中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

追分宿(旧中山道を歩く 114)

2007年08月30日 08時30分32秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(御影用水)

(追分宿2)
浅間神社の前の清らかなせせらぎは、御影用水といい、
下流の佐久平への用水路として作られたもので、
水に親しみ憩いの場として作られた場所で、
川べりに降りて水に手を差し伸べたくなる清流となっている。


(堀辰雄文学記念館)


(追分宿本陣の門碑)


(明治天皇行在所の碑)

清流に沿って旧中山道を歩くと、左手に堀辰雄文学記念館が、
さらに進むと追分宿本陣跡、明治天皇行在所の石碑、
現存する江戸時代の旅篭の「油屋」がそのまま残っており、
建物の南側には、戦時中戦火を逃れて追分宿にやってきた
文学者堀辰雄の住まいもある。


(油屋の入り口)


(当時のままの油屋、この南側に戦時中の堀辰雄の住まいがある)

その先に昔の高札場が残っており、すぐ先の右側に「浅間山道路第一指所」(登山口)の石碑がある。
これは大正~昭和前期にかけて追分の振興のため、
宿場の北側を都内の学校等に働きかけ追分に寮誘致をしたが、
その折登山道も同時に造られたものである。
そのためかこの近隣に東京都内の学校のテニスの合宿所など、
林間学校となる施設が沢山見受けられる。
やがて同じ右側に旅篭の「蔦や」が当時の面影を残したまま残っており、
軒下に江戸時代からの看板がぶら下がっている。


(高札場)


(浅間山登山道入り口の石碑)


(蔦屋と看板)

さらに西に進むと、浅間山香華院泉洞寺の石碑が右側に見える。
泉洞寺の参道を入ると山門があり、門前には禅寺には普通は置かれない
密教系の不動明王像、十二権現、青面金剛(庚申塔)の石造物が安置されており、その奥に本堂が見える。
(これら石造物は、宿場の江戸口に建立され明治時代まで活動していた修験寺院自性院より移転したもので、
泉洞寺が宿場の人々のよりどころとされていた証拠といえる。)(軽井沢町教育委員会)


(木の枝に隠れている泉洞寺の石碑)


(山門右側の石造群)


(山門手前右側の石造群が見えるでしょうか、本堂のほうが良く見えますね)


(稲垣黄鶴の句碑と筆塚)

本堂を正面に見て、山門の左側に稲垣黄鶴句碑と筆塚がある。
説明によれば:
(貞明皇后に書を教えたといわれる稲垣黄鶴は、長く日本書道院の副会長を務めた書家で、
この地軽井沢の出身で、名を「はま」と言う。追分宿三浦屋の子孫である。

・浅間嶺 今日は晴れたり 蕎麦の花
)(軽井沢町教育委員会)

この俳句を英語で記しているので紹介する。

Mount Asama
Clear today, even at the top
There does the buckwheat flower bloom.

とある。ボクは以前、俳句の英訳の勉強をしたことがあるが、
俳句の心を持たないと、英訳は難しい。訳す人の心が表れるからである。
英語では、五七五の言葉数の制約は無いが、読む感触で五七五の感じがつかめれば良い。
どちらかと言うと英詩(poem)と思えばよい。

この俳句は、「今日は良く晴れて、浅間山の頂もくっきり、
麓の蕎麦の花の白いこと」に感動したように受け取れる。
蛇足であるが、ボクならflower bloom white.と最期にwhiteを入れたいと思った。

本堂の西隣に墓地があり、墓地を通り抜ける場所の正面に、
堀辰雄が好んだといわれる半跏思惟像(*)が、やや首をかしげて微笑み、左手を頬に当て、
片足をあぐらのようにした状態で、安置されている。とても可愛いしぐさだ。

(*)「半跏」は片足をあぐらのようにしている状態、「思惟」は指を頬にあて物思いにふける姿を指す)


(半跏思惟像の如意輪観音)

軽井沢町教育委員会の説明によれば、
(この石仏は、堀辰雄の名作「樹下」(大和路・信濃路)の文中にあって、
素朴な姿に引かれ、朝夕ここを散歩し親しんだと言われる。
今でも村人に、歯痛の神様として信仰されている。)
旧中山道を西に進む。

追分宿ともお別れに近い。
右側に枡形の茶屋「つがるや」が見えてくる。二階の梁出しの下に
枡形のマークに「津軽屋清吉」とかいた看板がある。
ここで国道18号線と合流し、追分宿はここで終わる。


(枡形の津軽や)

何度も書いているが、
やはり京都方面から歩いてきたほうが、目印の大きな案内看板
{追分宿}があり分かりやすいのはいつも感じることである。

(京都側から来ると追分宿の看板が見事)

国道18号を少し歩くと、
旧中山道では名高い、北国街道との「分か去れ」の道標がある地点に到着する。

ここには、7基の石造物、
寛政元年の常夜灯、
安永六年の森羅亭万象の狂歌碑・子育て地蔵、
元禄六年の勢至菩薩、
安永三年の馬頭観音、
寛政四年の廻国塔がある。


(現在の分か去れ)




追分宿の一里塚(旧中山道を歩く 113)

2007年08月22日 08時13分32秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(追分の一里塚)

(追分宿)
国道18号と合流した旧中山道を、西へ進むとまもなく
「←信濃追分駅」の案内看板と共に歩道橋にぶつかる。
歩道橋右手の中学校を通過すると、道路両側に
「追分の一里塚」が見えてくる。
道路は拡張されたので、昔のまま残っているわけではないが、
芝生の緑色に覆われたずんぐりした塚である。
中山道で一里塚を沢山見てきたが、日本橋をスタートして最初の宿場町、
板橋宿から一里を示す「志村の一里塚」が、一対で残るものとしては、もっとも原形を留めているように思う。
「追分の一里塚」も、なるほどと思わせる一里塚である。
軽井沢教育委員会の説明でも、(追分の一里塚は、よく原形を保って
当時を偲ぶことのできる貴重なものである。)とある。


(北側の追分の一里塚)

この一里塚の先で、追分宿は国道と別れ右に入るが、「右追分宿」の
大きな案内看板があるので分かりやすい。案内に沿って歩くと
旧中山道に入り口にも丁寧に案内看板が歩行者の目線に置いてある。
ずいぶん親切な案内である。自治体の取り組み姿勢が覗える。
案内看板には、
追分宿、追分郷土館、堀辰雄記念館は右と矢印がある。
矢印に沿って歩くと、道路右側に平行して御影用水といって
清らかなせせらぎがあり、その川に小さな石橋が架かっている。
橋を渡ると、浅間神社(あさまじんじゃ)の鳥居が見える。
鳥居をくぐった左手広場に、芭蕉句碑が見える。


(追分宿の案内看板)


(目線の高さにある案内看板)


(道路脇の御影用水)


(浅間神社の鳥居)


(芭蕉句碑)

・吹き飛ばす 石も浅間の 野分けかな)とある。

説明によれば、
大自然石に雄渾な文字で、更科紀行中の句が刻まれ、
芭蕉百年忌に当たる寛政5年(1793)佐久の春秋庵の俳人たちが
建立したとものといわれている。(軽井沢町教育委員会)

さすが軽井沢町、外国人が訪ねてくることを想定して、英語、ハングル文字、中国語でも紹介してある。
中でも、英語による紹介では英文への翻訳が、俳句の雰囲気を良く表しているので
紹介して置きたい。
(Mt Asama,the autumn storm even blows the stone away.)

なお、ハングルと中国語は知らないので、紹介を省きます。
ご興味のある方は、一度お訪ね戴き、ご覧になることをお勧めいたします。

広場の右手には、「追分節発祥の碑」が見える。


(追分節発祥の碑)

説明では、
(江戸時代、主要道路であった中山道を利用した旅人は、
難所である碓氷峠を通過し、江戸と京都の間を往復した。
この碓氷峠を中心に駄賃付けの馬子達が仕事唄として「馬子唄」を唄い続けた。
この元唄は「軽井沢宿」「沓掛宿」「追分宿」の飯盛り女たちの三味線等により洗練され(追分節)として成立した。
馬子唄から座敷唄になったことで、諸国に広く伝播され有名になった。
(軽井沢町教育委員会)
その追分節の一部を紹介しておく。
説明に有るように馬子達が唄ったものを、飯盛り女達が座敷唄として唄ったものであるため、
歌詞も何通りもあるようであるが、
信濃追分、追分馬子唄、正調信濃追分のうち、追分馬子唄を記します。


○追分桝形の茶屋で ホロと鳴いたが アリャ忘らりょか(ハイーハイー)

○浅間山さん なぜ焼けしゃんす 裾に三宿 持ちながら(ハイーハイー)

○小諸出てみりゃ 浅間の山に 今朝も煙が三筋立つ(ハイーハイー)

○碓氷峠の権現様は 主のためには 守り神(ハイーハイー)

○浅間山では わしゃないけれど 胸に煙りが 絶えやせぬ(ハイーハイー)

○浅間根越の 小砂利の中で あやめ咲くとは しおらしや

○西は追分 東は関所 関所越ゆれば 旅の空(ハイーハイー)
                               ♪
なかなか情のこもった歌詞である。


(浅間神社本殿)

鳥居をくぐった正面には浅間神社の本殿があるが、
(本殿は室町時代のもので、町内の木造建築としては最古のものである。
浅間大神遥拝の里宮で大山祇神と磐長姫神の二神が祀られている。
明治二年の浅間山の鳴動が特に厳しく、
沈静祈願のため明治天皇の勅祭が行われた社として有名である。)とある。
(軽井沢町教育委員会)

(郷土資料館)


(馬頭観世音の碑)

本殿の右奥に郷土資料館があるので寄ってみよう。
入り口に大きな馬頭観世音の碑があり、追分馬子唄と共に、
馬のお世話になったことが良く解る。
郷土資料館には、江戸時代の面影を残す、旅篭の様子、往時の旅篭の看板、
高札に掲げられていた内容など展示されており興味深い。


(郷土館に展示された高札)

高札の内容:
         定
1.人たるもの五倫の道*を正しくすべき事
(*君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の道をいう)
1.鰥寡(かんか=夫または妻を失ったもの)、孤独、癈疾のものを憐れむべき事。
1.人を殺す、家を焼く、財を盗む等悪行をあるまじく事。

慶応四年三月            太政官

これは現代でも十分通用する定である。

郷土資料館をじっくり見ていると、いくら時間があっても足りない。
ここで「追分宿散策マップ」(有料)を分けてもらおう。追分宿を歩く参考になる。



沓掛宿(旧中山道を歩く 112)

2007年08月01日 08時34分32秒 | 4信濃(長野県)の.旧中山道を歩く(110~1


(歩道脇にある案内看板)

(沓掛宿2)
道路は、沓掛ならぬ中軽井沢の町中に入っていく。
やがて中軽井沢駅入り口があり、駅を左に見て進むと歩道脇に可愛い案内看板が目に付く。
赤い文字で、「Welcom-Nakakaruizawa」とあり、ハイキングコースが示されている。

その案内看板に
(この道を横に入って、1つ目の角を右折した先の大きなケヤキの下に、
皇女和宮が休憩した井戸があります、――以下省略」とあるので案内に従って進むと、
大きなケヤキの下に確かに井戸があったが、荒れ放題でごみ置き場のようになっていた。
元ここに本陣があったに違いない。このケヤキの手前に中軽井沢商工会の立派な事務所があるが、
先ほどの沓掛時次郎の碑文と比べると本陣の井戸の荒れようが信じられない。
土地の持ち主との間に確執でもあるのであろうか。せっかくの史跡が惨めである。


(大きなケヤキ)


(木の根元にある井戸の跡、石垣の中が井戸)

さらに西に進むと町外れの民家の庭先に、道祖神があり左面に
「左くさつ」と読める。この道しるべの先で国道と分かれ、旧中山道は左脇に入る下り坂となる。

道をすこし下り、右側にある道祖神をみてなお先に進むと、
道はのぼり坂となり国道18号と平行していることが分かる。
町並みが切れると、左右は畑や雑木林でところどころに馬頭観音や道祖神の石碑を見る。


(民家の庭先の道祖神)


(「左くさつ」と読める)


(「左くさつ」の道標から望む国道、中山道は左の下りの道へ)


(下り道に入ってすぐ右道路脇にある道祖神)


(あちらこちら沢山ある馬頭観音の石碑)


(あちらこちら沢山ある馬頭観音の石碑2)


(あちらこちら沢山ある馬頭観音の石碑3)


(あちらこちら沢山ある馬頭観音の石碑4)


(古宿公民館)


(秋葉神社)


(本殿)

しばらく歩くと、寂れた町-古宿-の中に入っていく。
やばて右手に古宿公民館があり、その先の同じ並びに石の鳥居がある秋葉神社がある。
秋葉神社は火の神であるから、村人が火事を恐れて祭ったものであろう。
街道には宿場の荷駄に使った馬に感謝の意を込めて、馬頭観音の石碑がところどころに見受かられ、
ずいぶん馬のお世話になったことが伺える。


(沢山ある馬頭観世音の石碑)


(男女の道祖神)

旧中山道はまた国道18号に合流するが、すぐ前方へ三本の道に分かれる場所に来る。
両サイドの道は上り坂になる。右側は国道のバイパスで、左側は上州(群馬)へ抜ける道である。

真ん中の道は下り坂になるが、これが旧中山道で、先の方が右にカーブしているのが分かる。
道に沿って進むと、カーブを曲がり終えたところに左へ入る道があるので、進路を左にとろう。
(ここのところはどのガイドブックにも載っていない)

旧中山道らしい道幅の道路で借宿の集落に入る。


(真ん中の下り道が旧中山道、先で右に曲がっているのが解る)


(右に曲がったところに左に分かれる道路がある、これが旧中山道)

古い町並みが続き、左側に馬頭観世音の石碑と共に、女街道の案内看板がある。

案内によると、
(碓氷の関所では、「入り鉄砲」「出女」の取調べがきびしく取り締まった。したがって、
女人は関所を避けて裏街道を通るようになった。これを「女街道」または「姫街道」といった。
「関所避けて 女人が多く 往来せし 姫街道」)(軽井沢町教育委員会)


(「女街道」入り口にある馬頭観音の石碑)

やがて右手に遠近宮(おちこちぐう)が見える。
遠近宮の境内は、苔むして杉の木も古風騒然としたたずまいで、

由緒によると、
「祭神は磐長姫命(いわながひめのみこと)と言い、古来より当地の鎮守産土の神として崇敬される。
現存の棟札によると享保年間(1716~1735)には社殿鳥居等整備せられたことが解るが、
それよりはるかに古く当借宿地方開発の当初守護神として奉祀せられたものである。
「信濃なる 浅間の山に立つ煙 遠近人の みやはとがめん」と
在原業平作の有名な歌によって遠近宮と奉称せられた。」(宮司水沢邦高記)


(遠近宮の鳥居)


(本殿)


(苔むした境内)


(境内は借宿公園で子供の遊び場)


(隣接する境内と不釣合いな近代的なトイレ)

苔むした境内を持つ遠近宮は、今は借宿公園ともなって、子供の遊び場にもなっている。
そのせいか、鳥居脇に、由緒ある神社には不似合いな超現代的な建物が、
公衆トイレのマークをつけて建っており、アンバランスで面白い。
その先に、杉玉(造り酒屋の)をぶら提げた家があり、軒下に道路元標が半分埋まった形で建っている。

「元西長倉村道路元標」とある。
借宿の地名になる前は、西長倉村といったのであろう。
今は酒造を辞めたご主人と長々世間話をしたが、家の中をすこし覗くと、
目に墨を入れた達磨や大小の徳利などが棚の上に沢山並び、その昔の繁盛振りが良く解った。
古風な雰囲気の寂れた街の感じは払拭できない。


(道路元標)


(杉玉のある家)


(旧家を思わせる建物)


(古風な寂れた街の感じの家)

旧中山道のこの界隈の信濃路は道が比較的平坦で荷駄は馬で運び、
険阻な道が続く上州は牛で荷駄を運んだという。
その為か、馬頭観世音を祀る立派な小塚を見ることが出来る。
小塚の前にある常夜灯の台石には、馬が戯れる飾りが刻まれている。
馬と共に生活して来た長い歴史が伺える。


(馬頭観世音の石碑のある小塚)


(常夜灯の足元に馬が戯れる図が刻まれている)


(もう一つの馬頭観世音の小塚)

まもなく国道18号線に合流するが、合流する先に4本のカラマツが見える。
その根元に「道しるべ」となる石標がある。

「ここより左 上州」 

は読めるが、その下になんと書いてあるか、ボクには読めない。

ここから追分宿に入る。


(国道の合流地点向こう側にある四本の唐松)


(根元にある「道しるべ」)