中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

象潟(3)-ねぶの花(芭蕉の道を歩く 74)

2019年11月06日 02時00分16秒 | 芭蕉の道を歩く
芭蕉が「奥の細道」の象潟で詠んだ俳句、

「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」

の西施については、前回理解した。

ねぶの花は合歓の花のことで、
これは象潟の蚶満寺(かんまんじ)の門前近くに沢山あると、
「奥の細道の旅ガイドブック」(三省堂)にある。

訪ねてみると、真新しく見える(西施像)があり、
その手前に「ねむの木」は一本植えてあるが、
見渡した所、周りにねむの木は無かった。
このとき見た合歓の木が、
ボクが初めて合歓の木と知った合歓の木であった。

先ず手始めに、近所の植物園に行って、
「ねむに木」はありますかと訊いて、
生えている場所を聞いてから、
植物園で「合歓の木」を見た。
残念ながら花は無く、
一本の合歓の木が葉を繁らしていた。

(西施像)


(合歓の木)


さて花は6月下旬から7月にかけての真夏に咲くものらしいが、
今年(2012)は天候不順で、異常気象でもあるから、
合歓の木さえ見つければ、あるいは花は咲いているかもしれない。
淡い気持ちで住まいの近くの心当たりを探したが、
まず、合歓の木自体が生えていない。

最近建設された近所の住宅団地に植栽されていないかと調べたら、
幸運な事に、七本ばかり合歓の木を見つけた。
しかし、さすがに花は見当たらなかった。

(植物園で見つけた合歓の木)


さらにネットを通じて、生えているところを探すと、
江戸川区の新長島川親水公園に合歓の木があることが判った。
その木から咲いた花を載せているHPも見つけた。

(新長島川親水公園)


(新長島川親水公園2)


(新長島川親水公園3)


早速、カメラ片手に暑い中を出かけたが、
親水公園は広く美しいが、林のように沢山生えている木の中に、
合歓の木はどれか、なかなか見つけることは出来なかった。
細長い公園で、公園の最後の所に二本大きな合歓の木があることが判った。
木は高いから仮に花が咲いていても、
ボクのカメラでは、写真に収めることが出来ないと、
諦めて帰りかけたが、
大きな合歓の木は土手の中腹にたっており、
土手の上は道路があることがわかった。
その土手の上の道路を通れば、
あるいは合歓の花は手近にあるかもしれない。

(親水公園の終り)


(土手の中腹にあった合歓の大木)


土手の階段を十数段登り道路に出る。
合歓の木の所へ出ると、
木には咲いた花の後に沢山の実が付いている。
遠い昔に咲いて、もう実が付いているのだ。
その実は充分ボクの手で獲ることができるほど近くにある。
花が咲いていれば、手で触れるほど近くにあるものを、
散った後では仕方が無い。

来年の6月頃来れば花が咲いており、写真も撮れるに違いない。
半ば諦めて帰ろうとしたところ、
はるか高い所に赤いものが見える。
半信半疑で目を凝らすと、
見間違うことないネットで調べた合歓の花で、
それも二~三個咲いている。
(合歓の花)


カメラを構えて写すも風があり、花が揺れて上手く撮れない。
手ぶれ補正のカメラであるが、ピンボケは補正できない。
残念ながらピンボケの合歓の花で我慢をしていただきたいと思う。
時期遅れの最後の花と思われます。

(ボケていて合歓の花が良く判らない)


(ピンボケの合歓の花)


その後近所の住宅団地に植えられた合歓の木を見ると、
花が付いているではないか。
小躍りして写真を構えるも、これも高い所にあり、
風で揺れピンボケになったが、
何とか見られそうなものを載せたいと思います。

(近所に見つけた合歓の花)


松尾芭蕉はずいぶん罪な人だ。
「象潟や雨に西施がねぶの花
の俳句を理解するのに、
何日も時間を費やしてしまった。



さらにその後、娘のお友達の家に鉢植えの合歓の木があると聞いて、
訪ねると、花が咲いている鉢植えの合歓の木があった。
これが一番花らしく見える。

(鉢植えの合歓の花)


(鉢植えの合歓の花2)


・ねむの花さがしもとめて西ひがし     hide-san



象潟(2)-西施とねぶの木(芭蕉の道を歩く 73)

2019年11月02日 01時57分47秒 | 芭蕉の道を歩く
芭蕉が歩いた道をたどって、訪ねる事を始めたボクは、
秋田県にかほ市象潟を訪ねた。

松尾芭蕉が奥の細道で、

本州の日本海側最北端、象潟へ行ったのは良く知られている。

(象潟の芭蕉像)


そこで詠んだ俳句、

「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」

も有名であるが、西施とねぶの花については、

いずれも名前は知っていても、
さて、どんな人、どんな花と聞かれると、
説明が出来ない。

「西施(せいし)」について、
絶世の美女と言われるが、世界三大美女の中には入っていない。
入っているのは「楊貴妃、クレオパトラ、小野小町」となっている。

美女というと、その容姿は時代によって左右されるから、
何とも言えないが、
切れ長の目でうりざね顔の柳腰が美女の時代、
おたふくで代表される美女の時代もあったに違いない。
今はAKB48に代表される美女群がちやほやされる時代である。

「楊貴妃」もその時代の肖像では、
でっぷり太ったふくよかな女性というから、
美人の定義も今とは違っている。

さて、その「西施」であるが、
これもその時代の美女であったことには、
間違い無さそうである。

「呉越同舟」で表現される、
「呉」と「越」の国が争っている時代の事である。
(大まかなあらすじを以下にのべる。詳しくは「中国五千年の歴史」を参照)

 (西施像)

                   

越王 勾践が、呉王 夫差に、復讐のための策謀として献上した美女、
西施と言う名の美女がいた。
貧しい薪売りの娘として産まれた西施は、
谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれている。
呉の国に送り込まれた西施に、呉の国王夫差は夢中になり、
呉の国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。
中国では美女の事を「傾城(けいせい)」ともよぶ。
(傾城=美女にかまけて国の運営をないがしろにし、城を傾けるから。)
西施は胸の病があったらしく、
彼女が胸元を押さえ、眉間にしわを寄せ悩む姿にはなんともなまめかしく、
か弱い女性の美しさがにじみ出ていたという。

西施にも弱点があったとされる。
それは大根足であったとされ、
常にすその長い衣が欠かせなかったといわれている。
しかし、この当時は大根足が美女の条件であったかもしれない。

西施を知らなければ、芭蕉の句を理解できない。

「象潟や 雨に西施が ねぶの花」

「奥の細道」の原文に、芭蕉は、

「面影松島にかよひて、又異なり。
松島は笑うが如く、象潟はうらむがごとし」


と言っているが、
美女西施の悩める姿と合歓の花を混ぜ合わせて、
雨にけむる象潟を表現したかったものと思われる。

岩波文庫「おくのほそ道」の注記によれば、
芭蕉のこの俳句の意を次のように解説している。

(雨にけぶる象潟は、
 悩める美女西施を思わせる、
 合歓の花の風情と通い合い、
 美しくもさびしさを深めている。)

そして次が「ねぶの花」である。
「ねぶの花」は「合歓の花」のことであるが、
合歓の木は、夕方から夜の間は葉が閉じることから、
ねむる木と言われ、それが「ねむの木」と呼ぶ事になったという。

この木を実際には見たこともなく、
象潟の西施像の前にあった合歓の木でしか知らない。
まして花はどんな花かボクは知らない。

(ねぶの木)


(つづく)


象潟(1)-蚶満寺(かんまんじ)(芭蕉の道を歩く 72)

2019年10月31日 01時56分58秒 | 芭蕉の道を歩く


(芭蕉像、看板に奥の細道最北の地とある)

(象潟(きさがた)
鶴岡から船で坂田(現酒田市)へ七里、
酒田は、米、大豆、紅花などを出荷して、
塩、木綿、木材などを入荷する。
四~11月までの間に2,500艘の船が出入した港と言う。
大商業地であったらしく、
芭蕉も歓待されたのであろう、
滞在途中、酒田から象潟へ向かい、
九十九島、八十八潟を眺めて、
四日後には酒田に戻り、
酒田には実質九日間も逗留している。

その象潟へボクも尋ねた。

芭蕉の頃は、仙台の松島に似て、
海に点々と浮ぶ美しい小島であったに違いない、
九十九島、八十八潟と言われる海に浮ぶ島々は、
今は稲穂がたれる田圃の中の小山に過ぎない。

(九十九島の一部)


しかし芭蕉は、象潟で船に乗り象潟の島々を眺め、
蚶満寺(かんまんじ)を訪ねている。
その蚶満寺で船を止め上陸し、
西行法師が詠んだ桜の老木を見て、
蚶満寺の方丈に座り簾を上げて風景を眺めている。

(奥の細道蚶満寺)


(南に鳥海山が聳え、西にはうやむやの関が道を塞ぎ、
東には堤が築かれて、秋田への道が続いている。
北には海があり、その面影は、
点々と島がある松島に似ているようであるが、
似て非なるもののようである。)
(ボクの勝手な現代語訳)
と感想を述べている。

「奥の細道」の原文では、

松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。
寂しさに悲しみをくわえて、
地勢魂をなやますに似たり。


(松島は笑顔をたたえた様であるが、
象潟の有様は、憂いに沈む美人の風情である。)
(岩波文庫「おくのほそ道」注記より)

「象潟や雨に西施がねぶの花」
「汐越や鶴はぎぬれて海涼し」


と詠んでいる。

(西施像)


(ねぶの木)


(ここで「西施」と「ねぶの花」が解らないが、
次回、調べた範囲でその説明をしたい。)

さて、蚶満寺には松並木に囲まれたひなびた参道があり、
左手は一面の緑の稲穂の中に象潟の島々がみえ、
参道右手には芭蕉像と句碑、
造ったばかりに感じられる西施像がある。

(ひなびた長い参道)


(左手の島々)


(芭蕉像)


ながい参道の突き当たりに、
古色蒼然とした佇まいの山門があり、
その先に六地蔵が出迎えて、
赤い帽子と前掛けをつけて建っている。
本堂へはうっそうとした木立の中を抜けていかなければならない。

(古色蒼然とした山門)


(林がかぶさるような本堂への道)


(六地蔵)


(鐘楼前の芭蕉の木)


(本堂)


(西行の歌桜)


すぐ目の前に鐘楼があり、手前に芭蕉の木が目に入る。
芭蕉があるということは、
東北とは言え、このあたりは温暖なのであろう。
左手に本堂が見える。
本堂左横を潜り抜けると、裏庭に通じており、
西行が歌を詠んだ桜の木(何代目かの若木)と歌碑が左手にあり、

・きさかたの桜は波にうずもれて
         花の上漕ぐ海士(あま)のつり舟


とある。
その手前に芭蕉が船から降りた「舟つなぎ石」があり、
イヌクスの大木が枝を広げ、
右手は盛り上がった小山があり芭蕉句碑が置かれている。

(芭蕉句碑)


芭蕉句碑には、

・象潟の雨に西施がねぶの里

と初案の句が刻まれている。


(舟つなぎ石)


(イヌクスの木)




湯殿山神社ー「語る無かれ、聞くなかれ」の霊域(芭蕉の道を歩く 71)

2019年10月29日 01時48分42秒 | 芭蕉の道を歩く



(湯殿山の大鳥居)


(湯殿山神社)
月山から、芭蕉は「奥の細道」に
(月出でて雲消ゆれば、湯殿に下る。)
と書いている。

月山から湯殿山に下る途中、三尺ほどの桜の木が、
花開きかけているの見つけて、
月山は雪深いが、桜は雪に埋もれていても、
春を忘れないでいる花の心はすばらしい、と感心している。

「奥の細道」を見ると、
月山から芭蕉は山を下って湯殿山へ向っているが、
ボク達はバスで、月山を下り、湯殿山神社へ上っている。
湯殿山神社の赤い大きな鳥居が見える駐車場で、
シャトルバスに乗り換え、十分ほどシャトルバスに揺られ、
湯殿山神社の神域に入る。
ここから先は、カメラ撮影は禁止区域だと念を押される。
さらに細い山道を登り、ご神体のある場所の手前、
お払い場所に到着する。


(駐車場が見える湯殿山の鳥居)


(シャトルバスに乗り換えさらに山を登る)

湯殿山神社参詣の折、ここから神域と言う所まで来て、
衣服を整え、所持品をカメラもお金も全て小屋に置いて、
履物を脱いで裸足になる。
その後、御祓いを受けてからでないと、
本宮の参詣は許されない。

お祓いを受ける際、人型に切り抜いた紙を渡され、
お祓いを受けた後、その紙で身体を頭から手、胴、足へと撫で回し、
自らの穢れを祓う。
清めた人型の紙は、ご神体から流れ出た水に自らの穢れと共に流す。

湯殿山は古来出羽三山の奥宮とされ、
芭蕉が奥の細道に書いているように、
(惣じて、この山中の微細、行者の方式として他言する事を禁ず。)
湯殿山神社は、修験道の霊地で、「語るなかれ」「聞く無かれ」と、
戒められた聖地である。
従って微に入り細に渡って書いてはならない、とされる。
本当は何も書かず、お知らせしないのが、
湯殿山神社にとって、神秘で幽玄な修験道の霊地となるが、
敢えて、決まりを破って、記憶の範囲で述べたい。

ご神体は赤い大きな岩でその上をお湯が絶えず流れており、
その上を3mほど素足で上る。
お湯は五十度ほどの温度だそうで、
最初素足には熱く感じるが、急な上りを歩くうちに慣れてくる。
お湯は大きな黒い岩を六分ほど登ってところから、
滾々と湧き出ている。
湧き出ている所には編んだ青竹の蓋がしてあった。

赤い大きな岩を降りてくるときは、滑り落ちないように、
竹で作った手すりに捕まりながら、上ってきた同じ道を降りてくる。
降りきった所に、足湯が出来る場所があり、
足をお湯につけて、熱いお湯にさらされた足をなだめる。
上がって足をタオルで拭くとタオルは赤く染まっていた。
ご神体の赤い大きな岩の色は鉄分によるものと思われる。

この赤い大きな岩のご神体には、お金が落ちていた。
この場所では、拾う事も叶わない霊域で、
芭蕉の時代には、懐に入れたお金がばらばらと落ちた事は、
容易に想像される。あるいは賽銭として投げたものであろうか。

そこで、芭蕉が詠んだ俳句、

・ 語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもと)かな

(きまりで語ることが出来ない湯殿山の神秘なありがたさに、
思わず涙を流し、袂も濡れた事である。)も、

曾良が詠んだ俳句、

・湯殿山 銭ふむ道の 泪かな

(湯殿山の参道に賽銭が散らばっている。
拾う人も無い銭を踏みつつ神域の尊さに涙が流れる)の、

双方の句の意味がよく理解できる。

話し変わって、
その後、足を拭いて赤く汚れたタオルを見ないが、
カミサンが処分してしまったに違いない。
霊験あらたかなご神体から、
流れ落ちるお湯をふき取ったタオルだから、
どこかに大切にしまってあるかもしれない。

足を拭き終わって、身支度を整えてから、
自らの穢れを流した、人型の紙が流に浮かんでいたので、
流に浮ぶ大勢の人型の紙を、写真に撮りたいと、申し出ると、
「撮影は禁じられています。」という。
「どうしてですか?」と訊くと、
「これは女性の裸を撮るようなものです。」と回答された。
神秘なものと言いたかったのか、わいせつ罪に問われますよと、
言いたかったのか判らないが、それに反論して、
「ボクはヌード写真家だから丁度良いじゃあないですか」というと
相手の方は黙り込んでしまった。

からかうのも気の毒になって、
カメラをそこでそっとオンにして、
首からぶら下げたまま引き下がった。

霊場から少し離れて坂を登ったところで、
紙人形を浮かべた場所が見える所に来たので、
そっとシャッターを切った。
後で見たら、ピンボケで残念ですが
(神社から言えば、丁度良かったかも知れない)、
人型に切り抜いた紙が浮ぶ流れが、
撮れていますのでご覧ください。

湯殿山神社から芭蕉たちは月山に戻り、
鶴岡へ行っている。


(ピンボケの流れに浮ぶ人型に切り抜いた紙々)

なお、湯殿山には、赤い大きな鳥居下に即身仏がいくつかあったが、
今は、映画「月山」で使用したレプリカの即身仏が置かれてある。




月山の八合目ー弥陀ヶ原湿原(芭蕉の道を歩く 70)

2019年10月26日 01時46分06秒 | 芭蕉の道を歩く


(車窓から見た月山ー遠くの奥に見える右側の山)

(月山の弥陀ヶ原湿原)
芭蕉は、出羽三山では、羽黒山から月山・湯殿山と参詣して、
湯殿山ー月山ー羽黒山と戻り、
鶴岡に行っている。

昨日羽黒山へ行ったから、
芭蕉と同じように、月山に向う。
月山に向うといっても、
羽黒山の階段ですら昇れない年寄りのボクは、
標高1984mある月山には、八合目までバスにお願いする。
八合目まで行ったとしても、
そこから頂上まで行ってかえるには、
健脚の方で2時間半かかると言うから、
ボク達は月山の雰囲気だけ味わう意味で、
八合目にある弥陀ヶ原湿原を歩く事になっている。


(月山ー弥陀ヶ原湿原)

湿原とは言いながら、
1時間ほど前までガスが掛かって、
一メートル前も見えない状態であった場所。
幸運と言うのか、風がガスを払いのけて見晴らしが良くなっている。
少なくとも湿原だけは見ることが出来る。
それでも標高1400mあるというから、山はあなどれない。
時には月山の全貌も少しは見えるかなといった期待はあった。


(ガスに囲まれる弥陀ヶ原湿原、芭蕉が「雲霞山気の中に」と述べた)


(霧に包まれた月山、山裾が少し見える)


(湿原が見える程度の霧)


(雲霞の間に見える湿原)

ここで「奥の細道」から芭蕉の名文を載せておきたい。

「八日、月山にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身に引きかけ、
宝冠に頭を包み、強力というものに導かれて、
雲霞(うんか)山気の中に、
氷雪を踏んでのぼる事八里、
更に日月行道(にちげつぎょうどう)の雲関(うんかん)に入るかとあやしまれ、
息絶え(いきたえ)身こごえて頂上に至れば、
日没して月顕(あらわ)る。
笹を鋪(しき)、篠を枕として、臥して明くるを待、
日出でて雲消(きゆ)れば、湯殿に下る。ー後略」


(注、岩波書店「奥の細道」の解説による)
(*1)木綿しめ= 紙縒り(こより)で作った袈裟のことで、
月山、湯殿山に登る間、これを首にかけた。
(*2)宝冠=頭を覆う白布のかぶりもの。
(*3)日月行道の雲関に入る=高い所だから、
太陽と月が雲で作った関所に入ったかの様の思われ。

八合目の月山レストハウス前に集合して、
二班に分かれてガイドに従う事になる。
レストハウスの前には山伏のような、
神々を詣でる白装束の人が何人かいた。


(白装束の先達が白い宝冠というかぶりものを付けている)

山岳ガイドは、湿原の案内が年寄りの大勢で、
がっかりしたようであるが、準備運動をさせて、

「一緒に歩いて行けないと思ったら、
勇気を出して、どうぞリタイアしてください、
道は木道になっていて判りやすいので、
恥ずかしい事はありませんから、遠慮なく戻ってください。
ただ、その場合は近くの方に判るようにしてください。
一列で進みますので、後ろのほうは、私にも解りませんので。」という。

こんな時、足に自信のある方が、ガイドのすぐ後ろにいるものである。
ボクはこんな時、意識してなるべく後ろの方にいるようにしている。
十年に及ぶ長い旅行の経験からだ。
誰が何処で抜けたか、記憶しておくと便利であるからだ。

最近、外国の旅行では、イヤホーンガイドが多くなっているが、
旅行者は興味のあるところで、立ち止まって観ていると、
どんどん集団から離れていても、
耳にはいやホーンがあるから説明が近くに聞こえ、
集団はすぐ近くにいるように錯覚してしまうからだ。

特にカメラなど構えている人は、
アングルだとか、シャッタースピードとか、
あれこれカメラをいじっている内に、
集団から遠く離れている事があるからだ。
挙句の果てに思わぬ方向に移動してしまい、
迷子になるケースがある。

脱線してしまったが、
(霧が晴れた僅かな時間に、
月山の湿原をよく見て欲しい)ガイドの希望もあって、
少し早めに歩くが、付いていくのが厳しい人もいる。
一列になっているから列が長く伸びてしまう。
ガイドさんは声が大きく、高山植物の名前もよく聞き取れるが、
さて、どの花の名前か後ろの方では、よく判らない。


(高山植物)


(高山植物2)


(あざみ?)

やっと覚えた湿原に咲く高山植物の名前も、
そのときは覚えているのに、
家に帰ってお風呂に入ったが最後、
忘れてしまう。

湿原の中にあるさまざまな形をした池を「池塘(ちとう)」と言うらしいが、
ハートの形をしたり、ひょうたんの形をしたり、
さまざまであるが、一ついえることは、
風が吹く方向に深く入り込んでいるとのこと。
さまざまな「池塘(ちとう)」をご覧ください。


「池塘(ちとう)」


(ハートの形をした池2)


「池塘(ちとう)3」


「池塘(ちとう)4」


「池塘(ちとう)の中の花」

やがて月山頂上への登山口に出る。
登山口には鳥居があって、
手前に「東日本大震災」で被害を受けられた人の冥福を祈る卒塔婆があり、
新しい地蔵像が建っている。
その手前に、狛犬でなく、大きな兎の石造がある。
月山の月にちなんで兎かと洒落ている。


(なで兎と書いてある)


(月山頂上へ八合目の登山口)


芭蕉は月山に登り、

・雲の峯いくつ崩れて月の山

(日中峰にかかっていた入道雲が、いくつか崩れて、
今は月山に月が、かかっている。)

の俳句を残し、湯殿山に向っている。




羽黒山 五重塔(芭蕉の道を歩く 69)

2019年10月24日 01時41分00秒 | 芭蕉の道を歩く


(長~い階段)

(五重塔)
羽黒山の三神合祭殿に来るには、
麓から2446段の2kmの及ぶ階段を、
一の坂、二の坂、三の坂と登ってくるのが普通であるが、
この階段を登るには年寄りには厳しかろうと、
旅行社が前もって組んだ計画が、
バスで最初に羽黒山頂のバスターミナルへ到着、
そして、三神合祭殿に出る、であった。

参拝後、バスで山を下り、
羽黒山への入り口、出羽三山神社への石の鳥居をくぐり、
その後ろにある古風な随身門をくぐり、
恐るべき長が~いの階段に沿って、
祓川を神橋で渡り、右手の祓川神社を横に見て進む。

(出羽三山神社の石の鳥居)


(古風な随身門)


(祓川を渡る神橋)


(橋の向こうに見える祓川神社)


(祓川神社後ろの須賀の滝が見える)


祓川神社の後ろにある滝、須賀の滝は、
江戸時代に遠く月山から水を引いて造られた。
階段をしばらく進むと、左手上の奥に五重塔が見える。

(五重塔)


出羽三山神社によると
(国宝五重塔は、1050年ほど前の承平年間に、
平将門の建立と伝えられる。
長慶天皇の文中年間に再建(約620年前)。
慶長十三年出羽守最上義光が修造し今日に至るとされる。    
               -中略
昭和四年国宝に指定され、素木(しらき)造りの�達葺(こけらぶき)、
釘一本使われていない。)
高さ24mほどあり見事なものであり感動した。

(2446段の階段の始まり、この先一の坂へ続く)


階段はこのあと続いて、一の坂、二の坂、三の坂となるが、
時間が合って休み休みならともかく、年寄りにはこれ以上無理と言うもの。
階段を下って随身門近くは、上り階段となる。

随身門を出るとここ羽黒山へは、
芭蕉が来た事を示す案内杭が立てられている。

「奥の細道芭蕉翁来訪の地」と白地に黒々と書かれている。

羽黒山で、芭蕉は、

・涼しさやほの三日月の羽黒山

の句を残している。

(芭蕉来訪の地の看板)






出羽三山の内 羽黒山(芭蕉の道を歩く 68)

2019年10月22日 01時38分48秒 | 芭蕉の道を歩く


(出羽三山の配置地図)


(羽黒山)
バスに連れられて、先ず羽黒山に行く。
頂上のバスターミナルには、すでに先客のバスが来ている。
回りは古い杉木立が並んでいて、
これこそ古い神社、という感じだ。
ボクにとっては、箱根の杉並木、日光東照宮の杉並木を想い起こさせる。

(羽黒山山頂のバスターミナル)


昼食をとって、羽黒山神社へ。
杉並木の中を抜けて、
しばらく行くと左手奥に、蜂子(はちこ)皇子陵があり、
墓には菊の御紋があり、今も宮内庁管理で、宮内庁と記され事務所用の小屋がある。

(*)蜂子皇子は父の崇俊天皇(592)が、蘇我馬子によって暗殺されたため、
馬子から逃れるため、海を船で北に向かい鶴岡市由良にたどり着いた。
カラスに導かれて羽黒山に登り出羽三山を切り開いた。


(杉並木)


(杉並木2)


(杉並木左手、宮内庁管理の蜂子皇子の墓)


さらに進むと、紅い大きな鳥居があって、
扁額に「出羽(いでは)神社、月山神社、湯殿山神社」とあり、
広々とした場所に出る。
三神合祭殿があるところである。
出羽(いでは)神社とあるのは羽黒神社のことを言うのかと思いながら進む。

(赤い大鳥居)


(下乗(馬は下りろ)の文字が見える大鳥居)


(鳥居の扁額)


右手前には、芭蕉の行脚銅像がある。
行脚像の右手に芭蕉句碑があり、三山巡礼の句が刻まれている。

・ 涼しさやほの三か月の羽黒山
・ 語られぬ湯殿にぬらす袂かな (加多羅礼努湯登廼仁奴良須當毛東迦那)
・ 雲の峯幾つ崩れて月の山

第一句と二句の変体仮名は読めたが、第三句は読めなかった。
ガイドさんに聞いて、やっと解かった。

(芭蕉の行脚像)


(芭蕉の三山巡礼句碑)


赤い鳥居をくぐると、右手に鐘楼があり、その奥に参集殿がある。
さらに左へ目を向けると、三神合祭殿がある。
厚い茅葺屋根に覆われた荘厳な神殿である。
仲間の人たちは競って階段を昇り御参りをする。
三神合祭殿の前に、鏡池がある。

(参集殿と鐘楼)


(鐘楼)


(三神合祭殿)


(三神合祭殿 2)


(鏡池)


古鏡と題して次のように説明板が建っている。
(鏡池は、御手洗の池といい、
古鏡が多数埋納されていたので鏡池とも言う。
今までに五百面以上の出土を見たが、
現在、神社の博物館に百九十面が収録されている。
これは平安から鎌倉時代に行われた、
池中納鏡の信仰によるものである。
殆んどが青銅鏡で、時代別に見ると、
平安九十一面・鎌倉五十三面・江戸三面・時代不詳三十七面である。
出羽三山の信仰を物語る貴重な資料で、
現在重要文化財に指定されている。)

杉木立に囲まれた池は、古鏡がなくなったせいか、
一面に浮き草が繁茂している。
どうやら黄色の花が咲く「こうほね」であるらしい。

(鏡池 2)


古い鏡を見るために、博物館へ入る。
入り口に大きな天狗の面とカラスの面が並んでいた。
展示室に入ると、ボク達夫婦二人だけの閲覧者で、
冷房が効いていてとてもさわやかであった。

霊山だけあって、山伏の衣裳などが展示してある中、
古鏡も何点か飾られていた。
大きな手鏡を予想していたボクには、
直径20cm以下の大きさの青銅製の鏡であったのには少々がっかり。

(天狗の面)


(山伏の衣裳)


(古鏡)


しかし平安・鎌倉時代の古鏡で貴重なものであろう。
当然、まわりの商人達は「古鏡」と名づけた和菓子を作って、
商売にするという抜け目無さは目に余る。

しかしカミサンが自分の友人のお土産に購入したのは、
言うまでも無い。

芭蕉の足跡を歩く事が目的のボクとしては、
今日は、まずまずの成果であった。



世界文化遺産の毛越寺(もうつうじ)と観自在王院跡(芭蕉の道を歩く 67)

2019年10月19日 07時38分20秒 | 芭蕉の道を歩く
(平泉7)
中尊寺の金色堂・旧覆堂・経蔵をみて、芭蕉像も見て、
月見坂を下り、中尊寺の信号をわたり、
金鶏山の麓を廻って、一関学院の生徒の案内で、
平泉文化遺産センターに到着する。
平泉の文化遺産にまつわる資料の展示がしてある。

女性は十二単衣を試着し、展示してある牛車に乗ることが出来る。
男性も往時の衣装を着用できるが、見学者で試着する人はいなかった。
ずいぶん重そうな衣装に見えた。

見学を終えて外に出ると雨がぱらついており、
文化センターに置いてある傘を生徒が借りてきて、
必要な人に配っていた。
ボクは、天気予報によると「平泉地方は、晴であるが午後3時ごろ、
弱い雨がある」とのことだったので、傘を用意していたが、
時間までぴったり合っている天気予報の正確さに驚いた。

傘を差してしばらく歩くと、アスファルトの道路に水たまりができ、
天気予報の弱い雨の程度を推し量ることが出来た。
そう思った頃に、雨は小降りになり、止んでしまった。

すると、「間もなく毛越寺です。元気を出してください。」
一関学院の生徒さんが勇気づける。
雨は降るし、通算8kmになることは解っていたが、
文化センターでの休憩が疲れを増幅したようだ。

重い足を引きづって松林が見えてきた。
目的地である。

毛越寺を(もうつうじ)とはなかなか読めない。
初めて毛越寺を知ったとき、ボクは(もうえつじ)と読んで居た。
ある時、カナをつけたガイドブックを見て初めて(もうつうじ)と読むのを知った。

中尊寺方面からくると「観自在王院跡」に先に到着する。
しかも入口はないから裏側から入って行く感じだ。
「観自在王院」は二代基衡の妻が建立したと伝えられる寺院でその跡地。
ほぼ完全に残っている浄土庭園の遺構は、
平安時代に書かれた日本最古の庭園書、
「作庭記」の作法どうりで、
極楽浄土を表現した庭園と考えられている。」(岩手県教育委員会)

(観自在王院史跡公園の案内)

(雨上がりで雲の厚い観自在王院庭園)

(観自在王院跡と毛越寺の間にある車宿であった所、牛車が並んだ)


「観自在王院」は、藤原二代基衡の妻が作ったものであるが、
「毛越寺」は、
「二代基衡が造営に着手、三代秀衡の代になって完成した。
往時には堂塔40、禅房500の規模を誇り、
金堂円隆寺は「吾朝無双」と評された。
池は大泉ヶ池と呼ばれ、平安時代の優美な作庭造園の形を
今にとどめています。」(岩手県教育委員会)

すべての建物は焼失したが、浄土庭園と南大門などの伽藍遺構はほぼ残されている。

(毛越寺入口)

(毛越寺の本堂)

(毛越寺の大泉ヶ池、奥に見える白い棒杭が塔堂のあった場所)

(毛越寺の大泉ヶ池2)

(南大門から見た池)

(塔堂の跡)

(塔堂の跡2)


大泉ヶ池に流れ込む「鑓水(やりみず)」の遺構は、往時のまま発掘された。
「鑓水」については説明板をご覧ください。

(鑓水の説明板)

(鑓水)


説明板によると、「鑓水」は「曲水の宴」(*)の舞台になるとあるが、
清らかな水の流れを利用し、流れてくる盃で酒を飲み、
流れてくるまでの間に一首歌を詠み、盃を流す遊びの場となった。

(「曲水の宴の図」ネットより)


(*)「曲水の宴」(きょくすいのうたげ(えん)、ごくすいのうたげ(えん))とは、
水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、
流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、盃の酒を飲んで次へ流し、
別堂でその詩歌を披講するという行事である。(Wikipediaより)

毛越寺を出る前に、毛越寺の紹介でよく見る写真「大泉ヶ池の立石」をご覧ください。



おわりに、熱心に観光して、沢山質問をしたせいか、岩手TVのインタービュー受けたが、
実際に放映されたかどうかは解らない。

最後に、
一関学院高校郷土史文化研究会の顧問の先生から挨拶があり、
修了式があった。
お礼代わりに、
「学生生活はこれだけじゃあないから、しっかり勉強もしなさいよ」
と言って別れてきました。


とても楽しい一日が終わった。


(挨拶をする、クラブ顧問)

(生徒達1)

(生徒達2)


・気高さに 心洗われ 百舌鳥が鳴き    hide-san


世界遺産:中尊寺と金色堂(芭蕉の道を歩く 66)

2019年10月16日 07時36分07秒 | 芭蕉の道を歩く
(杉木立の月見坂)


(平泉 6)
月見坂をさらに進むと右手の石段の上に中尊寺の山門がある。

平泉には二度目の訪問であるが、前回は観光バスでやってきて、
記憶に残るのは金色堂だけである。
平泉に来たのに中尊寺そのものが全く記憶にない。
まして本堂がどんな形であったのか、仏像はどんなだったかも覚えていない。

前回訪ねた時には、中尊寺そのものが無かったのではないだろうか、と思えるほどだ。

(中尊寺山門)

(中尊寺本堂)

(本堂入口の参拝客)

(本堂の金色の仏像)


本堂に上がって仏像を眺める。金ぴかの坐像である。
仏像がどんな印を結ぶのか、その印がどんな意味を持つかよく知らないが、
確かに見たことのない印の形をしている。
仏像の右手は手の平を前に向けて胸の高さに有り、
左手は甲を前に向けて、二本の指(親指と人差し指)を上に向けている。

中尊寺は、最澄を祖とする天台宗と言うから、密教で、
寺格は別格大寺、天台宗大本山である。

仏経なのになぜ密教と言うのか、以前 疑問を持ったことがある。
お釈迦様が涅槃に入り、真理の中で楽しんだ時の教えだから、
つまり死後の世界を漂うなかでの教えと言うから、
誰にも分らない秘密の教えー密教と言う仏教らしい。

物語で言えば「西遊記」であるが、玄奘三蔵法師がインドから中国に帰国後、
翻訳した聖典ーお経は極楽浄土へ行く方法を記したものーで、
実に八万五千通りあると言う。

韓国を旅行した時「海印寺」で、八万大蔵経の版木が八万枚残されていた。
しかもこの経典が戦火で無くなっても、つまり浄土への道のりの教えが無くても、
極楽往生できるのが禅宗で、努力に努力を重ね修行に修業を重ね、
自らその道を会得する教義を持つ教えをお釈迦様は残された。
それが禅宗で、これが武士の世界に共感を呼び広まったらしい。

話がそれてしまったから、戻そう。
平泉は、奥州藤原氏が密教の教えに従って想い画いた、
仏国土(極楽浄土)を現わす建造物と庭園群により、世界遺産に登録されることになった。

中尊寺の仏像は、その浄土を説き指し示しているのではないだろうか。
金色堂が示すように、
この世にない黄金の輝きの中に浄土を探し求めたように思える。

さらに進むと、金色堂、経蔵、旧覆堂に着く。

芭蕉は、
兼ねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、
光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、
珠の扉風に破れ、金(こがね)の柱霜雪に朽ちて、
すでに頽廃空虚の叢(くさむら)と成るべきを、四面新に囲みて、
甍を覆ひて風雨を凌ぐ。
暫時(しばらく)千載の記念(かたみ)とはなれり。

・五月雨の 降りのこしてや 光堂
」と述べている。

(金色堂の案内)

(金色堂への道)

(「七宝散りうせて」の七宝を散りばめた柱(東北歴史博物館のレプリカより)

芭蕉が尋ねた時は、すでに四面を囲み覆堂が出来ていた。
現在の覆堂はコンクリート製であるが、旧覆堂も残っている。
芭蕉が言う二堂開帳すの二堂は、覆堂内の金色堂と経蔵のことだ。
光堂には「三代の棺を納め」とあるのは、
初代清衡、二代基衡、三代秀衡の三人の遺体を指しているが、
義経を自害させ、頼朝に討たれた泰衡の首級が納められており、
今では、親子四代のご遺体が納められていることが判っている。

(撮影できない金色堂ネットから)

(撮影できない金色堂内陣ネットから)


芭蕉が言う「経堂は三将の像を残し」と言っているが、これは現在の経蔵のことではないようで、
金鶏山のことを言っているようだ。(奥の細道菅菰抄より)

*「奥の細道菅菰抄」は別名 高橋利一著の解説書で、
芭蕉の100年後に著わされた、第一級の解説書と言われている。

(経蔵)


(芭蕉が見た旧覆堂)

(芭蕉像と「奥の細道」文学碑)


・秋風の 祈りにほほ笑む 仏さま  hide-san

武蔵坊弁慶(芭蕉の道を歩く 65)

2019年10月14日 07時32分49秒 | 芭蕉の道を歩く
(関山中尊寺入口)


(平泉 5)
(中尊寺)信号を渡った右手は「関山中尊寺」の石柱がみえ、
月見坂が奥に続いている。

(中尊寺)の信号左手に、古い松の生えた一画があり、ここが弁慶の墓である。
弁慶の墓には立派な墓碑があり、墓は竹垣に囲まれ一段高くなっている。
そこに松が植えられ、五輪の塔と句碑が建っている。

義経の居城高館が焼打ちされるや、弁慶は寄せ来る敵の前に立ち、
(この先に進むことならず)と長刀を立てて立ちふさがった。
最後まで主君を守り、ついに衣川の古戦場で立往生したと言う。
遺骸をこの地に葬り五輪の塔を建て、
後世、中尊寺の僧 素鳥の詠んだ句碑が建てられた。

句碑に

・色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊

とある。

(弁慶の墓の案内)

(武蔵坊弁慶の墓の碑)

(松の木と五輪の塔と句碑)

(武蔵坊の「武」がかろうじて読める句碑)


ボクより若いハイキング参加者は、月見坂をどんどん先へ行く。
一番最後を遅れながら、喘ぎ喘ぎ月見坂を登って振り返って見ると、
月見坂は大杉に囲まれた美しい坂道であった。

(古杉に囲まれた美しい月見坂)


左手に弁慶堂がある。右手を「東物見台」と言い、
眼下に衣川があり北上川に合流している。
ここが衣川の古戦場であり、弁慶立往生の地とも言われる。
しかし伝説では義経とともに大陸に渡り、暴れまわっていたとも言う。
「東物見台」左手に西行法師の歌碑がある。

・ききもせず 束稲やまのさくら花
         よし野のほかの かかるべしとは

とあるようだ。(読めなかったので)

(衣川の古戦場。右手に見える橋の下を流れる衣川、手前の陸橋は東北新幹線)

(右手に束稲山が見える古戦場)

(西行法師の歌碑)

(弁慶堂)

(立ち往生した弁慶を演じる一関学院の高校生)


その弁慶堂の先の右手に地蔵堂が見える。
地蔵堂に入る手前の右手に、臼田亜浪の句碑、

・夢の世の 春は寒かり 啼け閑古  亜浪

とあり、その先に、もう一つの西行法師の歌碑がある。
始めに説明文があり、続いて和歌がある。

「みちのくにに 平泉にむかひて 束稲と申す山の
はべるに はなの咲きたるを 見てよめる。

・ききもせず 束稲やまの さくら花
   よし野のほかに かかるべしとは」


とある。

奥州藤原氏が栄えた時代には、この束稲山には一万本の桜が植えられていたという。
平安時代の歌人西行法師が平泉を訪れた際にその桜を見て、
詠んだ歌碑が建てられている。

奥州藤原氏がよし野を偲んで桜を植えたものと思われる。

(地蔵堂)

(地蔵堂へ入るまでの右手に臼田亜浪の句碑)

(「夢の世の・・」の句)

(説明文と並んである西行の歌碑)


・秋空の ガイドに聞き入る 弁慶堂   hide-san