中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

十思公園  (旧中山道を歩く 8)

2005年01月22日 10時43分00秒 | 1.武州(東京都)の旧中山道を歩く(1~26
(十思公園/じゅっしこうえん)


この公園は是非訪れたい。

中山道から少し離れるが、この江戸通りに沿って、
東へ進むと、昭和通にでる。
昭和通を渡って、さらに江戸通りをいくと、



「小伝馬町」の交差点に出るが、交差点を渡らずに、
左に折れたところの左側が、
「十思公園」と名づけられた公園になっている。

吉田松陰終焉の地の石碑があり、
公園の由来が書かれた案内板がある。

(松蔭終焉の地の石碑)

元「伝馬町牢屋敷跡」である。

その説明によれば、
「規模は広大で、面積2600坪あり、敷地は四方に
堀をめぐらし、獄舎は、揚座敷、揚屋、大牢、女郎部屋に
分かれ明暦三年(1657年)の収容囚人は130人あり、
安政の大獄(1859年)には吉田松陰ら90余名収容」
とある。


吉田松陰は、天保元年(1830年)萩で次男坊として生まれ、
名を寅次郎といった。
(男 寅次郎である。笑ってはいけない。
国民的アイドル、柴又のフーテンの寅と同じではない。)

佐久間象山に指示し、海外渡航を企て失敗、捕えられ下田の獄に。
後 伝馬町獄送りとなる。沢山の歌を残した。

高輪泉岳寺前で詠んだ一首、

「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」

(こんなことをすれば、こうなることは判っていたが、
日本の将来を憂いて、日本男児が やむを得ずしたことだ。)
これはボクの勝手な訳だ。

六ヶ月間、伝馬町獄にあったが、国元萩で謹慎の身となり,
後の松下村塾での教育が生涯の偉業といえる。
塾生であった中から伊藤博文、山縣有朋、木戸孝允などは、
明治維新の大きな力となった。

後に安政の大獄に連座して、再び伝馬町獄に入牢。その時の歌。

「まち得たる時は今とて武蔵野よいさましくも鳴くくつわ虫かな」

その後、父、叔父、兄に永の訣れの文を送った時の一首。

「親思う心に勝る親心今日のおとずれなんと聞くらん」

処刑されるに当たり、

「今我が国のために死す。死して君親に背かず。
悠々たり天地のこと、鑑照明神に在り」と、

同囚の士に別れを告げた。

松蔭は辞世の歌

「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」と

詠んで、従容として刑についたといわれる。
行年30歳。明治22年2月11日正四位を贈位された。

偉人とはかく在るものかと感心させられる。

公園の中に鐘楼がある。

(時の鐘)

この鐘は、江戸城内で時を知らせたが、音が耳障りのため、
太鼓に替え、鐘は、日本橋石町に鐘楼堂を造って収めた。
三度にわたる江戸の大火で破損し、
宝永八年に鋳造されたものが、今に残る。

(余談であるが、鐘に代わった太鼓の音の「どん」が
土曜日の「はんどん」の語源になったという説もある。)

その日本橋石町にあった、時を知らせた鐘。
時の鐘に合わせ、斬首の刑が行われる場合は、
鐘を鳴らすのを故意に遅らせたという。
そんな粋な計らいは、人情味たっぷりな
江戸の下町人情に目頭が熱くなる。

(処刑場跡の石碑)
もし、このことを罪人が、処刑前に聞いていたら、
松蔭のように、従容として刑に服したに違いない。

牢屋敷で亡くなった人たちを弔うためであろう、
すぐ道路を隔てたところに、高野山別院と
身延別院が並んで建っている。
高野山別院の大安楽寺に、伝馬町処刑場跡の碑が
残されている。


(高野山別院)


(身延山別院)



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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
今回は、うなづいたり、笑ったり、感心したり、 (salasala)
2005-01-25 10:38:27
今回は、うなづいたり、笑ったり、感心したり、
瞼を熱くしたりして読みました。
松蔭の辞世の句だけは、昔聞いたことがあったな~。
返信する
初めての出会いでした(1月27日)・・・ (haru65)
2005-01-27 10:06:26
初めての出会いでした(1月27日)・・・
東京の地理が解らないのですが、楽しく読ませて頂きました~
昨年は山口へ行きまして、荻の松下村塾の後を見てきました・・・
楽しみにして、ゆっくり拝見したいと思いつつです~(#^.^#)
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haru65さん はじめまして! (HIDE-SAN)
2005-01-28 11:35:23
haru65さん はじめまして!
よくお出でくださいました。

更新できるのは、週の一回程度になると思いますが、引き続きお楽しみください。
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吉田松陰もここにいたのですか。 (mrkotaro)
2005-01-28 12:26:52
吉田松陰もここにいたのですか。

それで日本橋の本屋に、関連の本が多いのかもしれませんね。


昼、よく弁当を食べたり、休憩したりしている人を見かけます。
その人たちにも、ぜひ読んでもらいたいですね。


今日、ちょっと見に行こうかな。
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十思公園には二度いった。 (一沙)
2005-03-31 00:17:44
十思公園には二度いった。
長崎屋跡にも一度いった。
ふたつが結びついた。なにごとにも先達は、あらまほしきかな、である。
松陰の石碑・・・、ジットみよう。人のかおがみえる。キット松陰のかおだよ。
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吉田松陰 (iina)
2017-11-09 09:02:32
伝馬町牢屋敷跡界隈は、現役時代のテリトリーだった時期があったこともあって訪ねています。

罪人は、伝馬町牢屋から小塚原刑場に移されて処刑されました。吉田松陰も同様です。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/6bde1259c689852bc46910c8b7a013e0

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