道は牛首峠経由(諏訪―三沢峠-小野―牛首峠―桜沢口)から
塩尻峠経由(下諏訪―塩尻―洗馬―本山)に変更され、
この一里塚もそのころ作られたと推定される。
市内には、東山、塩尻町、平出、牧野、日出塩の五箇所に一里塚は築かれたが、
現在は東山と平出の一里塚が形を残しているだけである。)(塩尻市教育委員会)

ぐんぐん坂を下ると国道20号線にぶつかる。
国道は左に大きくカーブしている。
国道に沿って300mも進むと右に入る小道があるので右折する。
(地下道の先の杉並木、防風林であろうか?)

今度は国道を地下道で向こう側に抜けると、右側に杉並木が続く。
杉並木の向こう側は、放牧場のようで広い牧草地のようである。
杉並木が切れると長野自動車道があり、
今度は橋を渡って高速道路を渡る。
右手は丸い形の山があり、すぐに柿沢集落の中に入っていく。
(首塚)

(胴塚)

まもなく左の家の壁か塀に(首塚・胴塚左)の看板があるので案内に沿って道路を左折する。
すぐに畑の中にさらに左折の案内があるので左に入ると、
あぜ道のような道の上に首塚があり、その奥に胴塚が見える。
武田信玄と松本の小笠原長時が塩尻合戦の戦死者の墓で、
両軍で千人あまりが死んだといわれる。
戦死者の首は掻き取られて、手柄の証拠とされたのであろう。
そのため首は首だけ、胴は胴だけが埋められたと言うことになる。

周りで畑を耕す農家のご夫婦に聞くところによると、
最近この塚を見に来る人が増えたらしい。
ボクが両塚を写真に収めている間に
二人もこの塚を見学に来たくらいである。
月曜日というのに。

塚を後に中山道を下ると「スズメオドシ」と呼ばれる
奇妙な形の鬼瓦に変わる飾りを屋根につけた家が目に付く。
庭の手入れも良く、家の手入れも良いと思われる美しい家に魅せられ、
臆面も無く門から中に入り、この屋根の写真を撮っていたら、
この屋の奥様がお出かけになるらしく、
家の奥から車で出てこられた。

邪魔とは知りつつ、帽子を取り挨拶をして、
屋根の上にある飾りは何というのかお尋ねすると、
エンジンを止め、サイドブレーキをかけて車から降り、
わざわざ裏の畑で耕運機を操縦されていたご主人に
「私は出かけなければならないので、その説明をしてやってほしい」と伝えてくださる。

ご主人は耕運機のエンジンを止めてにこにこして、
屋根の飾りは「スズメオドシ」といい、
信州の代表的な建物で、間口十間、奥行き十間ある農家の建物だと言う。
「現在何人でおすまいですか?」と尋ねると、
夫婦二人らしい。
(屋根に「スズメオドシ」のある旧家)

この農家の一階の建坪は100坪、その四分の一の我が家は、
たかだか24坪で毎日の生活で持て余しているのに、
この家を管理するのは並大抵ではなかろうと思った。
それにしても玄関の窓ガラスのほこりも見えないが、
この手入れを一体どのようにしておられるのか、
今度ゆっくりお聞きしたいものである。

帰りがけに玄関口までお送りいただき、
その玄関先にある木の柵について何の役目をするものかとお聞きすると、
それは皇女和宮が徳川家に降嫁されたとき、
お触れが在ってこの柵を作らされ、
ここから外に人を出してはならないと厳命があったという。
(右奥に見える柵)

(柵の向こうは式台で昔は玄関だったという)

自分を戒める柵を自分が作るなんてことは、
現代ではとても考えられず、
柵外に出てはならぬと命令するなら、
命令する側が柵を作るか、費用を出すとかあってしかるべきと、
今なら言い出し兼ねない。
武家社会と現代社会の差がよくわかる。

懇切丁寧な説明に、頭を深々と下げ、お礼を言って分かれた。

(高札の跡?)

門前の道路の向こう側に古びた高札場があるが、
これは当時のものかどうかわからない。
帰宅後信州出身の友人に「スズメオドシ」の話をすると、
この様式の建物は、松本平を中心に庄屋、
名主など身分の高い人の家であるという。

お訪ねした家のご主人は信州の農家の典型的な建物といっていた。
また、家は500年続く旧家で、現在の建物は170年経っていることが、
数年前に建物と土台石がずれたのを修正したとき、
棟木に建築年代が墨書してあった事から解ったと言う。

周りに二軒ほど同じ「スズメオドシ」をつけた屋根を持った家があるが、
交代で名主を勤めたのであろうか?
高札跡があるくらいであるから名主の家であったように思われる。

先に進めばいずれ解かるかも知れない。 


後日譚:あまりにも親切に、説明いただき本当にうれしかったので、
後日手土産を持参してお礼に立ち寄った。二ヶ月ほど後のことである。





塩尻峠(旧中山道を歩く150)

2008年09月11日 07時31分09秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

(56番目の一里塚)
 
(下諏訪宿6)
「旧中山道を歩く」も150回になった。
まだ、中山道の中間地点にさえ来ていない。
いったい何回連載すると京都にたどり着けるのか、
考えるだけで恐ろしくなってきた。
歩いた日程は、まだ24日間。
京都までは50日くらい掛かるのであろうか?

昔(江戸時代には)15泊16日が平均歩行日数であったようであるが、
ただ目的地に到着するだけが目標であるから、
そんな日程で歩けたのであろう。

さて、現実に戻って、
56番目の一里塚を過ぎると道路は緩やかな登り道となる。
少し歩くと左側に「今井番所跡」の石碑があり、
その後ろに黒のいかめしそうな番所(関所)がある。
石碑も番所もまだ新しく、最近造ったものであろうか。
(今井番所跡)

石碑の左横に次のように刻まれている。
「今井地区は往古より道の存在が想定される。
古くは史実に出てくる鎌倉時代の街道があり、
戦国時代武将兵が往来した道があり、江戸時代の中山道がある。
徳川家康は関が原戦勝後、全国統治のため街道を制定した。
慶長6年(1601)に東海道を開削して、
よく慶長7年(1602)本州中部を横断する中山道を開削した。
中山道は当初ここから東方の東掘から川岸を経て木曽に通じる道であったが
防衛上の事情により12年後の慶長19年に塩尻峠越えの道を開削した。
この碑の前の道がその中山道である。道幅2間2尺――中略――
そして防備のため多くの関所を設け、
特に入鉄砲・出女を取り締まった。」と刻んである。

なるほど刻まれているように、街道は中山道の雰囲気である。
(今井茶屋本陣跡。明治天皇小休所の碑も見える)

(国の有形文化財らしく整った姿の門構え)

すぐ右側に今井茶屋本陣跡に着く。
黒い門構えの立派な茶屋で、
門前に「明治天皇御小休所跡」の石碑がある。
江戸時代の姿を残していると言うことで、
国の有形文化財に指定されている。

この茶屋本陣跡を過ぎると
坂は少し急になりすぐ先に石の道標が右上に建っている。
(道標)

「右しもすは 中山道 左しほじり峠」とある。
坂を上ると高速道路の上に出る。

高速道路の開通により、
道路は今までの中山道とは少し変わっており、
高速道路を橋で渡ると突き当たり、
左に折れるとさらに二股に分かれる。
一方は下り坂で一方は上り坂になるが、
この後塩尻峠に向かうので登り坂のほうへ向かう。
(振りかって見たらあった道路案内)

振り返ると上り坂の方角へ矢印で石船観音を指しているので、
間違いが無いことを確認して坂を登る。
間もなく道路は左に広い対抗車線の道、
右に狭い道路に分かれるY字路にでる。
(急な階段と道案内板)

(案内看板)

その右角に急な階段があり、階段の前に案内看板がある。
看板によれば、階段の上が石船観音、
先に進むと右側に金名水、
さらに先の左側に「大石」があり、
その先が塩尻峠で旧中山道の案内がある。

(階段の途中にあった石船馬頭観音の額)

せっかく来たのだから、石船観音の階段を登る。
かなり急な階段で「行きは好い良い帰りが怖い」と感じながら、石段の数を数える。
うろ覚えであるが、石船観音と書いた額がある途中まで31段、
さらに上方に奥の院の如くお宮はあり、そこまで34段ある。
(石船観音の奥の院)

一番上から下界を眺めるときっと眺望はよいのであろうが、
あいにくボクは高所恐怖症のため観ることができない。
これからの道中の安全を祈り、
お参りを済まして恐る恐る階段を降りる。

さて、いよいよ塩尻峠である。
脇にある清水でのどを潤し、急な坂を50mほど昇り、
(山賊が隠れたと言う「大石」)

左側の「大石」に着く。
この石の後ろに隠れて昔は旅人を襲う山賊が出没した、と説明にある。
なるほどと考え込んだときに
(そうだペットボトルにさっきの清水を入れてこようと)思いついた。
振り返ると急坂はかなり先まで降りないと清水が出ているところまで行けない。
それでも思い切って戻ることにした。

今まで持ってきたスポーツドリンクが暑さで生ぬるくなっており、
尚且つ三分の一くらいになっていたので、これを捨てて、
冷たい清水をペットボトルに詰め込んだ。
そして先程の「大石」のある場所を見ると、
ずいぶん先の上の方にある。
(塩尻峠の急坂)

案内書によれば、塩尻峠は石船観音より標高差230m、
道行800mとあるから、およそ3m進むと高さ1mを登ることになる。

それが800m続くと考えただけで進むのが嫌になったが、
進むも地獄なら、退くのも地獄、ここまで来たからやっぱり進もうと、

歩を進める。

200mも進むともう足が動いてくれない。
碓氷峠で山登りは懲りたが、中山道はすべて山の中である、
とは「夜明け前」の藤村の書き出しにある。
少し休憩してまた進む。

そして休憩。

半分も登ったかと思われるころ、
山の上から結構年配の男性が降りて来た。
挨拶をしてこの上はどのくらいあるかと聞くと、もうすぐ峠ですよという。
山家の人がもうすぐといっても、
相当あるんだろうなと訝しがっていると、
その先を左に行ったところにカーブミラーがあるが、
そこから右に曲がって二百歩程度です、という。

見えないカーブミラーまで2百歩はあるかな?
と思いながら、重い足を動かす。
50mも進むとカーブミラーが見えてきた。
あれを越えればあと二百歩か、
ボクの足は一歩が70cmあるが山道では20cmだから
400mもまだあるのかと思うと足はどんどん重くなる。

それでもやっとの思いでカーブミラーのところへ着く。
右に回って二百歩と覚悟を決めて50歩ほど歩くと、
木の枝に覆われていた道が急に開け、広場に出た。
右を見ると記念碑が建っている。馬頭観音、道祖神、など石造群があり、
ひと山向こうに展望台が見える。

どうやら峠に着たか?

と前方を見ると旧中山道はこちらの矢印が見え、道路は下リ坂になっている。
喜びの気持ちを抑え、展望台のほうへ向かう。

英泉画く浮世絵の「木曽街道塩尻嶺 諏訪湖水眺望」にあったような景色が見える。

山間の向こうに諏訪の人家が見え、先に諏訪湖が光っている。

まさに絶景!

撮った写真家(ボクのこと)が下手で、
この気持ちをご覧いただけないのが残念です。
(峠から見た下諏訪。諏訪湖が見え英泉画く浮世絵に似ている?)

山登りはもうこりごりとは言いながら、
この景色を見ると来た甲斐があったと思うのは、
登山家のようないっぱしの感想でしょうか?
(英泉画く浮世絵「木曽街道塩尻嶺諏訪湖水眺望」蕨宿にあったタイル)

浮世絵は諏訪湖を望み、湖面は氷に覆われ左端から氷に亀裂が入っている。
御神渡りであろうか、この亀裂が入るときは轟音が響くと言う。

一度は聞いてみたいものである。




ああ!野麦峠(旧中山道を歩く149)

2008年09月05日 09時10分07秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1

(平福寺山門)

(下諏訪宿5)
旧中山道に戻り、西に向かうと「長地(おさち)」の信号に出る。
その手前の右手に平福寺がある。変額に平福密寺とあり、
山門を入ると正面に本堂、左手に地蔵堂がある。


(平福寺本堂)
(日限地蔵堂)

平福寺の由来によれば、
「地蔵堂は日限地蔵尊(ひぎりじぞうそん)が安置され、
日を限って願いごとをすると、不思議にもその願いが叶えられることから
日限地蔵尊と名づけられたお地蔵様です。
昭和初期のころには製糸工場の女工さんたちの心のよりどころとして、
毎月23日のご縁日は大いに賑わいを見せたと伝えられます。」とある。

飛騨の山の中から野麦峠を越えてやってきた女工さんは,
毎日毎日仕事に追われ、外出など思いもよらないが、
もし地蔵尊にお参りが出来たとしたら、彼女たちは何を願い、
地蔵様はどんな願いを聞き届けてくれたのであろうか?
若し外出が許されたなら、縁日はそれはそれは、
にぎやかなことであったろう。

「ああ野麦峠」より、
(♪工場勤めは監獄勤め 金の鎖が無いばかり
鳥の駕籠より監獄よりも 製糸勤めはなおつらい♪

 工場の寄宿には厳重に鉄の桟がはめられていた。
逃げた女工があれば監視員はいっせいに馬で四方にとび、
各街道、峠、後には各駅をおさえ、たちまちつかまって引きもどされる、
それは文字通りの監獄であった。

 「それでも行かずばならない。
そういうもんじゃと思って歯を食いしばって、
みんなのあとについていったのでございます」)
              (「ああ 野麦峠」より)

女工哀史に登場する女工が身を売り、
公娼になると一番長く続いたといわれるほどである。
製糸工場の女工の仕事のつらさから考えれば、
公娼の仕事がつらいなどと、問題にならなかったと言うことか。

こんな思いをしている女工さんたちには、
日を限って願いを叶えてくれるお地蔵様(日限地蔵尊)がいれば、
心のよりどころになったことは、容易に理解できる。
地獄、監獄といわれた製糸工場だったようであるが、
それでも、岡谷のこの近辺では、
縁日に日限地蔵尊を拝みに来て、
願い事をする自由が本当にあったのであろうか?

他ではそんな自由は許されることが無かったと聞く。
このような困難な女工を足場にして、
外国と肩を並べる通商を日本は進めることが出来、
今の日本の土台が出来たのであろうか?

(こうして搾取して生産した生糸の輸出額は、
総輸出額に対して、
明治元年 66%、 明治五年 50%、 
明治10年 46%、明治15年 51%
明治20年 42% 明治25年  44%。

就業時間は(6月を例にとる)
起床4:05 就業4:30 朝食6:00 就業6:15 
午餐10:30就業10:45 小休憩15:30 就業15:40 
終業予報19:10 終業19:30
就業時間合計14時間20分

食事(甲工場)
4/1 (朝) 香々、味噌汁 (弁当) 芋づる (夕) 葱 揚げ豆腐  (病室)葱 揚げ豆腐
4/2 (朝) 香々、味噌汁 (弁当) 目刺  (夕) 千切り、蚕豆   (病室)玉子、千切り
   (乙工場)
5/1 (朝) 菜漬、若布味噌汁 (昼) 筍、切昆布 (夕)塩鮭 (夜12時) 筍、切昆布
5/2 (朝) 梅干、沢庵、大根味噌汁 (昼)八つ頭の小芋 (夕)焼豆腐、切干 
(夜12時)八つ頭の小芋)

(ああ野麦峠 資料編)より抜粋。

この当時の生糸の輸出額は、総輸出金額の半分弱。
労働時間は14時間、食事は粗末であった。
口減らしのため奉公に出た彼女らには貧しい家にいるよりも、
はるかによき人生を送ったと考えている人のほうが多いという。

避妊用具の無かったこの時代に、人には言えぬ子を身ごもり、
雪の野麦峠を無理して越えることで、子供を流産することも多く、
峠のわき道の熊笹の中にかがんで、産み落とすということがあった。
彼女らは、人に言えず、子をひそかの腰巻にくるんで処理をしたらしい。

そして娘の人生を踏み台にして、
日本の貧しい農家は本当の幸せをつかんだのであろうか? 
娘の労働力で得た外貨で軍事力を蓄え、
シナ事変に突入した日本の政治は、
その後太平洋戦争に向かい、
惨めな敗戦に導くことになったのではなかろうか?
(以上「ああ野麦峠」を読んでの感想)

さて、現実に戻り、旧中山道に戻って西に進むと道筋は、
美しい手入れの行き届いた庭木の緑の中を進むようになる。

女工を使い金儲けをした地元の金持ちが住んでいるのかと疑いたくなるほど美しい。

(緑の美しい町並み)

やがて、20号線と交差する信号を渡ると、
道路は三方向に別れるので、真ん中の道をとる。
約20~30mほど右側の空き地の道路沿いに一里塚の碑がある。
「中山道 一里塚 江戸より五十六里」とある。

五十六番目の一里塚である。






長野県の宝(旧中山道を歩く148)

2008年09月01日 08時37分40秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(諏訪大社春宮に通じる常夜灯と大鳥居)

(下諏訪宿4)
魁塚の前の旧中山道を西に進むと諏訪神社下社(春宮)への参道と交差する。
右手に常夜灯と大鳥居が見えるので判りやすい。
なお直進すると、道路は砥川に突き当たり、旧街道は途切れているので、
右折すると赤い欄干のようなものが見え、富士見橋という信号が見える。


(砥川に突き当たる)


(突き当たりにある中山道右の案内)


(富士見橋の信号が見える)


(富士見橋を渡る)


(見落としそうな生垣の案内板)

信号で橋をわたり、すぐ先の路地を左折、
旧街道が直進すればこの辺りと思われるところまで歩くも、
旧街道らしい道は見当たらない。

うろうろしていると、
右側の生垣に「中山道右」の手作りの矢印看板が目に付く。
道は人一人やっと通れるような道であるが、
旧中山道であったらしいので、進むと広い道と交差する。
道路の向こう側に火の見やぐらが見え、
右を見ると「西大路口」の信号が見える。
富士見橋を渡って真直ぐ西に向かった最初の信号である。


(西大路口の信号)


(火の見櫓)


(中山道の小さな案内)

道路を横断し火の見やぐらのほうに行くと、
足元に「中山道」小さな案内看板があるので、
火の見櫓を左に見て直進する。
すぐ小さな用水路を渡り進むと、静かな町の中に入る。


(用水路にかかる橋)


(静かな町のたたずまい)

しばらくすると左手に岡谷市文化財
「旧渡辺家住宅入り口」の案内標柱があるので、
案内に沿って左折すると右側にわら葺の家がある。


(渡辺家の案内)

岡谷市教育委員会の案内によれば「長野県の宝」と題し、
「渡辺家は、代々諏訪高島藩(*)に仕えた
散居武士(城下町で無く在郷の村に住んだ藩士)の家でした。
安政年中(1854~)の「家中分限帳(=武士の身分や禄高を記録したもの)」によると
「郡方下役外様徒歩18俵二人扶持」(=騎乗を許されない年収約2百万円)であった。
住宅の規模は間口七間半(13,5m)奥行き5間(約9m)で、
外観はかやぶき寄棟造りで、内部は土間と炉の間がある。
また居間には中床がある。
18世紀に立てられた武士の家として貴重な資料である。

この一家から、三人の大臣が出ており、
渡辺千秋は宮内大臣、国武は大蔵大臣、
千冬(千秋の三男で国武の養嗣子)が法務大臣を務めた。」
(岡谷市教育委員会)

(*)諏訪高島藩は、近江高島藩が飛び地で諏訪に領地を持っていた。近江高島藩は現在の滋賀県の高島市にあった。

一軒の家から三人の大臣を輩出したという話はここではじめて聞く。
有能な家柄の住宅であるのに驚くばかりであった。

なるほど、長野県が誇る宝であることに違いない。


(かやぶきの渡辺家)


(渡辺家の庭先の咲く花)