中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

名勝 寝覚ノ床(旧中山道を歩く 185)

2009年10月29日 11時21分32秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(寝覚ノ床)

(上松宿4)
蕎麦屋の「越前屋」から道路反対側の臨川寺に向かう。
入り口に入場料大人200円とある。
年配のご婦人が居て、パンフレットを差し出しながら、
(「寝覚ノ床」展望台で美しい眺めが見えます。
浦島太郎が竜宮城から帰って住み着いた場所で、
居眠りをして目が覚めた場所が、「浦島堂」があるあたりで、
「目覚めた所」と言うところから「寝覚ノ床」と言われています。
「浦島堂」まで往復30分ほど掛かります。
また寺の境内にある宝物館もこの入場料でご覧いただけます。)
と説明がある。
そこには浦島太郎が使用した釣竿も展示してあると言う。

展望台から見るとなるほど、木曽川の巨石がごろごろしている。
確かに美しい景観である。
展望台脇に下りの階段があり、
下にはよく整備された公園--寝覚ノ床美術公園--もみえるので階段を下りていく。


(寝覚ノ床2)

その階段を、下から上に上がってくる人も見える。
急な下り階段で、足元に注意をして一歩一歩降りていくが、
一向に登りの人とすれ違わないので目を上げると、
先ほど居たのぼりの人はいない。
さらに下にまた別の登りの人が居るが、
その人たちは階段途中で左へ折れていく。

その左折する所まで降りると、
矢印の看板があり、「木曽路美術館方面」と書いてある。
何のことはない美術館のほうから来れば、
寝覚ノ床に入るのに「臨川寺」で入場料を払わなくてもすむかもしれないのだ。


(臨川寺の入り口)


(臨川禅寺の石碑と紅葉が美しい)

蕎麦屋さんでは、超満員であった人たちが一人も居ないのが不思議であったが、
彼らは先に「寝覚ノ床」を観光したあとと思っていたが、ひょっとすると
「木曽美術館」のほうから来るのかもしれない。
旅行社のツアーなら、一度止まることで「美術館」と「寝覚ノ床」の両方を見せることができる。
河原まで降りることはできないが、間近に観る「寝覚ノ床」の景観は素晴らしい。
浦島太郎が住み着いた理由も分かるような気がする。

中央アルプス県立公園「寝覚ノ床」として、上松町の説明によれば、
(「寝覚ノ床」は、木曽川の激流が花崗岩の岩盤を長い年月にわたって侵食してできたもので、
国の史蹟名勝天然記念物に指定されております。
岩盤に見られる水平方向と垂直方向に発達した方状摂理(割れ目)や
ポットホール(欧穴・対岸の岩にあいた丸い穴)は、日本でも代表的なものです。
また、俳人正岡子規が
「まことやここは天然の庭園にして・・・仙人の住処とも覚えて尊し」と感じ入ったこの絶景は、
古くから浦島太郎の伝説の舞台として有名です。
竜宮城から戻った太郎は、諸国を旅してまわり、
途中で立ち寄った寝覚の里の美しさにひかれて、
ここに住むようになりました。
ある日、昔を思い出して岩の上で玉手箱を開けてみたところ、
中から出てきた煙とともに、
見る見る太郎は三百歳の老人になったと言い伝えられています。
岩の上の松の間にある小さな祠は、
その浦島太郎をまつる“浦島堂”です。)とある。


(寝覚ノ床3、この右上に”浦島堂”はあるが、木が茂って見る事ができない)


(浦島太郎の釣竿)

宝物館で浦島太郎が使った釣り竿も見て、
境内にある芭蕉の句碑には、

・昼顔に 昼寝せふもの 床の山  芭蕉
があり、弁財天堂がある。

上松教育委員会の説明によれば
「尾張藩主 徳川吉通が、正徳元年(1711)寝覚の地に立ち寄った折に、
母堂の長寿を祈願して弁才天堂を建てるよう上松役人に命じ、
翌年完成したお堂です。
現存する上松町の建築物では最も古いもので、
大工棟梁は、名古屋の岩崎治兵衛他四名で
当時の木曾では珍しいお堂の造りといわれています。
石屋は高遠から来ています。」(上松町文化財指定)

浦島太郎の釣竿は文化財に指定されていない所を見ると、
この弁才天堂のほうがきっと価値あるものであろう。


(芭蕉句碑)


(弁財天堂)







尾張藩上松材木役所とおそばの越前屋(旧中山道を歩く 184)

2009年10月23日 09時22分43秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(JR上松駅)

(上松宿 3)
日本橋をスタートして、31日目。

2009年10月20日(火)木曽福島駅前発10:56分発の
上松コミュニティバスに乗ってJR上松駅前に11:12分に到着した。
この日は歩き出す時間が遅いので、約14kmの須原宿まで行く予定である。

駅前から旧中山道の交差点(広小路)を右折し、
次の信号(下町)を通過すると、左手に酒屋があり、
国道に沿った狭い脇道が左手にある。
これが旧中山道。
国道はそのまま右に緩やかにカーブしており、
「上松町」と書いた歩道橋が道路をまたいでいる。

狭い道は登るとすぐ左折してさらに上り、
石垣に突き当たる形でまた右折している。
石垣横のゆるい階段を登ると、道はやや広い道路に合流する。


(酒屋の前の狭いほうの道を行く)


(突き当たる格好で左折している)


(突き当たりの石垣を右折)

長野県の旧中山道は、後でできた道路に寸断されながら進むが、
基本的に両側は山で囲まれ、木曽川の流れに沿って、
またJR中央本線西線に沿って歩くことになる。
旧中山道は、これら後からできた道路や鉄道と合流したり、
遮られたり、離れたりして、
旧中山道を歩く者にとって進む道路を大変複雑なものにしている。
次の宿場までまっすぐ行けば14kmの道のりも、
1.5倍の21kmの長さにしてしまう。
道を少しでも踏み間違えばさらに長さは長くなり、
史跡を訪ねて寄り道をすると、歩く道はさらに長くなる。
しかし、未知の世界を訪ねると、いろんな発見があって楽しみでもある。


(マンホールが見える階段)


(ヒノキの里あげまつのマンホール)

合流する前の緩やかな階段に、
マンホールの蓋があり「ひのきの里 あげまつ」と書いて、
蒸気機関車が煙を吐いて走る絵があしらってある。
こんな階段にどうしてマンホールがあるのか不思議でならない。
下水道が階段下に通っているのだろうか?
いかに緩やかと言えども、
階段にある勾配では一雨あると急激な濁流になってしまうだろうと、
余計な心配をする。

道路先の十字路左手の土手の上に、道路案内と斉藤茂吉の歌碑が置かれている。

・駒ケ岳 見てそめけるを 背後にし
                  小さな汽車は 峡にいりゆく  茂吉 

とある。
案内看板は「寝覚ノ床 1.5km」と右を指している。

その先に上松小学校があり、
手前にある入り口をはいると、左手に中央階段があり、
その奥の右手に藤村文学碑がある。
木曾で藤村は名高い文学者なのだ。

碑文に

「山は静かにして性をやしなひ、水は動いて情をやしなふ 洒落堂の記より 藤村」

と刻まれている。


(斉藤茂吉の歌碑)


(歌碑の文字)


(上松小の入り口)


(中央階段、この右に藤村碑)


(藤村文学碑)

その先左側、上松小のグラウンド脇に「尾張藩上松材木役所御陣屋跡」の石碑がある。
この一帯は、昔材木役所のお屋敷があったところのようである。

上松教育委員会の説明によれば、
「寛文3年から四年(1663~4)にかけて尾張藩は木曽総山の検見を実施し、
その大半が伐られ、尽山も多いことに驚き、
山村代官から山に関する一切の業務を取り上げ
上松の原畑の地に直轄の材木役所を造ったと言います。
この役所は、南北六十五間、東西五十五間で三千五百坪と言う広さです。
また周囲を高土手や丸太で囲い、大砲まで備えた堅固な陣屋でした。
中には、奉行屋敷・東長屋・中長屋・奥長屋があって奉行・吟味役・調役・
目代・元締・同心が常時詰めていました。また陣屋内には、
水天宮・三島大明神・伊勢神宮・熱田神宮・御岳大権現の五社を祀っていました。」とある。

その隣に石の鳥居があり、
階段を登ると小学校のグラウンドを横切った向こう側に神殿がある。
諏訪神社で、この境内に教育委員会が述べている五社神社が祀られている。
小学校のグラウンドの広さが丁度上松材木役所の敷地に見合うもので、
道路より一段高く「高土手の上にある」という表現から、
ここに役所があったように思われる。


(土手の上の上松材木役所陣屋跡の碑)


(グラウンドを越えた向こうの諏訪神社)


(諏訪神社の鳥居越しの街。神社が土手の上にあることが解る)

グラウンドを降りて進むと十字路があり、
直進「寝覚ノ床 1.2km」の案内が左手にあるので突き当りまで進む。
突き当りの向こう側は川になっており、
左折すると「一級河川 中沢」とあり、案内書にある中沢橋である。

登り坂を進むと、人家は少しづつ減って行くが土地は
「北見帰」から「南見帰」へと住所が変わっていく。
人の名もそうであるが、地名ほど読み方が難しいものはない。
「きたみき」「みなみみき」あるいは、
「みなみみかえり」「なんけんき」かと不審に思っていたら、
土地の人らしき方にお会いできたので、
お訪ねすると「みなみみかり」と読むそうである。

そう言えば、バス停に「北みかり」「南みかり」があったのを思い出した。
最近、観光客が増えて、土地に親しみを持ってもらうために、
以前は漢字表示であったものをひらがな表示にしました、
とご婦人が答えられた。

ボクのような観光客に、土地の人は尋ねられて、きっと煩わしかったに違いない。
ついでに「近くにお蕎麦屋さんはありませんか?」と訊ねると、
「この先に「越前屋」というお蕎麦屋と「たせや」と言う民宿がありますが、
その間の道を下って国道の信号に出た右手に蕎麦屋があります」と言う。


(中沢橋)


(如何読みますか?)


(ミカリと読みます)

先に古い二軒の家、手前に「たせや」先に「越前屋」があるが、
両方とも営業しているのか居ないのか、
分からないようなたたずまいであった。
いずれにせよ坂を下ると、正面に寝覚ノ床へ行く途中の「臨川寺」入り口が見える。
国道に出る前の右手に「寿命そば 越前屋」がある。
坂の上の越前屋が国道沿いに出店をしたという感じである。

この「寿命そば越前屋」は歴史が古いらしく、井伊直弼、皇女和宮、明治天皇、
岩倉具定も立ち寄ったという看板が臨川寺にあったが、本当かどうか?
それにしても歴史はあるようである。

さてお値段は「もりそば 1200円」を聞けば、
どんなお店かあとは想像してもらいたい。
そばを戴き、寝覚ノ床に向かう。


(「越前屋」と「たせや」)


(寿命そばの越前屋、正面に寝覚ノ床の臨川寺が見える)


(そばやの店内)


(店内のお品書きもいかにも木曽らしい)











アウシュビッツ(ポーランドを旅して 3)

2009年10月04日 08時58分25秒 | ポーランドを旅して

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(収容所入り口の有名な看板「働けば自由になる」Bの字が逆さまになっている)

(アウシュビッツ2)

アウシュビッツに到着して、
まずガイドの中谷さんをお待ちする数分の時間に、
アウシュビッツ博物館と言う看板を見つけました。
ここが世界に名高い唯一「負の世界遺産」として
登録されている場所であることが分かりました。

第一収容所の入り口に
「働けば自由になれる」鉄製の文字が見える。
この文字も収容所も全て収容され強制労働を強いられた
ポーランド人やユダヤ人によって作られたという。
その文字の「ARBEIT」の内「B」の字だけ
逆さまにしたのが収容された人達の
僅かな抵抗を物語ると言う。
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(イスラエルの旗をかざした少年少女たち)

修学旅行なのか、イスラエルの国旗を持った
ユダヤ人の少年少女の団体を、
あちらこちらで見かけた。

収容者が銃殺刑になった場所で、
イスラエルの旗を手にした一団の
ユダヤ人の少年少女がうずくまっていました。
ガイドの話に聞き入り、
その子供たちの目が涙に潤んでいたのは、
とても印象的でした。
彼らの身内の祖父母がこの強制収容所で
虐殺されたことに想いを馳せてのことと思われます。
これらユダヤ人の一団とすれ違うときは、
緊張しました。
見学している内に、彼らの気持ちが高揚し
「何時暴発してもおかしくない」
そんな雰囲気を感じたのは私だけでは無かったでしょう。

収容所の中は、蚕棚とも思われるような三段ベッドが
びっしり置かれており、
一人で寝るのにはやや大きいベッドでしたが、

説明によれば、
そこに三人で寝たということです。
強制収容所から一人脱走すれば、
残った人が10人処刑されるという仕組み。
しかもその処刑は、食べ物を与えない刑だったといいます。
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(銃殺刑の場所)
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(観にくいがユダヤ人銃殺刑場面の写真)

インドのマハトマ・ガンジーは絶食して
インドの独立を勝ち取りました。
しかし、水は飲んだのです。

アウシュビッツの刑は水も与えられなかったのです。

朽木のように一人また一人と倒れていくと言う、
終戦でかろうじて生きながらえた
「聖母の騎士」コルベ神父の記述です。

コルベ神父は、選ばれた10人の処刑者の中に、

「妻や子ともう一度会ってから死にたい」

と叫んだ一人と身代わりになったのです。

一人また一人死んでいく様を観ながら、
そして自分の意識がなくなり始めたとき、
終戦で救われた神父です。
後年長崎に「聖母の騎士」学校を設立しています。
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(見渡す限り捕虜収容所がある)
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(戦争に敗れたドイツが収容所の証拠を隠すために焼いた収容所の跡)
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(作業に出かける前に座らせたトイレ、ボクなら出すことが出来ない)

アウシュビッツの有名なガス室では、
シャワーを浴びさせるといって、
部屋に誘導し、一日に千人を殺し、
オートメーションさながら、遺体を火葬する。
その設備を、収容された人たちが
作っていた事に思いを馳せると、
いたたまれない気持ちになります。
作業に携わった人たちの心境はどうだったのでしょうか?
想像すら出来ません。

一方で私たちの先輩日本人が、
アジアで同じように行った、
忌むべき出来事を思いおこせば、
私たちは彼らに、どう償っていけばよいのか、
回答を見つけることが出来ません。

さらに、アメリカ人が広島、
長崎に落とした原子爆弾の償いを、
今後、どのように国際社会に広げていけば良いのか?

また、イラク攻撃やイラクへの
自衛隊派遣が果たして正しいのか?

憲法改正の動きがあるが、
戦争を放棄した第九条をどう扱うのか?
私たちに残された課題は大きい。

終戦後、アウシュビッツで虐殺された人
150万人の約一割が処刑されないで
生き残った人がいたことで、
全貌が明らかになりました。

同じ人間がどうしてこんな酷いことが
出来たのでしょうか?
組織の中にいると善いことも、
悪いことも麻痺してしまうのでしょうか?

いろいろ考えさせられる今回の旅でしたが、
豊かで平和な日本にいて、忘れかけていた

「どんな理由があろうとも、戦争は避けるべき」
の認識を新たにした旅でした。
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(満員の列車でここまで来て降ろされた。)
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(降りた人々)
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(持っていた荷物の鞄にはいろいろなことが書かれている)
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(剥奪された義足の山)

(おわり)