中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

平宗盛 斬首さる② (「平家物語 巻十一 大臣殿被斬(おおいどのきらる)」より

2012年03月27日 10時11分10秒 | 中山道番外記
(平家物語 巻十一 平宗盛斬首される②)
前回のつづきで、平家物語の巻十一のボクの勝手な現代語訳です。

京より来た高僧が言うには、
「今はご子息のことをあれこれ考えてはいけません。
仮に最後の様子を清宗さまがご覧になることがあっても、
お互いの心は悲しいものでございましょう。
生まれてよりこの方、栄華を極めた人は、
昔からほんの稀(まれ)にしかいらっしゃらないのです。
ご一門の母方の親族であなた様は内大臣になられたのです。
この世での栄華は何も残る所ではありません。
今このような目に遭われることも、
前世での所業がこの世の報いとなって現れたのでございます。
この世間や他人に恨みを抱いてはなりません。
大梵天が宮殿で深い瞑想の境地に入られる楽しみも、
束の間のものでございます。
まして稲妻や朝露のように、目まぐるしい人間社会では、
生命ははかないのは当たり前の事でございます。
刀利天(とうりてん=欲界第六天中の第二の刀利天は、人間界の百年を一昼夜として、
一千年の寿命を保つと言う。)の億千年も、
ただ夢のように短いものでございます。
三十九歳になられましたが、刀利天にとっては、
その三十九年もたった一瞬のことでございます。
不老不死の薬草を誰かなめた人がいるでしょうか。
誰が、東方の父、西王の母、の命を永らえることが出来ましたでしょうか。
力を世に示した秦の始皇帝は、贅沢三昧で好きなことをしましたが、
不老不死の薬草を手に入れることはかなわず、
ついには離山の墓に葬られました。
また、漢の武帝は若くして即位し、内外に多くの治績をあげ漢帝国を
揺るぎなき確固たるものとなさいました。
そして、同じように不老不死を願い神仙思想に傾倒しましたが、
苔むす茂陵に眠っております。
生あるものは必ず滅します。
お釈迦様でさえ栴檀や沈木による火葬を避けることが出来ませんでした。
楽しみは尽きて終り、悲しみがはじまります。
天上界の天人も臨終には、五衰の日、すなわち、

衣服汚れ、
頭上の花萎れ、
身体は異臭を放ち、
腋には汗流れ、
楽しみは無くなる、

そんな日が来る。」と言われます。
そのように思いなさいませ。

そうすればお釈迦様は観普賢経の経文にある、
「我心自空、罪福無主、観心無心、法不住法
(がしんじくう、ざいふくむしゅ、かんじんむしん、ほうぶじゅうほう)」
と申しまして、
善も悪も空虚なものと思いますが、
まさに仏の御心にかなうものと申されます。

どういうわけで阿弥陀如来は、
気が遠くなるような長い時間をかけて思索をめぐらし、
衆生救済と言う困難な大願を起こされたと言うのに、
我らはそのことに気づかず、億万年の長い長~い間生死をくり返し、
宝の山に入るも、何も得ることなく、
空しく宝の山を出てくるようなことをしているのです。
これ以上の恨めしいことはなく、
これ以上愚かなことは無く、
愚かな上に愚かで、こんな口惜しいことはないではありませんか。
どんなにことがあろうとも、浄土を願う思い以外に、
決して雑念を起こしてはなりません。」
と仏の定めた戒律を授けて、
お諌め申し上げ、ひたすら念仏をするようお勧めした。

内大臣宗盛は名のある聖ー仏門の導き手ーのお話と思い、
今まで生き延びることばかり考えていたが、
即座に迷いの心を翻して、西方浄土に向って手を合わせ、
声高らかに念仏をなさっている所へ、
橘右馬允公長(たちばなうまのすけ きんなが)は、大刀を引き寄せ、
宗盛の左から後ろへ立ち回り、すぐにでも斬首の用意に身構えると、
内大臣宗盛は念仏をやめて、
「息子の右衛門督ももう斬られたのか」とお聞きになったのは、
本当に哀れなことでございました。
公長が宗盛の後ろへ回り込むように見えたので、
宗盛は、往生の作法に従い、首を前に出し下を向いた。

鎌倉より呼んだ聖も涙を流された。
勇猛の武士も、この場に及べばいかにも憐れと思わずにいられない。
まして公長は平家譜代の家人であった。
新中納言 平知盛のもとで、朝晩側近く仕えた人である。
「いかに世間にこびるのが常とはいえ、ただ単に情けなしと思えるものか」
と、周りの人は心恥ずかしく思った。

その後、右衛門督 清宗にも、聖は父親 宗盛と同じように、
浄土への道への心構えを説き、
念仏なさるようお勧めした。
「父 内大臣殿は、どのようなご様子でしたか」と
お聞きになったのは、子の思いとして、いとおしいものであった。
「立派なご最期でございました。。ご安心なさいますよう」と話を聞くと、
悦んで涙を流し、
「今はもう思い残すこともありません。では、早く斬るように・・・」と申された。
今度は堀弥太郎が斬って落とした。

二人の頚を持たせて、九郎判官義経は都へ入った。
遺骸は公長が宗盛の希望で父子一つの穴に埋めた。
人の罪劫は、罪深ければ、父が子をこれほど離れがたく思うものだろうか。
その希を叶えて、一つの穴に葬った。

同じ6月の23日、
内大臣殿 父子の首が都に入る。
検非違使ども、三条河原に出てこれを受け取り、
都大路を引き回して、
西洞院の西にあった左獄の門前にある
樗(おうち=栴檀のこと)の木にかけられたのでございます。。

昔より三位以上の人の首は、都の大通りを引き回して、
獄門にかけられることは、異国ではいざ知らず、
わが国では前例を聞いたことがない。

例えば、平治の乱の首謀者 藤原信頼は、あれほど悪名高き人であったのに、
首を刎ねられたが、獄門にはかけられなかった。
獄門にかけられるのは、平家になって始めてのことでございます。
西国より都に入り六条から東へ渡され、
東国から帰っては、死んで三条の橋を西へ渡らせられた。
生きての恥、死んでの恥、いずれ劣らず憐れなことでございました。

                    (おわり)


平宗盛 斬首の地① (「平家物語 巻十一 大臣殿被斬(おおいどのきらる)」より

2012年03月22日 11時00分40秒 | 中山道番外記

0114
(義経元服の池の碑)
0115
(元服の池の説明板)

(武佐宿)
旧中山道を行くと武佐宿の鏡の里に、「源義経元服の池」がある。
その正面に「かがみの里」という道の駅があり、
旧中山道はこの先で左折する。
旧街道らしい雰囲気の道が少し続く。

左手にガソリンスタンドを見て、旧道は国道8号線に合流するが、
合流する手前に左へ入る山道があり、
「平宗盛胴塚跡」の看板があり、左方向を指している。
左へ入る狭い山道がそれである。
0122
(平宗盛胴塚の案内)
0127
(胴塚への山道)

山道を少し入ると、薄暗い森の中に大小二基の石塔が建っている。
「平宗盛・清宗父子」の胴塚である。
平宗盛・清宗父子の最後については、
「平家物語」に詳しく記されているというので、
「平家物語 巻十一 大臣殿被斬(おおいどのきらる)」を、
図書館で読みましたので紹介したいと思います。

なお、現代語訳は筆者の独断、気ままな訳です、
読み難いでしょうが、どうぞお許しを願います。

平家物語の大臣殿被斬(おおいどのきらる)にある、
大臣殿(おおいどの)は、
平清盛を父に持ち内大臣であった宗盛を指しています。
巻十一 大臣殿被斬(おおいどのきらる)は、
平宗盛が斬首された場面です。

0123
(胴塚)

それでは現代文訳をどうぞ!

「平家物語 巻十一 平宗盛斬首される。①」
鎌倉殿(頼朝)は、平宗盛に対面するに当たり、
自分の居場所から中庭を挟んだ向かい側の棟に、
宗盛の座所を設け、そこに控えさせた。
頼朝は自分の場所から簾越しに宗盛を見て、
比企藤四郎義員(ひきのとうしろうよしかず)を通じて言うには、

「平家の人々には、特別な恨みがあるわけでは、決してありません。
清盛殿の継母で尼になっておられた方が、
私、頼朝助命の嘆願に どんなに力を尽されようとも、
故清盛入道殿のお許しがなければ、
この頼朝が許されることはなかったのに、
流罪に軽減されて、命は助かったのです。
なんと言っても清盛殿のお陰であって、このご恩は忘れません。
そうこうして二十余年過ぎましたが、平氏は朝敵となり、
天子の院宣により追討するよう命じられた頼朝には、
天子が治める時代に生まれた身で、
むやみに命令に背くことが出来ません。
自分の力が及ばず、このようにお目見えすることは、
はなはだ不本意でありますが、
止むを得ないことに存じます。」と申された。

このことを伝えるために、義員(よしかず)が平宗盛の前へ参ると、
宗盛は居ずまいをただし、かしこまった態度をとられた。
今は、いかに囚われの身とは言え、
もとはと言えば内大臣であられたお方が、
哀れで、このようなしぐさをされるのを、
とても情けなく見てはいられない。

周りには、各国の諸大名が並みいる中には、京都の者も居り、
中には平家の家人であった者もいたが、
すべての人が知らん顔で言うには、
「居ずまいをただし、恐れ多いと畏まりさえすれば、
お命が助かると思っておられるのだろうか?
西国の壇ノ浦で最期を遂げるのが筋なのに、
生きて捕らえられ、
ここ鎌倉まで下ってこられたのだから仕方がないことだ。」という。

中には涙を流す人もいて、そんな中の人が言うには、
「(猛虎が深山にあるときは、百獣振るえ恐れおののき、
折の中に入れられると、尾を振って餌を欲しがる。)と故事にあるように、
いかに猛けき大将軍と言われようとも、
このように囚われの身と成っては、
気持ちも改まって、内大臣であったことも忘れ、
宗盛様でさえもこうせざるを得ないのでしょう。」という人もあるとか。

このような中、九郎判官義経はさまざまに釈明なさったが、
梶原景時の讒言により、
鎌倉殿(頼朝)からのはっきりした返事もなく、
「急ぎ京へ上るように」と言われたので、
平宗盛父子をお連れして、京の都へ帰って行かれた。

内大臣、平宗盛は鎌倉で処刑されると思っていたのに、
京へ帰れとの仰せで、少し命の日数が延びたことを、
うれしく思われた。

道中も、処刑されるのは、この国で処刑されるだろうか、
いやこちらの国であろうといろいろ思案されたが、
何事もなく国々を通過し、宿場などをも通り抜けていく。

尾張の国(今の愛知県)内海(うつみ)というところに差し掛かる。
ここは故左馬頭(さまのかみ)義朝が殺された所であるから、
ここで処刑されるかもしれないと思われたようだが、
そこも何事もなく過ぎたので、
内大臣平宗盛どのは、心の内で少し安心されて、
「さては命が助かるかもしれない」と仰るなど、
いかにも虚しく哀れなことでございました。

宗盛の息子 右衛門督 清宗(えもんのかみ きよむね)は、
「どうして命が助かることがあろうか、
このように暑い時季であるから、
斬首した首が痛まないよう、
京に近くなってから斬ろうとしていることが、
父上はお分かりにならないのだろうか」と思われたけれど、
父上の内大臣殿が、
ずいぶん心細く思っているようにみえたので、
気の毒に思い話はされませんでした。
そしてただただ念仏だけを唱えられた。

日数が経ち、京の都が近づいて、
近江の国篠原の宿に一行は近づいた。

判官義経は情け深い人であったので、
京までの道のりで、あと三日という所に来て人を遣わし、
囚われ人に仏法の解脱を得させんために、
大原の本性房湛豪(ほんしょうぼう たんごう)
という高僧を招いていた。

昨日までは、親子一所においででした宗盛父子を、
今朝より別々の場所に引き離されました。
「そうか、今日が最後になるかもしれない」と
内大臣宗盛殿はずいぶん心細く感じられたようです。

宗盛殿は涙をはらはらと流されて、
「そもそも右衛門督(えもんのかみ)清宗はどこにいるのか。
たとえ首を刎ねられても、息子清宗とは手と手を取り合ってでも、
遺体は一つのところに埋めてもらいたいと思っているのに、
生きながら別れ別れになるのは大変悲しい。
十七年の間、一日一時も離れたことがなかった。
海底に沈まず死ななかったことで、
悪い評判を西海の波に流したのも、
あの清宗を案じてのことだったのです。」
と言って涙を流されると、
京より来た高僧も哀れに思われたが、
自分がこんな時に気が弱くては、
自分の務めが出来ないと思い、
涙をぬぐい、素知らぬ顔をして宗盛をもてなした。
               (つづく)
0128
(首洗い池)




義経元服の池と平家終焉の地(旧中山道を歩く 311)

2012年03月18日 10時47分11秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3



(信号「鏡口」で道路を右側に移る。)

(武佐宿 3)
「源義経元服の池」など道路の右手にあることが分かっているので、
鏡口の信号を渡り道路右側に移る。

中山道は登り坂になっており、車の多い国道8号線を行く。
間の宿を表わす古い建物が続き、少し右に道路がカーブする先に、
鏡神社が右側にある。
(神殿は階段を登った少し高い所にあるが、
南北朝時代の建築で国の重要文化財になっている。
万葉時代の女流歌人として名高い「額田王」の父であるとされる、
鏡王が神官を勤め、
天日槍(あめのひぼこ)を祀られた神社である。)
(竜王町観光協会)とある。


(国道8号線は間の宿らしい建物が続き上り坂)


(鏡神社入り口、左手の屋根が烏帽子掛けの松の幹)


(鏡神社の鳥居)

(*)筆者注:天日槍(あめのひぼこ)は古事記に次のようにある神話の主人公。

ヒボコの神話は以下の通り、
(昔、新羅の沼で女が昼寝をしていると、
その陰部に日の光が虹のようになって当たった。
すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。
その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、
肌身離さず持ち歩いていた。
ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、
アメノヒボコと出会った。
ヒボコは、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。
男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、
男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、
ようやく許してもらえた。
ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、
玉は美しい娘になった。娘はヒボコの正妻となった。)

鏡神社参道へ少し入った所の左側に、
松の切り株に屋根を付けた幹だけが残っているが、
これは「源義経 烏帽子掛けの松」として残っているもの。
鏡神社のせつめいでは、
(この先の池で元服した牛若丸は、
この松に烏帽子を掛け鏡神社へ参拝し、
源九郎義経と名乗りを上げ、
源氏の再興と武運長久を祈願した。――後略)とある。


(源義経 烏帽子掛けの松)

向かい側に(鏡の里)の道の駅があり、
道の駅の斜め向かいに「義経元服の池」がある。
残念ながら、池は干上がっていて空であるが、
元服の池の石碑もあり雰囲気はある。

鏡の里保存会では元服の池について、
(平安時代 東山道 
源義経 元服池、東下りの途中、
当鏡の宿にて元服加冠の儀を行う。
その時に使いし水の池なり)とある。


(道の駅 かがみの里)


(源義経 元服の池)


(水が干あがってそこが見える元服の池)

旧中山道は、なおも上り道であるが、途中左へ入る道路がある。
車は午前七時~九時まで左折進入禁止の場所である。
左折すると道路はくだりになり、左手に「明治天皇聖跡」の碑が
小さな公園の奥にある。
数百メートルの家並みが残り、旧中山道らしい面影がある。
道路の右脇に旧中山道の案内があり、
旧道をよく残している場所であることを説明している。
道路は、さらに下り道で、先の左手にガソリンスタンドがあり、
国道8号線に合流する。


(車は朝だけ、「左折禁止」の道路を左へ行く)


(「明治天皇聖跡」の碑)


(旧中山道らしい道)


(旧中山道の旧道らしさを残す道)


(ガソリンスタンドで国道8号線と合流)

合流する手前左手に「平宗盛胴塚→」の案内があるので、
細い山道を中へ入っていく。
奥まった所に、「平宗盛卿終焉」の地の石碑が建っており、
大小二基の石塔が並んで建っている。

脇に野洲観光物産協会が(平家終焉の地)と題した、
説明があるので紹介したい。
(平家が滅亡したのは壇ノ浦でなく、ここ野洲市である。
平家最後の最高責任者平宗盛は源義経に追われて、
1183年一門を率いて都落ちをした。
西海を漂うこと二年、
1185年壇ノ浦合戦でついに破れ、
平家一門はことごとく入水戦死した。
しかし一門のうち建礼門院、宗盛父子、
清盛の妻の兄平時忠だけは捕らえられた。
宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまで下ったが、
義経は兄頼朝に憎まれ追い返され、再び京へ戻った。
途中京都まであと一日ほどのここ篠原の地で、
義経は都の首を持ち帰るため、
平家最後の総大将宗盛とその子清盛を切った。
そして義経のせめてもの配慮で、
父子の胴は一つの穴に埋められ塚が立てられたのである。
――中略――
現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池があり
この池で父子の首を洗ったと言われ「首洗い池」、
又は、あまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから、
「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている。)
今もその池はあるが、
自動車道などに削られて小さくなっている。


(「平宗盛胴塚→」の案内)


(山の中へ入る細い道)


(平宗盛胴塚は暗くてよく撮れなかったが見えますでしょうか)


(蛙なかずの池の説明板と後ろに見える二基の胴塚)


(前にある首洗いの池、又の名を「蛙なかずの池」)

下り坂の国道8号線を進むと、
左手に(一里塚跡は土手の下」の案内があるが、
土手の下をのぞいても一里塚らしい案内標識も、また塚も見えない。
しかしこのあたりに一里塚あったのであろう。
残っていれば126番目の一里塚のはずである。
滋賀県には一里塚らしいものはこの先に一つしかない筈である。


(「一里塚跡は土手の下」の案内)


(土手の下は別の用水池があって他に何も見えない)

坂を下りきったあたりに、(浄勝寺前)の信号がある。
旧中山道はここから国道8号線と別れ、右の狭い道に入る。
数百メートルでまた国道8号線に合流する。
途中、大笹原神社の石柱があり、地蔵堂もある。


(浄勝寺前)の信号)


(右の狭い道)


(大笹原神社の石碑)


(国道8号線と合流前の地蔵堂)

国道8号線に合流すると左側に土手があり、
土手の向こう側には池があり「西池」という。

土手は8号線に沿って500m近くある。
西池はかなり大きなものである。


(西池の土手)


(西池)

次回は、琵琶法師に語りつがれた「平家物語」の「平宗盛斬首さる」の一節を、
現代文に訳しましたので、紹介します。








浮世絵「木曽海道六拾九次之内 武佐」(旧中山道を歩く 310)

2012年03月14日 10時10分31秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(馬渕町の信号)


(住宅の間を抜ける)


(近江牛のお肉屋さん前の信号も直進)


(回りは水田地帯)

(武佐宿 2)
馬渕町の信号を右折すると、住宅街の中へ入り、
住宅が切れると回りは水田地帯となる。
およそ1km先は東横関町となり、日野川の堤防に登っていく。
昇りきったところに、本来は川の流れが見える所であるが、
竹藪が生い茂っていて、何も見えない。


(東横関のバス停)


(日野川の堤防)


(広重が武佐を描いた場所)


(広重描く浮世絵「木曽海道六拾九次之内 武佐」)

案内書によると、広重の浮世絵「木曽海道六拾九次乃内 武佐」は、
この地点から対岸にかけて描かれているらしい。

広重美術館の説明によると、
(――前略――武佐宿を出たところには、横関川(日野川)があり、
さらに行くと善光寺川があった。
広重が描いた川は、横関川であろうとされているが、
中井川と言う説もある。
二艘の船をつなぎ止め、その上に板を渡して仮橋としている。
「中山道分間延絵図」や、太田南畝の随筆「壬戊紀行」には、
横関川の記述として、「舟橋をして渡る云々」とある。
重い荷物を背負っているからか、
おぼつかない足取りの老人の姿が橋の中ほどに見られる。
船をつないだ仮橋は渡りにくかったことだろう。
対岸からこちらに渡ってくるのは巡礼の夫婦か。
生い茂る葦は、湖岸近くの風情をよく示すものである。)とある。

昔は舟渡しであったところに明治から何度か橋が架けられたが、
昭和12年近代的な横関橋がこの上流にかけられ、
渡しがあった場所の橋は撤去されたという。
旧中山道は対岸にあるはずで、
そこへ出るには左へ迂回して横関橋を渡らなければならない。
横関橋を渡り、土手を対岸と思われる所まで進む必要がある。

横関橋を渡るために、土手を左方向に進む。
舗装されていない土の道である。
やがて見えてきた横関橋を渡ると、
橋にある歩道は昔の橋の一部と思われ、かなり幅広い。


(土手の道、広重の浮世絵に似せようと木を入れて撮る)


(川の水が見え、左の横関橋が僅かに見える。)


(横関橋)


(横関橋の歩道部分は広い)

橋を渡り終えたところに右に入る道があるので、
右折して対岸の土手を歩く。
今度は舗装してある。
道路はやがてY字路になるが、右は土手の上を行く土道である。
どちらへ進むべきか迷ったが、今度は堤防から離れていくはずであるし、
今まで舗装路であったから、左の舗装がしてある道をとる。
左手は遠くに見える国道8号線まで水田地帯である。
道順が正しければ、右手に若宮神社が見えてくるはずで、
期待しながらしばらく歩くと、右手の奥に若宮神社を見つけ、
ここが対岸地点と推察し、
とりあえず道順は正解であったと安堵する。
どんどん進むと変則十字路に出る。
突き当たりに地図があるが、
分りにくい地図で、どちらへ行くべきか考える。
夏と違いPM15:30の時刻では、山道でもないのに、
回りは少し薄暗くなっている。
ここは国道8号線へ出られるよう、
右斜め(直進と書くのが正しいかも)の道をとる。


(橋を渡り終えた対岸は竜王町)


(橋のたもとを右折)


(二又道は左へ)


(左手は水田)


(若宮神社)


(民家の間を抜ける。)


(変則十字路に突き当たる。少し薄暗い)

これも正解で、国道8号線(西横関)の信号に出る。
信号角に道標があり「是よりいせ道 ミなくち道」と刻まれている。
道の字が変体仮名で書いてある。
古文書講座で覚えた道の字である。
それにしても、どの道が伊勢であり、水口道かわからない。
薄暗くなってきているし、車の数が多くて、
道路端を歩くのも恐ろしいくらい。
しかし方向としては国道8号線を行けば間違っても守山方面に行けると思い、
右方向へ進む。


(西横関の信号)


(信号角の道標)


(古文書講座が役立った道の字)

多くの車におびえながら8号線を行く。
善光寺川を渡り進むと、左に日本ペイントの建物がある。
案内書ではペンキ屋手前を左へ入るとある。
ぺンキ屋の名前が書けなかったのであろう。
ここを左折して進み、すぐまた国道8号線出でる。
出たところが(鏡口)の信号、バス停のあるところ。
昔、間の宿であったと案内書にある。
(鏡神社・義経元服池)の案内もある。
これで旧中山道の方向は正しいことがわかった。


(車の量が多い)


(ペンキ屋手前を左折)


(合流地点(鏡口)の信号にある案内看板)

(鏡)の間(あい)の宿は、よく整備されていて、
江戸時代の屋号や職業がよく表示されている。
旅籠亀屋跡、旅籠京屋跡、後で出てくる義経宿泊の館跡等、
鏡の宿本陣跡(元祖林惣右衛門則之という)詳しい案内が目に付いた。
自治体の中山道に対する興味の深さを感じる。

義経は鞍馬山から金売り吉次とともに、この地に宿泊した。
その夜、野盗がおし入ったが、
ことごとく義経がこれを退治した逸話が残る。


(旅籠亀屋跡)


(旅籠京屋跡)


(義経宿泊の館跡)


(本陣跡)

国道8号線は登り坂になっている。
すぐ右手に天台宗真照寺があり、その先に源義経宿泊の館跡の碑がある。
京の鞍馬山で修行した遮那王(牛若丸)が奥州平泉へ向う途中、
鏡の宿に泊った場所である。
(この宿は白木屋と呼び澤弥伝と称し駅長であった。)とある。(鏡の里保存会)
中山道はなお登り道になるが、進むと右手の畑の前に駐在所跡の碑がある。
鏡の里保存会の説明を要約すると、
(明治14年から近江八幡警察署鏡分署として開設され、
明治22年武佐警察署下鏡巡査駐在所となり、
昭和30年まで使用されていた。)とある。

この先に鏡神社がある。


(中山道は長い上り坂)


(源義経宿泊の館跡の碑)


(駐在所跡)







住蓮坊首洗いの池(旧中山道を歩く 309)

2012年03月11日 11時43分53秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(水田地帯を約2km歩く)

(武佐宿)
2km弱何もない田舎道を歩くと、
道路右側に(大門跡)の案内板がある。
大門跡とは見付跡と同じようなもので、
宿場の入り口を指す。
その先に武佐神社がある。
その先に高札場跡の案内もあり、
高札場も武佐宿の入り口あるべきものである。
高札は、領主や宿場がその決まりを表示するもので、
宿場の入り口に置かれるものだからである。
宿場に入る旅人は、これらの決まりを読むために、
笠を取って読み、高札を管理するのは庄屋の仕事であったから、
字の読めない人には、読んで聞かせるような事もした。


(大門跡)


(武佐神社の石の垣根)


(武佐神社)


(高札場跡の案内)

武佐神社の先左側に「明治天皇御聖蹟」の碑があり、
その右手にある参道を行くと、左側は石垣になっており、
突き当たりに「明治天皇行在所」の石碑がある。
左手を見ると山門があるが、その手前の石垣の上に、
「後光巌天皇臨幸旧蹟」の碑がある。
(*)後光巌天皇は、南北朝時代の北朝初代天皇。


(「明治天皇御聖蹟」の碑)


(参道と思われる。この奥に「明治天皇行在所」の石碑がある)


(「明治天皇行在所」の石碑)


(山門)


(石垣の上の「後光巌天皇臨幸旧蹟」の碑)


ここは広済寺といい、由緒を要約すると、
(これは康安元年(1361)後光巌天皇が60日間の滞在をされた。
また明治天皇については明治十一年(1878)北陸巡幸の折、
ご昼食の場所となった。)(広済寺)とある。
ずいぶん由緒のあるお寺である。

この先右側にある冠木門は、武佐宿の脇本陣跡で、
今は武佐町会館となっている。
その向かい側に旧八幡警察署武佐分署庁舎が有形文化財に登録され、
昔懐かしい建物が建っている。
その先で(武佐町)の信号を越えると、
1989年に武佐小学校生徒が卒業記念に作った案内看板が、
武佐宿の重要な歴史的建造物を描いている。


(脇本陣跡の冠木門)


(警察署跡の建物)


(武佐町の信号)

まず初めに、武佐宿の伝馬、人足の取締役を兼務していた米、油の商人
大橋家が左手に、
ついで伝馬所跡(駄馬、人足を常置した所)が郵便局に、本陣跡、
次いで松平周防守陣屋跡が左手にあり、愛宕山の常夜灯と共にある。
その先、右手には常夜灯と共に高札場跡
(おきてを書いた札をかかげたやぐらのところ)、
等など卒業生が記念に造った案内は、
郷土の歴史を明らかにした名作と言えよう。


(武佐小学校の作成の案内)


(大橋家)


(伝馬所跡)


(伝馬所跡の郵便局と書状集め箱)

(本陣跡)


(松平周防守陣屋跡)


(陣屋跡と愛宕山の常夜灯)


(高札場跡、小学生が作った案内)


(高札場跡)

道路は近江鉄道の武佐駅に突き当たり、
右折しすぐ左折すると踏み切りになる。
踏み切りの500mほど先に大樹が伸びて枝を広げている。
大樹の手前、少し奥まった所に、若宮神社があり、
大樹の根方に、伊庭貞剛宅跡の広大な敷地が、
中山道に面して今は公園になっている。


(武佐駅)


(踏み切り)


(大樹が見える)


(若宮神社)


(伊庭貞剛翁 生誕地)

伊庭貞剛について
(近江健康文化友の会・財団法人ハートランド推進財団)
の説明が英訳と共にあり、

要約すると次の通りである。
、(伊庭貞剛はここ近江八幡市西宿生まれ、21歳で剣の免許皆伝となり、
明治元年(1868)招かれて京都御所警備隊士となる。
明治十年(1878)大阪上等裁判所判事となる。
明治十三年(1881)住友家に入社し大阪本店支配人となる。
明治二十四年(1894)煙害問題解決のため、四国別子銅山支配人になる。
五年後別子銅山の煙害問題に目途をつけ別枝を離れる。
明治三十三年(1900)住友家総理事に就任するも58歳で職を辞し隠退する。
大正十五年80歳の生涯を閉じ、西宿に眠る。)
そうそうたる経歴の持ち主である。
屋敷址は広大で今は公園になっている。

この先約500m(西宿町)の信号で国道8号線に合流し、
8号線を走る自動車におびえながらかなり歩く。
やがて六枚橋のバス停があるところ、ガソリンスタンド手前で左折し、
すぐを右折する。
角に(南無阿弥陀仏)と刻まれたお墓様なものが建っており、
その手前に(中山道)と小さな標識が右折を示している。


(西宿町の信号、国道8号線に合流する)


(国道8号線の自動車)


(六枚橋バス停)


(最初の右折箇所、「中山道」右の案内あり)

右折するとすぐ右手に歯科医院の看板があり、その先に歯科医院がある。
歯科医院前を通り過ぎて、左は田圃でちょっと先にバス停があり、
石碑が建っている。刻まれた文字は読み難いが、
「安楽坊・住蓮坊墓」と読める。
このバス停の先右手に小公園があり、「住蓮坊首洗い池」の看板があるので、
中へ入っていくと、竹の柵で囲まれた池らしきものがある。
池らしきと書いたが、実は水がなく、底が干上がっていて沢地になっている。
脇に「住蓮坊首洗い池」の石碑がある。


(歯科医院)


(バス停と住蓮坊・安楽坊の墓の碑)


(住蓮坊首洗いの池の公園)


(首洗いの池)

(住蓮坊首洗いの池の碑)

千僧供町街づくり委員会の説明を要約すると、
(住蓮坊・安楽坊は、鎌倉時代前期の僧侶、法然上人の弟子であった。
従来の仏教と比べ念仏を唱えれば極楽往生できるという教えであったので、
信者は爆発的に増えた。
時の帝(後鳥羽上皇)の二人の女官が住蓮坊・安楽坊に帰依し、
尼になってしまった。
それを知った帝が住蓮坊・安楽坊を捕え処刑した。
その首を洗ったのがこの池である。)とある。

今考えると側室が尼さんになったくらいで、
入信させた坊さんの首を刎ねるのは、理解しがたい。
第一、側室二人くらい何をしようと、
別の側室を新規に抱え込んだ方が良さそうに思うが、
それはボクだけの男の身勝手と言うものだろうか・・・

この公園を出て中山道を行くとすぐ国道8号線に合流するが、
合流地点に(安楽坊・住蓮坊)墓とあるようだが、石碑がある。
(よく読めないので、間違っているかもしれない。)
バス停脇の案内と言い、どこか近くにお墓があるに違いない。
石碑の向こうは水田地帯である。


(国道8号線との合流地点)


(「住蓮坊・安楽坊お墓」の碑)

白鳥川を渡って約1km行くと、
左手に(具足山妙感寺)の石碑と(近江八幡警察署馬渕警察官駐在所)が、
それを通り過ぎると、(馬渕町)の信号にでる。
信号左手は(フジファミリーショップ)があり、
右手には自動車修理工場がある。
信号の先がY字路で、右かどに八幡神社があり、
そこには高札場跡があった。

中山道はY字路を右に入る。

(白鳥川)


(具足山妙感寺)の石碑)


(駐在所)


(馬渕町の信号と右手の自動車屋さん)


(信号左かどのフジファミリーショップ)


(信号先のY字路を右へ)


(右手の八幡神社)


(鳥居脇の盗撮場跡の碑)

(*)住蓮坊・安楽坊のお墓は、聞くところによると、
国道8号線六枚橋の信号を左折して、
約1kmの所にあるという。(確認してありません)















感動した小さな親切(愛知川宿外れのショップ)(旧中山道番外記 25)

2012年03月08日 10時23分56秒 | 中山道番外記

0086
(五個荘町の常夜灯の道標)

(愛知川宿―武佐宿)
「泡子延命地蔵御遺跡」を過ぎた旧道は坦々とした田舎道で、
時間もそろそろお昼近くになった。

気をつけないと持病の糖尿病で低血糖症状を起こしかねない。
低血糖症状を知らずに進むと昏睡状態になって倒れる恐れがある。
そうなってはこの誰も知人が居ない地方の田舎道では、
救急車もおぼつか無い。

食べるものは、飴やら、クッキーやら、リュックの中にあるから、
取り出して口に入れれば良いが、
昼飯らしきものが食べたいが、沢山は食べられないのが不便である。
せいぜいお蕎麦くらいが丁度良いが、蕎麦屋さんは見当たらない。

それどころかお昼ごはんが食べられるような、
お店さえ見つけることが出来ない場所である。
いつもなら電車を降りると、
駅にあるキオスクでおにぎりを購入するのだが、
今日は買うのを忘れてしまった。

少々焦りながら歩くと、
左手に、東京ならコンヴィニエンス・ストア、
田舎ではショップと呼ぶお店があった。
ガラス越しに見るとパンも置いてあるし、
何かお弁当もありそう。

大変失礼だが、この田舎でお弁当を買いに来る人があるのか、
疑いたくなるようなお店である。
ボクにとっては大変便利な、好都合なお店ではあるが、
それでもやはり儲けがあるかどうか、少し心配である。
これで本当に商売になるのだろうかと、疑心暗鬼であるが、
ボクにとっては大変有り難いお店であった。

ガラス戸をあけて入ると、陳列棚にアンパン、クリームパンなどなど、
他にも糖分になりそうな炭水化物がおいてある。
お店の中にはもう一つのガラス戸があって、
其の奥になんだか分からない機械が置いてあり、
女性が二人動いているのが見える。

「ごめんください」と大声で案内を乞う。
機械の側で作業中の人がこちらを見て、
大声で何か言ったようだが、こちらまで聞こえない。
こちらの案内が聞こえたことだけは分かった。
0202
(近江八幡のマンホール)

仕事の邪魔をして、店先にわざわざ来てもらうにほどの
たいそうな買い物をするわけではないのに、
作業を中断してもらうのは、申し訳ない。
「アンパンを指差してこれが欲しいのですが」
「ハイ、どうぞ。105円です。」
金額が少なくて、少し恥ずかしくなって、
欲しくもないのに250円のクッキーもついでに買った。
五百円玉を出して、おつりをもらう。

歩きながら食べるのも、お行儀が悪いので、
「すみませんが、ここで食べさせていただいてよろしいですか」
お尋ねすると、いともあっさりと、
「どうぞ、そこに椅子がありますから、お使いください」と返事して、
店の奥に入ってしまった。

また作業でも始めるのだな、と思いながら、
リュックを下ろし、椅子に腰かけて、もさもさとアンパンを食べていると、
先ほどのお姉さんが、マグカップにお茶を入れてきてくれた。
思わぬ親切につい、
「たかだか350円のお客に、全部儲かっても350円なのに、
ご親切にお茶まで入れていただいて、有難うございます。」と言うと、
お姉さんは笑顔で、
「どうせたいして儲かっていないのですから、
私たちが食べていけるほどの儲けがあれば良いのですから」と言って、
作業場へ戻ってしまった。

今日売れ残ったパンやおすし、お弁当はどうするのだろう。
急に心配になってきたが、
ボクが心配してもどうにも手助けする方法がない。
パンを食べ終り、戴いたお茶をゆっくり飲み、
リュックを手に大声で、
「ご馳走様でした」と叫んでも、一向にこちらを気にするでなく、
何の機械か知らないが、機械を操作している。

仕方がないから、先ほどもらったお釣りをお礼代わりのお茶代にして、
マグカップに添えて台の上に置いて、
深々と頭を下げ御礼をしてお店を出た。

金額があまり多くてはこちらも先方様も気が重い。
外国の旅先ではずむチップだとに思えば、ボクも先方様も気が軽い。
そんなふうに勝手に決めてお店を出た。
末永くお元気でいらっしゃいますよう祈るばかりである。

こんな小さな親切が見知らぬ土地では、
大変身に沁みて嬉しいものである。
0018
(67番目は間違い。これでは中山道70次になってしまう。)







根来陣屋跡と泡子延命地蔵(旧中山道を歩く 308)

2012年03月05日 11時13分34秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(根来陣屋跡の碑)

(愛知川宿 4)
「中山道 陣屋小路」の石柱の案内に沿って進む。
東老蘇公民館の小路を古くから陣屋小路と呼んでいる。
その突き当り、奥石神社の参道横の駐車場用の広場に出る。
ここに江戸時代にあった根来陣屋の跡である。


(奥石神社横の根来陣屋跡の敷地)

根来陣屋についての説明を要約すると、
(鉄砲の根来衆で有名な根来家は、
秀吉の根来寺焼き討ち後家康の家臣となり、
数々の戦功を立て大和・近江・関東に領地を拝領し、
この場所が根来家の領地になったのは、
寛永十年(1633)東老蘇668石と西老蘇13石であった。
元禄十一年(1698)この地に陣屋が設置され、代官所が置かれた。
江戸期の絵図に陣屋が描かれている。)
(東老蘇町づくり実行委員会)とある。

その絵図を紹介して置きたい。


(根来陣屋の古地図)

中山道へ戻ると、石柱のある場所は(東老蘇公民館)である。
先に進むと常夜灯があって小さな橋があり、
(中山道 森橋)とある。
これを渡って少し行くと左手に(杉原医院)があって、
医院建物前の中山道沿いに、
猫の額ほどの枯山水が置かれている。


(東老蘇(ひがしおいそ)公民館)


(中山道 森橋と常夜灯、カーブミラーにボクが写っている)


(杉原医院の枯山水)

実は建物前の枯山水よりも、
医院裏手のご自宅の庭園が「杉原氏庭園」として
滋賀県指定文化財になっている名園であることである。
残念ながら拝見することは出来なかった。
「緑苔園」といい、
江戸時代末期作庭の500㎡の庭とのこと。(安土町教育委員会)

さらに進むと信号があり、
道路の左右はどこまでも続く水田地帯を行く。
やがて(奥石神社御旅所)の石碑が建つ小広場がある。
御旅所とは(旧中山道を行く 306)に述べたが、
神社の祭礼の際、祭神が巡幸するとき、
神輿(みこし)を仮に鎮座しておく場所を言う。
ついで右手に「鎌若宮神社」の鳥居と石塔がある。


(信号右に「中山道」の石碑がある)


(お旅所の石碑)


(鎌若宮神社の石碑)

その先は閑散とした田舎道が500mも続き、
やがて右手にいかにも意味ありげな長屋門があり、
その先にお寺の山門がある。
お寺は「東光寺」とあり、
門前の左手に「建部伝内の遺跡」の石柱がある。
建部伝内は豊臣秀吉の祐筆で、伝内を安置した伝内堂がある。


(閑散とした田舎道)


(長屋門)


(東光寺山門、山門前の石柱(右)と建部伝内の碑(左)


(本堂)


(伝内堂)


(道内にある伝内の像)

中山道はその先1.5kmほど特筆することも無く過ぎ、
右手の一段下がった小さな川の横に、「泡子延命地蔵御遺跡」がある。
これは醒ヶ井宿の「西行水」にあった「泡子塚」の話と同じで、

(茶店に一人の僧がやって来た。
娘がお茶を出し僧を見て一目ぼれする。
僧が立ち去ったあと、
飲み残しのお茶を娘が飲むと、
不思議なことに子を授かり出産する。
三年後、泣く子供を抱いて大根を洗っていると、
旅僧が通りかかり、
子供の泣き声がお経を読んでいるように聞こえる。
娘が振り向くと三年前に恋をしたその僧である。
その話をすると旅僧は子供に、ふっと息を吹きかけると、
子供は泡となり消えた。
僧が言うには、
西のほうに「あら井」というところの池の中に、
尊き地蔵がある。
この子のために堂を建て安置せよ、と。)
現在は、この地蔵堂は(西福寺)にあるというので、
後ほど確かめた。

西福寺の先は水田地帯を2km弱、武佐宿まで歩く。


(信号と「中山道」の案内)


(泡子延命地蔵)


(西福寺と地蔵堂)


(道路わきは水田地帯)










奥石(おいそ)神社(旧中山道を歩く 307)

2012年03月01日 10時50分59秒 | 7.近江(滋賀県)の旧中山道を歩く(285~3


(奥石(おいそ)神社の森)

(愛知川宿 3)
前回、観音正寺への参道と書いた。
(観音正寺は観音寺山の中腹にあるお寺で、
木造千手観音(室町時代の作で、重要文化財)を本尊とする寺で、
後ろにある観音寺城を守る役割をしていた。
西国三十二番の霊場になっている。
観音寺城は山全体に石垣を築いて要塞とした大規模な山城で、
当時の城の遺構がよく保存されているので、
国の史跡に指定されている。
――後略)(安土町)とある。

旧中山道を進むと右手に奥石神社の石碑といくつかの灯籠が、
繁った森の前、神社の参道にあるのが見える。
これが東参道で、西参道は中山道をも少し進んだ所にある。

参道を進むと鳥居が左手にあり、これをくぐる。
紅葉がとても美しい。


(奥石神社の東参道)


(神社の鳥居)

老蘇(おいそ)の森について安土町の説明によれば、
(今から約2250年前、考霊天皇のとき、
この地一帯は、地裂け水湧いて、
とても人の住むところではなかったが、
石部大連(いしべのおおむらじ)という人が神の助けを得て、
この地に松・杉・桧を植えた所、
たちまち大森林になったと伝えられています。
また、この森は、万葉の時代から世の移り変わりとともに、
数々の歌に詠まれている名高い森であります。
この森深く鎮座する奥石神社は、
繖山(きぬがさやま)をご神体とする最も古く原始的、
根元的な神社であったため、
延喜式神名帳に載せられているといわれます。
現在の本殿は、天正九年(1581)に建てられたもので、
安土桃山時代の豪華さの中に優美な落ち着きをもつ建造物で、
安土町の国指定の重要文化財の中では、唯一の神社建築である。
老樹の生い茂る深い参道をもつこの社は、
中世より鎌宮神社ともいい、
これは「蒲生野宮(がもうのみや)」が、
なまって名づけられたと言います。)(安土町)とある。


(境内の大樹)


(大樹がここそこにある奥石神社)


(その二)

本殿については、
(重要文化財の奥石神社本殿は、三間社流造、桧皮葺 
桃山時代のもので重要文化材になっている。
奥石神社境内社諏訪社本殿(安土町指定文化財)、
一間社流造、桧皮葺の建物。
桃山時代の作と伝えられ、安政七年(1880)、
明治十三年(1880)の修理記録が残されている。)
(安土町教育委員会)とある。

神社はみんなそうであるが、
(非常に重厚な)としか表現しようがない造りの神社である。


(奥石神社本殿 三間社流造り)


(諏訪神社 一間社流造り)


(境内の水車が先に見える)

周りには、樹齢何年か知らないが、
老蘇(おいそ)にふさわしい大木が生えている。
神社を出ると社務所が開いている。
覘くと入り口に、素敵な屏風が飾っていあったのというか、
置いてあったので、一枚撮る。


(社務所)


(社務所入り口の屏風)

本居宣長の歌碑なども見学。

・夜半(よわ)ならば  老蘇(おいそ)の森の  郭公(ほととぎす)
        今もなかまし  忍び音のころ

                 本居宣長  


(本居宣長の歌碑)

その先紅葉の美しさに目を奪われて歩いて神社を出る。
中山道を西に行くと、西参道があり鳥居が立ち
「奥石神社」の石塔が立っている。
その先左手に「中山道 陣屋小路」の石柱があるので、
案内に沿って進んでみる。


(紅葉に気を取られて境内を出る)


(奥石神社の西参道の鳥居)


(陣屋小路の石碑)