中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

象潟(3)-ねぶの花(芭蕉の道を歩く 74)

2019年11月06日 02時00分16秒 | 芭蕉の道を歩く
芭蕉が「奥の細道」の象潟で詠んだ俳句、

「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」

の西施については、前回理解した。

ねぶの花は合歓の花のことで、
これは象潟の蚶満寺(かんまんじ)の門前近くに沢山あると、
「奥の細道の旅ガイドブック」(三省堂)にある。

訪ねてみると、真新しく見える(西施像)があり、
その手前に「ねむの木」は一本植えてあるが、
見渡した所、周りにねむの木は無かった。
このとき見た合歓の木が、
ボクが初めて合歓の木と知った合歓の木であった。

先ず手始めに、近所の植物園に行って、
「ねむに木」はありますかと訊いて、
生えている場所を聞いてから、
植物園で「合歓の木」を見た。
残念ながら花は無く、
一本の合歓の木が葉を繁らしていた。

(西施像)


(合歓の木)


さて花は6月下旬から7月にかけての真夏に咲くものらしいが、
今年(2012)は天候不順で、異常気象でもあるから、
合歓の木さえ見つければ、あるいは花は咲いているかもしれない。
淡い気持ちで住まいの近くの心当たりを探したが、
まず、合歓の木自体が生えていない。

最近建設された近所の住宅団地に植栽されていないかと調べたら、
幸運な事に、七本ばかり合歓の木を見つけた。
しかし、さすがに花は見当たらなかった。

(植物園で見つけた合歓の木)


さらにネットを通じて、生えているところを探すと、
江戸川区の新長島川親水公園に合歓の木があることが判った。
その木から咲いた花を載せているHPも見つけた。

(新長島川親水公園)


(新長島川親水公園2)


(新長島川親水公園3)


早速、カメラ片手に暑い中を出かけたが、
親水公園は広く美しいが、林のように沢山生えている木の中に、
合歓の木はどれか、なかなか見つけることは出来なかった。
細長い公園で、公園の最後の所に二本大きな合歓の木があることが判った。
木は高いから仮に花が咲いていても、
ボクのカメラでは、写真に収めることが出来ないと、
諦めて帰りかけたが、
大きな合歓の木は土手の中腹にたっており、
土手の上は道路があることがわかった。
その土手の上の道路を通れば、
あるいは合歓の花は手近にあるかもしれない。

(親水公園の終り)


(土手の中腹にあった合歓の大木)


土手の階段を十数段登り道路に出る。
合歓の木の所へ出ると、
木には咲いた花の後に沢山の実が付いている。
遠い昔に咲いて、もう実が付いているのだ。
その実は充分ボクの手で獲ることができるほど近くにある。
花が咲いていれば、手で触れるほど近くにあるものを、
散った後では仕方が無い。

来年の6月頃来れば花が咲いており、写真も撮れるに違いない。
半ば諦めて帰ろうとしたところ、
はるか高い所に赤いものが見える。
半信半疑で目を凝らすと、
見間違うことないネットで調べた合歓の花で、
それも二~三個咲いている。
(合歓の花)


カメラを構えて写すも風があり、花が揺れて上手く撮れない。
手ぶれ補正のカメラであるが、ピンボケは補正できない。
残念ながらピンボケの合歓の花で我慢をしていただきたいと思う。
時期遅れの最後の花と思われます。

(ボケていて合歓の花が良く判らない)


(ピンボケの合歓の花)


その後近所の住宅団地に植えられた合歓の木を見ると、
花が付いているではないか。
小躍りして写真を構えるも、これも高い所にあり、
風で揺れピンボケになったが、
何とか見られそうなものを載せたいと思います。

(近所に見つけた合歓の花)


松尾芭蕉はずいぶん罪な人だ。
「象潟や雨に西施がねぶの花
の俳句を理解するのに、
何日も時間を費やしてしまった。



さらにその後、娘のお友達の家に鉢植えの合歓の木があると聞いて、
訪ねると、花が咲いている鉢植えの合歓の木があった。
これが一番花らしく見える。

(鉢植えの合歓の花)


(鉢植えの合歓の花2)


・ねむの花さがしもとめて西ひがし     hide-san



象潟(2)-西施とねぶの木(芭蕉の道を歩く 73)

2019年11月02日 01時57分47秒 | 芭蕉の道を歩く
芭蕉が歩いた道をたどって、訪ねる事を始めたボクは、
秋田県にかほ市象潟を訪ねた。

松尾芭蕉が奥の細道で、

本州の日本海側最北端、象潟へ行ったのは良く知られている。

(象潟の芭蕉像)


そこで詠んだ俳句、

「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」

も有名であるが、西施とねぶの花については、

いずれも名前は知っていても、
さて、どんな人、どんな花と聞かれると、
説明が出来ない。

「西施(せいし)」について、
絶世の美女と言われるが、世界三大美女の中には入っていない。
入っているのは「楊貴妃、クレオパトラ、小野小町」となっている。

美女というと、その容姿は時代によって左右されるから、
何とも言えないが、
切れ長の目でうりざね顔の柳腰が美女の時代、
おたふくで代表される美女の時代もあったに違いない。
今はAKB48に代表される美女群がちやほやされる時代である。

「楊貴妃」もその時代の肖像では、
でっぷり太ったふくよかな女性というから、
美人の定義も今とは違っている。

さて、その「西施」であるが、
これもその時代の美女であったことには、
間違い無さそうである。

「呉越同舟」で表現される、
「呉」と「越」の国が争っている時代の事である。
(大まかなあらすじを以下にのべる。詳しくは「中国五千年の歴史」を参照)

 (西施像)

                   

越王 勾践が、呉王 夫差に、復讐のための策謀として献上した美女、
西施と言う名の美女がいた。
貧しい薪売りの娘として産まれた西施は、
谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれている。
呉の国に送り込まれた西施に、呉の国王夫差は夢中になり、
呉の国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。
中国では美女の事を「傾城(けいせい)」ともよぶ。
(傾城=美女にかまけて国の運営をないがしろにし、城を傾けるから。)
西施は胸の病があったらしく、
彼女が胸元を押さえ、眉間にしわを寄せ悩む姿にはなんともなまめかしく、
か弱い女性の美しさがにじみ出ていたという。

西施にも弱点があったとされる。
それは大根足であったとされ、
常にすその長い衣が欠かせなかったといわれている。
しかし、この当時は大根足が美女の条件であったかもしれない。

西施を知らなければ、芭蕉の句を理解できない。

「象潟や 雨に西施が ねぶの花」

「奥の細道」の原文に、芭蕉は、

「面影松島にかよひて、又異なり。
松島は笑うが如く、象潟はうらむがごとし」


と言っているが、
美女西施の悩める姿と合歓の花を混ぜ合わせて、
雨にけむる象潟を表現したかったものと思われる。

岩波文庫「おくのほそ道」の注記によれば、
芭蕉のこの俳句の意を次のように解説している。

(雨にけぶる象潟は、
 悩める美女西施を思わせる、
 合歓の花の風情と通い合い、
 美しくもさびしさを深めている。)

そして次が「ねぶの花」である。
「ねぶの花」は「合歓の花」のことであるが、
合歓の木は、夕方から夜の間は葉が閉じることから、
ねむる木と言われ、それが「ねむの木」と呼ぶ事になったという。

この木を実際には見たこともなく、
象潟の西施像の前にあった合歓の木でしか知らない。
まして花はどんな花かボクは知らない。

(ねぶの木)


(つづく)