中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

国分寺跡(旧中山道を歩く 269)

2011年09月24日 09時58分57秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(国分寺道の道標)


(左手の教覚寺、山門右側に稲葉石見守の碑がある。)


(赤坂宿7)
国分寺の道標を見て右折。
左手に教覚寺というお寺がある。
ずいぶん立派なお寺である。
門前に「稲葉石見守正休公碑」が建っている。
余り聞きなれない名前であるが略歴を掲げておく。

稲葉石見守正休は、将軍(綱吉)の小姓組番頭から若年寄となる。
若年寄 正休が淀川改修工事の見積もりを4万両としたことに対し、
時の大老 堀田筑前守正俊がこれを過剰として、
別の者に半額で見積もりを立てさせ、
これを採用しようとしたため正休は面目を失い遺恨をもった。

正休は大老・老中用部屋で正俊に挨拶をした後、
用があるといって次の間に正俊を呼び出し
「天下のため、覚悟」と叫びながら脇差で討ち果たした。

その後、老中 大久保なにがしが駆けつけ切りかかったが、
正休は微笑んで無抵抗であった。
しかし、後から集まった者たちに滅多切りにされて即死した。
正休は美濃の国青野藩主であった。
江戸城中、刃傷沙汰の二件目の事件。
青野の城主であったので、ここに碑があるのは理解できた。
三件目は、有名な忠臣蔵の浅野匠頭長矩の刃傷事件である。
まさか「忠臣蔵」を知らない人はいないだろう。
となると、一件目が気にになるところ。

一件目は、豊島明重。
豊島氏といえば武蔵国に一大勢力を張った豪族で、
今でも東京都豊島区など名前が残る名門。
ことの起こりは、時の老中・井上家の長男と、
大坂町奉行・島田家の娘の縁談で、
仲人の労をとったのは明重である。
いよいよ婚儀の日が近づいたとき、
井上家側から今回の話は無かったことにする、
と一方的に破談を申し入れてきた。
しかも、井上家では山形の22万石の大名・鳥居家の娘を迎えると言うもの。
明重の胸中は収まらず、西の丸殿中で井上に出会うや
「武士に二言はない筈だ!」と絶叫し一気に井上を切り伏せた。
留めに入った小姓組の某が羽交い絞めにしてとめた所、
最早これまでと、明重持った刀で自らを刺し、
組み付いた小姓をも田楽刺しにし、二人とも絶命した。

昔の人は、やることがずいぶん荒っぽいですね。
覚悟の上とは言いながら・・・。


(教覚寺の山門から本堂を望む)


(先ほど渡った県道の先に美濃国分寺跡はある)

話が長くなったが、この教覚寺の前を抜けると広々と開けて、
見晴らしが良くなり、先ほどの広い通り(県道)を横断する。
その先に美濃国分寺跡が広がっている。

広々とした国分寺公園の先は青野山になっており、
景色はよいが人一人いなかった。
土、日、祭日には芝生で遊ぶ親子で溢れるのが目に浮かぶ場所である。
国分寺は土手に囲まれており、その土手の上には生垣がある。
国分寺ができた時には、ここに築地塀があったとされる。


(美濃国分寺跡の碑、この左右に築地塀があったとされる)


(築地塀のあったところ、今は生垣になっている)

説明には、
(寺域を区画するため、四囲の築地塀が設けられた。
塀は下部で幅6.2m、高さは3m程と考えられる。
南北と西側には外側に約3mの大溝がめぐる。
復元は下部を土盛芝張りとし、上面に山茶花を植栽した。)とある。
(史跡 美濃国分寺跡)の石碑があるところに南門があったところで、
説明によると、
(美濃国分寺の正門である南門の基壇の大きさは東西19.8m、
南北12mで、東西の中央部から幅6.2mの築地塀が連なる。)とある。

美濃国分寺については、
(美濃国分寺は、
美濃国府(不破郡垂井町府中)や不破の関(関が原町松尾)に近い、
ここ青野ヶ原の景勝地に建立されました。
背後に青野山がひかえ、南は東山道に面して建てられた国分寺は、
わずかに塔跡を残すのみで、地中に埋もれていました。
昭和43年(1968)度から始まった発掘調査で、
伽藍の大部分が明らかになった。
伽藍の範囲は東西230m、南北250m以上で、
周囲には築地大垣をめぐらせていました。――後略)とある。

長いので、概略を述べると、国分寺は仁和3年(877)焼失し、
その後10世紀前半~中頃に再建され、12世紀末にはその機能を失ったらしい。
青野山にある、現美濃国分寺は元和元年(1656)に立てられた物で、
國分尼寺跡は垂井町平尾にあるとのこと。
伽藍配置図を撮って貼り付けて置きます。
この時代の国分寺にご興味のある方は是非お訪ねください。


(伽藍配置図)


(その遺構)

中山道に戻り進むと、左手に中山道一里塚跡の石碑と常夜灯がたっている。
青野ヶ原の一里塚で、江戸から数えて111番目にあたる。

まもなく道路上に見える「中山道」の案内には垂井町平尾とあり、
垂井町に入っている。


(青野ヶ原の一里塚跡)


(垂井町平尾の町並み)


(一里塚から振り返った町の様子)












照手姫伝説「水汲みの井戸」(旧中山道を歩く 268)

2011年09月18日 09時51分36秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(照手姫水汲みの井戸)

(赤坂宿6)
中山道から少し南に入った所に、伝説の水汲みの井戸はある。

説教浄瑠璃「小栗判官」は悲恋物語であるが、
その相手の照手姫についていじめ抜かれた概略を、
伝承地「照手姫の水汲みの井戸」として、
次のように説明されている。

(昔、武蔵・相模・の郡代の娘で照手姫という
絶世の美人がいました。
この姫と相思相愛の小栗判官正清は、
郡代の家来に毒酒を飲まされ殺されてしまいました。
照手姫は深く悲しみ家を出て放浪して、
青墓の大炊長者の所まで売られてきました。
長者は、その美貌で客を取らせようとしますが、
姫は拒み通しました。
怒った長者は一度に百頭の馬に餌をやれとか、
竹篭で水を汲めなどと無理な仕事を言いつけました。
一方、毒酒に倒れた正清は、霊泉につかりよみがえり、
照手姫が忘れられず、姫を探して妻に迎えました。
この井戸の跡は、照手姫が籠で水を汲んだと伝えられる所です。)
(大垣市教育委員会)

今も昔もいじめは変わらずあったのですね。

(水汲みの井戸)

中山道に戻り西に進む。
山に囲まれた田んぼの中を進むと広い通りに出る。
通りの手前に例の青墓の白い杭が立っている。
広い通りを右に行くべきか、直進すべきか迷う所である。
信号はなく、道路の向こうにコンビニがあり、
直進するなら相当な交通量の車の間を見計らって横断しなければならない。
中山道の案内があるのだが、矢印が斜め右を向いており、
広い通り(県道)を進むべきか、コンビニの後ろへ進む道をとるか迷う。

結局、コンビニの後ろへ続く道を選び、道路を注意して渡る。
すこしして、田んぼの中を通る道に「中山道」の案内看板があり、
道が間違っていないことを確認する。

しばらくして、道路右側の田んぼの角に、国分寺道の道標がある。
右折して国分寺跡に向う。


(青墓の白杭)


(広い道路の向こうにコンビ二がある)


(コンビニの後ろの道を行く)


(田圃の中の道を行く)


(国分寺道の道標)






「よしたけあん」の円願寺(旧中山道を歩く 267)

2011年09月13日 10時44分49秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(よしたけあんと円願寺跡の標柱)

(赤坂宿5)
初めに、(∴よし竹 円願寺(*)の白杭のほうに行く。
(*)ここにあった円願寺は焼失したとのこと。

ここには大垣市立青墓小学校による青墓伝説が次のように書かれている。
(牛若丸(のちの義経)が、京の鞍馬山で修業を終え、
金売吉次をお供にし、奥州(今の東北地方)へ落ち延びる時、
円願寺(円興寺の末寺)で休み、亡くなった父や、兄の霊を供養し、
源氏が再び栄えるように祈りました。
その時、江州(今の滋賀県)から杖にしてきたあしの杖を地面に突き刺し、
「さしおくも形見となれや 後の世に 源氏栄えば よし竹となれ」
の歌を詠み、東北へ出立しました。
その願いが仏様に通じたのか、その後、
杖にしてきたよしが、大地から芽をふき根をはりました。
そして見事な枝に竹の葉が茂りましたが、
しかし、根や幹はもとのままのよしでした。
この珍しい竹は、その後もぐんぐん成長し続けました。
それでこの珍しい竹を「よし竹」と呼び、
この寺(円願寺)を「よしたけあん」と呼ぶようになりました。)とある。

この説明版の横に阿弥陀如来像が立っているが、
竹になったよしは生えていなかった。
その左隣に数個の五輪の塔が並んでおり、
ここにも大垣市立青墓小学校の(小笹竹ノ塚)と題して説明板がある。
(青墓にむかし照手姫という遊女あり、この墓なりとぞ
照手姫は東海道藤沢にもだせり、
そのころ両人在りし候や詳(つまび)らかならず。(木曾名所絵図より)

・一夜見し 人の情けにたちかえる
          心に残る青墓の里   慈円(後の慈鎮)

(天台宗座主  愚管抄の作者)とある。

どうも分かりにくいが、次のように解釈できる。
(青墓に照手姫という遊女がいたが、この墓がその遊女の墓であるらしい。
同じ時代に、照手姫は東海道の藤沢にもお墓があった。
はっきりしないが、このころ同じ名の照手姫は二人いたのかもしれない。
(木曾名所絵図に記されている。)と。


(小笹竹の塚の照手姫の墓)

さて、五輪の塔は形を成したものが、五個も並んでいるが、
どれが照手姫の墓であるかわからない。
一番大きなものがそれとしておこう、昔の話しであるし、
作り話であるかもしれないから・・・

少し戻って、「照手姫水汲井戸」の石柱から左へ折れてみると、
民家を一軒通り越して、麦畑の中の前方に、
それらしき森が見える。


(照手姫水汲井戸跡左の石柱)


(照手姫水汲みの井戸がある所)





昼飯(ひるい)と青墓(旧中山道を歩く 266)

2011年09月08日 09時55分33秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(善光寺「晝飯」御憩旧蹟)


(史跡の里 「青墓」町)

(赤坂宿4)
中山道を西に進むと、左手に赤坂宿御使者場跡の石柱があり、
その右手に小山を昇る石段がある。

大垣市教育委員会の案内によれば、
(この墳丘は、関が原決戦の前日(1600年9月14日)、
杭瀬川の戦いに笠木村で戦死した東軍、中村隊の武将を葬り、
その鎧兜を埋めたと伝えられ、
以後この古墳を「兜塚(かぶとづか)」と呼ばれている。)とある。


(兜塚)

その先にある踏切を渡り昼飯町(ひるいまち)にはいる。
しばらくすると、左手のやや奥まった所に大きな古墳が見える。
大塚古墳というらしい。
ここ昼飯町から、その先訪れる青墓町、垂井町にかけては、
沢山の古墳があるようだ。


(大塚古墳)

中山道を進むと、その先右手に「浄土宗 如来寺」がある。
ここに「昼飯町の由来」が出ているので紹介する。

(むかし、善光寺如来という仏像が、大阪の海から拾い上げられ、
長野の善光寺に納められることになりました。
その仏像を運ぶ人が、青墓の近くまで来た時は五月の中ごろでした。
近くの山々は新緑におおわれ、つつじの花咲き乱れる素晴らしい光景です。
善光寺如来を運ぶ一行は、小さな池のそばでゆっくり休み、
美しい景色に見とれました。ここで一行は昼飯(ひるめし)をとりました。
そこから、この辺りを昼飯(ひるめし)というようになりました。
しかし、その呼び名が下品であるというので、
その後、飯の字を「いい」と音読みにして「ひるいい」と
呼ばれるようになりました。でも、「いい」は発音し難いため、
「い」の一字を略して「ひるい」と呼ばれるようになりました。
また、この池は一行が手を洗ったので、「善光寺井戸」といわれ、
記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたということです。)
(大垣市立青墓小学校 (大垣市史青墓編より)とあり、
非常に解りやすくやさしく書かれている。

きっと、これは小学生が「ひるめし」と書くのに、
どうして「ひるい」というのかと、
先生や親御さんに詰め寄って、
自分がわかるように、いろいろ質問するから、
詳しく、しかもやさしく説明がしてあると思われる。


(如来寺とその奥にある「昼飯の由来」)


(如来寺の山門、鐘楼、本堂)

中山道はその先東海道本線のガードがあるが、
その手前右手の広場に(史跡の里 青墓の案内図)がある。
「青墓」には沢山の史跡があり全部見て歩くには、
たっぷり二日ほど必要になりそうである。
ガードをくぐって「青墓」に入る。


(東海道のガード)


(青墓の史跡案内図)

すぐ目の前に、田舎にしては目立つ「史跡の里 青墓町」の
白い標柱が建っている。
道路両側に古い家並みがしばらく続く。
右手の延長寺に石柱があり、
民家の間を抜ける参道があって、その先に山門があるが、
その山門のうえに天守閣のような一室が乗っている。
奇妙な門で、その下をくぐりたくなり、お寺に向う。
山門の上の天守閣の中は、下から見ると、がらんどうで、
ただ門に威厳を持たせただけのように見た。
何か理由があるのかもしれない。

後で調べたら、この天守閣のような、櫓のような山門は、
青野城の大門であったものを移築したものらしい。
青野城藩主は稲葉石見守正休で、
江戸城内刃傷事件の二件目の主犯であった。


(青墓の古い街並)


(延長寺)


(山門に天守閣が乗っている)

話をもどして
その先の右奥に白髭神社があり、
ここにも(史跡の里 青墓町)の白杭があって目立つ。
この杭の左手を奥に進むと圓興寺があり、
国宝 観世音菩薩の石碑が中山道脇に建っていたが、
距離がありそうなので行くのを止める。
時間が在り、興味のある人は訪ねると面白いと思われる。


(白髭神社と青墓の白杭)


(中山道沿いにある円興寺の石碑)


(立派な長屋門)

中山道を先に進むと、右手に立派な長屋門がある。
今時、このような立派な長屋門はなかなか見ることができない。
少し進むと左手の金網のフェンス角に、「照手姫水汲井戸」の石碑があり、
後ろの電柱に「照手姫水汲井戸」は左へと矢印がある。
その10mも先の右手に、目立つ白杭(史跡の里 青墓町)があり、
その杭の右横に(∴よし竹 円願寺)と書いてある。

近づくと、(青墓のよしたけあん)として伝説が書かれている。
その左隣に(小笹竹の塚)とあり、
伝説に伝えられる照手姫の墓がある。


(照手姫水汲井戸の石柱)


(青墓のよしたけあん)







金生山 明星輪寺の「こくぞうさん」②(旧中山道を歩く 265)

2011年09月03日 10時35分52秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(参道脇にある奥の細道の芭蕉の句碑)

(赤坂宿3)
金生山 明星輪寺の「こくぞうさん」の参道に入ると、
左右に沢山の石灯篭が並んでいる。

参道の左脇に、「奥の細道 芭蕉句碑」の看板が目に付く。
脇の林の一段登った所に句碑はある。
碑は金生山産の大湖石(石灰岩)で、芭蕉翁の俳句が右上に刻まれ、
左下に大垣市文化財保護協会が建てた由来を述べている。

右上に、
(・鳩の聲(こえ)身に入(しみ)わたる岩戸哉   はせお)

左下に、
(赤坂の虚空蔵にて
   八月二十八日奥の院      はせお
・はとのこえみにしみわたるいわとかな

芭蕉奥の細道の旅元禄二年の作(漆島所載)を
故吉田門治郎氏の遺志を継ぎここに建碑す。
昭和四十七年秋 大垣市文化財保護協会)とある。

松尾芭蕉は「奥の細道結びの地」として大垣に滞在したが、
その間に、赤坂の「こくぞうさん」に参詣したようである。

「こくぞうさん」は、修験道の開祖 役の小角(えんのおずの)が
朱鳥元年(686年)に開基したと伝えられ、
本尊は小角が岩窟の中に彫ったと言われ秘仏であるという。

参道には「日本三尊佛随一」の石塔がある。
(その三尊とは、伊勢朝熊山の朝虚空蔵、京都嵯峨野の昼虚空蔵と共に、
赤坂の宵虚空蔵といわれている)(大垣市赤坂商工会)
この石塔の奥に山門はある。


(日本三尊佛随一の石塔)

山門には、両側に金剛力士像が安置され、
岐阜県の重要文化財に指定されている。
(檜材を主体とした寄木造りで鎌倉時代の初期の製作で、
仁王像の中では比較的大きい秀作である。
山門右側に阿形(あぎょう)、左側に吽形(うんぎょう)の
二尊が安置されている。)(大垣市赤坂商工会)


(右の阿形(あぎょう)


(左の吽形(うんぎょう)

この仁王像の「阿(あ)」と「吽(ん)」は、「アイウエオ」の「ア」と
「アイウエオ」50音の「ン」を表わしている。
「ア」から「ン」までの間に、
辞書を見れば世の中の凡そ「すべて」が記されているように、
「ア」から「ン」までの、世の森羅万象の「全て」の間を抜けて、
つまり、仁王像の阿形から吽形の間を通り抜けて、
極楽浄土(=天国)つまり本堂への道をたどる。

ここで問題は、阿形が右側、吽形が左側にあることだ。
つまり横書きにした場合、今ボクが書いたように「左から右へ」
「ア」から「ン」が並ぶ所が、
太平洋戦争以前は、横書きの場合、右から書くのが正しかったからだ。
つまり「アイウエオ」は「オエウイア」と右から書くのが正しかった。
ということは、「ア」から「ン」は、
右書きだから阿形が右、吽形が左にあって正しい。

話がそれてしまったが
山門をくぐると、参道の脇に水屋があり、
身を清め本堂に向う。


(水屋)


(子育大菩薩地蔵堂)


(仏像群)


(仏像群2)

途中、国宝 子安子育地蔵大菩薩があり、
沢山の仏像殿があり、見るところは多い。
一番奥に明星輪寺本堂がある。
大垣市重要文化財に指定されている本堂について、
(この本堂は、文久三年(1863)に
大垣藩主戸田氏彬(うじあきら)によって再建され、
日本三大虚空蔵の一つである本尊の虚空蔵菩薩が安置されていることから
「虚空蔵堂」とも呼ばれています。
正面は入母屋造りで、唐破風の向拝が付けられ、
背面は切妻で、本尊が祀られている岩窟を覆う屋根が続いています。
――後略)(大垣市教育委員会)とある。

この本堂は最初慶長十四年(1604)、明暦二年(1656)に再建され、
さらに(1863)に再度建設されたという。
本堂入り口には本尊御前立の仏像が安置され、
奥に岩窟に入る順路がある。
(有料の案内があった記憶である。
秘仏の虚空蔵菩薩には会えるかどうか不明。
投稿者ケンさんのご指摘により訂正。後ほど確認の予定。)

金生山明星輪寺をあとに、
きた道を戻り中山道を西に進む


(本尊御前立の仏像)


(本殿の入母屋造り)


(明星輪寺から見た赤坂の街)