中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

「ふりそで松」と「かぶと観音堂」(旧中山道を歩く 198)

2010年06月26日 11時25分33秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(巴御前のふりそでの松の石碑)

(三留野宿 5)
「SL公園」を過ぎて、中山道は山の中を上り下りして、
街道らしい杉の林を抜け、
庭木の手入れが行き届いた集落の先に、
山中にしては思いがけず少し広い場所に出る。

右手前に(かぶと観音無人販売所)があり、
右手奥に真新しい神明神社がある。
左手に「ふりそで松」の石碑がある。


(山中にしては珍しく広い場所)


(かぶと観音無人販売所)


(真新しい建物の神明神社)

(義仲伝承にまつわる巴御前の「ふりそで松」は、
平成二十年十月より松くい虫の侵食がはじまり、
歩行者の安全を図るため、おしくも翌年六月に伐採されました。
現在は地域の方々のはからいにより、水舟となり、
境内の義仲の腰掛石に寄り添うように置かれています。)とあり、
今では「ふりそで松」の切り株だけが残っている。

(「ふりそで松」は虫に食われ枯れたので伐採され切り株だけが残る)

無人販売所と神明神社の間に、階段があり降りていくと、
右手に「かぶと観音堂」がある。

かぶと観音堂は、木曽義仲が北陸時に出撃しようとした時、
かぶとの八幡座(てっぺん)に付いていた観音を祀ったのがはじまり、
と伝えられています。

神殿前の境内は広く、
手前左側には水舟があり、水が絶え間なく流れている。
その脇に鉄鎖で囲まれた石があり、これが「義仲腰掛石」で、
水舟が「ふりそで松」の名残である。
境内には大きな観音像が建っている。


(かぶと観音堂)


(巴御前の枯れたふりそで松で造られた水舟、義仲の腰掛岩が左手前に見える)


(義仲腰掛岩のわきに置かれた巴御前のふりそで松で造られた水舟はある。)


(境内の観音像)

境内を出て進むと、左手に道しるべの石碑があり、道路は坂を下っており、
左手に石の道標が置かれている。

道標には、右から読むと、
(西下り 国道、南前 旧道 中山道、東上り かんのん堂)と読める。
磁石の持ち合わせがなかったので、東西南北が判り難くなっている。
目の前の下る道路が国道に向い西に行くのであろう。
東西南北で方向感覚が狂ってきており、太陽も昼時でどちらが南かつかみ難い。
今かんのん堂から下りてきたから、上りかんのん堂が東を指しているようだ。
東から西に向っているから、これから向う南は道路を左折することになる。


(道しるべの石碑)


(案内看板、左妻籠宿とある)

数歩歩くと十字路で、左右に行く道があり、
右かどの案内表示板には(左妻籠宿、右南木曽)になっている。
しかし道路は少し狭く、今まで来た道を比べると全くイメージが違う。
案内書では、戦沢橋を渡るとある。
左を見るとみすぼらしい橋があり、欄干を見ると「戦沢橋」とあるので、
間違いないと決めて橋を渡る。

(戦沢橋)

すぐもう一つの橋があり、
長野県が作った中山道の水色の案内板が立っている。
色あせて何が書いてあるのやら、まったく読めず、
しかも薄汚いタオルがかかっている。
今まで歩いてきた長野県の道案内を知っているから、
これが京都、東京方向への道標とボクには判読できる。


(もう一つの橋、手前に文字が見えない案内板がある。)


(薄汚れたタオルが懸かっている案内板、長野県の係りの方直して下さい)

橋を渡って進むと中山道の石畳の道に出る。
そして石畳は直進と右下へくだる道とに分かれる。
さて、どちらへ進むべきか?迷っていると、左脇に道標の石碑があった。

道標は、(せん澤 右 妻籠宿へ、下り 国道へ、左 なぎそ駅)とある。
古く見える石の道標であるが、なぎそ駅と書いているところを見ると、
まだ新しい道標であるに違いない。
なぜなら南木曽町は昭和36年の発足であるからだ。


(石畳の道を直進、右に下ると国道に出る)


(分かれ道のすぐ左手にある石標)

林の中を進む。右手の民家の前を通る。
家の街道に面した所がガラス張りになっており、
相当時代物の品物が置いて(展示して?)ある。
目を引いたのは、「皇女和宮様がご使用の風呂桶」であった。
真偽のほどは定かではないが、
その他の展示物を見ると本物であるように思える。

その先に一里塚がある。田舎のことで、
一里塚は両側に一対をなして残っている。

「上久保の一里塚」で

江戸より七十八番目の一里塚と案内にある。


(街道面がガラス張りの民家)


(皇女和宮ご使用の風呂桶)


(上久保の一里塚、一対の一里塚になっている)








園原先生碑とSL公園(旧中山道を歩く 197)

2010年06月20日 11時06分00秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(木曽海道六拾九次之内 広重画「三渡野」)


(三留野宿 4)

中山道を進むと左手に古い石垣が見えて来る。
石垣の上に古い大きな家が建っている。
石垣が切れた先に、大きなイチョウの木があって、
その下に「町史跡 園原先生碑」の白い標柱が建っている。
茂みの奥を覗くと、階段を登った先に石碑がある。

その手前の右手にある南木曽町の説明によると、
「園原旧富(そのはらふるとみ)は、
三留野村和合の東山神社の神官の家に
元禄十六年(1703)に生まれ、長じて京都に遊学し、
吉田兼敬(神祇管領長)に師事して神学を学び、
「新学則」を著すまでになった。
その後も「木曽古道記」「神心問答」
「木曽名物記」などを著して、
尾張・美濃・信濃の門人多数を擁する大学者となった。
この碑は園原先生の死後五年目、天明元年(1781)に、
学徳を慕う門人たちによって建立されたもので、
碑文は当時有数の学者である松平君山が書いている。
なお、園原家住宅(非公開)は、
江戸時代中期の神官の家の姿を伝える貴重なものである。)とある。


(中山道沿いの古い石垣)


(苔むした石垣)


(園原先生碑)


(階段の上の大きな時代物の家)

園原先生碑の左手階段を上がった所にある大きな家があり、
入口を葦簀で覆ってあったが、神官の家であろう。
住人がいらっしゃるようだ。

園原先生碑の前を進むと道は二手に分かれる。
右手にある案内にしたがって、下り坂の道を進む。少し行く、
ともう一度二股道があるが今度は左側の道をとる。
このあたり中山道は入り組んでいるが、
左右間違えてもいずれ合流するから心配はない。


(最初の二又の道は右に行く)


(次の二又は左の道をとる)

少し先の左手の石垣の上に大きな枝垂れ梅が、枝を垂れている。
梅の次期には見事に花開くと思われるが、
街道名物の梅ノ木である。
脇に「中山道」の標柱が建っている。


(しだれ梅)


(しだれ梅手前の「中山道」の標柱)


(機関車D51の展示がある公園)

その先坂を下ると突き当たる形で、SL「D51」が展示してある。
辺りにはベンチもあり公園になっているようだ。
WCを探したが見当たらず、
代わりに千体観音堂を見つけた。
土道の奥に「一刻院」と書かれた観音堂があり、
土道の脇に植えられた桃の木は、
日本の電力王と言われた福沢桃介のお手植えと伝えられている。
三色桃と言い、赤、白、ピンクの三色の花が付く珍しい品種であるとか。
各地に伝えられる偉人伝説の一つであろう。

「一刻院」のお堂の中を覗いたが千体観音は見当たらなかったが、
途中に、大きな木の幹をくりぬいた中に、
刻まれた四体の観音さまが鎮座されていた。


(千体観音堂)


(観音堂の「一刻院」)


(三色桃の木)


(観音様)

その後中山道は上り下りして杉林の中を抜け、
庭木の手入れの良い家並みをぬけて、

「木曽義仲かぶと観音堂」へ向う。

(上り道)


(下り道)


(林の中の中山道)


(庭木の手入れの行き届いた家並)








桃介橋(旧中山道を歩く 196)

2010年06月14日 10時16分20秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(中山道の矢印案内表示)

(三留野宿 3) 
等覚寺を出て、梨子沢橋を渡った所まで戻ると、
すぐに中山道はこちらの案内表示がある。

案内書に寄れば、その先が民家の庭先になるので、
庭先を避け、道路を進んで民家を過ぎその先を左折するとある。

しかし、南木曽町役場が最近出した案内は、
その民家の庭先を通るように表示している。
案内通り進むと三歩ほどで左に伸びる長い階段があり、
南木曽小学校入り口とある。
階段を通り越し、民家の庭先を抜けると、
また矢印の中山道の案内があり分かりやすい。


(読書小学校の入り口階段。松ノ木の向こう側が中山道)


(民家の庭先を抜ける)


(次の案内)


(二つ目の案内。どう見ても真ん中の草道を指している)


(草道に迷い込むとこんな感じの路)

この場所の中山道は込み入っていて分り難いのであろう、
路が分かれるところへ来ると、
矢印のある案内板が設置されており進みやすい。
二つ目の中山道案内の先に道は二つに分かれており、
ここは少し分りにくく、舗装路でなく草道方向に進む。
先方に草むしりをしている土地の住人に出会う。

「中山道はこちらで正しいでしょうか?」と訊くと、
「昔はこの路を進み先で右折したようですが、
今は役所で矢印の案内を付けていただいて、
この下の道を行くようになりました。
この路も下の道にすぐ合流しますよ」という。

案内はこの路を指しているのではなく、
アスファルトの道を指しているとのことで、
前の場所に戻り進む。


(ご婦人の説明があった出口にある矢印案内)

すぐに次の矢印があり、
先のご婦人の話にあったと思われる路の出口にその矢印は立っている。
矢印に沿って進むと、
道路はY字路となり、案内看板はY字の股にあたる部分にあり見落としやすい。
案内に沿って左に進む。右に行くと中央本線を渡り、
JR南木曽駅、桃介橋方向へ行く。

木曽森林管理署南木曽支署の前を通り、なお進むと、
JR南木曽駅の反対側にある木曽川に掛かる桃介橋がみえる。
先ほどのご婦人から「桃介橋が見える場所があります」と言われていたが、
これのことかと納得できた。
桃介橋とは、福沢桃介の名をとって付けられた名前である。
この橋の先に福沢桃介記念館・山の記念館がある。


(矢印案内に沿って進む)


(次のY字路はYの間に案内看板があり、左へ進む)


(Y字の股にある案内看板、左へ進む。右は桃介橋方向へ)


(桃介橋)

福沢桃介、桃介橋について南木曽町の説明によれば、
(福沢桃介とは、明治元年埼玉県吉見町に生まれ、
優秀で努力家、慶応義塾に入り、
福沢諭吉に見込まれ養子となる。
アメリカに留学し、明治41年ころから、
電気事業にかかわり、木曽川水力発電に情熱を注ぎました。
よみかき発電所を竣工後電力王とも呼ばれ近代日本産業の振興に足跡を残し、
昭和13年にその生涯を閉じました。
桃介橋は水力発電の開発に力をそそいだ福沢桃介が読書発電所建設のため
資材運搬路として架設された。
その後、昭和23年ごろまでは村道として両岸集落の交通に役立っていましたが、
老朽化が進み本格的な修理が出来なかったため昭和53年以降通行禁止となり、
廃橋寸前となっていました。
この間、保存・活用の声が多くあり、
平成5年付近一帯の天白公園整備に併せ復元されました。
平成6年には読書発電所及び柿其水路橋と共に、
国の重要文化財に指定されています。)とある。


(桃介橋2)


(桃介橋3)


(山に囲まれた木曽)

山に囲まれた木曽の住人は、木材に頼って生活し、
切り出した木材を筏にして木曽川に流して運び生活の足しにしていた。
しかし福沢桃介の水力発電開発により木曽川が堰き止められ、
筏さえ流すことが出来なくなり、木曽の住民の生活を圧迫する。

そこにはだかったのが「夜明け前」の主人公の次男、
妻篭本陣の養子になった藤村の兄広助であった。
広助は桃介の水力発電のための木曽川の堰き止めに、
真っ向から反対する運動に尽力したが、
時の流れには逆らえず破れて手を引く。
しかし広助の運動により、
森林鉄道が敷かれ木材を運搬することが出来るようになったのは、
広助の運動の成果と言ってよい。

先に進むと園原先生碑とその先に「D51機関車」のある公園があるが、
森林鉄道の機関車かも知れない。が、説明はなかった。


(機関車のある公園)

(園原先生碑)








等覚寺の円空仏(旧中山道を歩く 195)

2010年06月09日 10時13分22秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(梨子沢橋)


(道路の奥に見えるお寺らしき塀)

(三留野宿2)
梨子沢橋(「なしざわばし」と読む)を渡り左折、川沿いに坂を登る。
すぐもう一つの橋があり、等覚寺は橋を渡れと案内がある。
つまり橋を二つ渡って「コ」の字型に戻る格好になるが、
二つ目の橋から前方を見ると、道路奥に、
お寺の塀らしきものが目に映るので進む。

等覚寺には古色蒼然とした立派な山門がある。
山門両脇に木造の阿吽の仁王が厳めしい姿で睨みつけている。
正式には「日星山等覚寺」と言い、曹洞宗の寺院である。


(日星山等覚寺の山門)


(立派な木造の仁王)

この寺院は三体の円空仏があることで有名で、
等覚寺の円空仏について次のように説明がある。

「円空は、美濃の国に生まれた江戸時代初期の僧侶で、
生涯に十二万体の仏像をつくることを祈願したと言われ、
その足跡は、関東、東北から北海道にまで及ぶ。
この南木曽町では、「弁天祠棟札」に「弁財天十五童子像」が
貞享3年(1686)八月十二日につくられたことが記されているので、
このころ円空は南木曽に滞在して、
造像に励んだことがうかがえる。
現在当町には六体の円空仏が発見されているが、
等覚寺にあるのは次の三体である。
・韋駄天像
・弁財天十五童子像
・天神像(いずれも町有形文化財指定)」(南木曽町教育委員会)

説明に「十二万体の仏像の造像を祈願」とあるが、
僧侶になったのが15歳として、「人生わずか50年」の当時、
一生に12万体の仏像は、残り35年で造るわけであるから、
毎日造っても、1日あたり最低9体強の仏像を造らなければならない。
発見された円空佛は北海道にも存在するようであるから、
旅をして歩いている間は造ることも出来ないだろう。
どのようなスピードで造ったものか?
毎日9体強造ると言うことは、最低1時間に一体を造ることになる。
鉈で刻んだと言うが、彫刻刀もなしで微妙な笑顔と細かい服装の彫りを
どのようにして刻んだのであろうか?
写真の仏像を良くご覧いただき想像してみて欲しい。

山門を入ると、古い山門には不釣合いな真新しい本堂があり、
門の左手には鐘楼と円空堂が目にはいる。


(山門と不釣合いな真新しい本堂)


(等覚寺の扁額)


(円空堂)

円空堂の扉は閉じられているが、扉脇の右手に次のように書いてあった。
「まっ黒な木のかたまりがお堂の隅に忘れられて、
だれも得体がわからなくて三百年も捨てられていた佛。
深山で滝にうたれ心を洗い、
屈に住み血みどろ行をつんで諸国を遍歴した円空。
孤島日本の真ん中の岐阜に生まれ、苦行して生み出した佛。
心の底からほほ笑んでいる円空佛。
天に向って怒りを吐き出している円空佛。」とある。

扉を開けると、最初に目に入ったのが賽銭箱。
そっと賽銭を投げ入れて、
その後ろのガラス箱に円空佛らしき彫り物が二体あるのを見つける。
一つは弁才天像十五童子像、もう一つは天神像で、
脇に円空上人作とあるから間違いない。
残る一つはどこかに出張でもしているのか、見当たらなかった。


(円空上人作「天神像」)


(円空上人作「弁才天像十五童子像」)

円空佛をよくよく見ると、いずれも表情がにこやかで、
言われている制作方法が鉈(なた)で造ったとは思えない精巧なもので、
この微笑をどのように刻んだものであろうか?
とても疑問に思った。一礼して扉を閉める。
もと来た道を引き返し、本堂にも一礼して等覚寺を出る。
梨子沢橋を右に見るところまで戻り左折する。
すぐに中山道はこちらの矢印の案内表示がある。

(矢印の案内表示)









三留野宿(旧中山道を歩く194)

2010年06月02日 10時45分24秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2


(新緑が美しい木曽路)


(木曽川縁にあった藤の花)

(三留野宿)
登り坂をさらに登り、中央西線のガードをくぐり牧ヶ沢橋を渡り、
登り坂はなお続く。これをべに坂という。
眺望は素晴らしく、眺めの中で一息つく。

登り坂、もうこれ以上は勘弁して欲しいと思う頃、
両側に古い民家が並び始める。
海道の両側にある民家に「みなとや」「田中屋」など
江戸時代の名を表札脇に掲げて、往時を偲ぶ雰囲気を出そうと、
町の努力の跡が見える。


(三留野宿の街並み)


(みなとや)


(街並み 2)


(脇本陣跡の宮川さんの表札が見える)

やがて左側に脇本陣跡の案内がある家の前に出るが、面影は失われている。
案内によれば、
(三留野宿の脇本陣は宮川家が代々庄屋も兼ね勤め、
本陣家の鮎沢家、問屋の勝野家と共に三留野宿の指導的役割を担った。)
(南木曽町教育委員会)とある。

表札には「宮川」とあるから、代々の子孫の方が住まわれているに違いない。
道路斜め前に本陣跡の石碑があり、石の門柱が二本、
草の生えた空き地に建っている。
その奥に「明治天皇安在所」の石碑とその横にしだれ梅が残っており、
本陣の名残をとどめている。
どうやらこの辺りが三留野宿の中心部のようだ。


(本陣跡、「明治天皇安在所」の石碑とその横にしだれ梅の木が見える)

その先左側に「読書村道路元標」の石碑があり、その横に長い階段があるが、
元は読書村役場の跡である。
「読書村」は「よみかきむら」と読み、
教育熱心な長野県らしい名と思っていたが、
その昔、明治7年(1874)町村合併により出来た名で、
与川(よがわ)村の「よ」、三留野(みどの)村の「み」、柿其(かきそれ)村の「かき」を取って
「よみかきむら」=「読書村」(*)と名づけたとのこと。

(*)現在は昭和36年(1961)吾妻村(あづまむら)、
田立村(ただちむら)と合併し、南木曽町となっている。


(「読書村道路元標」の石碑)


(読書村役場の跡の階段)

旧中山道はその先で桝形になるが、右手にガードレールがあり、            
その横にある階段脇に「南木曽駅」と左方を示す小さな案内があるので、
狭い階段を降りていく。
階段下にも、京都側から来た人のための中山道の案内がある。

少し進んだ先の左手に、常夜灯が建っている。
年号が享和3年(1803)のもので、207年も昔に造られたものである。


(京都側の枡形)


(見落としそうな階段、見難いが横に案内板がある)


(拡大するとこの案内板がある)


(その階段)


(享和3年(1803)の常夜灯)

その少し先の左手に「左野尻駅右南木曽駅」の案内があるが、
これが与川道の三留野宿側の入り口に当る。
その先に梨子沢川(なしざわがわ)があり、梨子沢橋が見える。
橋を渡った先のガードレールに「等覚寺左」の案内が見える。

左折して等覚寺へ向う。


(与川道の三留野宿側の入り口の案内)


(梨子沢橋)


(梨子沢川)


(「等覚寺左」の案内は橋を渡り終えてから撮ると等覚寺右に変わる)