中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

中津川宿2(旧中山道を歩く 215)

2010年11月01日 09時41分00秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2


(四つ目川橋)


(木曽海道69次之内「晴れの中津川」)

(中津川宿2)
中山道はこの先で四つ目川に架かる四つ目川橋を渡る。
妙な名前の川は、中津川宿の中央を流れているが、
昔この川はよく氾濫し、
現在は四番目の川筋であることからその名が付いたといわれている。
川の名前は、土地の名前をとったものが多いが、
四つ目川のように、自然の現象に因んだものも結構ある。
判りやすいのが、長野県の有名な千曲川。
千回も曲がっているから千曲川。
埼玉県の荒川、良く荒れる川だから荒川など。

四つ目川橋のたもとに常夜灯が建っている。
これはきっと四つ目川を渡る場所が旅人に判るように建てたものであろう。
橋のたもとの常夜灯は、日が暮れても歩く、
旅人の目印として建てたようである。



(常夜灯)

埼玉県の本庄市にも橋のたもとに常夜灯がある。
昔は橋がなく川筋が変わって、旅人が何処を渡ったらよいか解らなくて
(難儀をするので常夜灯を建てたい。)
と旅籠に泊っている旅人から寄付を仰いだ。
旅人は朝が早いから寄付を募るのに朝四時頃集金に来る。
自分ひとりくらい見逃してくれと、
貧乏人の小林一茶が日記に残している。
「小林一茶(旧中山道を歩く 70)http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2005/10/ustrongstrongu_8047.htmlを参照」

話を戻す。
常夜灯の先左側に秋葉神社の祠がある。
中津川市の説明では、
(中津川の中心では、
街道の中央を野中の黒沢川から取水した用水が流れていた。
宿内の防火に備えて敷設されたもの。
秋葉神社は火伏の神様で、
秋葉信仰が盛んであったことが伺える。)とある。

街道を歩いてくると、秋葉神社の石塔が散見される。
昔から、「地震,雷,火事,おやじ」と言って、
世間でたいへん恐ろしいとされているものを、
その順に並べていう言葉(大辞林)であるが、
木造家屋ばかりの日本では、
火事は恐れられたものの一つである。


(秋葉神社の祠)

その先に中津川脇本陣跡の碑があり、
脇本陣跡地には、
中津川市中山道歴史資料館(旧NTT)として、
数少ない貴重な資料が展示されている。
また、その向かい側に本陣跡があり、脇本陣の先、
同じならびに明治天皇行在所の碑が、
さらにその先道路向こうに、
江戸時代の中津川村の立派な庄屋屋敷、
庭が残っている。


(脇本陣跡の碑)


(中津川宿本陣跡の碑)


(庄屋の屋敷の碑)


(庄屋の立派なお屋敷)

さらに進むと道路は突き当たり、左折する。
ここが中津川宿の枡形で、古い町並みを残している。
左側に天満屋と旧中川家、右側に川上屋、十八屋、白木屋があり、
天満屋は築150年以上の建物とされ、
天井が低くどの部屋にも明り取りの天窓が着いているという。
また、旧中川家は中津川村や子野村の庄屋を勤め、
昭和30年頃まで、江戸時代の面影を残す帳場があり、
これを舞台に終戦後の映画「青い山脈」のロケが行われたという。

そして川上屋の店先には、右 木曽路、左 なごやの石標があり、
十八屋は中津川の豪商 間家の流れをくむ家で、
元治元年(1864)水戸の天狗党が和田峠で戦をした時、
負傷した若い武士を隠し部屋にかくまったが病死し、
その武士の遺品が今も残されているという。


(川上屋)


(正面から見た川上屋、右手に「右木曽路」の石標が見える)


(石標「左なごや」)

道路は枡形で右折すると、
道路に面して並ぶ古式ゆかしい家並みが続き、
「軒卯建(のきうだつ)」が上がる造り酒屋の見事な家々を見ることができる。
その先右手に常夜灯があり、
さらに先に中津川に架かる中津川橋を渡ると、

中津川宿とお別れする。

2010年5月14日旧中山道を妻籠宿より馬籠宿、落合宿、中津川宿と歩いた。
歩いた距離は約26km、43925歩。
朝8:00出発、JR中津川16:00であるから、およそ8時間の歩行。
JR中津川駅発16:34東京着20:40、帰宅したのは21:30であった。
次回は夏の暑さを避けると、10月になると思われる。
10月1回、11,12月各2回、計5回10日間で何処まで歩けるか?

京都まで行けるだろうか?
楽しみでもある。


(川上屋、十八屋の先が枡形で右折するのが見える)


(造り酒屋の「軒卯建(のきうだつ)」が良く見える)


(造り酒屋を逆から見た図)